影におびえる 前編①
夏が来るよ。
声が、聞こえた気がした。
昔から、夏が苦手だった。
暑いのももちろんそうだけど、それよりも夏の日差しが苦手だった。
「おばあちゃん、こわいよ」
小さいころ、夏休みはずっとおばあちゃんの家にいた。お父さんは仕事でいなかったし、お母さんも出かけることが多かったから。だから、私はずっとおばあちゃんと二人で過ごしていた。
開け放たれた部屋に吹き込む風が、風鈴を鳴らしていたあの場所。まるで風鈴の音が家に入ってくるものを監視しているような気がしていた、あの場所。
今思えば、あの風鈴も鈴の付喪神さんと同じようなものだったのかもしれない。
「あずさ、何がそんなに怖いんだい。何も、怖いものなんていないよ」
「ちがう、ちがうの。おばあちゃん、お庭がこわいの」
「お庭が? どうして?」
やわらかいおばあちゃんの声が好きだった。いつでも、私の言葉の理由をちゃんと聞いてくれるおばあちゃんが、大好きだった。
「わからない。でも、こわいの。お庭の光が、こわいの」
おばあちゃんは私の頭をなでて、ぎゅっと抱きしめてくれた。抱きしめられるとどうすればいいのかわからなくて、ちょっと困ったけど嫌じゃなかった。
それからずっと、私はおばあちゃんのお腹に頭を押し付けてたと思う。
「あずさ、光はとても怖いわね」
光が怖いのか、私にはわからなかった。
ただ、家の中から見た太陽に照らされている庭を見ると、落ち着かなくなって胸がざわざわした。あれを怖いというのなら、きっと私はあの庭を照らし出す太陽の光が怖かったのだろう。
おばあちゃんは私の頭をなでて、時々髪の毛をいじっていた気がする。優しく背中をさすってくれて、私はそれだけで落ち着けた。
「でもね、あずさはあのお日様の光の下で生きていかなきゃいけないの。あのお日様の光の下で生きていける幸せを、手放さないで。さ、もう一度見てごらん。もう怖くないはずだよ」
さぁ、と促されて顔をあげた。確かに、おばあちゃんの言う通り光は怖くなかった。
「夏は光が強くなるから、びっくりしちゃったのね」
「うん、ありがとうおばあちゃん」
光は、怖くなくなった。太陽の強い光が、怖いわけじゃなかった。
なんと言えばいいのか、私は今でもわからない。おばあちゃんに、あの時もっと別の言い方をしていればよかったのかと、思うこともある。
痛む手首を握り締めた。このお守りがおばあちゃんにもらった最初のプレゼントだったな。
「ねぇ、おばあちゃん。あれは、何なんだろう」
誰もいない部屋の中に座る。夢の中ならおばあちゃんがいるかと思ったけど、そんなことはやっぱりなかった。
畳が敷かれた部屋の中は薄暗くて、庭の眩しさが目に染みる。部屋と縁側の境に下げられた風鈴が揺れているのに、音はない。
影が、揺れている。
「おばあちゃん、私、太陽の光が怖かったんじゃないみたい」
部屋の中に座ったまま、庭を見る。強い日差しに照らされて光る色。そして生まれた、濃くて暗い影。夏らしい鮮やかで光に満ちたきれいな光景だと思うのに、胸がざわつく。
「あれが、私はずっと怖かったんだよ」
影の中が水面のように揺れている。それはゆらゆらと揺れて、影のふりをしていた。庭中の影が、全部それだった。鬼に成ってしまった、影だったものになっていた。
どこからか蝶が飛んでくる。
そうだ。あの時も、こんな蝶が飛んでいた。そして、あの影があるところにとまって。
影が揺れる。のっぺりとした暗闇が持ち上がる。粘り気があるようで、さらりと流れるような闇。それが、翅を休めている蝶の体にまとわりつく。
蝶は慌てて翅を広げて飛び立とうとしたけど、もう遅かったみたい。体中に闇がまとわりついて、飛べなくなった蝶はそのまま影の中に飲み込まれた。
とぷん、と静かに波が立つ。あの時と同じだった。
影が、動いた。
私は部屋に座ったまま動けない。
庭の物の影のふりをしていた鬼たちが動き出す。内側に抱えた闇を揺らしながら、意思を持った液体のようにうごめいている。
ざわざわと、鬼が姿を隠していた影から抜け出して集まってくる。地を這い、前に進み、ゆっくりと、こちらに向かってやってくる。
それが見えているのに、私の体はまったく動かない。
影が縁側のふちに手をかける。それは確かに、暗闇の水たまりから人の手のような形へと姿を変えていた。
白色の太陽がそそぐ光線にさらされてより濃くくっきりと浮かび上がる影は、ゆっくりと縁側を進みながら立体的な形に変わっていく。
ずるり、ずるりと影が這う。
いつの間にか影はすべて重なって一つの塊になっていた。私は伸びてくる闇の手を見つめる。その奥に、いくつもの光が見えた。奥の底から湧き上がって消えていくそれに、魅入られそうになる。
人の形に近くなった影の、頭の部分が私に近づく。手首の痛みが熱さとなって伝わってくる。
リン、と聞いたことのある鈴の音が響く。
ぱしゃん
あと少しで触れる。という所で液状になって崩れた影の、黒だけが私の体をぬらした。
体を起こしたあずさは立てた膝に額をつける。深いため息が勝手に出てきて、うすいタオルケットを揺らす。
枕元には祖母から送られた西洋風の鈴が吊るされていた。夢の中であずさを救ったのはこの鈴の音だろう。膝の上で頭を動かして礼をつぶやけば返事の代わりに二回、鈴の音が鳴った。
それを聞いてまたうつむく。
「かんべんしてほしい」
うっすらとできた隈を抱えた目元は、最近の睡眠の質の悪さをうったえていた。
これでこの夢を見るのは何度目か、もはや数える気にもなれない。初めは昔の懐かしい記憶だけだったのに、気づけばあそこまで影が近づいてくるようになっていた。
おかげさまで寝不足だ。慣れてきたのか、起きても呼吸が荒れていたり、全身の血管が音を立てていたりするようなことはなくなったが。
夢に出て来た鬼はあずさに触れようとするところで、必ず崩れ落ちる。あれに触れられたら終わりだとわかっているのに、体は動いてくれない。
「お守りも反応しすぎて血が止まりかけてるし」
血の巡りが悪いせいで冷たくなっている手を揉みながら、手首のお守りに目を落とす。夢の中でも毎回危機を伝えてくれるが、もう少し別の方法で伝えてほしい。
このままでは夢の中でどうこうなるより先に、手首が壊れそうだ。
しばらく揉みこんで、ようやく感覚が戻ってきた。ベッドに体を投げ出す。
「どうしたらいいの」
おばあちゃん。
手首を握り締めながら、あずさはつぶやく。もうやめなければと思うのに、祖母に助けを求める癖はなかなか治らない。
夢に見たいつかの幼いころのように、抱きしめてあやしてくれるぬくもりがほしい。
「……タケさんに、相談するしかないのかな」
香にばれないようにしなければ。隠し事が苦手なあずさにとって、まず無理なミッションに長いため息が出るのは仕方がなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます