狐の嫁入り 後編②

 体が激しく揺れて腹を圧迫される痛みに歯を食いしばりながら、あずさはタケの肩を掴んで顔をあげた。自分を抱えて支える腕に力が少しこもって息が詰まったが、何とかその体勢を維持する。


 あずさの視線の先。数メートル離れたあたりに、狐火を伴った狐たちの影が見える。目隠しをとったタケの足についてくるだけの速さを持っている時点でただの狐ではない。


 狐火を伴っている時点で普通じゃないか、と半ば現実逃避するように考える。


「先輩、口は閉じているんだ。舌噛むぞ」


 返事の代わりに肩を掴んだ手に力をこめる。舌を嚙む以前に、声を出すために必要な量の空気を吸い込めていない。手首のお守りをつけたあたりが火傷をしたように痛む。


 複数の狐火を体の周囲に浮かばせながら狐たちは大きく口を開ける。鋭く光る牙は殺意こそないが、暴力の気配を放っていた。


【待って、待って!】

【花嫁のため、言うこと、聞け!】

【この夢よこせ! よこせ!】

【泥棒! この夢は花嫁のもの! お前のものじゃない! 返せ! その人間、返せ!】


 頭の中に直接響く、どこか幼い子どものような響きを持つ鬼の言葉にタケは舌打ちをした。予想は的中した。あの程度の狐ならば束になってかかってこようが食いつくせる。


 あずさに危機が及ぶことはないと断言できる。のだが


【待てぇ、待てえぇぇぇ!】


 抱えているあずさの体が明らかに硬直したのを感じて、チラリと後ろを振り向く。おどろおどろしい声で絶叫しているのは、白無垢を着た馬鹿みたいにでかい狐だった。


 体の高さはざっと見ただけでも身長が190㎝代あるタケと同じほど。おしとやかな印象を見る者に与える白無垢が音を立ててはためき、眦と口元に引かれた紅が心臓をざわつかせる。


 人間の真似事をしている推定何百歳の化け狐。


「どんな悪夢だ」


 吐き捨ててタケは走る速度を上げる。人を抱えているせいで走りにくいがそんなことは言っていられない。まっすぐに狐たちを見ていたあずさは頭に響く怒号に歯を食いしばった。



 さかのぼることほんの少し前。


 夢に入ってきたタケがタケであるとお守りの反応を頼りに判断したあずさは、声をかけて夢に招き入れていた。


 そこから狐の目的やどうやってここに来たのかを簡潔に説明を受けていた時、昨日見た行列と同じものが通りかかったのだ。


「先輩、目隠しをとってくれ。食って終わらせる」

「わかりました」


 狐を食べる気満々のタケの目隠しを外し、その頭に角が生えた瞬間。列をなして歩いていた影が、音を立てて一斉にあずさたちを見た。らんらんと光る目が獲物を見つけた獣のように鋭くなる。


 落ち着いていたお守りの警告が強くなってあずさは手首を握り締めた。後退ったことを咎めるように狐たちの目が吊り上がる。


 喉を引きつらせたあずさをかばうように立ちながら、タケは面倒なことになりそうな予感にため息をつきそうだった。しかし所詮は鬼に成りたての狐の群れ。すぐに終わる、というのがタケの見立てだった。


 実際、いるのがそれだけならば逃げずに食事にうつっていただろう。が、さすがのタケも顔色を変えるようなものが出て来た。


 狐たちの奥に何か、大きい気配を感じてタケは目を細める。


「先輩、こっちに」


 立ち尽くしているあずさを近くに引き寄せる。


 行列の中心にいた、特徴的な形をした頭巾をかぶっていた影が揺れる。


 人の形をしていたそれに尾が生える。

 四つん這いになった四肢が形を変え、毛が生えていく。

 胴が伸びて鼻が前に出てくる。


「う、わ」


 花嫁が狐へと変貌していく様を直視したあずさのひきつった声に、タケは大いに同意したかった。


 白無垢の頭巾を突き破るようにとがった耳が生える。

 怒りに燃える黒い瞳が、黄金色の獣の瞳へと変わっていく。


【───っ!!!】


 絶叫のような声が響いて、次の瞬間にはあずさはタケの肩に担がれていた。


「逃げるぞ、先輩。目隠しを外した程度じゃあれは食えん!」


 毛を逆立ててもう一度、怒りの咆哮を響かせた巨大な化け狐は逃げ出したタケたちの後を猛烈な勢いで追い始めたのだった。



 そして今。

 血走った目で必死に追いかけてくる狐たちに全身を震わせながら、あずさはタケの肩にしがみついていた。手首はもう痛みの許容量を超えて熱さしか伝えてこない。


 頭に血が上りそうだとか、肩がぶつかるたびに腹が痛むとか、そんなことを考える暇もない。


 死に物狂いで自分だけを見て追いかけてくる狐たちの目が体を力ませる。唇を噛んでいなければ何かを叫んでしまいそうだった。


「狐は化かしてくる。声を絶対に出すなよ、夢に招き入れることになるぞ」


 わずかに息が上がったタケの声が遠くに聞こえる。


【それはわたくしのものじゃ! 返せ! 返せぇ! 泥棒猫がぁ! この夢は、わたくしのものじゃ!】

「昼間にも同じようなものを見た気がするな」


 毛を逆立て、必死にあずさを求めてタケに攻撃的な気を放つ。


 白無垢の化け狐と昼間の香の様子が重なって、不意にタケはあそこまで攻撃的な様子だった理由を何となく察した。つまりは、あの時の香とこの化け狐は似たようなことを考えている。


「存外、人間の真似事がうまいな。お前」

【ぬかせえぇぇ!】


 花嫁が吠える。ずらりと並ぶ牙がすぐ近くで見えてあずさは悲鳴を漏らした。慌てて両手で口を押える。


 悲鳴くらいならば大丈夫だ、の一言くらいかけてやるべきか。そう考えながら、タケはこの追いかけっこを終わらせる方法に考えをめぐらせる。


 タケの予想通り、狐の目的があずさの夢であることは確定した。が、一体あずさの夢を使って何をしたいのか。それがわからない。


 そもそも、なぜ白無垢を着ているのかがわからない。


「おい、狐。先輩の夢を使って何がしたい」


【よこせ、よこせぇ! それはわたくしのものじゃ! わたくしのものじゃ! 返せええぇぇぇぇ!】


「感情的になった女が話を聞かないのは本当らしいな」


 面倒なことになった。

 ため息をついて伸びて来た前脚を飛んで避ける。今度こそ、あずさが悲鳴を上げた。


 どうしたものか。あの狐を食うには最低でも片耳の独鈷所とっこしょはすべて抜く必要がある。


 それでもあの化け狐相手には手間取るだろう。その間にあずさは他の狐にどうにかされてしまう可能性が高かった。


 かといってそれ以上の封を解くのは危険だ。人間の性質よりも鬼の性質が強くなりすぎる。その時、あずさに危害を加えるのは狐ではなくタケになるかもしれない。


 となると、あちらが諦めるまで逃げ続けるか、あるいは目的を割り出して何とかするか。


「どちらも勝算が薄いな」


 苦々しく吐き捨てたタケの声に飛びかけていた意識を何とか引き戻して、あずさは目を開ける。手首のお守りはもはや、手首をねじ切ろうとしているようだった。


 揺れる視界の中に狐たちを見ながら、あずさは何とか息を吸おうとあがく。そんなとき、酸欠と恐怖と痛みでぼんやりとしてきた意識が鈴の音を拾う。あの行列を見た時にもなっていた音だ。


【こっち。こっちよ】


 鈴の声が響く。この声は、最近聞けなかった優しいあの西洋の鈴の。


 あずさの脳裏に光がはじける。一縷の希望がそこに見えた気がして、あずさはそっと口の中でつぶやく。


「鈴の付喪神つくもがみさん……?」

【こっち。こっちにいらっしゃい。早く】


 切羽詰まったような、あの桜の木について警告してくれた時のような鈴の声。


 間違いない。あずさは確信した。これは、あのいつの間にか玄関ドアから外されて行方不明になってしまった鈴の付喪神の声だ。


 ちら、と手首を見下ろす。激しい痛みをもって警告を続けるそれは、しかし鈴の声に答えることに対して反応を示していない。


「鈴の付喪神さん、どこ!?」

「先輩?! 何を」


 突然声を張り上げたあずさに目をむく。言いつけをそう簡単に破るような人ではないことは知っている。


 狐に化かされたのか、あるいは他に。目まぐるしく回る思考をうっとうしく思いながら、タケは舌を鳴らして大きく跳躍した。


【ぎいぃぃぃぃぃ!!】


 先ほどまでタケがいた場所に鋭い爪が突き刺さっている。本気で悔しがる狐は、あのままタケが避けなければあずさも傷ついていたことに気づいていないのだろうか。


「タケさん、あっち!」


 確信を持った声が示す方向は左側前方。思考を回すことが面倒になったタケはそれに従ってもう一度、大きく飛んだ。その耳に温かな鈴の音が響き、鋭い痛みを与える。


「魔除けの鈴か」


 苦しげな声をかき消すように鈴の音がもう一度響く。光の膜が広がり、あずさたちを囲んでいく。光と魔除けの鈴の音に阻まれて狐たちはタケたちに近づくことができないようだった。


「タケさん、おろしてもらってもいいですか」

「……わかった」


 膜の中心に浮かぶ光に近づく。あずさが手を伸ばすと、それは西洋の古びた鈴の形となっておさまる。


「先輩、それは?」

「おばあちゃんが昔くれた、鈴の付喪神さんです。どこに行ったのかわからなくなっていたんですけど、こんなところにいたなんて」


 あずさの手の中に納まった鈴は何も語らずに、ただ等間隔に鈴の音を響かせている。頭に突き刺さるそれに顔が歪みそうなのを堪え、タケは腕を組む。


 ひとまず、この音を発するということはあずさに害は与えないだろう。この夢にいたのならば何か知っていることもあるかもしれない。


【うっ、うぅ……ぐすっ、すん】

「泣いてる」

「泣き真似だ。相手にするな」


 困ったような顔で狐を見つめているあずさに、タケはため息が出そうだった。安全地帯についた途端これだ。もう少し危機感を持続させてほしい。


【会いたい】


 ピクリ、と細い肩が揺れる。あずさは目を大きく開いて狐を凝視していた。


【お母さんに、会いたい】


 うまく息を吸い損ねた音が喉から出る。タケはとっさにあずさの肩を掴んで自分の背後に隠した。


 狐のたちが悪いところは、こういう所だ。相手の心を読み、その一番弱い部分を読み取って利用する。


 化かすことが上手いということは、相手の弱みを正確に把握できるということに他ならない。


【お母さんがあっちに行っちゃって、さびしいの。会いたいの。あっちに、行きたいの。会いに行きたいの】


 タケは膜の向こうで泣いている狐を睨む。しわ一つなく着こなしていた白無垢は乱れてしわだらけになっていた。


 そんな恰好をしておいて、母親に会いたいとは笑わせる。ここまでわかりやすい芝居に引っかかるような阿呆はいないだろう。


「それならそう言ってくれればいいのに」


 つぶやいたあずさが膜の向こうへ手を伸ばす。引っかからないと思っていた芝居に理解を示したことに驚きを隠せない。


「先輩?」

「いいよ。あちらには連れて行けないけど、あの河原に連れて行ってあげる」


 行きたい場所に行けないのも、会いたいのに会えないのも辛いね。

 狐たちの目が輝く。


 あまりにもあっさりと言い放ったあずさの肩をタケは掴んで引き戻す。とっさに言葉が出てこなかったが、止めなければならないと思考の冷静な部分が告げている。


 そんなにあっさりと、なんでもないことのように言っていいようなことではない。そんなこと、一度あそこに行ったことがあるのならば本能が理解できているはずだ。肩を強くつかんで揺さぶる。


「先輩、正気か。命が惜しくはないのか。戻れる保証はない。いや、そもそも鬼の言葉を真に受けるなど馬鹿のすることだ。

 聞く必要はない。行きたい場所に行けないのは先輩が解決してやらなきゃいけない問題じゃない。……死ぬかもしれないんだぞ。鬼のために、命を投げてやる必要はない」


「うん。だから、タケさんは戻ってください。私が連れて行きます」


 違う。そうじゃない。


 言葉が出てこずに呆然と、タケはあずさを見下ろす。つい先ほどまで肩に担がれて震えていた子どもはどこに行った。まっすぐな目には狂気の欠片もなく。ただ決意の光だけが宿っている。


「お母さんがどこにいるのかわかってて、追いかける方法がわかってるなら」


 うつむいたあずさは小さくつぶやく。その声が震えていることに気づいてタケは肩から手をはなした。


「私も何でもします。なんでも使います。置いて行かれたくないから。追いつきたいから」


 あずさはあの化け狐に何かを重ねている。それだけはわかったタケはため息をついて、もう何もかも面倒になってやめた。人間は、本当にわけが分からないと思考を投げ捨てる。


「わかった。オレも行く。桃園がオレを追っているはずだ。少しは戻れる可能性が高くなるだろう」

「でも」

「オレは先輩の護衛だぞ。放って帰ったなんて言えばどんな目にあうかわかったものではない」


 ため息を隠しもせず、もはや面倒だという態度も表に出してきたタケにあずさは苦笑を浮かべた。その手に転がっていた鈴が光る。


「うん。ありがとう、鈴の付喪神さん」


 何か、伝わってきたのか。あずさは手のひらに転がる鈴をなでた。

 鈴が鳴る。光の膜が消えていく。


 頭を鋭く突き刺されるような痛みに、タケは頭に手を当てた。魔除けの鈴の音はタケにもよく効く。


 膜が消えて狐たちが近づいてくるが、もう襲いかかろうとはしなかった。

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