雨に呼ばれる③

「……雨音、か」


 あずさから視線を外し、周囲の何かを探っていた鬼はぼそりとつぶやく。


 煙管に口をつけ、煙を深く吸い込んで薄く長く吐く。すると、周囲を漂っていた灰色の煙が晴れていく。


「お前さん、雨に呼ばれたんだな。なるほど、夢見の才があるのか」


 着流しのたもとに腕をおいて鬼はくつくつと笑う。

 あずさはそれを聞きながら、晴れていく煙の向こうにあるものに目が釘付けになっていた。


 そこは河原だった。


 水の色はよくわからない。黒いのかもしれないし、赤いのかもしれない。青かもしれないし、色がないのかもしれなかった。


 そして、その川の向こう。太い水の流れの向こうには、あずさが今立っている場所と同じような河原が広がっているようだった。


「ここがどこか、だったな。ここはこちらとあちらの境目。普通は隣り合わせになっているだけで見ることはできない、あちらが見える場所だ」


「あちら。……昔、おばあちゃんにこういう絵を見せてもらった気がします。あれは」


「地獄の三途の川だろうな。あれのもとになったのはここの風景だ。もっとも、あちらにあるのは地獄ではないし、閻魔えんま様も何もいない。ただ、鬼と呼ばれるあちらのものがいるだけだ」


 煙が完全に晴れて、向こう岸がよく見えるようになるにつれお守りの警告が強くなる。それに引きずられるようにしてあずさは後退った。


 向こう岸には、よくわからないものがうごめいていた。それを何と言葉で形容できるのか、あずさには分からない。ただ、異形であるとしか言いようがないものたち。


 あれが鬼だというのなら、今まで自分が見て来た鬼は何だったのだろうかと、そんなことを思う位にはそれらの形はあずさがいるこちらの常識から外れ切っていた。


「どうやら虫のしらせは正常に動いてるらしい」


 鬼が、強く煙を吹く。すると、途端に向こう岸は灰色の煙の向こうに消えてしまった。あの煙は、あちら側の光景を隠すためにあるのだと、あずさは思った。


 瞬きの間に元に戻った河原に立ちすくんでいたあずさの耳に、今度ははっきりと音が聞こえてくる。


「……雨の音」


 そして、そこにはもう小さな何かの音は残っていなかった。

 軽く煙を吐いて、鬼は立てた膝の上に肘をのせる。


「お嬢ちゃん、お前さんみたいな人間は雨の音に耳を傾けすぎると危険だ。なるべく人と話すなり、耳をふさぐなりして聞く時間を減らすんだな。またこうして雨に呼ばれたとき助かるとは限らんぞ」


「雨に、呼ばれる」


「そうだ。とは言っても、お前さんを呼んで食っちまおうとしてるわけじゃない。ただ、あいつらが出す音はお嬢ちゃんのような人間を呼び寄せちまうだけだ。気を付けていれば、大した害はない」


 すらすらと言葉を並べる鬼をあずさはまじまじと見つめてしまう。


 人の形をした鬼はタケで見慣れている。鬼と言葉が通じることがあることも知っている。


 それでも、なぜかこの鬼が随分と珍しい性質のものなのではないかと思わずにはいられない。


「ここで、ずっと番をしているんですか」


 自然と口から飛び出した言葉の意味を考える前に、鬼はくつりと笑ってからため息をついた。そして、軽く己の隣を叩く。


「おじゃまします」


「ほんとはすぐに帰した方がいいんだがな。お前さんは随分とものを知らんらしい。少しくらいは教えておいてやらんと、また迷い込まれても面倒だ」


「すみません」


「なに、構わんさ。お嬢ちゃんのような人間は時たま、ここへ来る。そうして俺が気づかんうちに川に沈むか、あちらに行っちまうか。ここに残っても気づかれずにそのまま朽ちることもよくあることだ。お前さんは運がいい」


 ほれ、あそこに骸が転がってるだろ。


 そう言って煙管で示された方へ目を向けると、白い物体が見えた。桜の鬼の腕に指の肉を食われたタケの手から覗いていた白いものと同じもの。


 それがわかると、あずさは音を立てて首を下に向けた。全身の血管が音を立てている。


「ハハッ。なんだ、人骨を見るのは初めてか。昔はそこらに転がっていたもんだが、今はそうでもないのかね。

 ま、ともかくあぁいう風になるのが大勢いる中で助かった自分の幸運に感謝することだ。そして、二度とここに迷い込まん努力をすることだな」


「……わかりました」


「お嬢ちゃんの言う通り、俺はここでこちらとあちらの境界をずっと見てる。見てるだけで何かしてるわけでもないがな。こうしてたまに迷い込む阿呆を帰らせることくらいか。まぁ、そう言いつつ迷い込んだ人間を食ってるかもしれんがな」


 鋭い犬歯が目立つ丈夫な歯をむき出して噛みつくような動作をする鬼に、あずさは冷静なままだった。


 てっきり人骨を見た時と同じ反応が出てくると思っていた鬼は、拍子抜けした気分でつまらないというように煙管を持ち上げる。


「あなたは、鬼は人間を食べないと思います。恐ろしく、怖い目にも合うけど。でも、なんでと言われるとうまく言えないんですけど、鬼は人間を食べないんじゃないかと思います」


「……此度の御厨みくりやの巫女は、随分とあちらよりだな」


「え、今御厨って」

「潮時だ。お前さん、もう帰れ。ここは長居するような場所じゃねぇよ」


 鬼が煙をあずさに向けて吹く。それは、あずさの体に質量を持って絡まり、縁側から押し出すようにうごめく。驚いて声をあげようとしたあずさの口をふさぎ、暴れる腕も押し込めて。


「じゃあな。夢見ゆめみの巫女様。もうここには来るなよ」


 もう一吹き煙をかけて鬼は笑う。


 煙に持ち上げられて遠ざけられていくあずさは、魔除けの紅に彩られた目元が柔らかく緩んで獰猛な牙を隠す唇が動くさまを見た。


 何か言っているのに、何も聞こえず。ただその口が何かを伝えようと動くさまを見たのを最後に、あずさの視界は真っ暗に染まった。







 大量の灰色の煙が保健室の中に充満していた。


「これは、鬼除けの」


 あずさが眠ったまま目を覚まさない。何をしても反応がなくて死んでるみたいで怖い。


 そう言って休み時間に駆け込んできたこうの言葉に、タケの脳裏には兄との会話が蘇っていた。


 嫌な予感に突き動かされるように保健室へ駆け込んでみれば、どういうわけか鬼除けの煙が保健室の中に充満していた。


 封印を受けているタケにはこの量でも十分に効く。ドアを開けたところで思わず手で鼻を覆って後退った後ろから、大哉だいやが保健室に飛び込む。


「なにこれ?! こんなのさっきまでなかったのに!」


 大哉の後ろから保健室に駆け込んだ香は悲鳴のような声をあげる。どうやら香が保健室からタケたちを呼びに行くわずかな間にこれは現れたらしい。


 鼻の奥がしびれるような、全身が拒絶を示す煙の匂いに歯噛みしながらタケは煙が流れてくる方へ頭を向ける。


 どうやら流れてくる煙は、徐々に空気に溶けて消えていきはじめているようだった。


「コウちゃん先輩。大丈夫っすよ。これは鬼除けの煙で、人間に害はないっす」

「え、タケっちめっちゃダメージ受けてるけど大丈夫なやつなの? ほんとに?」


「タケっちって……。あーっと。タケは煙全般駄目なんで気にしないでいいっすよ。とりあえず、これが御厨先輩のとこについてるってことは、誰かが鬼除けをいてくれたってことなんで、しばらくしたら目を覚ましてくれると思うっす」


「よかったぁー」


 その場にへたり込んだ香に大丈夫だ、ともう一度言ってから大哉は顔をしかめて鼻をおさえているタケに苦笑した。


 早く何とかしろ、と部屋に入りたくとも煙が充満しているせいで入れないタケの無言の圧に首を振る。


 鬼除けの煙は自然と消えるものだ。自然に消えるまで、決して自分から消してはならないと教えられている。つまり、大哉はこの煙の消し方をまったく知らない。


「悪いな、タケ。消えるまで待っててくれよ。……そんな顔されても、おれだってどうにもできないんだって!」

「チッ、封印が無ければこれくらいの煙、どうということもないが」


「なにそれ怖いんだけど。タケ、冗談だよな? え、マジ? そっかぁ。……そっかぁ」


 大哉は思わず白い目でタケを見てしまう。香はあずさのベッドの近くによっているようだった。


「あんた、やっぱけっこう強い鬼なんだな」

「どうでもいい」


 言うと思ったよ、と大哉は口をとがらせる。

 そうこうしているうちに煙は薄くなっていき、タケも鼻から手をはなせる程度にはなっていた。


「あずちん!」


 香の声に大哉とタケもカーテンの向こうのベッドを覗き込む。


 うっすらと目を開けたあずさはぼんやりと天井を見上げていた。喜色を浮かべて顔を覗き込む香の、その後ろに漂う煙を見ていた目が徐々に覚醒していく。


「煙……そっか、戻ってきたんだ」

「あずちん?」

「おはよう、コウちゃん」


 不安そうな香にのんきなあいさつをして、体を起こす。


 見たところ何か恐ろしい夢を見た様子もなく、どこまでも静かな空気に大哉は胸をなでおろした。


 タケが血相を変えて教室を飛び出していくものだから、どんなひどいことが起こっているのかと戦々恐々していたのだ。


 しかし、その安堵も次のあずさの言葉に粉々に砕け散る。


「ちょっと、雨に呼ばれちゃって」

「え?!」


 この時期特有の鬼による現象の名前が普通にあずさの口から飛び出してきて、仰天する。


 よくも無事で戻ってこれたものだ、と感心するよりも先に何か危ない目に会ったのではないかと行き場のない手をさまよわせる。


「桃園、落ち着け。戻ってきたということは、大事はないということだ」


「そ、そうは言うけどよ! あちらに近づいたってことだろ?! 怖い思いしてたらとか、考えちまうじゃねぇか!」


「え?! あずちん、怖い目に会ったの?!」


 大哉の慌てぶりに引きずられて、香もおずおずとあずさの手を握る。それを握り返しながら、あずさは夢の中の出来事を思い返してかすかに目元を和らげる。


「大丈夫だよ。コウちゃん。桃園ももぞのくんも、私は大丈夫。今回はそんなに怖い夢じゃなかったから、むしろすっきりできた感じ」


「え、えぇー。雨に呼ばれたってことは、あちらとの境界に迷い込んじゃったんすよね? なんでそんなケロってしてんですか」


 釈然としないものを感じる、とあずさに詰め寄る大哉の襟を掴んで引き戻しながらタケはあずさを見下ろす。見えはしないが、鬼の匂いも残滓もないことを確認して、小さく息をつく。


「なにもなかったのなら、それでいいんだ。先輩、オレから先に話しておくべきだった。悪い」


「大丈夫ですよ、タケさん。私はちゃんと帰してもらえましたし、雨に呼ばれることがある、ということも知れましたから。次からは、気を付けます」


「そうしてくれ。さすがに、夢の中までついていくことはできないからな。とにかく、無事で何よりだ」


 少しだけ素が出ているタケの話し方を新鮮に感じながら、あずさはベッドから出る。まだ寝てなくて大丈夫? と問う香によく寝たから大丈夫、と返して上靴を履く。


 とっくに授業が始まっている学校は妙な静けさに満ちていた。


「ねぇねぇ、あずちん。どんな夢見てたん?」


「おれも知りたいっす! 雨に呼ばれて戻ってきた人の話ってけっこう貴重なんで。よければ教えて欲しいっす


「でも、授業」

「さぼっちゃおうよ! 途中から教室はいるの、なんかやだし」


「お、いいっすね! な、タケもいいだろ?」

「好きにしろ」


 悪魔の提案にあっさり乗ったタケと大哉に呆気にとられている間に、香はあずさをベッドに座らせてワクワクと話を聞く体勢になってしまった。


 雨音と、そこに小さく聞こえる呼び声が香たちの声に遠ざけられていく。それに胸が温かくなるのを感じながら、あずさは夢の中の出来事を語りだした。


「あの夢は、いつもよりもずっと穏やかで不思議な夢だった」

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