狐の嫁入り 前編①
じっとりとした暑さと、蝉の鳴き声が今は夏だと教えてくれる。
目を開くと、懐かしいおばあちゃんの家の玄関があった。私、なんでここにいるんだろ。わからない。それに、今ってこんなに蝉が鳴く季節だったっけ。
あぁ、それにしても懐かしいなぁこの感じ。何年ぶり何だろ。
昔はなんて言ってこの家に入ってたんだっけ。おばあちゃんの優しい声と、意外と音が大きい風鈴がいつも返事をしてくれた。この家で食べたスイカは、いつもおいしかったなぁ。
「ただいま、おばあちゃん」
「おかえり」
自動ドアみたいに開いた奥に、おばあちゃんがいた。久しぶりに会えたおばあちゃんは元気そうで、会えたことがすごくうれしくて。
私はおばあちゃんに駆け寄ろうとして、でも途中で気づいてしまった。
もう、おばあちゃんがこうして出迎えてくれることはないんだってこと。おばあちゃんはいつも、私の手を引いて家に入らせてくれていたこと。
あんな風に、奥で立ってるだけなんてことは一回もなかったよね。
ニコニコと笑ってるおばあちゃんを見て、首を振った。涙がちょっとだけ、こぼれた。
私が首を振ったからか、おばあちゃんは困った様子で早くおいでと手招きをする。やっぱり、おばあちゃんはあんなことしない。
「あなたは、おばあちゃんじゃない。私は、ここに入らない。あなたと入れ替わることはできない」
玄関の奥に立っていたおばあちゃんの姿が、溶けて崩れていく。崩れかけのおばあちゃんの顔をかぶったナニカは、目を吊り上げて髪を逆立てていた。
飛び上がって私に襲いかかろうとしたそれは、玄関から外に出られないみたいだった。まるで玄関の戸以外に、もう一個見えない壁があるみたいな動きをしている。
真っ赤になった目で私を睨んで、鋭い爪の生えた手で必死に見えない壁を叩いている。
【出たい! ここ、から、出たい! 出たい! 出して! 出して! おばあちゃん! 助けて! お母さん! ママ! 助けて! 出たい、出たい!】
頭に直接響いてくるこの声は、もう何回も聞いた鬼の声だった。必死に泣き叫ぶ真似をする鬼をまっすぐ見続けることはできなかった。
この叫びは人間の真似だけど、その叫びは本物だとわかったから。
私はこの鬼のことを何も知らないけど、この鬼のことが何でもわかる。そんな気がした。
「私のお母さんの姿をしてたら、きっとうまくいったのにね」
でも、もう私には通じない。ごめんね。
もうおばあちゃんの姿は完全に消えていて、白い大きな耳と尾を生やした獣交じりの人の姿になっている。この鬼は、もう化けていることもできないんだ。
手首を握り締めて、ゆっくり背中を向ける。背後から響く泣き真似は、獣の唸り声になって、最後に親を求める子犬のような声を出して消えた。玄関の扉が冷たく閉ざされる音が響く。
あの鬼との間にあった何かが切れる感覚がして、振り向いた。いつの間にか懐かしいあの家は跡形もなく消えていた。
「あれは、狐……かな。鬼っていろんなものに姿を変えられるんだ」
雨に呼ばれてしまった時に見た、あの河原の向こう側。そこにいたあちらのもの、つまり鬼。
おばあちゃんの姿を借りていたあれも鬼で、だからきっと中身はあの河原から見たどれかと同じなのかもしれない。
蝉の鳴き声も、暑さも消えて。いつの間にか真っ白になってしまったこの場所を何となく歩いてみる。多分これは夢だけど、起きれそうな気はしなかった。
ここに、じっと立ったままでいるのは嫌だった。
「影は同じでも、中身は違う」
太陽もないのにくっきりと浮かぶ自分の影を見る。私と同じ姿をして、同じように動く影。これは本当に、私の影なのかな。別のナニカに、変わっていたりするんだろうか。
「それにしても、ここどこだろう。夢……なのはわかるけど。ちょっといつもとは違う気がするし、早く目を覚ましたいな」
このまま歩き続けたら、そのまま迷子になっちゃいそう。
なんとなく、言ってはいけない気がして口を閉じた。胸のあたりがざわついて落ち着かない。握り締めたお守りが、少しだけチリチリした。
影を見おろす。勝手に動きだしたり、波打ったりはしていない。お守りも、影には反応していない。少なくとも、この影は私を怖い目にあわせない。
「お守りが反応してないってことは、一応大丈夫なはず」
改めて真っ白な周りを見回す。本当に真っ白で何もない。足踏みしてみると、空気を入れた浮き輪みたいな感触がした。やわらかくて、白くて、太陽はないのに影ができる。これって、もしかして。
「もしかして、雲の中?」
つぶやいた瞬間、冷たい風が吹いた。
進もうとした足が凍りついたように動かなくなって、喉が無理に引き延ばされるような痛みに襲われた。内臓が縮みあがる不快感は、ジェットコースターに乗った時の感じに近い。
首の裏を何かがすり抜けて、首筋の毛が逆立った。
「う、そ」
体中にあちこちから吹き付ける冷たい強風に、体が持って行かれそうになる。
このまま飛ばされれば、間違いなく戻れない。足に力を入れようとして、でもやわらかい感覚がなかった。私の足元にあった地面が、消えていた。
首が勝手に動いて、足元が目に入る。
やわらかな白い地面はどこにもない。うっすらとした煙のような白と、どこまでも続く薄く広がった青。空の上に立っている、なんて信じられないことを私はあっさりと受け入れてしまった。
「まって。え、え……? そら? そらに、たってる。てことは」
今自分が立っているのが空ならば、頭上にあるのは地面だ。
なぜかそんなことを考えて、今度は首が上を向かせようと勝手に動く。小さく茶色と緑が見えた瞬間、世界が静かに回転した。息が止まる。手首を握りすぎて関節が鳴った。
落ちる。そう思って、だけど落ちる感覚はしない。うすく目を開けると、なぜか空に宙づりにされたままそこに立っていることが分かった。
立っているのに逆さま。髪は頭の下にゆれてるから、重力は頭の方に向いてかかってるはずなのに。でも、息は苦しくもないし頭に血がのぼる感覚もない。
ただ逆さまになってることと、ここから動けないこと以外は何ともなかった。
「え……は? なに、これ」
どうすればいい。この状況は一体なに。夢ならさっさと覚めて欲しい。
そんなことが頭の中を回って、でも肝心のどうすればいいかの答えはぜんぜん出てこない。
そんな時だった。
下の方から、鈴の音が聞こえた。頭は何とか動かせたから音のした方を見ることもできる。そしたら、ちょうど私の頭のずっと下に広がっている雲の道をきらびやかな行列が進んでいるところだった。
もう何度目かもわからない心臓が止まるような驚きの後、私はその行列に気づいてもらおうとした。
「たす、いっ!?」
叫んで助けてと言おうとした瞬間、手首が強い電流を流されたように痛んだ。手首を握っていた手をとっさにはなして、顔の前までお守りを持ち上げる。
桜の鬼や枇杷の鬼よりもずっと、あの行列が危険だと知らせてくれているようだった。
お守りが、やめろと言っている。今までもそうだったように、ビリビリと警告を発しているそれを握り締めて私は口を閉じた。
かなり大きな声を出してしまった気がしたけど、行列は私に気づかなかった。誰かが立ち止まることもなく、行列は私の頭のずっと下を通り過ぎてどこかへ消えてしまった。
お守りが落ち着いていく。危険が去ったんだとわかって、私は体から力を抜いた。
【チッ】
耳元で、はっきりと舌打ちが聞こえた。
足を止めていた何かが外れて、私は空から地面に落ちていく。
荒い呼吸音の響く部屋の中で、あずさはベッドから落ちた痛みと床の冷たさに大きく息を吐き出した。
「夢で、よかった」
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