枇杷の鬼 後編③
早朝の少し冷えた空気の中、
「なんでだよぉ」
情けない震え声をあげながら、つい先ほど脳内に直接かかってきた電話を思い出す。
まだ眠っていた大哉を叩き起こした呼び出し音が、すべての始まりだった。
『桃園か、聞こえてるな』
「……ん? んん? タケ? え、タケ?! なんでおれの脳直電話にあんたがかけてきてるんだよ! え、おれ符も何もまだ渡してないし教えてないよな? え?!」
『
呼び出し音に応えてみれば、なぜかタケが相手口にいたことに困惑する。
脳直電話、と大哉が呼んでいるこの退治屋独自の連絡方法は、普通の電話と同じように相手の番号に相当するものがわからないとかけられない。
そんなものはまだ教えてなかったはずだ、と言えば寄絃にかかれば調べることもたやすい、と返ってきてめまいがした。それは一般的に、プライバシーの侵害というのではないだろうか。
『時間がない。手短に行くぞ』
「あーはいはい。もういいよ。それで。で、なんだよ。こんな時間から」
『もしも、お前のところに
嫌な予感がして、大哉は思わず布団を蹴って立ち上がった。眠気などとっくに消えている。
「おい、待て! それって」
『今回の被害拡大をおこなった第三者は、平木香の祖父。平木友之助だ。やつが来ても決して家に上げるな。枇杷も食うな。食わせるな』
「……そんなことって、ありかよ」
『あるから起こったんだ。保護した人間を守り切るのがお前の仕事だ。寄絃の対人捕縛部隊が動いている。やつが捕まるのも時間の問題だろうが、気を抜くなよ』
ぶつん、と切断された通信に大哉は耳にあてていた手から力を抜いた。
「そんなの、あんまりだ!」
淡々としたタケの声が、かえって状況の悲惨さを浮き彫りにする。人間が人間に害をもたらすことはよくあることだ。
だが、それに鬼が関わっているとなると、事態はより悲惨でおぞましいものへと変わる。
そして何よりも。
「あの人、そんなの可哀想すぎるだろ。実の爺さんが、親を殺して、自分も怖い目にあわされて。そんなの、あんまりだ。こんなひどい話が、そうそうあってたまるかよ」
大哉の悲痛な声は、誰にも届かない。
そうして今に至る。情けなく震える声で現状を嘆きながら、ひとまず香が眠っている部屋に向かうことにした。あんな話を聞かされて、何もせずに放っておくなどできるはずがない。
廊下を歩いていると、香のいる部屋の前で誰かが倒れている。うなじの毛が逆立つのを感じながら、大哉は倒れている人物の下へと駆け寄って膝をついた。
「おい、あんた大丈夫、か……平木、友之助?」
平木香が運び込まれた後、祖父に渡されて目を通した被害状況の報告書。そこにあった行方不明の欄に乗っていた写真。それは、今目の前で倒れている老人と同じ顔だった。
はじかれたように香が寝かされている部屋の戸を見る。戸に貼り付けられた札は、破れた形跡もなく立ち入りを禁じていた。
どうやら部屋に立ち入ったわけではないらしいことに安堵して、倒れている老人を見下ろす。
「こう、ちゃ…………ずっ、い、しょ」
赤い泡を吹いている老人は。どう見ても助からない状態にまでなっていた。うわごとのように、ひたすら何かを繰り返しつぶやいている。
「こ、ちゃ……じぃ、ず、と……い……しょ」
こうちゃん、じぃじとずっといっしょ
大哉の耳にはそう聞こえた。聞こえてしまった。
スッと目を閉じて息絶えた老人のそばには、枇杷の実と種が入った袋が放り出されていた。袋に入った種はすべて発芽しているようだった。
けれど、大哉にはそんなものは見えていない。最期まで、香のいる部屋に向けて手を伸ばしていたその姿が、心の柔らかい部分をえぐっていく。
「なんでだよ! こんな、こんなひどい話……なんでだよぉ。なんで、あんたこんなことしちまったんだ! そんな風に思ってたのに! なんで! あんまりだ! こんなことってねぇよ!」
えぐられた心の傷口から流れ出る血は、涙になって磨かれた廊下に滴り落ちる。
何十人もの人間に
「お前は桃太郎なのだ。鬼に加担した悪人のことでいちいち心を揺らされるでないわ」
正座した膝の上に重りをのせられた大哉は、じっと顔を伏せていた。頬には涙の痕が残り、目元は赤く、まぶたは腫れている。
大哉の声は家中に響いていたらしく、あの後すぐに大哉の祖父が現場に駆け付けた。一目で状況を悟ったのか、あるいは年の功か。
あっという間にその場を片づける作業をはじめ、指示を飛ばして寄絃の捕縛部隊に老人の遺体を引き渡した。
そして今は、老人の言葉を拾い上げて勝手に傷ついた大哉のお説教中である。
「桃太郎。お前は鬼を殺す退治屋になるのだ。敵は鬼だけではない。鬼に加担し、鬼を世に広める人間もまた、我らの敵だ。
決して奴らを許すな。決して、あのキチガイに心を揺らされるな。あんなものはゴミクズ同然。人間として守ってやる価値もない。わかったな」
反論しても、意味はない。大哉の言葉は何の力も持たない。それは生まれてからこの十数年、骨に染みるほど痛感させられてきたことだ。
だから何も言わず、大哉はじっと耐える。もう自分の名前を訂正する気すら失せていた。
「頭は冷えたか? これでは寄絃の鼻を明かすときはいつ来るのやらわかったものではないの。……桃太郎。お前に新しい任務を与える」
膝に重りをのせたまま、大哉は物憂げに顔をあげる。
「平木香は
最悪だ。
大哉は目をみはり、顔を歪める。言葉にできない暗鬱とした鉛を腹の底に流し込まれた気分だった。ゆっくりと体を折り曲げる。
「謹んで、お受けいたします」
絞り出した声は自分の物とは思えないほど冷え切っていて、なぜか必死に母親に許しを乞うていた香の声を思い出した。
許してくれ。
謝罪は誰に向けたわけでもなく。どうしようもない現実の不条理に押しつぶされそうな少年は、孤独に泣いていた。
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