枇杷の鬼 後編②

 すぐそばでぼそぼそと聞こえる低い声に、あずさの意識はゆっくりと覚醒していく。重いまぶたを開いていくと、雨風にさらされて汚れたコンクリートの床が見える。


 部屋の中では感じないはずの柔らかな朝の光と視覚からの情報が、ここが外であることを教えていた。


「……あれ、わたし、なんで」


 目をこすりながら、体を起こす。


「起きたか、先輩」


 上から降ってきた声に顔をあげると、湯たんぽ代わりになっていたタケの安堵した顔が見えた。


「たけさん? おはようございます」

「おはよう」


 まだ覚醒しきっていない頭ではうまく状況がつかめない。あずさは自分がなぜ外で寝ていたのか、タケがいるのかを疑問に思うことすらできていなかった。


 出来たことと言えば辺りを見回して、今自分がいる場所が学校の屋上であることを察した程度だ。


 あずさの手を引いて立ち上がらせたタケは、一つ大きな伸びをする。乾いた音がいくつか響いて、長時間同じ姿勢でいたんだなぁとあずさはぼんやり考えていた。


「先輩も起きたみたいだし、早速行こうか。───村に、鬼退治へ」


 瞬間、あずさの脳裏にいくつもの断片的な光景が浮かび上がって、混ざり合ってはじけた。よろめいて、その場にうずくまる。胃が押し上げられる感覚があるのに、何も吐き出せない。


 何度もえずいて唾液を垂れ流すあずさの背を、タケが不慣れな手つきでなでる。


「大丈夫か、先輩。無理そうなら鬼の場所だけ伝えて休んでいればいい。後は退治屋に任せることもできる」


 乱れた呼吸を飲み込もうとしてまた体を震わせたあずさは、しかし首を縦には振らなかった。自分を支えてくれようとしているタケの腕をつかみ、力のない動作で顔をあげた。


「私、私が、行かなきゃ。行かせて、下さい」


「……わかったよ。けど、無理だとオレが判断したら止めるからな。言うことは絶対に聞いてくれ」


 青ざめた顔が縦に揺れるのを確認してから、タケは夢の記憶と戦いを続けているあずさの体を抱き上げて背中におぶる。


 話が決まったのならさっさと行動に移すべきだ、と言わんばかりに言葉もなく歩き出したタケの背中に身を預けてあずさは目を閉じた。高い体温が感じられて、近くに聞こえる他人の呼吸音が鼓動を落ち着けていく。


 人目が少ないうちに移動してしまいたいのだろう。あずさを抱えていなくても、見た目が部屋着の女子高生と制服姿の男性の組み合わせなど目立ってしまうだけだ。


「先輩、目隠しを取ってくれ。走っていく」


 金か何か、持ち合わせがあるなら公共交通機関を使うが。


 そう言ったタケの頭の後ろへ、あずさは手を伸ばした。タケが何も持っていないように、あずさも今は身に着けている衣服以外の物を持ち合わせていない。


 そう言えば、なぜ自分はこんな格好で学校の屋上で寝ていたのだろうか。浮かんだ疑問は手首に生じた突き刺すような痛みに砕かれた。


 軽い音を立てて目隠しがほどけ、タケの頭に角が生える。目は前髪に隠されて相変わらず見えないが、長い前髪の隙間からその輪郭が見えるような気がした。


 ビリビリと電流をまとったように痛みを与えるお守りを握り締めながら、あずさはなるべく邪魔にならないように身を縮めたのだった。




「ついたぞ、先輩。ここであってるか確認してくれ」


 すさまじい風から隠れるようにタケの背中に頭を押し付けていたあずさは、少しだけ息の上がっている声に目を開ける。


 すると、つい先ほどまで見ていたビルや住宅は消えて、山の前にならぶ荒れ果てた廃村が広がっていた。その光景に懐かしさすら感じて、あずさはぽかりと口を開けた。


「先輩?」

「……あっち、です」


 背後から伸びて来た指の先を目で辿って、タケは軽くあずさの体をおぶりなおす。錆びついて劣化が進んだ電柱の並ぶ道を早足で進む。


 軽く大気のにおいをかいでみれば、かすかに枇杷のにおいが漂っている。


 あずさの示す通り、ひたすら歩き続け、タケは一軒の廃屋にたどり着いた。枠から外れた障子が倒れ、部屋の中の荒れっぷりが見えている。


「ここから、確かあっちに墓地があって、そこにみんながいるはずです」

「みんな……? あぁ、全部そこに植えたのか」

「はい。ぅ……本当に、ひどい光景でした」


 吐き気がぶり返してきたのかわずかにうめいたあずさは、絞り出すように言葉を吐き出す。


「そうか。そうだな。鬼に関わった話で、ひどくない話を探す方が大変だ」


 熟しきって腐りかけたような枇杷のにおいが濃くなって、タケは足を止める。正直なところ、鬼の匂いと腐ったような臭いが混ざり合って不快だ。今すぐにでも鼻をもぎ取って投げ捨てたい。


 鬼の性質が幾分か開放されている状態でこれならば、あずさにもそのにおいは届いているだろう。


 それを匂いと感じるのか、臭いと感じるのか。タケはどうでもいいことを一瞬考えて、小さくため息をついた。くだらない。面倒だ。


「先輩、行くか?」

「はい。お願いします」


 墓地は村と同じように荒れ果てていた。しかし、そんな荒れ具合など気にならないほどの異常がそこにある。息をのむ気配がして、タケは軽く体を揺らす。


 墓地には、大量の枇杷の木が並んでいた。どれも枇杷の実をたわわに実らせて風に揺れている。墓地に生えていることを抜きにすれば、手を出したいと思えるほどそれは食欲をそそる匂いを放っていた。


 あの木々に揺れる実が本当に枇杷の実であれば、の話だが。


 オレンジ色の重そうに揺れる実の影をかぶった、ぎょろりとしたうつろな目と目が合って喉が委縮する。あずさは唇を噛みしめた。気を抜けば歯の間から何かが漏れ出そうだった。


「鬼が見えないということは、ある意味で救いだ。こういうものを見るたびにそんなことを思う」


 冷静なタケの声が、ひやりと皮膚の表面をなでる。あずさはゆっくりとタケの背中から落ちるように降りた。手首がちぎられるのではないかと思うほど、お守りがギリギリと警告を発している。


「っ、はっ、はっ! う、うぅ」


 苔むした墓石に手をついてうつむいているあずさの背をさすりながら、タケは改めて素知らぬ顔で風に揺れる枇杷の木々を睨んだ。


 オレンジ色の枇杷の実。その背後にうっすらと、何かの影が透けて見える。ただ人の目にはうつらない、鬼の一部になってしまった人間だったものの名残。


 この墓地の枇杷の木々がつけている実は、すべて人体の一部だった。


 うつろに濁った眼球。


 いくつもの白い歯。


 垂れ下がった手首から先。


 赤く塗られたい爪の指先。


 どこの部位かもわからない肌色の塊。


 それらの細かく分けられた人体の一部が、枇杷の実という殻をかぶって揺れている。


黄泉戸喫よもつへぐいか。平木友之助ひらぎゆうのすけが配り歩いた枇杷を食った人間が死ぬのも当然だな」


「よもつ、へぐい」


「似たような話、と言うだけだが。死者の国の物を食った人間は死者の国の住人になる。それと同じこと、つまり鬼を食ったから鬼に成った。

 これは見えない人間にはただの枇杷に見えているからな。腐っていれば口に入れないだろうが、こうもうまく擬態していると難しい。


 ……ここまでくるともう、枇杷の種を捨てる云々の話は関係なくなっている。あの話は、枇杷の種を外に捨てなければ害はないという話だ。だがこれは、枇杷の実を口にするな、という話になってくる」


 顔色が真っ白になったあずさは話の半分も理解できていないようだった。わかっているのは、友人の祖父がこのおぞましいものを配り歩いて食べてしまった人間がいる、ということくらいか。


「先輩、とりあえずそこで休んでてくれ。オレは今からここらの枇杷の木をすべて抜いてくる。きつかったら目を閉じて、鼻をつまんでるといい。少しはマシになるだろ」


 言いながら、タケの手は近くにあった枇杷の木をすでに掴んでいた。何度か横にゆすってから、両手で強引に持ち上げる。


 すると、案外あっさりと枇杷の木は抜けた。音を立てて根が地面から引き出されていく。


【─────!!!】


 鼓膜ではなく能を揺さぶる悲鳴が響く。とっさに耳をおさえたあずさは、根が張った部分の上の土が盛り上がって、割れていく様を呆然と見ていた。


「そ、そんな風に抜いたら根っことか残るんじゃ」

「大丈夫だ。そういう心配はない」


 あっさりとした動作で木を抜いたタケは、無造作にそれを放り投げる。また、悲鳴が上がった。いや、もしかしたらこれは憤激の絶叫かもしれない。


 それも鬼の言葉などわからない二人には、考えることすらできないことであった。


 一本、また一本と木が引き抜かれていく。枇杷の実が揺れて、人だったものが揺れる。あずさは口元に手を当てるが、もう何も残っていない胃から何かがせりあがってくることはない。


 濃すぎる臭いが肺を重く腐らせていく錯覚に全身が緊張する。


 抜かれるたびにぼたぼたと実を落とす枇杷の木は、木の姿に忠実なせいで抵抗らしい抵抗もできずにいる。


 もしかしたら、実を落とし、いやな音を立てて落ちてつぶれる死肉をまき散らしているのが、そうなのかもしれなかった。


「後は、こいつだけか」


 墓地の入り口でうずくまっていたあずさは、タケの前にぽつりと立つ最後の枇杷の木に目を向けた。それが生えている場所は、よく知っている始まりの場所。


 枇杷の木からぶら下がった実はやはり人体の一部で、その中でひときわ大きい実の殻をかぶった生首が目を開ける。


【ここに来たのがどちらも狭間にある者だなんて、皮肉かな】


 夢で聞いた、あの声だった。とっさに駆け寄ろうとして足に力が入らずに転倒する。痛みでにじんだ涙をそのままに、顔をあげたあずさを見て子どもの生首は微笑んだ。


「お前が悪いわけでも、人間が悪いわけでもない。ただ交わってはならないものが交わり、狂っただけだ」


【へぇ、そう。もうどうでもいいよ、そういうの。……お姉さん、もう仏壇の前で吐くなよ】


 枇杷の木から生首がもぎ取られる。一際でかい実は、べしゃりと音を立ててつぶれてしまった。


 翻訳機を失った枇杷の木は、他の木々と同様に理解の及ばない悲鳴を上げて引き抜かれた。その一連のすべてを、あずさは呆然と見守るしかなかったのだった。


 頬に飛び散った枇杷の汁をぬぐいながら、タケは重く息を吐き出した。どれほど経験を重ねても、これに慣れてしまったら終わりなのだろうと思う。


 もう一度息を吐いて、薄暗い思考を振り払う。その場に座り込んだまま、つぶれた枇杷の実だったものを見るあずさのそばに膝をついた。


「後は退治屋で回収して、封印するか処分方法の研究に使うかするだろう。オレと先輩の仕事はここまでだ。お疲れ様だ、先輩。帰ろう」


 終わった。終わってしまった。何もできなかった。


 あずさは流れる涙を止めることもできず、タケの手が導くままその背中におぶさった。


 もう、あの子どもと夢で逢うことはないのだ。その事実が、なぜか痛いほどあずさの心を突き刺していた。

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