枇杷の鬼 後編①
鮮やかな青空に浮かぶのは入道雲。明るい太陽の光に照らされて、小さな水たまりが光っている。
梅雨明けの気配をまとった空気の漂う昼間。あずさは、見知らぬ田舎のあぜ道に立っていた。
いくつもの実をつけた枇杷の木が並ぶ果樹園と、青い葉が風に揺れる畑。そして、まばらに並ぶ古い家屋と、それらを見下ろすように奥にそびえる山。
「ここは、あの夢の」
見知らぬ場所。けれど、あずさはここがどこなのかぼんやりと理解していた。ここは、君が枇杷の種になってしまったと信じていた僕の住んでいた場所。
あの夢であずさが僕として過ごしていた場所。
「ここがどこかわかれば、いいんだよね」
夢の中だというのに、あずさの意識ははっきりとしていた。
まるで現実に起きて活動しているかのような感覚。これは夢だというはっきりとした確信。
人が住んでいる様子があるのに、一切の生活音も声も聞こえてこない。そして、道を行く人の影も家の中にいる人の影もない。
「静かだな」
ひとまずあぜ道から舗装されていない道路へと出る。道の端に電柱が等間隔に並んでいた。
「この電柱、前に見た時より古くなってる」
雨風にさらされて劣化が進んだコンクリートの表面をなぞり、錆の浮いた足場用の突起を見上げる。前に夢でこの場所にいたときよりも古びた様子のそれ。
「そっか。時間が進んでるんだ。家の感じとかが何となく違う感じがするのはそのせいかな」
独り、道路を歩く。
やはり畑や道のどこにも人影はなく、いくつかの家の前を通り過ぎても音が聞こえてこない。まるでこの場所は人間に捨てられたようだ、と思いながらあずさは歩き続ける。
目指す場所は、まだ先だと知っていた。
目的の場所にも、やはり人の気配はなかった。不用心に開け放たれた庭先の障子から見えるのは、線香の煙を前に悠然とたたずむ仏壇。そして、きれいな額縁に入れられた子どもの写真だった。
あずさはそうするのが当たり前、というように靴を脱いで縁側に上がると仏壇の前に正座した。揺れる線香の香りを吸い込みながら、仏具の鈴を鳴らす。
鋭く甲高い音が、あの世とこの世の境を明確に示した。
【こんにちは】
「こんにちは。久しぶり、と言って通じるのかな」
写真の中でにっこりと笑っていた子どもが、あずさを睨みつけていた。頭の中に直接響いてくるような幼い子どもの声に返事を返せば、写真の中の子どもは呆れたような顔になる。
【あぁ、やっとここにきやがった。遅すぎるんだよ】
「ここがどこなのか、教えて欲しいの」
【そんなの知らないよ。おれはただ、あいつを止めて欲しくて呼べそうなやつ呼んだだけさ。お姉さん、あいつのことが知りたくてここまで来たんだろう】
あいつ、が誰を示しているのかわからずにあずさの頭が空白で埋まる。ぽかん、とした様子でとぼけて見せるあずさに写真の中の子どもは笑った。
【夢で見せてやったろう。おれが死んだ日の出来事をさ。それを見て、あいつを止める気になったんじゃないのかい】
「とめる、あいつを」
空白だらけで真っ白になった頭の中で光がはじけた。目を見開いて息をつめたあずさの様子を確認して、子どもは満足げにあごを上向ける。
写真の中にいるのに器用だな、とあずさは衝撃に揺らぐ頭の片隅で考えていた。
「あの子が、タケさんの言ってた事を荒立てている第三者」
【そういうこと。おれも今になってこんなことしでかすと思ってなかったから焦ったぜ。前にも一回、同じことして怖い大人に連れてかれたのにな。こりりゃよかったのに】
「あの子が、前にも同じことを?」
あぁ。と軽い調子で相槌を打った子どもは写真の中から手を伸ばす。あずさはのばされた指に触れるように手を伸ばす。瞬間、流れ込んできたのは遠い誰かの記憶。
「バカにしやがって、どいつもこいつもバカにしやがって!」
「やめて、やめて頂戴! どうしたの? どうして急にこんな」
「やめんしゃい! そんなことしても何にもならんよ! いつまで子どもでおるつもりやの!」
「あいつは生きてるんだ! 枇杷の種にうつって、今も生きてる! 墓のそばにある枇杷の木は、あいつだ!」
「はぁ? そんなわけないでしょ。まだそんなこと言ってんの。馬鹿じゃないの」
「どいつもこいつも、なんで信じない。なんで僕ばかりがあんな目で見られなきゃならないんだ! あいつは確かに生きてるのに! 今も枇杷の木のまま、あそこに立ってるのに! どうすれば信じてもらえる。どうすればいいんだ!」
「友之助、おばあちゃんが枇杷をくれたから一緒に食べましょー」
「……枇杷。そうか、そうだよ! 初めから、そうすればよかったんだ!」
心の底から湧き上がる肌が粟立つような歓喜に押しつぶされそうになって、あずさはとっさに写真から手をはなした。
流し込まれた記憶の断片のすべてが、何度も繰り返し脳内で流れて繋がって混ざり合う。
「ぅ、うええぇ、ゲホッ、ゴホッ!」
胃がひっくり返る不快感と、せりあがった胃液に焼かれた喉の痛み。口の中に溢れる嫌な唾液が開いたままの口から滴り落ちていた。
【あーあ、きったねぇ。おれの仏壇の前で吐くなよな。……大丈夫かい】
「……今、の。……この村が、人がいないのって、そういう」
口元をぬぐって、荒い息をついているあずさが真実にたどり着いたことに子どもは目を伏せる。理解してしまった真実があずさの心を深くえぐり、胃をひっくり返す。
再び胃の中身を吐き戻しながら、あずさは夢の中でどうやって吐いているのかを不思議に思っていた。
【そ。そういうこと。やっちゃいけないことをやっちまったあいつは、その後怖い大人に連れてかれてそれっきりだった。
それが、この前いきなりおれのとこに来たんだ。おれがつけた枇杷の実を大量にとって、あいつはまたどこかに行ってしまったよ。
しわくちゃになっててびっくりしたけど、人の時間はとても速いんだね】
子どもの声が緩やかに変化していく。頭に響く声が、人間の性質を失っていく。
「……あなた、もしかして」
【あいつの名前は
「待って、待って! まだ……!」
あずさはもう一度手を伸ばす。目を見開いて、ほんの少し焦った様子を見せる子どものうつる写真へと手が届く。
「コウちゃん?! だめ、こっちに来ちゃだめ! 逃げて!! にげ」
「お、おじいちゃん。そんなことより、ママが、ママが。病院、救急車……そう、電話! 電話しなきゃ!」
「びわを、枇杷を食え! そして種を捨てろ! この植木鉢に! 種を植えるんだ! さぁ、早く!」
「こう、ちゃ……に、げ」
「こちらこそ、枇杷の種をくれてありがとう」
【駄目だ。これ以上見るんじゃねぇよ。もうお前、帰れ。さぁ、目を覚まして】
最後に聞こえた声は、やはり人間のものではなかった。
あふれる涙の冷たさが目を覚まさせる。
ひどい、夢だった。とても、ひどい夢だった。
「……コウちゃん」
こんなの、こんなことってない。こんな、あんな!
「あずさ! あずさ! 起きてきなさい! あずさ!」
あぁ、お母さんが呼んでる。起き上がって、立ち上がって。降りて行かなきゃいけないのに。なのに、涙が止まらない。胸が痛い。足が、動かない。
「おばあちゃん、おばあちゃん」
手首を握り締めて、座り込む。どうすればいい。どうしたらいい。私は、どうすればいいの。
「あずさ! どういうことなの、これは!」
お母さんが部屋に入ってきた。手に持ってるのは、何だろう。レコーダー? 怒ってるのは、あ、そう言えばドアホンの履歴、残るんだった。
コウちゃん、コウちゃん。どうしよう、おばあちゃん。コウちゃん、コウちゃん!
「男を家に連れ込むなんて、非常識にもほどがある! 親の留守を見計らって男を呼んで、おかしな話ばかり! あぁ、やめて頂戴! こんなひどいこと! こんな恐ろしいこと! なんて子なの!」
涙が止まらない。
息が、できない。
こんなことってない。こんなにひどいことはない。なんで、なんでコウちゃんなの。なんで、私の大切な友達なの。
「あずさ、聞いているの! あずさ!」
ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい。謝るから、もうしないから、だから、お願い。やめて。行かせて。行かなきゃ。私、行かなきゃいけないの。
深夜の真っ暗な部屋の中に、お母さんの絶叫が響いた。
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