枇杷の鬼 前編③
「あずちんはなんかしたいこととかないの? カラオケ行きたいとか、どっか行きたいとか」
「特にないかな。今はコウちゃんと一緒にお弁当食べてるだけで楽しいよ」
そうじゃないんだよなぁ。
アタシのママが作った冷凍食品の詰め合わせ弁当と、あずちんママの作っためっちゃおいしそうなおかずの入った弁当を見る。
でも、なんか見てていいなって思わなかった。
おいしそうだし、多分朝早くから準備してるんだろうけど、あずちんがおいしそうに食べてないからかな。
「コウちゃん?」
「あずちん、それおいしい?」
見た目は完璧なのに、それを食べてるあずちんはやっぱりおいしそうな顔をしてない。
アタシがたまにあげる菓子パンを食べてるときの方がおいしそうに食べてる。
あずちんは弁当を見て、アスパラとにんじんが入った肉巻きを食べた。
辞書で英単語を調べてるときの顔をして、口をもぐもぐさせてるのがやっぱり変な感じする。
ご飯ってそういう顔で食べるモノじゃないよ、あずちん。
「使ってる肉とか野菜の味がする普通の肉巻き、なんじゃないかな。前に食べたコウちゃんのお弁当のハンバーグの方が、お肉食べてる感じがしたと思う」
「あっそ。じゃあ、ハンバーグ大好きなあずちんにこれをあげましょう。だからその肉巻きちょうだい」
「いいけど、大きさが釣り合ってないんじゃ」
「こういうのは黙ってもらっておくもんなの! じゃ、これもらうからね」
あずちんの弁当にチンして入れただけのハンバーグを置いて、肉巻きを取る。
そのまま食べてみたけど、なんか微妙な味だった。
普通。ほんとに普通。
なんか味薄いっていうか、ほぼ肉とアスパラとにんじんの味しかしてない。
こういうのってタレとか、最低でも塩ふったりするもんだと思うけど、それすらない感じだった。
冷めてるからとかそういうのじゃなくて、なんか冷たい味。
「やっぱりこのハンバーグおいしいね」
そう言ったあずちんの顔は、おいしいものを食べた時の顔になってる。
「なんかなぁ」
びみょーな味の肉巻きを飲み込んで、アタシも残ってたハンバーグを食べる。
「最近の冷凍食品は本当においしいし、種類も豊富だから助かっちゃうわー」ってママが言ってたのを何となく思い出した。
帰ったら、ありがとぐらい言おっかな。
「あ、雨降ってる。今日の体育は体育館だね」
「あ、じゃあ腹筋とかじゃん。やったぁ、あれ楽で好きなんだよね」
アタシがそういうと、あずちんはそうだねと言いながら弁当をしまった。
そんであのね、とアタシの目をじっと見る。
「昨日、お父さんが久しぶりに帰ってきたんだ」
「え、マジ? 二か月ぶりじゃん」
そっからはあずちんパパの話から、びわの話になって、なんかいっぱい話した。
ケンカの話とか、なんかあったとかは言われなかった。
ただあずちんが嬉しそうにあずちんパパの話をしてるのが嬉しかった。
アタシも、昨日見たアニメの話とか、最近見つけた陰陽師が主役の漫画とかの話をして昼休みは終わった。
体操服に着替えながら、なんか突然思い出したことがあってあずちんに話しかける。
「びわの種を外で捨てると悪いことが起きるって、そういえばアタシもママに言われたことある。なんか、それで大変なことになって引っ越しすることになったんだってさ」
あずちんはなんかすごい顔してた。わかっちゃった。
あずちんが元気なかったの、このびわの種の話でなんかあったんでしょ。
「ママにくわしく聞いてみよっか?」
「……いいの?」
「とーぜん! あずちんパパとうちのママが同じこと言ってるの、なんか運命って感じするし、アタシも気になっちゃったからさ。
でもさ、大変だったって言ってもアタシもママも普通にしてんだし、大したことはなかったんじゃない? ま、明日聞けたこと話す!」
あーでも、ママちゃんとそこら辺の話とか覚えてんのかな。
嫌なことはさっさと忘れるのよ! とか言ってたしな。
ま、聞いてみるだけ聞いて見りゃいいでしょ。
五時間目の体育は、腹筋とか前屈じゃなくてシャトルランだった。最悪。
傘をたたんだ
反射的に手をはなし、数歩距離を取る。
ドアの向こう、家の中に何かがいるという直感に体が震えていた。
「なに、なに??」
ビビりすぎだって、と自分で自分を笑い飛ばせればどれほどよかったか。
何かはわからない。
それでも、首の後ろに突き付けられた尖った針のような予感は消えず、ドアに近づこうとすればその分鋭さとヒヤリと胃が縮む感覚が強くなる。
ドアから目が離せない。
一目散に逃げだしたいのに、目をはなして走り出した途端に後ろから襲われると、香は強く確信していた。
「おかーさーん!」
下の階から聞こえた子どもの声に肩がはねる。
遠慮のない足音の後、母親らしき女の焦ったような声が聞こえてきた。
どうやら下の階に住んでいる親子のやり取りらしいと気づいて、脚から力が抜けてその場にへたり込んだ。
「……っ、ママ」
息をついて、ドアを凝視したままでも落ち着きを幾分か取り戻せたと同時に、家の中にいるはずの母親の存在を思い出す。
わけもわからない、だけどホラー映画を見た時よりもずっと明確な怖いものがそこにいる確信。
それと、そんな怖いものがいる家の中にまだいるだろう母親の安否。
二つが天秤にかけられて揺れる。
香はドアから目を離せない。
と、ドアの向こう。
香の家の中から、悲鳴が上がった。
前に見たとある映画の、乱暴されて必死に泣きすがって許しを請う女のような、そんな悲鳴。
「ママッ!」
天秤は一気に母親の安否に傾いて、香はドアノブに飛びつくと一気に開いた。
すると、鼻を押しつぶすような濃い枇杷の臭いが顔に体当たりしてきた。
思わず鼻に手を当ててよろめいた、その視線の先。
廊下の先のドアが開きっぱなしになっていて、そこから両手で頭をかきむしるようにして悲鳴を上げている母親が見えた。
「ママ!? 何があったの! この臭いなに?!」
泣きそうな声が届いたのか、母親は悲鳴を止めて香を認識した。
安堵した表情を小さく浮かべて、すぐに恐怖に張り裂けそうな顔へと変わる。
「コウちゃん?! だめ、こっちに来ちゃだめ! 逃げて!! にげ」
母親の体が不自然に痙攣する。
突然白目をむいて泡を吹いた母親の異変に香が足をすくませている間に、その体は床に倒れた。
ビクビクと不気味にゆれている母親が怖くて、香は駆け寄ることを躊躇した。
何よりも、例えあのような母親の姿を直視しても、あの部屋には行ってはならないと本能が警鐘を鳴らしている。
足も動かせず、部屋に乗り込む勇気もない香は、その場で母親を呼ぶことしかできなかった。
「ひっ! あ、うそ、でしょ。ママッ!」
「おや、お帰りコウちゃん。ほら、コウちゃんも一緒に枇杷を食べよう。そして種を儂におくれ」
倒れた母親の体を隠すように、香の祖父が姿を現す。
痙攣して泡を吹いている人間が足元にいるとは思えない穏やかさだった。
その手にはなぜか植木鉢があって、なぜか香はそこに小さな芽が出ていることを見なくても理解できた。
「お、おじいちゃん。そんなことより、ママが、ママが。病院、救急車……そう、電話! 電話しなきゃ!」
「そんなこととはなんだ!」
今まで聞いたことのない祖父の怒鳴り声に香は身をすくませる。
恐怖と混乱で顔を青ざめさせ、震えながら涙を流す孫に対して、香の祖父は鬼の形相で怒鳴りつける。
「びわを、枇杷を食え! そして種を捨てろ! この植木鉢に! 種を植えるんだ! さぁ、早く!」
「ママ、ママ、ママ」
祖父の影から見える母親の足は、とっくに痙攣すら起こさなくなっていた。
それでも香はすがるように手を伸ばして、一歩足を踏み出す。
顔を真っ赤にして怒鳴り声をあげていた祖父は一転、ニコニコと嬉しそうに笑みを浮かべて、どこから取り出したのか枇杷の実を空いている手いっぱいに持って香に差し出した。
「そう、いい子だ。さぁ、この枇杷をおあがり。おじいちゃんの大事な友達がつけたおいしい実だ。食べ終わったら、種を植えに行こうな。儂も植えたからな、もうじき芽が出る。
あの子に家族みんなを紹介したくてなぁ。なに、人間の体はなくなるが枇杷に生まれ変われるから大丈夫だ」
祖父の言葉の一割も、香は理解できなかった。
痙攣して倒れたまま動かない母親と、明らかに様子がおかしい祖父と、体にのしかかってくるような腐った枇杷の臭いで思考が押しつぶされる。
混乱して前にも後ろにも進めなくなった香に、祖父が枇杷を差し出したまま近づいてくる。
小さな大人しいオレンジ色の果実を見て、不意に香はお昼休みのあずさの話を思い出す。
『コウちゃん、怖いことが起こったらちゃんと逃げないとだめだよ。本当に怖い目に会った時は、逃げようって考えがどこかに飛んでいくから、だからちゃんと逃げなきゃだめだよ』
表情があまり変わらない親友の、涼し気でいて心配そうな声が香の頭の中に一筋の光を差し込んだ。
明瞭になった思考の中で、香は祖父がうめく声を聞いた。
「こう、ちゃ……に、げ」
赤い泡を吐きながら、母が祖父の足首を握り締めている。
祖父がまた顔を真っ赤にして怒鳴りながら、その手を踏みつけていた。
「あ、あぁ、あああぁぁぁぁぁ!」
あふれる涙はそのままに震える足は勝手に動いて、香は無情にも死にかけの母を狂った祖父の下に置いたまま逃げ出した。
玄関から飛び出して、階段を駆け下りて。
その途中、硬いもので何かが殴りつけられる音が聞こえて耳をふさぐ。
なんで、なんでこんなことに。
「ママ、ママ、ママ! ごめんなさい、ごめんなさい! ママ、ママぁ!」
必死になってむせび泣きながら、雨の中を逃げ惑う。
すぐ後ろで枇杷の実を持った祖父が満面の笑みで追いかけてきている気がして、振り向くことも立ち止まることもできない。
引き返すなんて、考えもできなかった。
逃げて、逃げて、逃げて。
その間もずっと、枇杷の濃くのしかかるような臭いは鼻の奥にこびりついて雨の中を走っても消えることはなかった。
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