枇杷の鬼 中編①

 枇杷のにおいがする。そして、その中に紛れるようにある異質なもの。

 大哉だいやは雨の中、濃すぎるほどに臭うそれを追って走っていた。


「さっきまでなにもなかったじゃんか!」


 そう、つい数秒前まで鬼の気配など微塵も感じなかった。鬼による異常も、何か怪し気な空気もなく静かな雨の通学路だった。


 なのに突然、それこそ地面からひょっこり芽が出るように枇杷の濃すぎる臭いがただよってきたのだ。


 入学してからこちら、毎日ここを歩いている大哉でも今の今まで感じなかった臭い。胃が押しつぶされそうな不快感。


 脳裏によぎるのは、仕事の中で見て来たおぞましく痛ましい光景。なぜ助けてくれなかったのかと恨みのこもった目。


 まだ間に合う状況であってくれ、と願わずにはいられなかった。


「いた!」


 小降りになってきた雨の中、その視線の先に見慣れた制服を見つける。この臭いが、同じ高校の生徒にこびりついているのだと気づいて、大哉は頭を抱えたくなった。


 知り合いでも、知り合いではなくても、面倒なことになったと思わずにはいられない。


「ママ、ごめんなさい、ママ! ママ!」


 傘もささずに何かから逃げている生徒は、ただひたすらに謝って泣いていた。


 大哉は走りながらポケットから呪符を取り出して耳にあてる。その表情は沈痛で、殺人事件のニュースを見たような苦さを持っていた。


 何度も同じような光景を見て来た。何度も、手遅れの被害者を見て来た。何度も、一人逃がされてしまった生存者を見てきたのだ。


「爺さん、鬼が出た。場所はわかんない。おれ? おれは今、逃げて来たっぽい人を追いかけてる。……そう、保護して家に連れてくから。

 わかってるよ! 鬼だったらちゃんと退治して家に連れてくから! ……うん、そっちはお願いします。じゃ」


 耳にはりつけた呪符を剥がしてポケットにしまい込む。おそらく恐怖で止まれないのだろう生徒に追いつくべく、大哉は走る速度を上げた。逃げる生徒の背中は、もうすぐそこだ。


「止まって! 止まってください! おれはあなたを助けに来ました! もう大丈夫です! 怖いものは何もいません! 止まってください!」


「いやあぁぁぁぁぁ!」


 大声での呼びかけで止まってくれれば、という淡い期待は粉々に砕けた。恐怖で鋭敏化した感覚は、すべてを恐怖の体験と結びつけてしまっているのだ。


 おそらく大哉の追いかける足音だけでも、十分に恐怖を刺激しただろう。


「あぁ、くそ! しっかりしろよ、おれ! いきなり声かけんなって爺さんにも言われたろうが!」

「許して、もう許してぇ! いや、いやだぁ、おじいちゃん、やめて、もうやめて、ママ、ママぁ!!」


 泣きわめいて、必死に許しを請いながら逃げる生徒。その前方、信号のない十字路の右側から車のエンジン音が聞こえて大哉は顔を青くした。


 このまま恐怖に目を閉じた状態で走り続けたら、鬼の被害の前に交通事故になりかねない。


南無三なむさん! ごめんな!」


 傘を放り出して強くアスファルトを蹴りつける。ついに生徒に追いついた大哉は、雨に濡れて重くなった制服の袖をつかむと強引に引き寄せた。


 恐怖に喉がひきつったような悲鳴を上げる生徒を自分の体にぶつからせて、そのまま道路に尻もちをつく。


「大丈夫、大丈夫ですよ。怖いものはここにはいません。おれは、あなたの味方です。あなたを助けに来たんです。大丈夫、大丈夫です。何も、もう何も怖いものはいませんから」


 傘を放り出したせいで頭から雨に打たれる。今はその冷たさがありがたかった。


 荒い呼吸を繰り返して震えている生徒は、もはや悲鳴を上げることもできない。大哉の体に寄りかかるようにして、氷のように固まってしまったままだ。


「こんこんこん。安らぎの風が吹く。旅立ちの風、寒さやわらぐ春の風。凍てつき震えるたまと踊る。こんこんこん。深く沈む悪しき夢。陽だまりの夢、淡きまほろば浮かぶ夢。こんこんこんと、今は目を閉じられよ常夜とこよの君」


 瞳孔が大きく開いて瞬きもしなかった目が、ゆっくりと閉じていく。長く、細い息を吐き出して生徒の体から力が抜けた。


 雨を降らす雲を見上げて、大哉は大きく息をつく。自分に寄りかかって眠りについた生徒の、穏やかな寝息だけが縮んだままの心臓を柔らかくほぐしていくようだった。


「視線除けの符、持ってたっけ」


 ひとまず、この生徒は鬼ではない。まごう事なき被害者だろう。


 そのことに安堵して、無事に怪我をさせることもなく保護できたことに体から力が抜けて、ようやくほぐされた心臓がぎこちなく動き出す。


 何とか余裕ができて来た内心に、さらに余裕を持たせるために大哉はポケットを探る。


 ここからかなり歩く家までの距離を、女子生徒を抱えていかなければならない。どう考えても人の視線を集めることは必至だ。


 同じ学校の生徒に見られでもしたら、翌日にはあることないこと噂が広まっているに決まっている。


「お、あったあった。よかったぁ」


 一瞬、この生徒の家族は無事なのか考えそうになって頭を振った。考えても仕方がないことを考える余裕など、ないのだと切り捨てる。


「じゃ、失礼しまっす」


 目の模様だけが無数に書かれた符を回収した傘の内側にはりつけて、生徒をおぶる。小さいころに見たアニメにこんな感じの姉妹がいたなぁ、などと思いながら大哉は家までの道を急ぎ足で歩いたのだった。







 人間一般人の中で過ごす昼間は終わり、人間退治屋の中で過ごす夜が来る。


 庭先に残っていた桜の鬼の匂いが雨に流されて消えていく。柱にもたれて雨音をぼんやりと聞くしか、時間を過ぎさせる方法がなくなった。


慎二しんじ! こんなところにいたのか」

「オレをその名で呼ぶな」

「鬼が出たのだ!」


 あぁ、面倒だ。


「その気色悪い声をやめろ。耳障りだ」

「枇杷の鬼だ! 枇杷の種を捨てたものがあうという鬼だ! 急いで現場に向かわねば。被害が大きくなる前に退治せねばならん!」


 嘘をつけ。人間の被害よりも、鬼を捕獲できるかが気になって仕方がないんだろう。鬼が現れて嬉しいと、声ににじみ出ているぞ。気味が悪い。


「今度こそ、殺せるといいな、兄貴」


「あぁ、あぁ! 今度こそ、必ず鬼を殺す術を見出してみせる! お前は御厨様の下へ向かい、夢を見られたかお尋ねしろ。もし夢を見たとおっしゃられたなら、その内容をできる限り細かくお聞きするのだ」


「夢? おい、それはどういう」


御厨みくりやの巫女が見る夢は、神の食物のありかを示す夢。何か鬼に関する情報があるかもしれん。あぁそれと、生存者は御厨様のご学友らしい。それも伝えておいてくれ」


 兄貴はそれ以上の言葉はよこさずに足早に去っていった。足音からも喜色が感じられてため息が出る。見張りも何もなしに人間の家に向かわせるなど、兄貴は本気でオレが鬼であることを忘れているのか。


 巫女の夢は神の食物のありかを示す。あぁ、なるほど。そういう事か。だが、そういうことならば初めから先輩も鬼退治に関わらせるつもりでオレをそばに置いたことになるのか。


「面倒だな」


 枇杷の鬼。見つかった数が多い鬼の一つ。


 食った枇杷の種を外で捨てる、もしくは植えると魂を取られるという言い伝えがある。その由来の一部には、この枇杷の鬼が関わっているという。


 多くは枇杷の種を捨てた本人だけが被害にあい、それ以外の人間や動植物に影響を与えることはない。しかし、ごくまれに鬼と本人以外の第三者による被害の拡大が起こされ凄惨な事件になることもあるという。


 鬼が出た。被害が大きくなる前に。そこに含まれる意味は、つまるところ。……生存者はいたのか。そいつはどこにいるのか。そして、その心は壊れていないのだろうか。


「人間の退治屋ではなく、オレのようなものに案じられる人間も哀れなものだ」


 道理で誰も彼も浮足立って駆け回っているわけだ。獲物が向こうから来たことに歓喜する狩人まがいどもには、またとないごちそうでしかない。


「面倒だ。これ以上は考えても無駄になる」


 思考のすべてを放り投げる。オレには、やはり人間の考えることはわからない。考えるだけ無駄だということだけがわかっているはずなのに、回る思考はやはり止まらない。


「どうしたものか」


 嫌な活気にあふれた屋敷の中を歩く。そこかしこで札や術の気配がはじけては消えていく。閉ざされた視界の中で、わずかなあちら側の色をふくんだそれらが目に痛い。


「面倒だな、何もかも」


 先輩の家がどこにあったか。それすら考えるのが億劫で、だがいかなければオレには何もやることがない。こんな場所で意識を沈めながら過ごすなど、考えるだけでおぞましい。


「ひとまず、生存者の居場所だけでも聞いてから行くか」


 そうすれば、先輩の行動もある程度制限できるだろ。

 あぁ面倒だ。何もかも。

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