そしていつかは鬼になる(旧版)

初めての鬼退治①

 桜の木から生白い腕が伸びている。

 満開の花の間に紛れるようにしてあるそれらは、ゆらゆらと周囲の花びらに合わせて揺れていた。

 半ば呆然とそれを見ていたあずさは、それが前髪に触れた瞬間、不意に正気に戻って手に持っていた学生カバンを盾にした。

 腕はカバンに触れたと同時に恐ろしい力で奪い取って、吐き気をもよおすような音を立てて飲み込んだ。

 決して腕に口が開いたとかそういうことではない。腕に直接沈み込ませた、というよりほかなかった。

 しかし、そんなことを気にしている余裕はあずさにはなかった。とっさに手首につけているはずのお守りを握り締める。

 が、思い描いた感触はそこになかった。思わず大好きな祖母の顔を思い浮かべてしまう。

 カバンを完全に取り込み切った白い腕がまたあずさに伸びてくる。


 そう言えばお守りをあの中にいれていたことを不意に思い出して泣きそうになった。


 今度は他の腕も一緒だ。


 どう考えても夢としか思えない光景にもかかわらず、あずさはこれが現実であると確信していた。


 恐怖ですくんだ足は根が生えたように動かず、耳元で心臓が激しく拍動しているような気さえしてくる。


 自分の呼吸の音がいやに大きく聞こえて、伸びてくる腕がスローモーションのようにゆっくりとしているように見えた。


 ぎょろり


 生白いぶよぶよとした腕から、人間の目が生える。


 瞬間、今まで動けなかったことが嘘のようにあずさの足は一目散に回れ右をして駆け出していた。


 ぺちゃぺちゃ


 ぺちゃぺちゃ


 背後から生々しい音が聞こえてきて、否応もなくあの白い腕が追いかけてきているのだと意識せざるを得ない。


 いくら走っても音は遠くなるどころかどんどん大きくなる。


 悲鳴をあげたくても声が喉に絡まって出てこない。


 助けを求めたくてもいったい誰に求めればいいのかわからない。


 涙目になりながら一心に走っているあずさの足首に生暖かいぶよぶよとした何かが巻き付いた。


 小さな悲鳴を上げて顔から地面に突っ込む。


 痛みにうめく間もなくズルズルと地面を肉が這う音が響いて、もう片方の足首にも肉が巻き付く感触がした。


「ひっ?!!」


 ゾワリと全身を駆けのぼる寒気に身を震わせている間にも足に巻き付く肉の感触の数は増えて、ついでに徐々に引っ張られているような気がしなくもない。


 アスファルトにしがみつくように指に力を入れるも、抗いきれずに少しずつ、少しずつ後ろへ引っ張られていく。


 爪と指の間の肉が裂けるような痛みに思わず力を緩めた瞬間、容赦なく引っ張る力が強くなってあずさの体は宙に浮いた。


「きゃああああ!!」


 ビクン、と体がはねた衝撃で目を覚ましたあずさは、しばらくの間何も考えられなかった。


 呆然と天井を見上げる目は焦点があっておらず、心臓は肋骨を打つように激しく脈打っている。


 じんわりと肌にまとわりつく汗の不快感に額を手で拭う。


 すると、冷え切った水分の感触が現実であると如実に語って聞かせてくれた。


「……ゆめ」


 ぼんやりとした声とは対照的に、今まで自分が見ていたすべてをはっきり覚えている。


 足首にまだ生々しい肉の感触があるような気がして意味もなくばたつかせた。


 そんなことで拭えるものでもなかったが、とりあえず何も足首を掴んでいないことを確認して胸をなでおろす。


 カーテンの隙間から入ってくる光の暖かさが心に染みた。


 つけているお守りごと手首を握り締めながら、気持ち悪い感覚を拭い落とそうとシャワーを浴びる準備を始める。


「おばあちゃん」


 祖母に会いたい。あずさは重いため息をつきながら、切実にそう願った。





 白い腕の生えた桜の夢を見始めてもう一週間になる。


 初めはうまく逃げきれていたのに、だんだんと逃げるのが難しくなって、とうとう今日は捕まってしまった。


 このままじゃ、いつかあの腕にのまれたカバンみたいになってしまいそうで怖い。


 たとえ夢の中の出来事だとしても、それは本当に怖くて恐ろしいことだった。


「あずさ、また朝からシャワー浴びたでしょう。それ、やめてって言ってるわよね」


「おはよう、お母さん。汗かいちゃって気持ちわるくて」


「あなたまでみそぎだの、ふじょうだの言いだすんじゃないでしょうね。


 まったく。おばあちゃんの影響を受けてあなたまで変になったんじゃたまらないわ」


 とげとげしいお母さんの言葉は、今に始まったことじゃない。


 つい先日亡くなったうちのおばあちゃん。お父さんのお母さんは、迷信とか言い伝えとかそういう類のものを信じてる人だった。


 知らないことや面白いことをたくさん教えてくれて、私は大好きだったんだけどお母さんはそういうのが嫌いでいっつも怒っていた。


 お父さんは、やっぱり自分のお母さんがそんな風に扱われるのが嫌でお母さんと喋らなくなった。


 今も、おばあちゃんの家の整理に出たまま帰ってきていない。


 それが余計に、お母さんをイライラさせているみたいだった。


「ねぇお母さん、今日はなんだかきれいだね。お肌がさらさらしてて、髪の色もおしゃれで。とっても似合ってると思うな」


「あら、わかる?」


「うん、わかるよ! 爪も、きれいに塗ってるよね。あえて自然な色にしてるのがかわいいと思う。まぶたもぱっちりしてて、男の視線を独り占め! て感じだよ!」


 多分。

 心の中でそう付け足して、でも顔は楽しそうに笑って。


 あっという間に機嫌のよくなったお母さんは、ニコニコして楽しそうに部屋に戻っていった。


 ガチャガチャ音がしてるから、多分三面鏡を使ってるんだろうな。


 どうでもいいけど、私はあれが嫌いだ。


 たくさんの自分の顔が並んでいるのを見るのって、何が楽しいんだろう。


 というか、お父さんがいるのに男の人の視線を独り占めする意味ってあるのかな。


 まぁ誉め言葉になってるみたいだし、機嫌直してくれたから全然いいんだけど。


「お父さん、早く帰ってこないかなぁ」


 無口で真面目で素朴だけど、優しくて不器用なお父さん。


 おばあちゃんの家の片付けで怪我してないかな。ちゃんとご飯食べてるのかな。


「行ってきます」


【いってらっしゃい】


 玄関のドアにぶら下がっているおしゃれな西洋風のベルに向けてあいさつする。


 すると、鈴の声ではっきりと送り出してくれる。


 確か付喪神、という物なんだってお父さんが言っていた。


 おばあちゃんに聞いたら、家を守ってくれるしいい音がするから新築祝いにと思って、と言っていた。


 つまりはそういう事らしい。


 そんな長い歴史を持つらしい西洋の鈴を、お母さんは見た目がいいからとものすごく気に入っている。


 よく写真を撮られている、そろそろお金を取ってやろうか。


 なんて鈴の付喪神さんに言われたこともあった。


 そう言えば付喪神さん、お金取ったら何に使うんだろう。


 そんなおばあちゃんがくれたもので、唯一お母さんが気に入っているもの。


 それが実は玄関の門番をしてるなんて知ったら、きっとものすごい顔をして怒るに違いない。


【今日も気を付けて行ってらっしゃい。桜の木には気を付けて】


「……え?」


 パタン、と閉まったドアを振り返って立ち尽くす。


 鈴の付喪神さん、今、桜の木って言った?


 ゾッと全身が冷たくなって、その場から一歩も動けない。


 後ろに何かが立っている気がして、振り返ってしまえば取り返しのつかないことになる予感がする。


 手首のお守りを握り締めて、ぎゅっと目をつぶってから勢いよく振り向いた。


「……はぁ、そりゃそうだよね」


 いくつかの影がある以外、何もない道路を見て自然とため息が出た。


 何もないことに安心したはずなのに、心臓の裏側に居座った痒さは消えてくれない。


 もう一度ため息をついてから、カバンを持ち直して一歩踏み出した。


 桜の木に気をつけて。

 鈴の付喪神さんの忠告が、頭の中をぐるぐる回っていた。

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