第2話

 ご飯を食べ終え、お風呂にゆっくりと浸かったわたしは、リビングに備えられたソファーにぐったりと体を預ける。


 全身から湧き出る疲労。

 足は限界を訴え、肩はバキバキに固まり、腕を持ち上げるのにも一苦労。

 ソファーに座っただけでも自分の体の重さを実感し、ずるずると背もたれに沿って落ちていく。


「ほら紅音あかね。髪長いんだから、寝る前にしっかりやらないと」

「ぅん~……。めんどうなのじゃぁー……」


 同じく隣ではシノブさまがソファーに腰かけていた。

 目の前の小さなテーブルにスマートフォンを立てかけ、耳にはイヤホン。


 世界的な動画配信サイトを楽しんでいたシノブさまは、気の抜けた返事をするわたしに細く息を漏らす。


紅音あかねさんは、このままソファーと融合するのじゃ」

「何言ってんの」


 スマートフォンをそのままに席を立ったシノブさまは、部屋を巡って一通りの道具を手にして戻ってきた。

 そのままわたしの後ろへ回り込むと、白く長い髪を持ち上げて、ソファー背もたれへと掛けた。


「まあ良いけど。いつもの事だし」

「いつもいつも、ありがとうなのじゃ。シノブさま」


 乾いたタオルで髪の水分を取りつつ、シノブさまはわたしの髪をすきぐしで解いていく。


 毛先から始まり、徐々に上へ。

 優しく撫でるようにくシノブさまの手際は心地よく、思わず色づいた声が心の底から漏れ出てしまう。


「――…………ほわぁぁぁぁぁぁ」


 き終えた髪にほどこされる次の道具は、香り高いヘアオイル。

 使う椿油つばきあぶらは値が張るのが玉の傷だが、相応の質の高さは認める所で、髪へ浸透した油の力は頷くしかない。


 全体に椿油つばきあぶらが馴染んだところで、次はヘアドライヤーを使った念入りな乾燥。


 一連の工程は本格的なものではなく、一般でも行える簡易的なもの。

 しかしシノブさまの手が加わった事により、ケアの質は格段に向上していた。


 錬丹術れんたんじゅつ――仙人の扱える術の一つで、本来は不老不死の霊薬れいやくを作る為の学術がくじゅつ

 その過程は医療にも通じ、彼が良しとする道具や手法は自然、良質のそれへと選定せんていされる。


「……ふわぁ」


 風に流されただよう、嫌味いやみの無いき通るような油の香り。

 胃の中は満たされ、湯に浸かった事で体はサッパリし、ソファーはわたしの体を余すことなく受け止めてくれている。


 シノブさまがそばにいる。

 その事実もまた眠気を強調する一因いちいんとなり、容赦ない睡魔すいまにわたしは意識を委ねていく。


「今日も一日……お疲れさまなのじゃ……」


 零した言葉は誰に向かって言ったものなのか。

 無心で意識を手放したわたしが知るすべもなく、ストンとわたしの中の電源が落とされた。


***


 紅音あかねの髪のケアが終わり、私は持ってきた黒と椿つばき色のリボンを使って結っていく。

 髪が痛まないよう軽くまとめたお団子にして、さあ出来たよと声を掛けようとしたところで、小さな息づかいが聞こえてきた。


「まったく。お疲れなのは紅音あかねの方だよ」


 あかあお双眸そうぼうは深く閉じられ、想像より大きく感じる胸が規則正しく上下する。


 天使のような寝顔の吸血鬼の彼女。

 出来る事なら自分の力でベッドに行って欲しいけれど、微笑ましい寝顔に免じてため息だけで済ませる。


 起こさないよう紅音あかねの背中と両膝りょうひざに腕を通し、私は軽く彼女の体を持ち上げる。

 女性の体重を考えるものではないけれど、紅音あかねは見た目よりもずっと軽く、むしろ心配になる程だ。


 抱きかかえたまま彼女の私室へ向かい、そっとベッドへと運び込むと、感触から体がベッドに来たのだと認識したのか、モゾモゾと紅音あかねはベッドの中へと取り込まれていった。


「ふう。……今日も月は綺麗だな」


 両腕を上げて背筋を伸ばす私の視線は、ふと窓の外へと吸い寄せられる。


 薄く雲がかかっていた筈の肌寒い夜空。

 だけど今は、月明りを部屋に届けられるほど晴れ切っていた。


「仕方ないけど、紅音あかねと過ごせる時間が減ってきたな。せめて家にいるときくらいは、ちゃんと休んで欲しいけど」


 多忙に重なる多忙。

 元々体力の少ない紅音あかねだけど、ここ数か月に渡って帰宅後にすぐ寝てしまう事が多くなっていた。


 本人も仕事に行きたくないと嘆きながら出社し、帰ってきたら今日みたく力尽きて趣味の一つも満足にできない。


 だから家にいる時間だけは、紅音あかねが喜ぶことをしてあげたいと考えていた。


「――こっちのは、別に冗談じゃ無かったんだけどな」


 首筋をさすり本心を乗せた呟きは、きっと紅音あかねには聞こえていないだろう。


 私としてはそういう事をするのは嫌いではないし、彼女が喜ぶのなら躊躇ためらわない。

 何より吸血鬼と同居するという事は、血を与えるのは自然な流れ。


 血を吸われた過去の経験を思い出すだけで、鼓動が高まり、ついつい頬が緩んでしまう。


 お互いの身体が密着し、妖しく光る彼女の瞳。

 熱い視線を私の首に向け、垂れる雫と共に牙を立てる紅音あかねは記憶の内でも魅せられる。


「まあいつでも言いなよ。今はお休み、紅音あかね


 だけどそれは、あくまでも過去の記憶。

 いま目の前にいる彼女は、可愛らしい寝息を立てている。


 そんな彼女の頭をそっと撫でて、私は月明りに照らされた部屋から離れるのだった。

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少年仙人と社畜吸血鬼の日々円満 薪原カナユキ @makihara

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