少年仙人と社畜吸血鬼の日々円満

薪原カナユキ

第1話

 綺麗な月はうすい雲がかすませて。

 手先に物寂しさを覚える、少し肌寒い夜の道。

 鉛のように重い足を引きずって、わたしは無我夢中むがむちゅうに自宅の帰路へ着いていた。


 堅苦しい黒のビジネススーツが体を絞めつけて、地面を蹴るパンプスには、重しが入っているのではと邪推してしまう。

 背負うリュックも大型のぬいぐるみの如く伸しかかって来る為、一歩進むたびに疲労感が倍々になっていく。


「……はあ。遠いのぉ。ここまで来ないかのぉ」


 ため息と一緒に言葉が脊髄せきずいから流れ出す。

 何度も似たような言葉を思い、呟き、投げ捨てたりしている内に、光景は移ろっていく。


 いつも乗る電車、いつも通る道、いつも見る建物。

 何度も何度もなんども……心の悲鳴を漏らした末に、それはわたしの前に現れた。


「やっと着いたのじゃぁー」


 広いとは言えない2LDKが先にある、手狭な扉。

 ふらふらと体を揺らしながらリュックを下ろし、ガサゴソと鍵を探していく。


 外を照らす明かりはあるが薄暗いのには変わりなく、両膝を揃えてしゃがんだわたしが目当ての物を見つけるのに、ほんの少しだけ時間が必要だった。


 それでもようやく長い道のりの果てに辿り着いた、安寧あんねいの地。

 自然と顔がほころんでしまうのは、仕方のない事だとわたしは思う。


「ただいまなのじゃぁー……!」

「おかえり、紅音あかね


 見つけた鍵を使い、カチャリと開いたドアノブを回す、

 開け放った扉の先で迎い入れてくれたのは、心を引き寄せる温かな料理の香りと、穏やかな少年の声音。


 抗いがたい引力を部屋の中に感じたわたしは、一応の体裁というものをかなぐり捨てて、玄関へと踏み入った。


 ダイニングから姿を見せたのは、黒の和服にエプロンをかけた中性的な少年。

 黒縁メガネをかける童顔どうがん、女性ですらうらやんでしまいそうな、艶のある黒髪と黒目。

 衣装に入った緋色ひいろの差し色が、全体を引き締める印象を持たせ、幼い風貌の中に黒曜石ほうせきの如き妖艶ようえんさが垣間見れる。


 少年の名前は仙界せんかいシノブさま。

 わたしの同居人にして、世にも珍しい仙人せんにんさま。


「ただいまなのじゃ、シノブさま。いい匂いがしとるのぉ。お腹すいたのじゃ」

「もう準備できてるよ。それともお風呂が先? もしくは――」

「ごはんなのじゃー」


 部屋を満たす匂いを嗅いでしまっては、もうそれ以外を受け付けず。

 わたしはパンプスを脱ぎ捨てて、廊下を辿り匂いの下へと誘われるまま歩いていく。


 料理のかぐわしさは心の緊張を解し、それはわたしの姿にすら影響を及ぼしていく。


 髪はろうのように白く染まり、瞳はあかあおの色彩へと転じていく。

 そしてジャケットをくぐり広げられる、黒い翼。

 口内では犬歯が鋭く、皮膚ひふを容易く裂きやすいよう伸ばされる。


 血の伯爵夫人や串刺し公を連想させる、悪魔的な超常存在。


 それがわたし――月代つきしろ紅音あかね

 世にも珍しい吸血鬼ヴァンパイアだ。


「――……のぉ!」


 突然の浮遊感が全身を襲う。

 それまで思考は完全に失われ、頭の中はすっからかんの空白に。


 何もない真っ平な廊下で足を滑らせたわたしは、広げた翼を羽ばたかせる事も出来ず、重力に従い夜明けの月の如く落ちていく。


 死んだなと刹那に走る直感。

 衝撃を受け入れる覚悟も出来ず、疲労感により体は反射行動を拒んでいる。


 重く鈍い衝撃がついに来る――そう諦めた瞬間、頭にぶつかったのはトンと受け止める確かな支え。

 次いで背中に回されたそれは、わたしの崩れる体勢をしっかりと抱き留めた。


「大丈夫、紅音あかね!? いまここ、何もなかったよね」

「び、びっくりしたのじゃ。ありがとうなのじゃ、シノブさま」


 転んだわたしを受け止めてくれたのは、他の誰でもないシノブさま。

 腕の中で顔を埋めるわたしは、心臓をバクバク言わせながらお礼を告げる。


 シノブさまの腕の中は、頼りなさげな少年の腕の中とは思えない包容力を感じ、ついわたしも彼の背中に腕を回し力を込める。


 シノブさまから伝わってくる温もりと、トクントクンとなる心臓の音。

 そして彼から漂ってくるのはそう……休日の香り。


 部屋に満ちた料理と同じ匂い、滅ぶべき忌まわしい太陽の匂い、かすかに混ざる洗剤や汗の匂い。


 それらは全身をむしばむ疲労に染み渡り、同時に心の底から血を沸騰ふっとうさせる衝動が沸き上がる。

 視野が狭まり、牙がうずき、視線は首筋を狙うように上がり、そしてシノブさまと目が合った。


紅音あかねー、私は嬉しいけどご飯はいいの? 肉いっぱいだよ」

「……食べるのじゃ」


 喉元まで出かかっていたあかい音色は、たった一単語を聞いただけで消し飛ばされた。

 半ば開かれた口からはよだれが垂れ、パタパタと動く翼は今の感情が乗っかっていた。


 お互いに怪我は無く。

 そっと離れてダイニングに戻っていくシノブさまの後を、わたしは長い髪を揺らしながらついていく。


「それともの食事の方がいいかな?」


 わたしの目は彼のうなじに吸い寄せられたままで。

 視線に気が付いたのか、シノブさまは流し目でこちらに振り向き、首筋を手でなぞる。


 トクンと大きく心臓が跳ねた。

 息を呑み、相反する二つの食欲を天秤にかけたわたしは、ぷいっと顔を横に逸らす。


 そんなわたしを見るシノブさまの目には、妖しい熱が籠っているように見えたのだった。

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