〈九〉



 水が。


 流されている、と感じ、息苦しさに四肢を動かす。耐えられないと思い口を開けたが、急速に引き揚げられ肺腑が吸気で満ちた。

 瞼を開いた、という感覚もなく視界に広がったのは一面の白。上下天地無く、山海無く、己の足許には影さえ見つけられなかった。浮かんでいるのに歩けた。


 周囲を見回しながら進んでいれば、やがて前方にぽつりと黒い染みができた。両手で囲ったほどの水溜まりは表面をゆらゆらと揺蕩たゆたわせる。


「…………核の中がうろとは思わなんだ」


 自分の声がなぜか周囲から聞こえた。染みが沸騰しはじめる。



 ――――失くした…………。



 深い悲しみの雨が



「そうか」



 ――――宿望こがれ…………。



 雨滴が油のようにまとわりついてくる。



「私はお前の主にはなれぬ」



 ――――どうして…………。



「そんなことも忘れてしまったのか」



 水溜まりが拡がってゆく。足許から再び溺れてゆく。

 洪水に飲まれ、たのは花。ヒトの血と同じ色の花弁の大渦。



 ――――愛した…………。



「私には救えぬが、終わらせることは出来よう」



 握ったままの賜器ぶきを掲げた。空間は震えた。



 ――――鍵を…………。



 おのを振り下ろした。――――が、寸前で止める。

 水を緩く固めたかのような塊が切っ先のすぐ下に浮かんだ。一瞬発光し収まった後には女の顔がある。


「――――さま…………」


 儚げに、昊天そらと同じ色の瞳に涙を浮かべた。咄嗟に、見てはならない、と思った、が、硬直して動けなかった。

 しまった、と焦燥は時すでに遅くただ瞠目どうもくして見つめることしか出来ない。瞼が、降りない。


「――――さま…………わたくしを、殺すのですか…………」


 顔から下もみるみるうちに形成される。白い裸体が爪先から這いずって登ってきた。こちらの名を呼び、巻き毛を絡ませて。

 ずう、と鳩尾みぞおちに何かが沈む。視線だけを下げると女の腕が腹を裂いて入っていくのが見えた。


「やめろ…………‼」


 幻だ。これは幻だ。分かっているはずが耐えがたい焼けつく痛みが襲う。汗が散った。女が腕を出し入れする。ばしゃ、と大量の赤い水とてかてかと光るはらわたが引き摺り出され、呻いた口からも滴る。

 現実では見たこともない下卑た笑顔で彼女が耳朶じだに口を寄せた。


「醜い。きたない。なんであんたなんかに抱かれなきゃいけないのよ」


 ぶち、ぶち、と肉を噛み締めながら声が忌々しげに歪む。


「おぞましい顔。けがらわしい体。ただれて溶けて、崩れているわ。怪物だわ。死ななくてはいけない鬼だわ」

「…………だまれ…………‼」


 息切れがして、頭がぼうとする。ふっ、と見えない緊縛が消え、仰向けに倒れた。体はどこにもぶつかりはしなかったがいまだ続く強烈な痛みと抗いがたい睡魔が全身を包んでくる。

 愛する女が腹から腕を引き抜き、馬乗りになって見下ろす。


ちぎれぬヒトに用はない」

『死にたくない』


 幼い小童こどもの声が被った。人ではありえない牙が首筋にかぶりつく。


『死にたくない。死にたくない』

『宿望が消えた。どこに。どこへ』

『ひとりにしないで』


 呼吸を忘れそうになる。朦朧とした意識に悲嘆と哀願が降る。男に、女に、子どもに。さやめきの乱雨のなか、ふいに力強い一声を聴いた気がした。



 ――――頑張ったんだな、たくさん。



 見えない眼に少女が映り、何一つ混じりけのない無垢な調子で言った。



 ――――私はお前をちゃんと見てやる。



 ぱしん、と波が凪ぐ。次いで悲鳴。打ち叩かれた鋭い残響は突如消え、目の前の女の片眼がどろりと腐って零れた。体が言うことをきく。

 自由を認識した直後、女のうなじに刃を当てた。ぎょろ、と残った青い視線が睨む。一瞬間そのまま腕を引き寄せ、己もろとも首を落とした。


 獣の咆哮。切れ間から膨れ出し、白の場はくるりと反転した。






 浮遊した体は軽く、熱を感じて天波は瞑っていた目をおそるおそる開く。あたりを包んだ真昼のような明光にぽかんと頭上を見渡した。

 どこだろう、ここは。自分を見下ろす。猋に乗ったはずなのに今は独りだった。ぐるりとあたりを見回しても、天も地もない、広いのか狭いのか分からない雲のようなところで浮いていた。

 一歩踏み出す。霧があたりを包み、朧に霞んだ誰の気配も音もない、ただ白い闇。


「素律!」


 叫んだ声は虚空に吸い込まれて消えていった。しばらく闇雲に歩き、ふと前方に針でつついた大きさの黒点を見つけた。踏みしめている感覚のないまま近づいていくと、それが徐々に、蹲る人だ、と分かって思わず駆け出した。しかし、警戒して速度を弱める。膝を立てて腕の中に顔を伏せているのは小童だった。薄汚れた布を被った小さなそれは微動だにしない。


「……おい、大丈夫か」


 少し距離を取って声を掛けるも、全く反応を示さない。仕方なくそろりと近づく。手を伸ばして肩に触れた。

 霆撃いかずちが走ったように小童がいきなり顔を上げ、天波は瞬時に飛び退く。布が落ちて目に飛び込んできた色に硬直した。


 見たことのない、驚くべきはその姿だ。振り乱した燃える赤い髪に色素のない青白い肌。水に金を混ぜた色の瞳はまるで兎のようにつぶらかだった。


「だれ?」


 口を動かしたのをみとめたが、幼い声は頭の中に、いや、空間一帯に響き渡った。

「お前こそ、こんなところでどうした」

 子どもは不思議な瞳を揺らして凝視する。

「だれ?」

 もう一度響いた声が震えた。いや、ここ自体がゆらゆらと揺れている。咄嗟に近寄った。小さな幼子は瞬きせずに天波を見、天波は空を見上げながら庇う。

「平気か。お前はここがどこだか分かるのか」

 応えない子は怯えたようにされるがままになっている。固い音がして視線を戻せば、その細腕にはまっているのは鎖の朽ちた無骨なかせだった。

「なぜ。いったいどうしたというんだ」

 問われたほうはなおも何も言わず天波をためつすがめつする。眼が徐々にいぶかしげに細められる。


「…………なぜヒトの子がここにおるのだ」


 ああ、と服の裾から何かを取った。人ならざる長い爪をしていた。

狻猊さんげいか」

 ふっと摘み上げた毛を吹いて飛ばし、庇われたまましげしげと観察してくる。天波は目線を合わせた。

「ここはどこなんだ。教えてくれ。知ってるのか」

 それでも無表情のままだ。水面みなものような眼はなんの色もない。ふいに遠雷が聞こえた。その音にひとつ身を震わせるとさらに縮こまる。

「怖いのか。大丈夫だ」

 小さな肩を抱く。まるで温度のない、冷えた体を小刻みに痙攣けいれんさせながら呟いた。


わたしだけではだめ…………だめ、だめ、だめだった!」


 長い爪が頭を掻きむしった。赤い髪に別の赤が染みをつくる。ひどく困惑して辛そうだった。何度も同じことを繰り返すのに天波は困ってあたりを見回す。二人の他には何者の影もない。

「ここから出られるかは分からないが、少し歩いてみよう」

 ともかくも抱え上げようとしたが、ありえないことにまたもや狼狽ろうばいした。重い。見た目は三、四つほどの小童の重量ではなく、まるで岩かなにかのようで到底抱え上げることが出来なかった。


「どうして……」

「ヒトの分際で我をどうしようというのだ」


 突如として声が幼いものではなくなった。それはなんの感情も窺えない男の声。天波は異常を感じてようやく離れた。


「――――お前はだれだ」


 問いには一切答えることなく、子どもは鼻をひくつかせる。噴き出してげらげらとわらった。


「とびきり妙なヒトの子だ」


 風が巻き起こり、耐えきれず天波は膝をついた。目を開けていられないほどの突風、腕で顔を庇いつつ悟った。この子は人ではない。剣柄たかびに手を掛けた。

 腐臭がする。たとえようもない、胸を焼くひどい臭いが。錯乱し強風のなかで状況を知ろうと無理に目を開けた。しかし、気配なく近づいていた、一毫いちごうの距離に迫った幼子の眼球に息を止めた。


「ニク。スガタ。カタチ」


 色のない肌はよく見ると細かな透過の鱗で覆われていた。長い爪が氷の温度で天波のくびに触れる。

 殺される。そう感じるのに逸らせない。体が動かない。口腔には歯がなかった。ただ血のように赤い舌が蛇のようにうごめいた。



 ふいに、焦った頭に冷たいてのひらの感触が甦った。それでようやく視界を閉ざす。同時に持ち上げた護心鏡あてがねをその顔に押しつけた。途端、絶叫が耳をつんざく。今にも天波の喉を掻き切ろうとしていた長爪がふっと離れ、あたり一面が赤黒く歪んだ。空間はひしげて伸縮し、竜巻のとぐろをうねらす。あおられ巻き添えになり四肢をちぎられんばかりに風にもみくしゃにされる。



 潰される――――しかし、遠吠えが天波を呼んだ。



 嵐を引き裂き飛び出してきたのは狼に似た獣。そしてそれに跨った長身の男。



「――――天波‼」



 騎上で腕を伸ばして叫び、軽々と天波を抱え上げた。突如、空が消える。



 どん、と衝撃と共に白い闇が落ちた。宙に投げ出され体をしたたかに打ちつけたのは今度は視界のない真黒の闇。岩土のにおいがした。

 しんと静まり、それからすぐ地鳴りがした。凄まじい熱風と号哭ごうこくと。鼓膜が張り裂ける轟音にうつ伏せたまま耳を押さえ、呆然と目を凝らす。


 晞光きこうが射した。光から滑り出るように猋が現れる。青年がその背から跳び転がり、天波を攫って岩壁に押しつけた。

 豚のいななきが聞こえ、鋭いものが次々と壁に衝突して岩が抉れる。ぐ、と背後から喉鳴りがしたのを天波は聞き逃さなかった。


「素律!」


 壁と彼に挟まれたまま体をよじって上向いた。素律が苦しげに息を吐き出して、零れたものが天波の顔にかかった。

 巨大な天盤が崩壊した。岩石が煙を立てて落ち、つたう震動に二人は頭を庇い合う。


 ようやく揺れが収まりおそるおそる見上げた半円にはぽっかりと穴が空いていた。急激に明るくなり、土埃をきらめかせる広場、天井からは淡い朝陽が降る黒い森が見えた。


 どよもした地鳴りは止み、静まり返った洞、天波は自分の荒い息遣いだけを聞いていた。と、ずるりと目の前の素律がくずおれる。

 再び名を呼んで支えようとすれば、問答無用で得物を渡された。


「――とどめを、刺せ」


 苦しげに震えながら握らせたのは大鉞おおおの。銀に光る特異な武器に天波は困惑した。月牙のように湾曲した刃は黒い水が滴っている。

「……私には」

「振り落とす、だけで、十分死ぬ」

 ともかくもずしりと重いそれを受け取り、周囲を見渡した。


 崩れ倒れた岩の一枚に動くものがある。じっとりと汗ばんだ手で鉞を握り締め、ぴくぴくと動くものにそろりと近づいた。気味悪さに逡巡する。


 その獣の頭は岩に潰されていた。しかし牛のような、羊のような胴体がまだもがいており、からだと同じ体毛に覆われた四肢は人のそれだった。あろうことか、ぎょろりと動く瞳は前肢の横に付いていた。水で薄めたような金の眼だった。


『………我を殺すのか。ヒトの子よ』


 妖全体から声が重複して聞こえた。子どもの声と、野太い男の声。口々に嘲り哄笑しあしが手招きするように動く。あまりにも邪悪な姿に総毛の逆立ちが止まらない。ひどい腐臭がし、まわりに瘴気が溢れ出している錯覚をおぼえた。鼻につくえた臭いに頭がぐらぐらとふらつき、顎が痛くなる。一度息を整え、本能で危機を訴えて怯える心を叱咤した。これはまさに大妖魔、頭が潰れていてこそこのくらいで済むが、まともに対峙していたら到底討ち果たせるような代物ではない。穢土このよのすべての醜さを集めたかような禍々しい気を放ち、人語で惑わそうとする。再度かぶりを振った天波は震える手で鉞を構えると思い切り獣の胴に振り下ろした。


「――――あぁああ‼‼」


 自分には手に余る武器を粘る血肉から苦労して引き上げ、重みにまかせて何度も刃を振り下ろしていた。水袋をつついたように黒い腐った羶血せんけつが噴き出し、跳ね返って膝を濡らす。天波は叫び声をあげながら前肢を断ち斬り、眼を潰し、胴を細切れにした。痙攣した獣の、人のかたちの指が力なく地面を掻く。悪臭に耐えきれずとうとう吐いた。しかし不可思議なことに黒い血は時経つうちに水のように薄まって霧散した。


 怒りと悲しみ、恐怖と興奮が抑えようもなくひたすらに腕を振り下ろさせ、いつの間にか己の叫びは泣き声に変わっていた。ついには鉞を放り捨て、痺れた腕で割れた岩を何度も押し付け夢中で腐肉をり潰していた。ところで、肩に置かれた手に気がつきやっと動きを止めた。


 涙で潤んだ視界はぼやけ、だから後ろ向きに体を寄せられて空を仰いでもしばらく放心していた。とてつもない疲労が全身を襲いその場に座り込む。肩で息をし俯いてまた吐いた。滝のような汗が鼻先からぽたぽたと落ちる。


「もう死んだ」


 瞬いて頭を上げた。瓦礫を取り落とし、力が抜けて背を預ける。震える手で素律の傷のある肌を撫でた。


「血が……」


 口から流れた跡をなぞる。素律はぞんざいに手の甲で拭い、天波の汚れた顔にも袖を押し当てた。疲れたように尻餅をつく。荒い息で胸を押さえた。衣に広がる染みに天波は青褪めて向き直った。


「大丈夫か⁉」

「大事ない。少し、肺を掠っただけだ」


 しかし紡ぐ息に喘鳴ぜんめいが混じっている。天波は岩に凭れた素律の胸元を開いて傷を検分した。刺さったままのものはなく、貫かれたあなはそれほど大きくはなかった。だが油断はできない。


「薬はまだあるか」

「洞穴の入口に散らばっているだろう。一旦外に出よう」


 祇盾、と囁いた呼ばわりに灰茶の毛並みの猋が寄ってくる。それに縋りながら立ち上がり、天波も彼を支えあらためて崩れた洞内を見渡した。完全に倒壊し、中への道は塞がれていた。


「さすがは大凶といったところか。殺せたのが信じられない」

「……洞に入った猋は、祇盾しか生き残れなかった……それだけ、強大だった」


 天波は切なく妖狼を見た。二人を乗せて壁を高く跳躍した獣の金の瞳はなんの感情も窺い知れなかった。




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