〈八〉



 誰かが泣く声が聞こえる。全身に粟肌が立ち、耳の奥で血流が渦巻いて、ふいに鳴ったのは場違いなかね。びりびりと空気を震撼させて重低音が響いた。


 火がついたような嬰児の泣き叫ぶ声がする。天波は出処を見た。突風はかまどを巻き上げ、松明たいまつを打ち消す。暗闇に飲まれるなかただ一つだけ洞の奥で光るものがある。


 いつの間にか風と音は止み、包まれた静寂に現れたのは人。天波は驚いて声をあげる。


「――――李酉りゆう?」


 佇んだ姿はよく見知った男だ。

「生きていたのか!良かった!」

 叫んで呼び掛け、しかし駆け寄ろうとした腕を後ろに引かれてけ反った。

 誰だ、と振り向こうとしたが脚を払われそのまま引き倒される。さらに覆い被さられもがこうとして、頭上を恐ろしい勢いで何かが通り抜けた。殺気に硬直した。


「目を覚ませ」


 まろやかに低い声は硬い。そのまま天波の体の下に腕を差し込むと後ろ向きに飛び退すさった。たった今伏せていた岩の上に黒い何かが激突する。石が割れるのを抱えられたまま凝視して、ようやく自失から戻った。

 洞穴に巣食ったうろの闇が蠢くたびにひどくなまぐさい異臭が鼻をついた。降ろされて隣を見る。今更ながら膝が震えて笑っている。

「何がどうなった。李酉がいたぞ。助けなければ」

 素律は鉞を握る反対の手で腰の剣も抜いた。

「私には見えなかった」

 そんな、と天波は混乱して洞を見た。常闇で何かが動き続けている。

「来るぞ」

 素律が言い終わらないうち、数条の直線が瞬速で二人のもとに伸びる。それを身一つでかわしすばやく構える。またひとつ、光が灯った。


 浮かび上がったのは天波の知らない顔だ。襤褸ぼろを纏った血だらけの男。乱れた髪をそのままに茫洋とこちらを見ている。耳にきらりと輝いたものに息を飲む。


「まさか――張正?」


 張貞の息子だ。間違いない。天波は剣を握った手に力を込めた。

「素律!行くぞ!」

 言いおいて洞穴に突進する。張正はどこか何かが壊れたかのような動作で揺れる片腕を上げてみせた。

「待て!」

 止めようとした素律は彼女の速さに間に合わず舌打ちする。後を追いながら空に叫んだ。


祇盾ぎじゅん‼」


 躍り出た白い影が行く手を阻み、天波は妖狼の出現に蹈鞴たたらを踏んだ。次々と現れた猋が一斉に唸り吠える。それを受け、張正がじわりと闇に沈んでいくのを見て愕然とした。洞に渦巻いた腐臭を放つ化物はまるで彼らに怯えたかのように伸び縮みして奥に退いていく。

 追いついた素律が天波の肩を強く掴んだ。

「阿呆!猋を使うと言ったろう。無闇に前へ出るな」

「でも、張正が」

「落ち着け。よく考えろ、半年も前に胴体だけが見つかった者が生きているはずがない。しかも本来ならあのように腐らず、朽ちていないわけがない。あれは間違いなく奴の挑発だ」

「挑発……」

「餌で我々をおびき寄せようとした。しかし、私には最初の男の姿は見えなかった」

 素律がはじめ目にしたのは人間の個々の肢体だけだった。それは関節で分断されて浮遊し、さも人のような形を取っていた。

 絶句した天波を一瞥する。

「あれは幻と屍体したいを駆使して我らを狩ろうとしている。だまされるな。帰って来なかった者への希望を捨てろ。そうでなければ心を読まれて真っ先に死ぬのはお前だ」

 どくり、と心臓が跳ねた。鋭い刃のような気が満ちて汗を噴き出す。目の前の顔は暗くて見えない。だのに触れられないほどの殺気が溢れ出ているのが分かる。それを纏ったまま中へ踏み込んで行く。ともかくも後ろに付き、おい、と呼ばわる。

「どうせ私たちを狙っているのなら、外で奴が出てくるのを待ったほうが良くはないか?」

「外だと動ける範囲が広すぎてこちらの狙いが定まらない。それに、奴は洞の奥から来た。思った通り、このへんの洞穴は全て中で繋がっている。別の出口から回り込まれて背後を取られては勝ち目がない」


 入口を猋で守らせていて敵は外から攻撃出来なかったから、別の洞から中へ入り、においを辿って天波たちの居所を突き止めたのだ。


「風が通っていたから、もしやとは思っていた」

「ちょっと待て。ではあの香はあいつを誘っていたということか⁉」

 素律は頷いた。「我々を狩れないと判じて街に上がられては困る。敵の注意は常にこちらに向けておかなければならなかったし、どのみち襲われるのは時間の問題だった」

「つまり私を餌に」

「そんなつもりはなかった」

「動けない時に襲いに来たらどうするつもりだったんだ!」

「あちらも初撃からこのかた、少しは猋を警戒して様子見すると踏んでいた。とはいえ、お前が動けるようになるまで半月も何も無かったのは奇跡に近かったがな。そういうわけでここで討ち取る」

 指笛を鳴らした。薄闇に猋が縞模様をひらめかせて次々に奥へ突き進む。

「半数を入口に残す。あれに刃が効くのかは知らんが私も行く。確実に仕留め最期を見届けねばならない。お前は残っても良いぞ」

「馬鹿を言うな。行こう」


 湯浴みに使っていた淵を越えて、穴はまだまだ続いていた。上下左右に曲がりくねった道を進む。

「……変な地鳴りがする」

「さすが耳が良いな。それに鼻の曲がりそうなほど血腥ちなまぐさい」


 伴當の適正とは言ってしまえば身体の鋭敏な感覚がいかに優れているかにる。特に耳の良さは重宝され、聴覚に優れることやそれに長じたその者自身を速耳はやみみと呼んだ。狼家は速耳の逸材を輩出する家として高名で、天波ももれなくその能を受け継いでいる。

 しかし素律のほうも尋常ではない五感の持ち主だ。天波の鼻では岩土のにおいと地熱の温風に紛れた敵の気配はすでに薄らぎ遠のいていて掴めない。


「やはりあれは麅鴞で間違いないのか」

「おそらく。伝承どおり姿を持たぬ、へどろのような闇。あれほどおぞましい気をさせているのは麅鴞以外に有り得ないだろう」


 かなり奥へと入り、細い道を抜けた先は岩の空洞だった。天蓋が半円状と予測できる広大な空間に猋の息遣いが満ちている。


 いる。生唾を飲み込んだ。すぐ真正面の奥に低い咆哮のような地面を這う音がする。暗すぎて何も見えない。息を殺してじっと闇を見据えていると、ふいにぼうっと明かりが灯った。細長いそれはゆらゆらと揺れて一番上は丸く膨れ出し、下は伸びて四つに裂けはじめる。形を取りだした白い光は丸い中にぽかりと黒いあなを浮かばせた。



『はしたない』



 聞こえた女の声に天波は瞠目した。


『恥ずかしい子。お前は狼家に肩身の狭い思いをさせる気ですか』


 うそだ、と喉が干上がり口がわなないた。天波の記憶の中でさえおぼろな姿がどんどん明瞭になり、懐かしい顔になっていく。しかし響いた声は冷たく耳膜にこだました。


『私の娘ともあろうお前が。家主だんなさまが甘やかしすぎたわね』


『どうしてこうも粗暴に育ったのかしら。私が親だと名乗るのが嫌だわ。お前が男で唯真が女であれば良かったのに』


「…………母上…………」


 その場に根が生えたように動けないまま、瞬きすら忘れて発光した姿を目に焼き付けていれば、突然大きなてのひらを感じて跳び上がった。額に当たるそれは瞼に降りて来る。



 耳許の囁きに被るように、今度は別の声がする。



『信じているのに。待っているのに。どうして来て下さらないの。私を忘れたのですか。あなたの気持ちはその程度だったのですか』



 悲痛な女の声だった。次いで幾人もの疎んじる呟き。


『恐ろしい。まるで化物だ』


『あの顔を見たか。おぞましい。気持ちが悪い』


『とても不吉なものよ』


『呪われそうだ』


 さざめきの声が潮騒のごとく渦巻く。ふと、覆いが離れた。傍に立った気配は一瞬にして消失し、甲高い呼笛の音が響く。

 瞼を開いて見た先にはもう白い影はなく、ただ号叫する大音声だいおんじょうと猋たちの獲物を狩る声、再びの不快な雑音。錯綜し乱れた激流に飲まれ天波は立ち尽くす。

 風の勢いで吹き飛ばされた何かが横を通り過ぎ、踏みしめる足音にそれが彼だと分かる。


「素律‼」

「目を開くな‼心を読まれる‼」


 叫んだ瞬間、冷えたものが天波の間際を掠め、鋭い切っ先を素律が剣で受けたが押されてゆく。

 あの影は受け止められるのか。そういえば崖での襲撃の時も払うことができた、と思い出し、血が垂れた頬を拭いつつ呼吸を落ち着け、静かに瞼を落とした。素律が影と交える刃の音。それから地鳴りはいまだ続く。咆哮の息遣いと猋たちの吠え声、自分の中を巡る血流。

 空間には障害物も隆起も無い。天波は視界を閉じたまま剣を構え、風のごとく駆け出した。

 影の攻撃が来る。二、三を躱し顔前に迫る見えないものをいだ。確かに手応えがあって、醜い呻きが聞こえたような気がした。次々に繰り出される旋風を斬り避け、その源近くまで左右へ飛び跳ねながら走り寄る。


「早まるな!」


 後方からは叱責が飛んできたが勢いを止められず長剣を突き出す。しかし――――。


「また爆発ッ……‼」


 腐水をもろに被った。


「猋に乗れ‼」


 言われて咄嗟に感じたほうへ寄ると、ごわついた毛並みが脚の下に潜り込みそのまま天波を運ぶ。数度の交戦で穿うがたれめくれあがった地盤の隙間に後退した。

「目が…………」

「みせろ」

 拭う腕を掴み、素律が腰に提げた小袋の紐を解く。取り出した飴を噛み割りじこめていた水を上向けた天波の顔にかけた。

「むやみに近づけば近づくほど暴れるだけだ」

「じゃあ、どうするんだ」

 思うに、と言いかけ頭を下げさせる。どん、と背にした壁が揺れ、破片が落ちる。

「――――思うに、あれは随分と弱っているように感じる」

 どこが、とようやくぬめりがましになったのに少しばかり安堵しながら問う。

「お前を崖で襲った時もそうだ。人型を保てず融解する。幻惑も短い合間しか出来ていない。なら、距離をとりつついなし続けていれば必ず隙が生まれる」

「そう……は、思えないけど!」

 盾にした岩が続けざまに震動してさらに破砕する音がした。こちらのほうが持たなそうだ。

「麅鴞とはふつうなら、獣のように移動して餌を探したりしない。陽のない九陰とこやみを好み巣食い、自らの『場』におびき寄せ狩りをする。つまりもうあれには『場』を維持出来る力が残っていないのだ。でなければいちばんはじめにお前も食われていたはずだ」

「それでも、近づかなきゃ無理だろう⁉」

「少し待て」


 敵側の様子を窺う。八方に触手を伸ばした影は弛緩し、癇癪を起こしたのかやたらめったらに周囲を破壊している。

 甲高い悲鳴にはっとして二人は振り向いた。叩きつけられた複数頭が大量の血を吐いて動かなくなる。

「素律!猋たちが」

「……いいか、遠巻きに猋を踊らせて引きつける。その間に我々は核を探す」

「核?なんだそれは」

「あの妖はいわば穢土このよ泉下あのよ中有あいだに在るもの。見えない気を操り喰らうもの。あれ自体はほぼすべてが『きょ』だが、ここに生きるかぎりは絶対に『じつ』を併せ持つ。ゆえに実である核があるはずだ」

 まるで何を言っているのか分からない天波はみなまで聞かず焦燥に駆られて身を乗り出そうとする。

「早く仕留めないと、猋がやられるぞ!」

 しかし素律はどこまでも静かに彼女を押さえた。

「いくら虚に攻撃したとて効かない。なぜなら我々は実に在るもの。だからこちらの理は通じない」

「もっと分かりやすく!」

「……つまり、麅鴞の弱点は核だけだ。それをやらねば倒せない」

「それはどこにあるんだ⁉」

「見つけるものでなく、おそらくだ。とはいえあの黒い塊の中心部にあるのは確かなは、ず…………」


 いきなり、素律の肩口から黒い槍が突き出た。


「素律‼」

 背後から盾と共に串刺しにされ、わずかに苦しげな息を吐いた。

「おい!大丈夫か!」

 刺さった時と同じく、急速に抜けた。素律は壁に背を預けたまま思わず膝を折る。


 盾が崩れはじめ、天波は素律を支え慌てて亀裂から出た。

 敵はすぐ狙ってきた。闇ににおう殺気を感じとり逆手で抜剣、おそらく全てを弾き返し、男の名をもう一度呼ぶ。

「その核とやら、ひょっとして猋なら分かるんじゃないのか⁉」

「おそらくは」

「なら一頭貸してくれ。ぎりぎりまであの中心に近づいて斬りつける!」

 無茶な、と素律は呟いたが、他に方法がないと思ったのか一度悩むように目を閉じ、そして天波に頷いてみせた。

「では私も外側で気を引く」

「お前も猋に乗れ。走ったら無駄に血が流れるぞ」

 素律は指で笛を吹いた。二頭寄ってくる。そのうち一際大きなほうを天波に貸した。

「祇盾だ。みすみす死なせてくれるなよ」

「いい名だ!」

「そしてお前も死ぬな」

「お前もな!」

 毛脚を掴み、跨った勢いのまま阻んでくる触手を叩き斬る。目の端で素律も猋に乗って駆け出した。


 もはやどれだけ黒い水を浴びようと構っていられなかった。ひたすら剣を全方位に振りまわし中心を目指す。

「祇盾、どうだ?」

 豪速で大きく迂回しつつ獣に話し掛ける。相手は返事をしないがひと駆けぶん敵の内側に入った。遠く反対側に素律の気配。びっ、と耳を斬撃が掠めた。体勢を低めてひたすら目標へ。

 素律の指笛。猋たちが一斉に中心を目指す。一拍、迷ったのか影が動きを止めた。直後に滅裂めつれつ、近いものから順に叩き潰される。数撃を避け、天波は両脚できつく祇盾の腹を締めた。


 突然敵が発光した。眩しさに目をすがめたところ、ほど近い向こうで素律が絡め取られたのが見えた。


「素律‼」

「――――今だ!入れ‼」


 同時に跳躍。群がる腕を掻いくぐり巨大な白い闇に飛び込んだ。





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