09:最後の勝負
隙間風が、廊下に不気味な音を響かせる。恐ろしいほどの静けさを感じさせる校舎の中は、自分だけしか存在していないのではないかと錯覚させる。
廊下に落ちていたモップを拾うと、惠美は一度深呼吸をしてから歩き出す。あの時、勝行が自分を助けてくれたモップだ。傍に彼がいてくれるような気がして、少しだけ心強い。
「モウ、イイ、カァイ」
階段を上がった先には、洋司だった化け物がいて緊張感が走る。けれど、じっとしているのが苦手だった彼の性格を現しているのか、それはすぐに別の方向へと走り去ってしまった。
周囲の気配に集中しながら、惠美はあの女の子の姿を探して教室を少しずつ探索していく。出現場所が定まっていればと思ったのだが、勝行を食べた血だまりの傍には彼女の姿はなくなっていた。
そう思ったのだが、目当ての人物は存外すぐに見つけることができた。
「見ツ、ケタ」
「ヒッ……!」
洋司だった化け物に気を取られていたせいだろう。音もなく、惠美は背後を取られていたのだ。驚いて振り向いた先には、あの長い黒髪の背中があった。大きな口がパカリと開いていくのが見えて、惠美はすぐに距離を取る。
向き合っていた足を反転させると、暗闇に包まれた廊下の先を目掛けて走り出した。
背後から近づいてくる足音は、ぺたぺたとゆっくり歩いている。けれど、なぜかその気配はその緩慢さに反して、猛烈な勢いで惠美へと迫ってきているのがわかった。
捕まると思った瞬間、咄嗟に後ろへモップを突き出すと、その先端が彼女の身体に当たったようだ。少しだけ距離が離れると、惠美は速度を落とさずに走り続ける。
しかし、そんな惠美の前に教室の中から飛び出してくる影がぶつかりそうになる。
それは、下半身だけになった化け物の勝行だった。
「や……っ!」
立ち止まれば確実に背後の少女に捕まるが、このままいけば勝行に食われる。
絶体絶命の状況だったが、惠美は走ることをやめなかった。そして勝行が目の前に迫った時、ハードル走のハードルを飛び越えるようにその下半身を飛び越えたのだ。
その際に牙が脚を掠めて、鋭い痛みが走る。着地の際にも太腿の怪我が痛みを訴えたが、それを気にかけてはいられなかった。
背後で少女と勝行はぶつかり合い、下半身だけの勝行の化け物は弾き飛ばされる。それでもなお、少女は惠美を追いかけてきていた。ほどなくして、廊下は突き当りにさしかかる。
そこまできてようやく、惠美は足を止める。突き当りの壁を背に、肩で息をしながら向かってくる化け物の背中に対峙した。武器もない、脚も痛みと恐怖で竦んでしまっている。
「見ツケタァ……!」
彼女は歓喜の声を上げながら、唾液を垂らす大きな口を目一杯まで開く。それが惠美の頭に食らいつこうとした。
その時、教室の入り口の影から何かが飛び出してくる。それは、息を殺して惠美の到着を待ち続けていた、春人の姿だった。
春人が待つこの場所に彼女を引き連れてくる、それが惠美の役割だった。
目の前の獲物を食らおうとしている少女は、そのことに気がついていない。
「っ……アウト!!」
惠美を食らう寸前の少女の肩に触れた春人は、腹の底から大声を上げてそう叫ぶ。
少女は何かを口にしている様子だったが、その言語は二人には聞き取ることができないものだった。
薄暗いと思っていた校舎の中、その景色が、次第にブラックアウトしていく。
やがて、春人の意識は完全に途切れてしまった。
「…………ん……」
目を覚ました春人の視界は、最後に見た時と同じように、真っ暗なままだった。
確かに瞼を持ち上げていることはわかるのだが、視線を巡らせても暗闇だけの世界に、自分は死んでしまったのかもしれないと思う。
けれど、春人は自身の頭に自分のものではない重さを感じていた。
恐る恐る触れてみると、それはよく覚えのある感触だった。
ゴーグルとヘッドホンを外してみると、現れたのは見慣れた自分の部屋だった。視界の眩しさに目を細め、何度か瞬きを繰り返して明るさに慣れた頃に、窓の外を見てみる。
すでに日は昇っているようで、時計を見れば朝の九時を少し過ぎたところだった。
パソコンを見ると、長時間触らなかったために自動的にシャットダウンされたのだろう。ゲームはいつの間にか終了した状態になっている。
(……夢…………)
少なくとも、数時間は眠っていたようだ。まだ回りきっていない頭で、夢を見ていたのではないかとぼんやり考える。だとすれば、とんでもなく悪趣味で縁起の悪い夢だ。
「……ッ、そうだ、惠美……!」
そこで、ゲームを終える直前の光景がフラッシュバックする。あれは夢などではない。自分は無事に現実の世界に戻ってくることができたが、惠美はどうなったのだろうか。
慌てて手に取ったスマホで、彼女に電話をかけてみる。
暫くコールを鳴らしてみるのだが、一向に応答する気配がない。まさかとは思ったが、嫌な可能性が脳内を駆け巡る。
スマホに出ないのならと、今度は彼女の自宅にかけてみることにした。すると、三度ほどの呼び出し音のあとに女性が電話を取った。惠美の母親だ。
「あの、突然すみません。ええと、俺、惠美さんと同じクラスの新沼っていいます。惠美さんに電話してるんですけど、繋がらなくて……」
「あらあら、男の子からの電話なんて珍しいわ。恵美がお世話になってます」
活発な恵美とは違って、どこかおっとりとした声の母親は呑気に挨拶をしてくる。今はそれどころではないのだが、事情を知らないのだから無理もない。
話がある旨を伝えるとすぐに彼女を呼んできてくれると保留にされた。
『一穂のお母さんから電話があって、昨日は家にいたのに今朝になったらいなくなってたって』
あの時の、惠美の言葉が脳裏に蘇る。スマホが繋がらなかったのは、惠美がそこにいないからではないだろうか?
母親は、まだ娘の部屋を見ていなくて、姿が消えたことに気がついていないのではないだろうか?
最悪の可能性ばかりが、次々と浮上しては春人の頭の中を埋め尽くしていく。
そうしているうちに、受話器から流れる陽気な音楽が途切れた。誰かが保留を解除したのだ。春人は思わず息を飲む。
「…………春人?」
聞こえてきた声は、間違いなく惠美のものだった。思わずその場に倒れ込みそうになるが、椅子に背を預けることによって辛うじて逃れる。
「お前……なんで電話出ないんだよ」
「ごめん、ヘッドホンしたまま寝てたから聞こえなくて」
そう口にする声は、確かに寝起きのようで少しばかり舌足らずなものに聞こえる。互いに安否確認ができたところで、僅かな沈黙が生まれた。急に現実に引き戻されたような状態で、すぐに頭の整理がつくはずもない。
それでも二人の耳に届くのは、あの恐ろしい隙間風や建物の軋む音ではなく、家族が動き回る生活音や、明るい鳥のさえずりだった。
「アタシたち、無事に戻ってこられたんだね」
「ああ……」
友人たちの犠牲を思うと、素直に喜ぶことはできない。それでも、現実の世界へ戻ることができたという事実を、今は強く噛み締めるべきだと思った。
あの時どちらか一方でも己の役割を果たすことができなければ、今こうして受話器越しに言葉を交わすこともできなかったのだろうから。
夏休みが明けて登校日になる頃には、学校から三人もの生徒が失踪したとあって、どこもその話題で持ちきり状態だった。
ニュースでも連日報道されているし、謎の多い神隠し事件として扱われている。
胡散臭い専門家だという人間が、好き放題に的外れな見解を述べているのを見ていられずに、テレビを消したことも一度や二度ではない。
春人と惠美は、失踪した三人と仲が良かったメンバーでもあることは知られている。事情を知らないクラスメイトたちに、事あるごとにうんざりするほどの質問責めを受けた。
校門の外を取り囲むマスコミから、執拗にインタビューを依頼されたこともある。
もちろん、一緒にゲームをしていたという履歴から、警察からも事情を聞かれたりした。しかし、二人は誰に聞かれても、何もわからないと返すしかない。
実際に何があったのかを話すことなど、できるはずもなかったのだ。
ゲームの世界であんな体験をしたなんて話を、信じてもらえるわけがないのだから。
実際に、あの恐怖を体験した自分たちですらも、あれが本当に起こった出来事なのか疑うことがある。けれど、友人三人は失踪したままで、惠美の脚には今でもはっきりと傷跡が残されていた。
あのソフトはパソコンからアンインストールをして、二人は二度とVRのゲームで遊ぶことはなくなっていた。
VRだけではない。普通のゲームをしていても、握っているゲームパッドの感触が、いつ消えるのではないかと気が気ではなかった。
それから一年半が過ぎて、世間の話題は少しずつ他のニュースへと移り変わっていく。
春人と惠美は無事に高校を卒業し、誰にも話せない秘密を共有したまま、別々の道を歩み始めた。
インターネットの掲示板では、VRの世界で心霊体験をすることができるのだという、まことしやかな噂が広まっている。その噂を信じてゲームをプレイする者もいれば、よくある怪談話だと取り合わない者もいた。
それが失踪事件に関連しているという者もいたが、どれも噂の域を出ないものばかりだ。
数年が経った今でも、ゲーム中だった若者たちが突然、不可解な失踪を遂げる事件が報道されることがある。
バーチャルかくれんぼ 真霜ナオ @masimonao
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