08:二人の決意


 図書室で耳にしたあの時と同じように、硬いものを砕くような咀嚼音が耳障りなほどに廊下に響き渡る。吐きそうになっているのか、惠美は自身の口元を両手で覆っていた。

 逃げ出さなければいけない。頭ではわかっているのだが、階段に伏せたまま二人は動くことができないでいる。


 どのくらいそうしていただろうか。咀嚼音が止む頃、廊下に倒れ込んだ勝行の下半身が突然ガクガクと震え出した。

断面が歪に膨れ上がったかと思うと、そこにはまるで芽が出るかのように鋭い牙が生え始めていく。やがて数えきれないほどの歯が生えそろうと、断面は口のような形に変形していった。


(ああ……そうか……)


 みんな、ああして化け物になっていったのだ。そして自分も、遅かれ早かれああして化け物の仲間入りを果たすのだ。

 廊下を伝い広がる血液が、階段の上から流れ落ちてくる。それをぼんやりと眺めていた春人だったが、不意にシャツを引っ張られて我に返った。大粒の涙を浮かべながら、惠美がこの場を離れようと促していたのだ。


 頼りきっていた勝行すらも殺されてしまったことで、すべての希望を失ったような気になっていた。

 けれど、そんな春人とは正反対に、惠美の瞳はまだ諦めてはいないように見えた。



 這うようにして階段を下りて、一番最初の教室へと戻る。そこにきて張り詰めていた気持ちが途切れたのか、惠美は声もなく泣いていた。春人もまた、壁に凭れかかって薄暗い天井を仰ぎ見る。

 非現実的な状況だけではなく、立て続けに目にした友人たちの惨たらしい死に様は、あまりにも精神へのダメージが大きい。


「俺たち……帰れるかな……」


 情けない問い掛けだとは思った。けれど、勝行ですら成功できなかったことが、自分にできるとは春人には到底思えなかったのだ。


「……帰れるかじゃなくて、帰るの」


 鼻を啜りながら、彼女はそう言い切った。鼻の頭は真っ赤に染まっているが、その瞳にはすでに涙は見られない。気持ちの切り替えの早さは、春人にとって見習いたい彼女の長所のひとつでもあった。


「帰らないと、こんなのみんなが浮かばれない。みんなの気持ちも背負って、アタシたちは帰るんだよ」


 その言葉の心強さに、春人の中にあった躊躇いも払拭されたように感じられる。このまま何もせずやられてしまえば、全員がわけもわからないまま無駄死にをしたということになってしまう。

 現実の世界に戻れたところで、この世界で起こった出来事を他人に信用してもらえるとは思えない。それでも、春人は彼らの魂と共にこの世界を抜け出すのだと、決意を固めた。


「……なら、作戦を立てないとな。多分チャンスがあるとすれば一度きりだ」


 惠美の方へと向き直りつつ、壁越しに外の様子を窺う。足音が聞こえているような気もするが、少なくとも今この近くに化け物はいないようだ。


「勝行もやられたから……アタシたちを探してる鬼は四体いるってことになるよね」


 四対二では、考えるまでもなくこちらが不利だ。油断すれば、いつどこで見つかってもおかしくはない。おまけに惠美は怪我をしているし、春人も逃げ足にはあまり自信がなかった。

 二人分の記憶を辿りながら、ここまでの状況を整理していく。


 あの女の子は、少なくとも走って移動するわけではないようだ。一方で、洋司だったアイツは走って追いかけてきていた。それでも速度は、全力疾走すれば追い付かれるほどではない。


 一穂だった化け物も、片脚を引きずっているようだったので移動は遅い方だろう。そして、勝行は上半身がなくなった状態だった。足が速かったとしても、比較的対処はしやすいように思える。


「万が一、見つかったとしても、かくれんぼはタッチされるまでが勝負だ」


 今回の場合、食われるまでの話ではあるのだが。せっかく高まった士気を下げるようなことをしないためにも、あくまでかくれんぼのルールとして話を進めていく。


「それでこっちも、あの子の背中にタッチするまでが勝負だよね。……正確には、正面なのかな」


 あの少女は、背中に大きな口があった。思えば最初に彼女を見た時にも、歩いてきた足は春人に踵を向けていたことを思い出す。

 背後から忍び寄ればいいと思っていた考えが、完全に裏目に出た結果が勝行の犠牲だった。


(もっと早く、そのことに気づけてたら……)


 勝行は死なずに済んだかもしれないし、三人の方が成功率は上がっただろう。

 悔やんでも失った友人たちは戻ってこないのだが、思い至らなかった自身への怒りに春人は唇を噛む。


「……なら、アタシが囮になる」


「は? 囮って、なに言ってんだよ。ダメに決まってるだろ」


 予想もしない申し出に、間の抜けた声を上げてしまった春人は慌ててそれを否定する。自分が囮役になるのであればまだしも、怪我人にそんなことをさせられるはずがない。

 けれど、惠美の決意は固いようで春人の言い分を受け入れようとはしない。


「あの子の背後に回るなら、足枷なく素早く動ける春人の方がいい。アタシは怪我してるけど……これでも陸上競技部所属だし、走るのは自信ある」


 確かに、惠美は陸上競技部の中でも期待のエースといわれているほど足が速い。怪我さえしていなければ、あの時も化け物から逃げることなど容易かっただろう。

 太腿に結ばれた布地には、まだ止まりきっていない血が滲んでいた。


「失敗することとか考えたくないけど、春人の足引っ張りたくない。全力で囮になるから、アンタも死ぬ気でアウト取ってよ」


 本当は惠美だって怖いのだろうが、気丈な彼女の言葉に逆らえるだけの理由は、春人の中には見つからなかった。ここまでくれば、何が起ころうと一蓮托生だ。どちらかが失敗すれば、恐らく希望は絶たれてしまう。


「……わかった。絶対アウト取ってやる、だから俺たちは一緒に現実に帰るぞ」

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