1 そして、郡元美麗は静かに笑った


口の中に残る得にも言い難い不快感を吐き出すように俺はため息を吐き出した。結局俺は、一限目の授業はそのままふけ、特別棟三階のいつもの非常階段に腰を据えていた。


呆然とくすんだ空を見上げると、一羽の小鳥が早々と横切っていく。

今、俺はひとりだ。この場にいることは誰の知るところにない。当たり前だ。俺は体調不良を理由に、一時限目の授業参加を拒否したのだから。


ただし、一限目の授業に出席できないということは、保健教諭の田端先生から担任にも伝わっているはずであるから名目上はサボりにはならない。逆に言えば、今頃本来の俺は保健室のベッドで寝ていなければならない存在でもある。もちろん、今俺が保健室を抜け出してまで屋上にてサボっている事を田端先生にバレた日には、大義名分はなくなり職員室でありがたい説教をされるのだが。


では、そんなリスクをおかしてまで俺がこんなところでひとり、寒風に吹かれているのかというと、その理由はただなんとなく、一人になりたかったから。

つまるところ気分転換である。


どこまでも広く高い空。その中を優雅に舞う鷹。優しくそよぐ風。物音一つしないどこか落ち着き払った空間。

そんなどこか気持ちの良い静寂も、一限目の終了を告げるチャイムが校内中に響き渡り終了を告げた。


そして、説教を恐れた小心者の俺が保健室に戻ろうと重たい腰を上げた、そのときである。


「こんなところにいたのね。探したわよ、サボり魔さん」

「うおっ⁉︎」


 振り向いたその先に、艶やかな黒髪を靡かせるえらい美少女が立っていた。それが郡元美麗だと認識して二度びっくり。なんでここにいるんだよ。ていうか、全然気づかなかったんですけど。足音も立てず近づいているとかまじ郡元さんくノ一すぎる。

腕を組んだ郡元が淡々と話しかけてくる。


「聞いたわよ、一時限目の授業を体調不良を理由に受けなかったそうね」

「……へ?」

 思ってもみなかった角度の事実を思ってもみなかった相手に告げられ、俺はついつい素っ頓狂な声をあげてしまった。そんな俺を尻目に、郡元は呆れたと言わんばかりにため息をついた。


「あなたの教室に行ってみれば保健室にいると言われ、保健室に言ってみればもぬけの殻。あなた、仮病を理由に学生の本文である学業を疎かにしてまで、いったいここで何をしていたの?」

「……そ、それは、き、気分転換?」


 ほんとうはただのサボりなんですっ! などと、堂々と宣言してられる勇気など俺が持ち合わせているわけがなかった。そんな度胸の「ど」の字もありはしない俺がせいぜいやってのけれるのは、言葉を詰まらせ尻すぼませゴニョらせて、視線を逸らしてごまかすことくらい。だが、目も前に立ちはだかる相手にそんなごまかしは無意味に過ぎないのだ。


「知ってるかしら? 人は自分にとって不都合な質問に応答するときは、思わず視線を逸らしてしまったり声が小さくなってしまうものらしいわよ」


 郡元は図星をつかれてぐうの音もでない俺に容赦無くたたみ込んんでくる。


「それに、体調不良者がこんな冷え込んだ場所にいること自体、ちゃんちゃらおかしいことよね。一限目の授業を体調不良を理由に受けることができなかったあなたがいる場所はここではなく、ベッドの上だと私は思うのだけれど?」


 理路整然とした質問攻めを前にもはや俺に弁明の余地はない。

サボりを暴かれ黙り込んだ俺に郡元はますます呆れ返る。彼女を前に、俺の策謀など意味をなさなかった。


「それで、一限目の授業をふけてまで、なぜこんなところにいるの?」


 いきなり確信をつく問いかけ。いかにこいつらしい問答無用っぷりだ。

しかしこの問いかけにはいったいどう答えたものか。ふと、今朝の光景が頭を過ぎる。


「……えーと、だから、その……」


 どもりながら、何か上手いごまかしはないかと頭を巡らす。ちらり視線を郡元に向ければ、裁判官の如く冷ややかな双眸がこちらを見下ろしていた。その瞳は嘘をついたら死ねと言わんばかりでマジ恐ろしすぎる。


「……えーと、だからこれはそのー……」

「その、何?」

「……なんつーか、その、授業を受ける気分が乗らなかったっていいますか……」

「要するに、サボりということよね?」

「……はぃ」


 言いながら、気づけば俺は南極に立たされているような錯覚を覚え、つい堪らず白状してしまっていた。や、やっぱり嘘って良くないと思うんですよ。常識的に。だからこれは別にビビって白状したってわけじゃないのよ? ほら、それに昔から嘘は泥棒の始まりっていうじゃない? 泥棒は良くないよね泥棒は。


「とどのつまり、あなたのそれは本当にただのサボりということね。呆れた」


 もうすっかり借りてきた猫状態の俺の頭上からは、郡元裁判官の容赦も情けもない判決が下されてしまう。無念すぎる。

 まぁでも、彼女の苦言に対して残念ながら反論できるような理由を持ち合わせていない俺は黙って聞くほかない。これで彼女に説教されるのも晴れて二回目となった。やったね。


まぁでも今もはっきり覚えている。忘れもしない。あれは、一度目は先週の土曜日。精神的に脆くなった俺が一種の気の迷いで赦されない過ちを冒そうとしたとき。彼女は本気で俺を叱ってくれた。空気のような存在だった俺を見てくれた。不思議なことに、今思い返すとくすぐったく感じるのはどうしてだろうか。

その喜びが表情となって現れていたのだろう。郡元の若干引いた声が冷たく屋上に響いた。


「あなた、説教されて笑顔になるってどうなの? ……マゾなの?」

「ち、違げぇよっ!」

「必死な否定……あなたまさか?」

「だからちげぇって!」

「じゃあ、何?」

「っ、こ、これは、その……なんていうか、その……ただ、嬉しかったっていうかなんていうか……」

「嬉しい? 説教されて? やっぱりただのマゾじゃない気持ち悪いわそれ以上近づかないで」

「いやだからそうじゃなくてだなぁっ!」


 郡元の本気で引いた声が俺のプレパラートより繊細な心を容赦無く抉ってくる。よく見てみると、心なしか、というかガッツリ俺から距離を取るようにして二、三歩後退していた。こちらに向ける視線はもう汚物を見るそれだ。

この由々しき事態にはさすがの俺も本気で焦り、弁明を尽くす。


「だから、これはその……」


 そう呟きながらもう言い繕えない俺は自分の心に目を向けた。すると、あの不思議な感情の答えは割と簡単に見つけることができた。しかし、いざ言葉にしようと思えば口下手な俺にはなかなか難しく、思うように言葉が出ない。

そんな俺の沈黙を、弁明の余地もないから黙り込んでしまったと判断した郡元が結論を出す。


「ふうん、答えられないってことはつまり、あなたやっぱりただのマゾだったのね」

「ぐぬぬぬっ……」


今日ほど自分の口下手さが恨めしかった日はない。こんなところで他人とのコミュニケーションを避けてきた弊害が出ててしまうとは。ありえん。まさに自業自得ここに極まれり。


いや、少し待ってほしい。だいたい、校内でもヒエラルキーの頂点に君臨する郡元相手に、その最下層を地でいきさらにそこでサンバを刻むような俺が口喧嘩を挑もうとする時点で間違っていたのだ。螳譬当車とうひとうしゃいいところである。


……はぁ、戻ろ。マゾ認定もされちまったことだし、これ以上この場にいようものなら俺のライフのほうが先に空中分解されちまう。こういう時は逃げるに限る。

そう思い至り、情けない俺は彼女の脇を抜けようとした。


「どこへいくのかしら? まだ話は終わってないわよ」


 潔く負けを認め、みっともなく立ち去ろうとした俺の背中に郡元の制止の呼び声がかかり、歩みを止める。……おいおい、まだ終わってなかったのかよ。どんだけ俺をいじめれば気が済むんですか?


そう言わんばかりに振り返ると、そこには平素の凛とした表情を湛えた郡元が真っ直ぐ俺を見つめていた。その視線に抗体を持たない俺の心臓が思わず高鳴るも、俺レベルにもなると持ち前の平静さを発揮して容易にこれを悟らせない。現に相対する郡元にも気づいた様子は見られない。郡元はいつもの調子で淡々と話を続けるだけ。


「ねぇ、そろそろ気づいたんじゃないかしら?」

「……何が?」


 ぶっきらぼうに言い返すと、郡元は口元に微笑を湛えた。ともすればそれは、迷宮入り目前の謎を解き明かした探偵が浮かべる全てを見透かしたような全能感的なものを感じる。そして、それがあながちそれは間違ではなかったことを、次に口を開いた彼女自身が教えてくれた。


「どうやらあなたも気づいたようね。あなた求めてきた『特別』というものが、一体どいうものなのか」


 俺たちの間に冷たい一陣の風が吹き、郡元の黒髪を静かに靡かせる。春の兆しなどまるで見えやしない乾いた空っ風だった。


「常に周囲からは関心を向けられ、剥き出しの感情を晒せれ、押さえつけられて、身勝手に特別扱いされる。息苦しくて、生きづらい、常に見えないナイフを喉元に突きつけられるようだったでしょう?」


そして、郡元美麗は静かに笑った。


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