3
背後から伸びる暖色の燈が徐々に角度を失い、閉ゆく扉と同時に私の視界は暗闇に染まった。両足から力が抜けるような感覚に襲われた。ふらふらと視界が揺らぎ、背後の扉に背中を預ける事で転倒を防いだ。このとき、身体が初めて緊張していたのを自覚した。
深く息を吸い込み、頭痛でも堪えるように目頭を押さえる右手は微かに震えていた。この右手は、つい今し方一緒にいたはずの彼の頬を打った右手だ。そして、依然この手のひらには、彼の頬を打ったあの生々しい感覚が明確に残存している。その感覚を打つ消すように左手で包み込むように握りしめた右手は、いやに冷かった。
「はぁ……」
自然と溢れた嘆息は自己嫌悪しているわけではない。悪いのは私ではなく彼のほうだ。明確な警告は示したはずだ。それなのに、何も知らないくせに、人のパーソナルスペースに土足で踏み込んで、勝手に羨んで、心にもない言葉をつらつらと宣ったあの男が悪い。薄情だった。生意気だった。無遠慮だった。だから悪いのは私じゃない。
顔を上げると、薄暗い暗闇が視界を覆っている。しかし、今は明かりをつけようという心持ちには至らな買った。
「……」
まぁ、確かに、私にも非がある事は否めない。100%彼が悪いわけじゃない。すべてのきっかけを生み出したのは彼なのだけれど、先に手を上げてしまったのは私のほう。このご時世、暴力は唾棄される行為だというのが世間の総意。その点を言えば、先に手を出した私の方が悪なのかもしれない。身勝手に苛ついて、感情を自制できなかったのは私のほう。幼稚で稚拙。自分はもう少し出来た人間だと思っていたのに、あの口先だけの言葉で無様に誘われ、乱され、逆上してしまった私は確かに未熟。……結局自己嫌悪だ。
「さて、これからどうしようかしら……」
真っ暗な天井を見上げて考えるはこれからとそれからのこと。
先刻、よりにもよって彼に暴かれてしまったのは、私のデリケートな一面だ。誰にも触れてほしくない、ともすれば知られたくもなければ見られたくもない、繊細で脆く儚いガラス細工のような私。
「ほんと、最悪ね……」
あのとき、帰る約束を交わさなければ——
あのとき、彼を探しに戻らなければ——
あのとき、彼の居場所を知る生徒に出会わなければ——
あのとき、彼と共に居合せた人物が彼でなければ——
脳裏を過ぎるのは全部、考えても詮なきこと。過程は過程、現実は現実、過去は変えられない。全部、私が決めた、私の選択がもたらした結果。だから私が受け止めければいけない、私だけはちゃんと受け入れなければいけない。
なのに、それなのに、どうして、どうして——。
「なんだ、帰ってきてたのか」
「父さん……」
不意にリビングのほうからかけられた声に顔を上げ、反射的に立ち上がると、黒いスーツを身に纏い紳士然とした男が私を見下ろしていた。不法侵入者ではない。少なくても外聞的にそうだった。
この鷹のように鋭い眼光と肌がひりつくような威圧感を持つ男は私の父親だ。
長年政界という荒野でライバル犇く熾烈な環境に身を晒し、培ってきた経験から生まれた刃物のように鋭い風格には一瞬怖気付いてしまう。
ついこの間、平凡な彼は私に対して他を威圧するカリスマ性を持っているとか言っていたけれど、目の前に立つこの男を前にすると全力で前言撤回するだろう。
彼の慌てふたく姿が脳裏に浮かび、私の心はわずかにゆとりを取り戻すことができた。
「今から、お仕事ですか?」
「ああ」
父は愛想悪く淡々と答えると、玄関のライトも付けずに靴箱から革靴を取り出した。靴べらをこなれた動作で扱い、メリハリのある挙動で革靴を履き終える。玄関の取手に手を掛ける。そして、体勢を維持したまま、冷ややかな声が玄関内に響いた。
「ところで美麗」
「はい」
「彼とはもう和解したのか?」
「……いいえ」
刹那、重苦しい沈黙が世界を席巻し、一呼吸空けてから——
「わかっているな。彼はいずれ宮浦家を継ぐ男だ。そしてお前は、そんな男の許嫁であり、将来を誓い合った私の娘……だった」
「……」
「だが現状はどうだ。お前の取るに足らんプライドが値千金である宮之浦家との縁談を白紙にし、私の立場も盤石とは程遠い薄氷を履むが如し」
「……っ」
「もう時間はないと思いなさい。世界君と和解できなかったそのとき、お前には、それ相応の覚悟をしてもらうつもりでいるからな」
その言葉を最後に、父は私の前から姿を消した。
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