突如屋上に現れた郡元が俺を解放してくれたのは屋上を出てからすぐのことだった。

 かくして現在の俺は「帰るわよ」と口にして以来一言も話さず帰路につく少女の背中を、一メートルほどの間隔を保ちながらとぼとぼと追っている。大事なのは周囲から見てスートカーに見えないくらいの間隔を保つことであり、なおかつ恋人関係にあると見せないさりげなさだ。言ってしまえば友達……くらいに見える程度がベストであり一番角が立たないはずだ、たぶん、いやわからんけどもそうだと信じたいです切実に。


 学校から歩いて約十五分。

 駅前の喧騒も徐々に間近に迫ったところに、彼女が日々生活の営みとして拠点を置いているマンションがその堂々たる偉容を現した。

 この辺では電波塔を除き一番高い建物ではないだろうか。マンガの擬音で表現すれば『ででんっ!』がもっとも適切だろう。というか、俺からすれば高層マンションに暮らす人間自体マンガのような存在だと思うし、現にそこに住まう彼女もマンガのような存在だからこれはもうあやかっている俺もおんなじなんじゃないの? ……ないか? それはないな。


 帰り道。ついぞ俺と郡元の間には会話らしい会話は交わされなかった。そして交わされないまま、なんなら視線も歩幅も合わないまま、彼女の住まうマンションに到着してしまった。


「じゃ、じゃあ、俺はこれで……」


 俺が彼女にそう切り出したのは、エントランスホール前の自動ドア付近でのこと。

 西の空を見れば薄暗くなり始め出した妖しい時間帯。帰宅を宣言するにはこの瞬間がベストだった。なんなら無事彼女を送り届けた今ならば逆に自然な流れまであった。

 その一方で、この微妙な空気から一刻も早く解放されたいと思う自分もいる。

 無論、彼女とは交わしたい話はたくさんあるにあるのだが。

 例えば、俺と別れた昼休みのこととか、なぜあのとき俺が屋上にいることがわかったのかとか、そして、宮之浦との関係とか——。


 具体的に挙げれば枚挙にいとまがない。いとまがないけれど、俺も時と場合くらいは考慮している。その結果が今問うのはいささか憚れてしかるべしだと判断したまでのこと。ほら、俺ってこう見えてすっんごいジェントルメンだから。ジェントルメン検定とかやらせたら一級だから。

 しかし、えてして現実とは非情なものだと相場は決まっている。

 例えばスポーツが全然できないゲーマーが、スポーツ系のゲームで誰もが慄くようなハイスコアを出したとする。けれどそいつがいざ現実で同じことをやってみたとしても、ゲームのようなハイパフォーマンスはできないのと同様に。


「どこへ行くのかしら」


 果たして、背を向け立ち去ろうとした俺の背中にそんな声が掛かった。繰り出そうとしていた足がぴたりと留まり、俺はその場に立ち尽くす。振り向きはしなかった。


「どこって、そりゃこのまま帰るに決まってるだろ」

「帰るの? どこへ?」

「そりゃ……、家以外ないだろさ」


 逆にそれ以外の選択肢があったら聞いてみたい。


「つまり、これからの予定は入っていないということね」

「は? ——っておいおいおいっ!」


 すべてを言い終える前に郡元に制服の袖を掴まれた。そして、半ば強引にエントランスホールに引き摺り込まれた。どういう状況!?

 ささやかな抵抗も虚しく、そのままエレベーターの中へといとも容易く押し込まれると、あれよこれよと彼女が住まう十階に連行されてしまう。

 いつかの聞き覚えのある機械音と共にドアは開かれ、郡元にされるがまま暖色が満たす世界へと誘われた。


 エレベーターはあれよあれよと上へ上昇していき、押し出されると目も前には相変わらず奥行きのある廊下が前後に伸びていた。床に敷かれた歩き心地の良いカーペットに、随所に置かれた調度品はいちいちオシャレである。これ盗まれたりしねぇのかなぁ……。まぁそれらを尻目に俺たちは一番端っこに位置する部屋の前に到着した。

 目も前に構えるやけに重厚な扉を備えた部屋の持ち主は、つい最近俺の恋人になった彼女その人に間違いない。正確には郡元の親御さんが家賃やら光熱費や水道代やらを払っているだろうが、その娘である彼女も暮らしているのだからほぼ同じことだろう。さすがは市議会議員を親にもつだけはあると思わず憧憬を抱く。


 一度はこんなマンションで生活してみたいが、この日本でも一握りの存在になられば難しいという事実がふと俺を現実に戻してくれる。……可能性はゼロではないと信じたいものだ。

 そんなことを考えると、ふと彼女の苗字である「郡元」に俺の思考は傾いた。

 それこそ今さらではあるが、俺は彼女の苗字である「郡元」には漠然とした既視感を覚えていた。だけどそれは幼い頃に耳にしたことがあるような、そんな曖昧模糊とした記憶の残滓と言ってもいい。

 まぁ、この歳まで生きていれば誰にでも起こりうることだ。それよりも今は、と俺は虚空から目線を一転させ、先ほどからごそごそと鞄を漁る郡元に視線を走らせた。

 正直言って、俺の目から映した今の郡元は、実に彼女らしくなかった。


「あーもうっ、どこにいったのよ」


 今の彼女からはいつもの悠然さを感じない。どこか粗雑な動作で鞄の中をまさぐり、いつまで経っても見つからない鍵に苛立ち募らせていた。


「……おい、そんなに焦ってたら見つかるもんも見つからんぞ」


 そんな彼女など見ていられずつい見兼ねた俺がそう声をかけると、郡元は苛立ちをぶつけるように「わかってるわよ」と素っ気なく言い放つ。その声はひどく冷淡で、一瞥してきた瞳には明確な敵愾心が込められていた。……ひょぇ、おっかな。

 まぁ、でも彼女には悪気もあるまい。俺はわかっている。

 きっと、ただ募りに積もった苛立ちが少しばかり漏れ出し、ちょうどこの場に居合わせた俺にぶつけてしまっただけのこと。言葉にすればたったそれだけの、些細で、単純な衝動で、気が立っているときは誰にでも当てはまる普通のことだ。

 けれど、善意から注意した俺からすると、彼女の反応はあまりにも面白く思えなくて。だから、気づいたときには彼女の売り言葉に買い言葉という最低なかたちで、先ほどまで蓋をしていた疑問がぽろりとこぼれ落ちてしまった。


「ところで、お前が昔、あいつと付き合っていたなんてな」

「……あいつって誰のことかしら?」


 鍵を探していた手を止め、郡元の氷柱のような視線が俺を射抜てくる。その切れ長の大きな瞳は「それ以上言葉にしようものなら容赦はしない」と言外にそう訴えかけてくるかのようだった。

 普段の俺ならば確実に萎縮し「すっ、すっ、すびばせんでじだぁっ!」と平謝りからの逃走コンボを決めていたこと間違いなし。

 けれど、今、この瞬間だけは、俺自身もわからない衝動が、俺をこの場に留まらせている。

 俺は郡元の射殺さんばかりの視線を正面から受け止め、言葉を続ける。


「さっき屋上にいたあいつだ」

「……」

「聞いたよ。全部ってわけじゃないけど…聞いた。少なくとも、今、お前がそんな風になるくらいのことは、聞いた」


 果たして、今度は先に視線を逸らしたのは郡元のほうからだった。その拍子に艶のある黒髪が彼女の頬を撫で表情を丁寧に隠してしまう。だから俺の位置からは郡元の正確な感情は読み取れない。

 もしかしたら泣いているんじゃないかという懸念が頭を過るたび、俺の良心はずたずたに引き裂かれそうになる。きっと、この先の問題は、彼女と出会って間もない俺のような奴が土足で踏み込んでいい領域じゃないということもわかっている。教えてくれたは、全部、屋上で見たあいつの顔と、今、目の前にいる彼女自身。

 だけど、それでも、それでも俺は、言葉にしなければならない。


「いやぁ〜、それにしてもまじで驚いたわぁ。いや、ほんと全然気づかなかったわ〜。まさか郡元が、あの学校一のモテ男と付き合っていたとはな」

「……やめて」

「同じ学校一同士、さぞお似合いのカップルだったんだろうなぁ。いやぁ〜一眼でいいからお前らが並んで歩いているとことか見てみたかったぜ」

「……やめなさい」

「何々、聞けば郡元さん、あなたと彼は元々許嫁だっけそうな? いや〜、ほんとすげよぇな。あいつの親って超有名貿易会社の社長だったろ。そんなお偉いさんと友好関係を築けていたお前の親御さんもまじすげ——」

「——っ!」


 刹那、制服が擦れる音と空気を裂く音が鼓膜を掠める。目を開ける前に痛烈な痛みが左頬を撃ち抜いたのはそんなときだった。

 俺が呆然としたのは一瞬だけ。自分が何をされたのかは、すぐに見当が付いた。最初からこうなることは覚悟の上だったのだ。

 打たれた左頬がじんわりと熱を帯びてくる。徐々に痛みを主張するこの感覚が、彼女の怒りを表しているように思えた。


 そっと目を開ける。案の定、目も前には明確な敵意を瞳に宿した郡元がきっと俺を睨め付けていた。

 ふと視界の端できらりと銀色の何かが煌めいた。それは彼女の左手に握られていて、その正体が彼女の家の鍵だということに気がついた。途端、その左手がおもむろに持ち上がる。無論、向かった先は当然玄関を開けるための鍵穴。一拍間を空けて、扉を開ける重厚な音が耳朶を打つ。

 そして、暗闇の中へと消えゆく彼女の背中。振り返えられることもない。ただ、緩やかに閉まりゆくその奥から、彼女の冷たい声色にそっと鼓膜を震わされただけだった。


「さようなら」

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