六限目が過ぎ去り、今日も今日とてつつがなく迎えた放課後。

クラスメイトたちがこれからの予定を語らったり、部活動の準備を整える最中、私は一人、今日も颯爽と教室を去る。


「あっ、郡——」


 去り際に誰かが私の背中に声を掛けようとしたけれど、私のほうが一足先に教室を出たため、その声は喧騒の中に紛れて消えていく。本当に大事な要件があるならばきっと追いかけてくる。けれど、その人物は追いかけてこなかった。要するにそれだけの話でしかなかったということだろう。


 静まりかえった廊下には私の足音だけを静謐に木霊させる。階段を下り、誰一人いない昇降口に足を向け、新品同様綺麗な上履きからローファーへと履き替え外へ出た。

身を切るような寒さに席巻された外気に身を晒すと、私は一息に校門へと足を繰り出した。


口から溢れる吐息は白く染まり、揺蕩うことなく冷風にさらわれては消えていく。所々網目の先がほつれたマフラーをくいっと鼻下まで上げると、幾分と寒さは紛れた気がした。

人影もない寂寞たる空間に包まれた校門にはすぐに到着した。平常とおりならばこのまま帰路につく流れ。けれど、今日はここで人と待ち合わせをしている。今日の昼休み、先に要望を持ちかけたのは私だから、このまま早々帰るわけにもいかない。

私は校門の壁際に背中を預けるようにして彼の姿をじっと待った。

 

「……遅い」


 一足先に校門に到着してから約二十分。待ち人は一向に姿を見せなかった。顔も名前も学年もわからない生徒たちは続々と校門を後にしているというのに、なぜか、彼だけ姿を現さない。


「まさか、忘れている……?」


 校門から今もなお吐き出され続ける生徒たちを矯めつ眇めつ眺めてみるけれど、平凡を絵に描いたような男子生徒の姿は一向に確認できない。


「どやらこれは、お仕置きが必要そうね……」


ぼそっと不平不満を漏らし、背中を預けていた石柱からそっと離れ、約三十分前に来た道をずんずんと引き返した。

その途中、何人かのクラスメイトたちとすれ違い、「あれ、郡元さん? さっき帰ったはずじゃ……」と、都度訝しげな視線を向けられる。けど、それらの視線は尽く振り切り私は昇降口に舞い戻る。


そうして二度目となる上履きに履き替えていたとき、階段のほうから幾つもの騒がしい足音が私の鼓膜を震わせた。

 無意識に足音が聞こえてきた方向へ視線を送ると、おちゃらけた容姿をした三人組の男子生徒がこちらに向かって走ってくるところだった。全員が全員見知らぬ顔。浮かべた表情は一様に必死であり、季節も季節だというのに額にはじんわりと汗を滲ませている。


……何事かしら?


 気になるのは、先ほどから異様に辺りを気にしているところ。いうなれば、誰かを探しているよう。


——まぁ、私には関係ないけれど……。


 所詮、他人は他人。今は自分の目的だけに集中しなければならない。

 そう思い至り、踵を返した私の名前がふいに背後から呼ばれたものだから、思わずビクッと肩を震わし情けない声を上げそうになった。誰よ……。

 じろっとなじるような視線を瞳にたずさえ振り向くと、直後「ひぃっ!」と情けない声がそれぞれ三つ、廊下に響き渡った。よく見れば先ほど忙しなく廊下を駆けていた三人組の男子生徒で。全員が全員どこか怯えたような表情で私を見ていた。


「……何?」


 冷たくあしらうような視線と声色を以って尋ねると、彼らの挙動は一斉にあたふたしたものに変わる。その姿はまるで蛇に睨まれた蛙のようでひどく滑稽だ。

身を切るような寒空の下、三十分以上もどこかの誰かさんのせいで待ちぼうけをくらわされていた私の機嫌はお世辞にもいいとは言えない。それにプラスα見知らぬ生徒に無駄な時間を浪費されていると思うと、彼られには悪いけれど不快な感情が心の底から溢れてくるというもの。


そんな彼らがお世辞に正常とは言えないまでも、私と会話を交えることが出来る態度になるまでたっぷり五秒ほど消費することになった。

その後、「あ、あの……」と三人組の中で茶色の髪を伸ばした男子生徒が小さく息を吐を漏らしたかと思うと軍隊員のような見事な直立姿勢を取り、意を決したように口を開いた。


「あ、あのっ! そのっ、えーっと、こ、郡元さん、ですよねっ!」

「……そうですけど、何か?」

「あっ、いえ、そのっ……じ、実は俺、あ、あなたのファファンなんですっ!」


 ……ファファン? 何よそれ? どこかの民族かしら?


 聞き慣れない単語に私は思わず戸惑ってしまった。眉根を寄せ、顎に手を当てファファンなどという言葉を過去に聞いたことがないか脳内エンジンを働かせる。


「ばっかお前っ! いきなり何言い出すんだよっ!? 死にてぇのかっ!」

「はっ、し、しまったっ! 俺はなんて事をっ! 郡元さんを前にしてつい自らの欲望がっ!」

「気持ちはわかるっ、わかるが今はそんなこと言ってる場合じゃねぇだろっ! 気持ちはわかるがっ!」

「そうだ、今はそんなアホなこと言ってどうすんだっ! アホなのかお前は! いや事実アホだけどっ!」


 私が熟考している間に外野が何やら騒がしい。煩わしげに視線を向けると、意気揚々と発言した真ん中の男子生徒の頭を後ろに控えていた二人が何やら慌てふためていた様子でひっぱ叩いていた。ぺちんっと鞭で素肌を打ったような快音が昇降口中に反響していた。


……何の漫才を見せられているのかしら。


ふと、叩かれた茶髪の男子生徒と目が合った。途端、彼の顔が真っ赤に染まっていく。


「お前っ! 郡元さんにダセェとこ見られたじゃねぇーかっ!」


怒りを通り越して呆れ切った私の前であろうことか茶髪の男子生徒が二人に反撃に転じ始める。瞬く間に三人の諍いは、幼稚な言い争いから稚拙な取っ組み合いへと変遷へんせんしていった。


 ……完全なる時間ロスね。


もはや相手にするだけ時間の無駄、そう判断を下した私は早々に彼らを見限り踵を返す。

まさにそんなときだった。

まさか、彼らの口から私の探し人たる名前が出てくるとは——。

私は深く大きく嘆息を吐き出した。

彼らと質疑応答を交わすのには覚悟がいる。

そうやって覚悟を決め直した私はもう一度踵を返し、そして今もなお取っ組み合いを続ける馬鹿三人組に冷たく言い放つ。


「あなた達、今の話、もう一度聞かせなさい」


 冷え冷えとした廊下の中に、さらに冷え冷えとした私の声がよく通った気がした。


×


俺が目の前に立つ男、宮之浦世界について知っていることはそう多くはない。むしろその全部が風の噂だと言っても過言ではないと思う。

バスケ部のエースで次期部長候補だとか。

持ち前の爽やかなルックスで数多くの女子からモテまくってるとか。

気さくで優しく誰にでも平等に接する姿勢が後輩からもよく慕われているだとか。


かてて加えて、その出自もご立派らしく、親はなんでも世界的貿易会社の社長であり、祖父はその会長であるらしい。

耳にする外聞のその子如くが好評。

クラス内での評価も上々。

教師陣からの信頼も厚い、まるで隙のない、完璧超人を絵に描いたような男である。

そう、言うなれば、あの、郡元美麗のようだ。


しかし、そんな男が、今、俺の前に立っている。

百八十度異なる俺のような奴と、だ。

そして、そいつはつい今し方、立って振り向き、視線を交わし、こう尋ねてきた。


もちろん、俺からも君に、聞きたいことがあったからさ——と。


「聞きたいこと、ね……」


 爽やかな笑みを携え、右手を腰に付くように立つ宮之浦。こちらを見据える涼しげな目には、確かな好奇心と興味が浮かび上がっている。


「それって良い事か、それとも悪い事だったりするのか?」


 俺が悪戯にそう尋ねると、宮之浦はわずかに苦笑を湛えながら肩を竦めて首を振った。


「俺は君じゃないからな。君にとってそれはいいことでも俺にとっては良くないことかもしれない、その逆もまた同じことを言える」


 だろ? と宮之浦は片目を瞑って俺に同意を求めてくる。

 俺はその同意に首を縦に振ってその答えとした。

 宮之浦の主張はもっともだ。人には人の価値観というものが存在し、自分だけの物差しでたくさんの物事を測り、それに伴って行動に移している。そこに一つだって同じ尺度はない。世の中には十人十色という言葉もあるくらいだ。みんな違ってみんないい。世界はそういう風にできているのだから。もしそうでなければ諍いや揉め事、喧嘩や戦争なんて悲劇はおきやしないはずだ。

 宮之浦は俺の返答に満足げな微笑をその口元に湛えると、腰をついていた右手を真っ直ぐ伸ばし、誠実さを宿した瞳で俺を見た。


「俺から聞きたいことは今朝と同じだ。君は、本当にあの郡元美麗と付き合っているのかい?」


 宮之浦の幾分と感情のこもった声がやけに屋上に反響して聞こえてきた気がした。ゆるゆるとそよぐ寒風が限りなく金髪に近い髪を揺らした。


「今朝は思わぬ邪魔が介入してきたせいで君からの言質は取れなかったからな。で、どうなんだ、あの子と君は、……本当に恋人同士なのか?」


 あの子、ね……。

 郡元をそう呼称する宮之浦の瞳には一瞬、憂げな色が浮かんだのを俺は見逃さなかった。判断に難しいのは、その憂いはどちらに向いているのか。俺か、彼女か、はたまたその両方か、それ以外の第三者か……。

他にも気になることは俺にはある。


「その質問に答える前に、俺からも一つだけ、聞きたいことがある」

「なんだい?」

「仮にお前が俺の答えを知ったとしてどんな意味がある? もし本当に俺と彼女が付き合っていると仮定して、お前には一体、どんな不利益がある」

「不利益、か…。なるほど、これは面白い質問だ。いや、うん、君はそういう男だった」


 宮之浦は納得したような声を上げ、顎に手を当てがいうんうん首を縦に振りながら相互を崩す。様子を見るかぎりでは、今のところ明確な嘲笑も自嘲も卑下すらもまったく感じ取れない。心の底から愉快そうに笑っているのだとわかる。


……ったく、こっちは大真面目だってのによ。


 思うに、どうもこの宮之浦世界という男にはどの場面においても緊張感というものを感じない。欠如していると言ってもいい。これまで約九ヶ月間、クラスの端っこからクラス内を見てきた俺にはわかる。いや、クラスの端から見てきたからこそわかる。


 例えば定期テスト前の準備期間だったり、体育祭で行われる徒競走本番前も、文化祭で劇の主役を演じる直前の舞台裏だってそうだ。ロードレースのスターターピストルが鳴らされる刹那だって、この男はいつも楽しそうな笑みを湛え、その場のその場の緊張感というものを楽しんでいる節がある。


そして、交渉ごとや謀を行う際にこういう手前を相手にするのが一番面倒なのだ。

緊張を、自らの意思だけで掌握するのはそう簡単なことではない。一流のスポーツ選手でも難しかろう。逆に言ってしまえば、緊張さえ掌握すれば、それだけ最大の武器となり得るということ。 

どういう因果か、俺は今、そんな面倒な性質を持った男を相手している。そんな奴だから、どんな意図が質疑に隠されているのかわからない今、慎重にならざるおえないのも致し方ないだろう。


「……随分と、愉快そうだな? それに、お前に俺の何がわかるってんだ?」


直感的に思う。俺は、周りの連中が言うほどに、この男のことを好きになれそうもないことを。

どうしても気に入らないのだ。すべてを見透かしたような視線が、にやにやとこちらを見定めるような、そんな視線が。


「いや、別に言ってこれといった悪気はないんだ。でも、君の癪に触ったのなら、謝るよ」


 言って、「すまない」と宮之浦は何の躊躇もなく頭を下げてきた。それを俺は眉を顰めて咎める。


「やめろ、そう簡単に頭下げんな。なぜか俺のほうが悪いことしちゃったみたいになるじゃねぇか。……ったく、ほんとやりずれーなぁ」

「ん? 最後、なんか言ったか? 小さくてよく聞き取れなかったんだが」

「……何も言ってねぇよ」

「そうかい? いや〜、君はほんとやりづらいね」

「っ!? き、聞こえてんじゃねぇか!」

「ぷはっ、いやいやわるい悪い。一度、こういうのやってみたかったんだ」


鈍感主人公みたいな? とか言いながら宮之浦はけらけらと実に楽しそうに笑いやがる。闊達な笑い声が薄暗い空の下によく響いた。……ったく、マジでやりずらすぎだろこいつっ! そういうのは内輪ノリだけにしろっての。


 はぁ……。疲れた。どっと疲れた。これは早急に帰宅し、熱い湯船にでも浸かって溜まりに溜まった疲労をどうにかしなければなるまい。これ以上、この男に付き合っていたら帰宅するころには白髪が増えてそうだし……。

そのためにも俺はこいつの用件を颯爽と済ませる他あるまい。

俺は重たいため息を一つ吐き出し、そして俺はその勢いのままついぞその言葉を口にしてやった。


「……俺と郡元が付き合っているのは事実だ。これで満足か?」

「……そうか」


 俺の明確な返答を受け、宮之浦は静かに笑い、そして、きゅっと踵を返し、そのまま屋上を取り囲むフェンスに向かってその足を繰り出した。

俺はそんな後ろ姿を訝しげに追った。一歩二歩、と繰り出されるその足取りに一切の迷いはない。

宮之浦がフェンスに到達する間、屋上には沈黙が流れた。そして、その沈黙は破り去ったのもまた、網目状のフェンスに右手を添え、屋上から一望できる街並みを目下に眺めた宮之浦だった。


「大変だろ? あの子の隣に立つのは」


 自嘲を交えた宮之浦の声が屋上に吹く風に乗り、俺の鼓膜を震わせた。

宮之浦は振り向かなかった。一切、振り向こうとせず、ろくすっぽ俺の返答も聞かず、まるで独白するかのように、つらつらとその先の言葉を紡いでいくのだ。


「君がどれくらいの期間あの子と付き合っているのか、俺は知らない。けれど、今の君があの子に抱いている気持ちはわかる」


 そして、おもむろに振り返り、彼は言った。


「なぜなら元々そこに立っていたのは、俺だったんだからな」

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