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——今日の昼休み、特別棟三階の非常階段まで来れる?
そんな突拍子のないメッセージが俺の携帯に届いたのは、四時間目の授業が終了する十分前の出来事だった。
昼休みが始まる十分前ということは、当然そのメッセージが送信された瞬間は四時間目の最中である。
仮に携帯の消音モードをオンにしていたのなら……そう考えるとゾッとする行為だ。もしかしたら今ごろは危うく教師の前で泣きっ面を晒していた可能性だって十二分に考えられる非道で悪質な行為とも言える。
一応、我が校の校則における決まりでは、携帯の持ち込みは許可されている。されているのだが、間違っても電源だけは切っておかなければならないという鉄則も同時に存在するのだ。そのため、授業中に先ほどのような通知音諸々電子音が鳴ろうものなら即刻楽しい楽しい犯人探しの幕は切って落とされることになる。
そうなってしまえば最後。俺たち校則違反予備軍に残されている道は、血を血で洗う壮絶な沈黙合戦。教師の燃え盛らんばかりの激怒に当てられながらもそれをひたすら耐え抜き、ときには潜り抜け、涙をこぼさんとも生き抜かなければならない。
ここで大切なのはHave toではなくMustだということ。まぁでも結局、最後の最後は自分自身は己で守るほかないように、自分の正当性も自らで貫かなければならない。喩えそこに尊い犠牲が生じようとも、俺たちは自分の正当性を貫き通さなければならないのだ。そうでなければ職場から親が飛んで来ちゃうしね☆ うぇっ、考えただけでもゲロ吐きそう……。
問題は、そんな非常識な行為を行ってきた輩がどこのどいつだということだ。
そして件のそいつは今、指定通り特別棟の三階に位置する非常階段で項垂れている俺の下へと向かってきている最中である。
項垂れている理由はもちろん、昼休みになった途端ハイエナの如く群がってきたクラスメイトたちの包囲を出し抜き、命辛々ここまでやってきたからに他ならない。おかげで購買のパンすら買えていない。昼食は諦めなければなるまい。なんで俺がこんな目に……。
てか、あいつらってマジ容赦ねぇーよなおい。
当然、あいつらとは俗にいうクラスメイトであり俗物的な話好きであるハイエナたちのことであるのだが、あいつらがとかくすごいのだ。言うなれば風林火山。
俺が学校一の美少女さまと交際しているという噂を風の如ごとく聞きつけ、嗅ぎつけ獲物が罠に掛かるまでは林の如く待ち、罠にかかったかと思えば火の如く群がり騒ぎ立て、獲物が情報を吐き出すまで絶対に退かないというスタンスはまさに山の如し。
あっ、ちなみに風林火山にも続きがあるのだが、難知如陰と動如雷霆——この二つの兵法は彼の戦国武将、武田信玄の軍旗に使われていないから今日のところは省略させてもらった。もっと詳しい説明すれば、この旗差物に刻まれし兵法は元来孫子という中国の春秋時代に生きた武将、孫武が記したと言われる「孫子の兵法」に記述されているのだが……どうやら、待ち望んでいた主役のご登場のようなので、このうんちくは一旦お開きとする。
その小気味良い足音はリオリウムの床を一定のリズムで鳴らし、乾いた冬の空気の振動がその音を風に乗せて俺の耳朶を打つ。
そして、その足音が俺の背後で止まったのと同時に、「お待たせ」とやけにフランクな言葉が俺の背中に投げかけられた。
訝しげに振り返ると、そこには凜然とした表情で俺を冷たく見下ろす美少女が一人。からっ風に煽られた艶のある黒髪を右手で抑えながら悠然と立っている。不覚にもそのグッドルッキングな光景に目を奪われそうになる。しかし、俺はなんとか鋼の理性でそれを抑え紙一重に回避。あっ、風が。スカート捲れねぇかなぁ……。まぁ、捲れたところでストッキング履いてるから意味な……いやそれはそれでありですねっ!
「待たせたわね、私の従僕——じゃなくて湯之元くん」
「あれ今、従僕って言いかけなかった?」
「……気のせいよ」
俺は即座に不埒な考えを捨て、懐疑のこもった視線を郡元美麗にぶつける。すると、彼女はぷいっと視線をあらぬ方向へ逸らしやがり自らの言い間違いをごまかそうとする。結構。大いに結構である。こいつが内心で俺をどういう目で見ているのかわかったし俺が悲しいだけだからなっ! あれ、おかしいな。なんだか目から汗が……。
そうやって目頭を押さえていると、ふとそれは俺の視線の中に入ってきた。
それ、とは郡元の右手に握られた少し大きめランチバックである。デザインもシンプルでかつ機能性に優れていそうな、如何にもキャリアウーマンが好みそうな代物であった。
「ああ、これ?」
俺の視線に気づいた郡元が右手に持ったランチパックを胸の高さにまで持ち上げて見せる。俺が一つ頷くと郡元は見事に俺の疑問をスルーして、視線をわずかに右へと動かした。ん? どいうこと?
とりあえず視線を追っていくと、そこには当然白い塗装が施された無機質な壁がある。一応上から下へと視線を這わせてみるが、やはりそれはなんの変哲もないただの壁である。……ふむ、なるほど。マジでわからん。
そう思って振り返った俺の頭からぺちっと間抜けな音と共に少しばかりの衝撃が駆け抜けていったのはそんなときだった。
「へ?」
俺の素っ頓狂な声に遅れて呆れ切ったため息が頭上から吐かれる。その正体などもはや確認する必要はない。視線を上げる。やはりそこには憮然とした表情で俺を見下ろす郡元がいた。その目には察しの悪い奴は死ねと書いてあった。理不尽っ!
「そこ、どきなさい。私が座れないじゃない」
冷淡な声で指示されて俺は初めて彼女の意図に気づく。おずおずと尻を引きずるようにして壁際まで寄せると、フローラルの香りがふわりと鼻腔を掠めた。
ちょうど人一人分入るかどうかの隙間に腰を据えた郡元は、ぎょっとする俺など眼中にないといわんばかりに、至って平然とした素行でランチバックをごそごそと漁り出し始めた。
途端、俺はすべてを悟った。
キーワードは二つ。無論、ランチバックと彼女。
そして、この二つから連想させられる物などこの世にそう多くは存在しない。
俺は信じられないものを見るかのような目で郡元を見た。
「ま、まさか、お前っ、それはっ!」
人知れず驚愕する俺を横目に、郡元は口元に淡い微笑を湛えた。
こちらを一瞥するその瞳からは称賛の色を感じ、俺は疑念を確信へと変えた。
そう、正しくそれは、もはや都市伝説とばかり思っていた彼女からの手作り弁当っ!!
そうして、彼女のランチバッグの中から出てきたのは、どこかで見たことあるような質素なプラスチック製の弁当容器だった。
その表面にはしっかりとした印字で「幕の内弁当四百三十円プラス税込」と記されてあった。
ん? こ、これは……?
予想外の出来事に固まる俺の横で、郡元は妙に勝ちを誇った表情で浮かべて言った。
「いったい、いつから私が手作り弁当を作っていると錯覚したのかしら?」
それはないって郡山さんそれはないよ……。
×
結論から言うと幕の内弁当はうまかった。郡元の手作り弁当は食べることは叶わなかったものの、昼食までありつけるとも思っていなかったので正直とてもありがたかったのだが。
難点を挙げるならば、飲み物がなかったのと場所が場所だけにまぁまぁ寒かったというところだろう。
けれどまぁ、考えてみれば二人でいるところを目撃されてわちゃわちゃ騒がれるよりかはよっぽどマシだったとも言える。それに、寒さ自体は隣に座った彼女のおかげもありそれほど苦ではなく、逆にちょっと得した気分まであった。俺はこのとき人肌の温もりを久しぶりに実感した。
その弁当と人肌の温もりをくれた当の本人は、コンビニで買ったと思われるサンドウィッチをもしゃもしゃと咀嚼して、最後の一切れを小さな口の中に放り込む。しっかり三十回ほど咀嚼したあとランチバックからおもむろに取り出した水筒のお茶でほっと一息。
小さく吐息を漏らしたあと、彼女はそっと口を開いた。
「それで、どうだったかしら?」
「……突然えらい抽象的な質問がきたもんだ」
彼女の質問には大切な「何が」が抜けてしまっている。思わず苦笑を漏らす。しかし、郡元にはそれ以上答える気はないらしく、俺を軽く一瞥したあと、その視線はすぐに手元のお茶に戻った。一々わかっていることを言わせるなとその瞳は語っていた。
だから俺なりに彼女の意図を解釈し、俺なりの答えを提示することにした。
「……まだ、なんとも」
「そう……」
そこで一旦会話のキャッチボールは途切れ、五秒ほど間を置き、今度は俺のほうから問いかけてみることにした。
「そっちはどうなんだ?」
「どうって、何がかしら?」
手元のお茶に視線を落としながらそう口にする彼女の口元は悪戯っぽく歪んでいる。どうやら先ほどの仕返しをされているらしい。見かけ通り、郡元さんは負けず嫌いでいらっしゃるようだ。ひどくめんどくせぇなおい……。
「……お望みの平凡とやらは手に入れられたのか?」
「……どう、かしらね。私もまだなんとも言えないわ」
「そうか……」
昨日、俺と郡元が互いの利害を求め差し出し合った『特別』と『平凡』。あの日からまだ一日も経過していない。今はまだ、互いに判断に困るといった具合だろうか。
「ただ、妙にクラスメイトたちがそわそわしながらこっちを見てたわね」
その情景でも思い浮かべているのか郡元は小さく笑っていた。
「話しかけられなかったのか?」
「ええ。中には話しかけようか迷っていた子もいたけれど、結局は誰も……」
ややもすれど人の恋路というのは人の興味をそそりやすい。だが一方で、人を選ぶ傾向にある。それがこれまで圧倒的な人気と注目度を博してきながら、誰とも色恋沙汰を起こしてこなかった彼女ならばごく自然な流れとも言えるだろう。当然、それに比例して周囲の戸惑いも大きくなり、その分だけ周囲はその話題についてアンタッチャブルになる。
気になるけど話しかけられない。もし自分が話しかけて地雷でも踏んでしまったらどうしよう……そんな漠然とした不安が不安を呼んで、彼女の周囲の人間に伝染しているのかもしれない。
「けれど、湯之元くんのほうはそうともいかなかったようね」
「……」
郡元の的を射た発言を受け、朝の出来事を想起させられた俺の表情は自然と苦々しいものへと変わる。周囲から反応を窺われていた彼女に対し、俺への周囲の反応はハイエナの群れが餌に群がるに等しいほどの激変っぷりだったのだから。
俺は、このあと教室に戻った際に訪れるであろうあの地獄を想像し、思わず身を震わせるのだった。
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