1 いつまでも湯之元新汰は探し続けている
学校一の美少女の恋人という特別を手に入れた翌日の朝は、それを手に入れる以前と何も変わらず、これといった夢も見ず、平気な顔をして俺の前へとやってきた。
いつもと変わらない時間に、いつもの目覚ましで起床しては母親が作り置きしてくれた朝食に手をつける。そして、十一月から変化のない制服に袖を通し、平時とおりの時間に家を出た。
家の外に出ると、師走の時期相応、外気は身を切るように冷たい。今にも泣き出しそうな空にはどんよりと薄暗い凍雲が覆っている。このまま雨が降ればいずれ氷の結晶に変わるかもしれない。
そんなことを考えながら少し早歩き気味で通学路を進んでいると、ちらほらと同じ制服に身を包んだ生徒たちが散見できるようになってくる。もう少し道なりに歩いていくと、歩道には生徒たちで溢れ、喧騒はより一層増していく。その足取りはある一点に向かって続々と吸い込まれていく。そのなかには友人と肩を寄せ合い語らう者もいれば、部活の後輩に元気よく挨拶される者やされる者もいて、なかには恋人同士で手を握り合いきゃっきゃうふふしている奴らもいたりする。……朝からイチャイチャしてんじゃねぇよなめとんのか。
繋がった手の間をぶち抜いてやろうかという衝動を何とか抑え込み、俺も他の奴らと同様に校門を抜け、昇降口で上履きに履き替え教室を目指す。
そうやって、いつもと変わらない平凡な日々がまた始まるのだと——そう思っていた俺の日常は、教室の扉を開けたその途端、一変したのだった。
手始めに、扉を開けた俺に向かって浴びせられたのは、数多なる視線の数々だった。ざわざわ喧騒に満ちていたはずの空間が水を打ったように静まりかえる。
「……」
瞬きを数回、周りをきょろきょろ見渡すと、背後から入ってきた少しチャラめなクラスメイトに睨まれた。怖っ。誰こいつ……。いや、確かこいつは……誰だっけ? 大塚くん? 山塚くんだっけか?
そうやって考えていると、大塚くんやら山塚くんやらわからんクラスメイトの瞳から邪魔だから早く退けよという強い意思を感じた。
なるほど、注目の的はこいつだったか……。
原因も無事究明されたところで、俺は悠然と自席を目指す。しかし、以前教室内は静まり返ったままで——。
俺はどこか異様な空気に包まれた週明けの教室に戸惑いを感じつつもいつも通りど真ん中に位置する自席に腰を据え、鞄を机横のフックに掛けてからふぅっと一息つく。
平時とおりならばここで文庫本を取り出し読書にしゃれ込むか、机に顔を伏せ寝たふりを決め込むか、ここではないどこか遠い世界へと想いを馳せてぼぉーとするかの三者一択なのだが……しかし、これいったいだどういうことだ?
「……」
摩訶不思議なことに、この教室に足を踏み入れたときから感じていた針の筵のような視線が、あろうことか一向に俺から消え去ってくれないのだ。そしてその視線に宿る感情はみな好奇に満ち溢れているか、はたまた強烈な敵意や嫉妬に荒れ狂っているように感じるのだ。
けれど、だからと言って特定の誰かが話しかけてくることはない。周囲からは話しかけたそうな空気は感じるものの、誰もが様子を窺っているというか、タイミングを見計らっているような感じ。
まぁ、相手は伊達に八ヶ月という長い期間を空気のように過ごしてきた男である。そんな奴に今さらなんて声を掛ければいいのか困窮してしまうのもわからなくもない。俺だってそんな奴がいたらおんなじ態度になる自信あるわ。いやまぁそれが俺なんだから泣けるんだけど。
だがまぁ、そういった奴らもいる一方で、なかには明らかに敵意剥き出しの視線を送ってくる輩もいる。
いくつか例を挙げるのであれば、いつもは大人しくてみんなに優しいあの田中くんは、教室の隅っこから親指を噛み噛みしながらチワワの亡霊にでも取り憑かれたような目で俺を睨め付けてくるし、斜向かいに座る丸坊主でぽちゃっり体型をした愛されキャラの真鍋くんなんていつもは開いているのかいないのかよくわからない細い目をカッと見開き俺を凝視してきている。おい、その顔弁当のおかず取りこぼしたときと同じ顔じゃねぇか。
閑話休題。
まぁ、なにはともあれこの状況はおかしい。明らかにおかしい。さすがにおかしすぎる。何が一番おかしいかと言えば、今やこのクラス内にてこの俺が台風の目みたいになっていること事態がもう異常で非常事態なのだ。もともと居づらい教室が今やそれに拍車をかけて居づらいってもはや拷問かよ。まるで俺だけが違う世界に入り込んでしまったような疎外感というか違和感とでもいうのだろうか。
とにもかくにもこのまま教室に居れば、俺の精神には多大なる支障がきたしてしまうことだけは明白だった。世の中には思い立ったら吉日という素晴らしい言葉もある。だからこれは逃げではない。そう、言うなれば戦略的撤退である。
そうやって誰に聞かせるわけもない戒飭を唱えながら、俺はおもむろに椅子から腰を上げる。
そして、視界の左側の方から俺に話しかけてくる奴が現れたのは、まさにそんなタイミングだった。
「なぁ、ちょっといいかな?」
えらく優しげな声に誘導されるがままに向けた視線の先に立っていたのは、限りなく金髪に近い茶髪をした一人の男子生徒だった。その甘い顔立ちは嫌味かってほど眉目秀麗で、なおかつ百八十センチほど近い長身を持っているというもはやどこぞのチート野郎、もとい爽やかイケメンである。
ちなみにその名前も秀でた容姿に負けず劣らずスタイリッシュで。
「……何か用か、宮之浦世界」
「おいおい、今さらフルネームはよしてくれよ」
……おいおい何だこいつは。眉根を下げてはにかみながら頭を掻く姿すら絵になってやがるぞ。俺は内心、彼我の戦力差に愕然とした。
「……んで、何か俺に用か?」
肩を竦めて謝罪の言葉を述べてから再度宮之浦に尋ねた。
本当はもう少し派手で嫌みな言葉の応酬をかましてやってもよかったのだが、なにぶん今の俺は教室のど真ん中で会話を交わすというある種の異常事態の渦中にいる。ましてやその相手はクラスの中心に君臨するプリンスときた。平凡を地でいく俺には武が悪すぎ相手だ。そんな相手に対して嫌味を言う勇気など、俺は持ち合わせていなかった。
宮之浦は少し周りを気にするように視線を配りながら、「いや、実はさ、一つ君に聞きたいことがあるんだけど……」などと、お決まりの前置きをしてから、果たしてその言葉を口にしたのだった。
「君、郡元さんと付き合ってるって噂、あれ本当なのか?」
途端、誰かが息を呑む音がした。それが俺だったのか、はたまた目の前に立つ宮之浦なのか、それとも教室内いる誰かだったのか。その正体を突き止めることはできないけれど、一つだけ確かなのは、教室中の奴らの誰もが俺たちの会話に注目し、聞き耳を立てているということ。……えぇ、なに、この状況? ってかこいつ今なんて言いやがったんだ?
水を打ったように静まり返った教室内。ここまであからさまならば嫌でもわかる。どういうわけか、今、このクラスの中心になっているはやはり俺だということはもはや疑いようがない事実だった。
俺は、一度短く息を吐く。冷静な自分を取り戻すために。
そして、もう一度言われたことをきちんと思い出し、加味し、果たして俺の体は綺麗に硬直したのだった。
「なぁ、どうなんだ?」
全身から血の気引いていくのを自覚した。
「あの郡元と付き合ってんのか、それともデマなのか、どっちなんだ?」
もう間違いない。こいつは、いや、こいつらは俺と郡元の間に起こった事情を知っている。
「…………」
冷や汗が止まらなかった。いや、誰が俺と郡元の関係を白日の元に晒したのかなどあの人物以外考えられないからそれはもういいとして。
問題は、九分九厘この数日間のうちにあった彼女との出来事を俺の口から漏らしてしまえば最後、このクラスの中での湯之元新汰という存在の決定的な何かが変わってしまう。
いや、でもその何かを求めたのは俺であり、そのきっかけを掴んだのも俺だ。
全部、俺が望んでやったこと。……当然、俺の中でも受け入れる覚悟というのはできている。
拳を握りしめる。舌は渇き、潤いを求めた喉が鳴る。暖房の駆動音がやけに大きく聞こえてくるのは緊張しているからか。だから、律動を刻む音がこんなにも高らかに鳴り響いている。
そう、言わばこれは、平凡な俺が歩む第二章を告げる梵鐘。
その美しき鐘の音を、今、俺は盛大に響かせるときがきたのだ。
「ま、まぁ、いち、いちおう? そ、そういうことにっ、なっなっなっ、なっちゃったっていうか? なっているっていうかぁ? その……」
噛みまくりだった。自分が思っていた十倍以上は噛みまくってしまった。うわ、恥ずっ! もうこれはあれだ、全身の毛穴から羞恥という羞恥が漏れ出してくるみたいで……。
俺は慌てて言い訳しようとするが、慣れない状況も相まってもか思うように口が動かない。思うように動かない口からは当然言葉など出るはずがなかった。
しかし、ともすればそれ以上に、それを気にするほどの暇が俺には残されていなかった。
そう、俺が郡山と交際している事実を認めたその時点で、クラス内からは溢れんばかりの驚嘆やら悲鳴やら歓声やら疑念やら阿鼻叫喚やらが同時に、そして盛大に大気を轟かせたからだった。
「うおぉぉぉっ、マジでぇぇ!?」
「う、嘘だろ……嘘だと言ってくれ……」
「ありえねぇぇ!! 俺はダメだったのにぃぃぃぃぃ」
「ふっ、どうやらこの世界には神も仏もいないらしい……」
「U、Unbelievable……」
「キャァーッ! あの郡元さんが! マジでヤバいんですけど!」
一人、また一人と、その驚きは瞬く間にクラス中に伝染していった。
そうして、一通り驚き嘆き騒ぎ疲れたクラスメイトたちの矛先が、その原因となった俺に向くのはごく自然のことで。
気づけば俺は、詳しい事情を聞かんとするほぼ全員のクラスメイトたちに周囲を包囲され、揉みくちゃにされていた。
だから俺は、少し離れた席からこちらを睨み殺さんとする視線を差し向けていた彼女の存在に気づけたのかもしれない。
ちなみに、飢えたハイエナたちから解放されたのは、担任の教師が教室に訪れたあとの話だった。
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