「……なぁ、さっきのあれはどういうつもりだ?」


 俺の口からやっとこさその言葉が飛び出してきたのは、水族館から駅前の間を行き来するバスを降車し、構内に向かう途中にある小さな公園前でのことだった。

 一歩先をゆく少女の背中が止まる。すぐに答えは返ってこなかった。訝しげに思い、再び問いかけようと口を開きかける。すると、雲間に覗く赤々とした夕日を背景に一人の女の子が俺たちの脇を元気いっぱに過ぎた。ふわっと柔らかな風が頬撫でる。


「……」


 その少女はきゅっと歩みを止めると、桃色のスカートの裾をクラゲのようにふわりと翻し、エネルギッシュなターンを決めた。思わず「十点っ!」と言いたくなるような華麗で乙女チックなターン。

 そんなことを思考する俺をよそに、少女は口元に両手を当てがいメガホンのようにすると、夕日に向かって「はーやーくー」と声を掛けた。すると夕日は「走ったら怪我しちゃうわよ」とやたらめったら落ちつき払った口調で言った。……って、夕日がそんなこと言いやしねぇか。


 無論、夕日の向こうからやってきたのは女の子の保護者らしき母親だ。左手には小さな白い箱を持っている。

 先に焦れかねたのは女の子のほうだった。「遅いよお母さんっ!」と注意の中に滲み出る高揚をないまぜにした声をあげると、言うが早いか母親の元へ向かってタタタッと軽快に駆け出す。母親の右を握るや否や無邪気な笑顔を向けてにっと笑った。母親も右手を占領した我が子に慈しみを込めた微笑みでそれを受け入れ、再び二人は中慎ましく歩き出す。

 楽しそうな笑顔を浮かべた母娘が、止まった俺たちの脇を通り抜ける。


「ケーキ楽しみね〜」

「うんっ! 早くお父さんと一緒に食べたいっ」

「お父さんが一番楽しみにしてたもんねあ〜」

「お父さんが一番の食いしん坊さんだからねっ!」


 そんな楽しげな話し声をあげながら二人は次の曲がり角の奥へと消えていった。

 中慎しい母娘の様子を見る俺も、知らぬ間に微笑を浮かべていたようで、気づけば温かな気持ちを持ってそれ見送っていた。

 日本は今日も今日とて平和だった。さすがは2021世界で最も住みたい国ランキング十六位なだけはあるなぁ。いや十六位って微妙なんだよなぁ。ちなみに一位は世界一物価が高いスイスである。やはりアルプスの少女が強いのかそんなわけないかごめんなさい。 


 まぁ、彼の国は公立校の教育費はタダらしいし、治安も良好かつ清潔でありながらB I O食品やらチーズやらワインやらチョコレートやらがやたらめっさく旨いし安いとなれば納得のいくところではある。何より永久保存版の美人が多いしなっ。

 しかし、美人と言えば日本も負けていないと俺は思う。平安時代前期九世紀ごろに生きていた女流歌人で知られる小野古町その人は世界三大美人の一人として有名だしな。


 それに、美人——ひいては美少女と言えばもう一人、俺の前にも立っているのだ。

 普段は下ろしている絹のようにさらさらと艶めいた黒髪は、珍しく今日は一本のおさげに纏めて肩から垂らしている。その黒髪は赤々とした陽光を受け、どこかきらきらと輝いて見える。

 陽光を背景に陰った横顔は儚げだった。卓越した画家が精魂込めてこしらえた傑作の絵画のように見るものを全て虜にしてしまいそうだ。その深窓の令嬢然とした様子はどこか危うく、触れようなら泡沫の夢のように消えてしまいそうで、けれど俺は、そんな彼女が誰よりも強い芯と愚直なまでに真っ直ぐな子だということを知っている。彼女が儚く消えそうだなんてとんでもない。そんなものは幻想だともう理解している。いや、儚く消えるどころか道連れにされてなんならお前が消えろと逆にこちらが消えてしまいそうなまである。


 件の郡元は俺と同様に視線だけを這わし、街角に消えた母娘の影を追っていたのだろう。ふと視線が合った。すると、少し慮外なことに彼女は慌てふためいた様子で再び前を向いた。……ん、今のこいつの反応。

 そうやって、彼女らしからぬ態度に眉をひそめる俺をよそに郡元は再び足を前に繰り出し始めた。十五メートルほど進み、指針を右に取る。ってここは……。


「おい、どこにいくんだ?」

「公園」

「まぁそりゃあそうだろうけど」


 逆に公園以外に行けたりする秘密のゲート的なものがあったら驚きだ。この機会に異世界転生も悪くないかもしれない。実は現世において半分の力も出していなかったので異世界行ったら本気出そうと思うんですけどどうですか神様。

 我ながら見当の余地はあると思うのだが、まぁ残念なことに裁決は神様が下すと相場は決まっている。未熟な俺はその時がくるまで待つ他ないので今は今のことで頭を巡らすとしよう。


 彼女の立ち寄った小さな公園には誰の姿もなかった。時刻はすでに夕暮れ。子供は帰る時間である。真っ赤に染まった夕日が差す公園内は深閑な空気が流れていた。

 ところで昔は子どもは風の子だという言葉をよく耳にしたが、どうやらこの付近の現代っ子たちには適用外だったらしい。


 だいたい俺は昔からこの習わしには疑問を感じている。人の体には身体深部の体温をできるだけ一定に保つ体温調節機能が備わっているのだが、これが寒さに晒された場合、皮膚血管を圧縮して皮膚への血液量を減少させることができる。これによって熱放散は抑制され、逆に体内での熱生産量は増加されるのだが……例えば、とある実験で成人した者と、未成熟な子どもを気温三十度から十九度に低下させた部屋の中に入れたとする。どちらも水泳水着に身を包み、一時間滞在させた場合、子供の皮膚温のほうが成人した大人に比べて低くなるという実験結果も公表されている。然り、実験結果からもわかるように子供は言うほど風の子ではないのだ。いや、逆に風に弱いまである。だからこの公園内に子供の姿が見えないのは必然だと言えるし、けっして俺自身が郡元と二人きりになりたかったわけではないとここに強く強調しておきたい。


 そんな言い訳じみた栓なきことを誰に聞かせるわけでもなく考えていると、ふと前方を歩いていた郡元が公園のど真ん中で立ち止まった。それにつられて俺も二メートルほどの間隔を開けて立ち止まる。その隙間を埋めるように虎落笛が吹り抜け、俺は思わず身震いをした、まさにそんなタイミングで郡元がこちらに振り向いた。


「さっきのアレはどういうつもりだったのか……だったかしら?」


 それはつい先ほど俺から彼女に向けて放った疑問である。彼女の言う『アレ』と、さっき俺が言った『あれ』とは、水族館を出た矢先、出会った二人組の男女に向けて示した交際宣言? じみたことである。彼女らしい不敵な笑みをその口元に浮かべているということは答えてくれる気になったのだろう。時間差すぎる……。


 こいつ相手にそんなことを突っ込んでも意味はないということを知っている俺は一つ小さく頷き、彼女の質疑の答えとした。

 そんな俺を郡元の挑むような鋭い眼光が捉えて離さない。なるほど、確かにこれは強烈。郡元の放つそれは、一度気まぐれに本物の政治家が催していた講演会に参加した時にも通じるプレッシャーに似ている。これを人はカリスマとでも言うのだろうか。少なくとも、冗談を言えるような空気ではない。

 郡元は数回瞼を瞬いた後、一呼吸開けてからふっと口元を緩ませた。ともすればそれは呆れにも似た微笑みだったのかもしれない。


「言ったじゃない。私の特別を、あなたにもあげるって」


 郡元の言葉に今度は俺が瞬く番だった。


「……」


 乾いた空気を口から肺に取り入れ、肺から喉へと送り出し、舌の上で転がし言葉に変換するまで、俺は幾ばくかの時間を要することになった。


「……それが、その答えが、お前の恋人役ってことか?」

「そうよ。自分で言うのもアレだけれど、私の恋人って立場はなかなかどうして特別なものらしいわよ」

「……らしい、ね……」


 ともすればその言い回しは竹を割ったような、彼女にしてはひどく曖昧な言い方だった。一瞬、自分の色恋話に照れているのかと思って鼻白むが、彼女の自嘲気味な笑みを見て、すぐさまそんな考えは捨て去った。浅慮だと悟ったのだ。だいたい、郡元美麗という女がいかにモテるかだなんて今さらすぎて興味も湧いてこない。もっと言えば、郡元の恋人というポストをどれだけ多くの男たちが渇望しているかなど言わずもがなである。クラス内で投票を募るだけでほぼ全員が諸手を挙げて「ぜひ俺に!」と必死になるに違いないからな。

 だから今、俺に問わなければならないことは唯の一つだけで——。


「……お前はそれでいいのか?」

「ええ、私から先に言い出した事だもの。それに——」

「そうじゃねぇ。そうじゃねぇよ……」

「……」


 自分の言葉を遮った俺を、怜悧さ思わす黒い瞳は真っ直ぐ捉えて離さない。わずかに細めた猫のような瞳に浮かぶは興味深さ。

 一方、俺もそんな彼女から視線を逸らさない。彼女の物言わぬ威圧に気圧されたりなんかしない。言いたいことは言ってやる。


「……お前は見つかったのかよ。……俺の平凡がどういうのかってことが」

「いいえ、それはまだ、だけれど……」

「だったら——」

「けれど——。けれど、君は私の恋人になった。そして、私の恋人という特別を得た」


 「意味がねぇんじゃねーの?」——思わず食い気味に言い掛けた言葉を、今度は郡元が遮った。出鼻を挫かれた俺は顔を上げると、他人を言い任せるだけの、あるいは黙らせるだけの、自信に満ち溢れたいつもの彼女表情が、そこにはあった。その挑戦的な瞳はまるで、「文句があるならいってみなさい」と挑発されているみたいに感じるのは俺の気のせいではないはずだ。現に、彼女の大きな瞳はそう熱弁しているのだから。


「逆説的に言えば私も君という普通の恋人を得たことになるの。君は君自身を平凡と言い張っているのだから。つまり、私も君という平凡な恋人を手にしたことになると思わないかしら」


 彼女が口にしたそれは、かなり強引でこじ付けにも似た理論だ。しかし、彼女が口にすると不思議な説得力を得てしまうから謎である。仮に俺が同じセリフをそっくりそのまま誰かに言おうものなら「何言っってんのこいつww」と嗤われるのが妥当なところだろう。待ってなにそれ俺泣いちゃいそうなんですけど……。


「……言っとくが、俺の平凡なんかに価値なんないぞ」

「あら、おあいにく様ね。私の特別にも価値なんてものは存在しないもの。いいえ、違うわね。それどころか……」


 せめてもの反論を見事に叩き潰してくれたと思いきや、郡元は何かを言い掛け、そっと目を伏せた。そして、その言葉の先はいくら待っても聞かされることはなかった。


「……どころ、なんだよ?」


 焦れかねたまらず尋ね直すと、彼女は首をゆっくり横に振り、「何でもないわ。時期にわかることよ」とそう口にして言葉を濁す。むっ……。

 しかし、そう言われてしまえば最後、俺から追求されることは躊躇われる。時期にわかるというのならその時期が来るのをじっくり待つしかあるまい。

 そうして次第に黙りこくった俺たちの間に流れるのは重たい沈黙。妙に気まずい空気が俺の口を加速的に鈍らせる。


 代わりになるような話題を見つけようと周囲に視線を配ったとき、ふと公園の脇に一台の自動車が停車した。それはみすぼらしい公園には似つかわしくない黒塗りの高級車。だからいやに目についたのかもしれない。

 郡元も俺が向ける視線の先を辿り視線を向ける。それとほぼ同時だった。件の高級車からプッと小さなクラクションが鳴らされたのは。


「時間ね……」


 おもむろにそう呟きを漏らしたのは、俺と同じ物を見ていた郡元のもの。その意味を尋ねる前に、彼女は女神も裸足で逃げ出すような微笑を浮かべて、


「湯之元くん、今日は楽しかったわ。ありがとう。また明日、学校で会いましょう」

「ちょ、おい——」


 唐突に一方的な別れを告げてきた。

 思わず呼び止めるも、その甲斐虚しく、そいつの背中は無残にも遠ざかっていくだけ。

 伸ばした腕が虚しく宙を舞う。誠に残念なことながら今の俺には彼女を引き止めるだけの言葉は持ち合わせていないのが現状で。だから、彼女を乗せた高級車が去りゆくその姿を、今の俺には見送ることしかできなかった。

 唯一帰ってきたのは、空虚を掴んだ右手だけ。

 その手ひらを見つめ、俺は自分自身に問うた。


 今日、平凡なお前は確かに特別を手に入れた。


 それも、誰もが羨ましがるあの彼女の特別だ。良かったじゃないか。最高だ。これでやっと俺はみんなに見つけてもらえる、見てもらえる、認めてもらえる。


 現に俺を平凡と嗤い、平気で捨てたあの子だって驚かしてやったじゃないか。

 これでも俺も空気のような存在からは卒業だ。今日、この日この瞬間を持って俺は、平凡という呪縛から解き放たれるのだ。


 だってそうだろ?


 平凡な奴なんかに郡元美麗の恋人なんて大層な役所は掴めないのだから。だから、今日という日ほど最高な日はない——その、はずなのに……。


「……」


 俺はいつの間にか握りしめていた手にひらをそっと開く。爪が皮膚に食い込んでいたところは所々赤くなり、その傷痕をくっきり残している。

 ふと空から白い何かが俺の手のひらの上に舞い降りた。見上げると、宙には無数の白い結晶が空から舞い降りてきていた。


「雪……」


 そうして開いた俺の手のひらの上には、小さな白い結晶と、得もいわれぬ空虚さだけが燦然と残っていた。

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