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俺たちが水族館内を一通り回り終え外に出てると、西の空は徐々に色づき始めていた。いざ回ってみれば、館内に足を踏み入れてからざっくり三時間が経過していたことになるし当然と言えば当然だろう。
そんなことを考えながら、俺は初めて水族館を訪れたというの郡元に視線を向ける。
彼女は今回が初水族館らしいのだが、サンゴ礁エリアでも、メダカ誕生エリアでも、展望ホールから外を眺めるときだって、一番初めに訪れた大水槽とほぼ変わらず一貫して淡々とした反応だったと思う。
一方、館内に足を踏み入れる前まで地味に心躍らせていた俺はというと、彼女が口にした『特別』の意味を永遠と探しており、必然的に二人の間にはこれといった会話も生まれることもなく、そして気がついたときには出口に差し掛かっていた……というのが実際のところなのだが。
「帰るか……」
「そうね」
出口を出てからはおみあげコーナーにも寄らず、かといって俺も彼女も他に見るものも見たいもの、お腹が空いているわけでもなく、目的を達成した俺たちの足取りは、自然と帰路についていた。
帰路につく俺たちの間に流れる雰囲気は重苦しく、今日の目的——『俺の平凡を譲渡する』という曖昧なで気難しい目的を達成できなかったことを大いに物語っている。このままでは、ただ水族館に訪れて楽しんだだけになってしまうなぁと、そう思っていた時、
「あれ、やっぱり郡元さんだよね……?」
背後から郡元を呼ぶ女の声に呼び止められた。直接名指しされた郡元が振り向き、遅れて俺も振り返る。すると、二メートルほど後方に二人のカップルらしき男女が腕を組みながらこちらを見ていた。
呼び止めた女らしき人物は、郡元本人かどうかを直接確かめると顔色を喜色に染めた。けれど、その視線が次第に横に、つまり俺の方に逸れた途端、その大きな瞳は愕然と見開かれた。
「あっ、やっぱり郡元さん……っと、え? ……ゆ、湯之元くん?」
彼女の視線が俺と郡元の間を忙しなく行き来する。今、その小さな頭の中では急速な情報処理が行われているのだろう。
などと、そんなこと考えながらも彼女を瞳に映した俺の頭の中も混乱の渦中に立たされる。口内は急激に渇きを覚え、喉は生唾を飲み、心臓は痛いくらいに飛び跳ねた。
俺は知っていた。肩まである明るい茶髪の髪も、アイメイクが施された大きくて派手な目も、つんと高い鼻梁も、赤く熟れた果実のように艶のある綺麗な唇だって……。
ブラウン色のジャケットに、その下に合わせた同色のハイニットも、細い腰をきゅっと締めたベルトも、白いデニムパンツだってそうだ。俺の体は覚えていた。霧島ひまりという一朝一夕では語れない、元彼女という歪な存在を——。
「ねぇ、湯之元くん。この子、もしかしてあなたの知り合いなの?」
俺と彼女に間に流れる刹那の緊張感を肌で感じ取ったのか、隣に立った郡元の視線が霧島から俺のほうへと向けられた。話しかけられたのは郡元本人のはずなのに、今ではすっかり立場逆転してしまっている。しかし、目の前に立つ彼女との関係もなかなか複雑極まるものがあり、そしてさすがの俺自身もこの場で熱弁をふるって語れるような内容ではないので当然黙秘一択。だから、「えーと、その……」などといった中途半端なつなぎ言葉しか紡ぐことしかできなくて。結局、答えを窮した俺は「た、ただの同級生……」と口惜しげに言うことしかできなかった。
「ふーん」
俺の弱々しい返答を受け、郡元が聞いているのかわからない相槌を打つ。二つの視線に見据えられた俺は、気まずくて死にそうだった。今日ほど地面に熱い視線を送ったことはないし、今日ほど地面をありがたく思ったこともない。今、この空間にはおける俺の味方は無機質な地面しかいなかった。
誰もが口を閉ざし、状況を窺う中で、この緊迫した状況は永遠に続くとさえ思った。心が体を追い越していくとさえ思えた。いや、何WIMPSだよ。
だがしかし、それは突如として杞憂に終わることになった。いや、杞憂のほうがまだ幾分とマシだったのかもしれない。あの耳につく笑い声が鼓膜に響いてくる、そのときまでは。
笑いを噛み殺したような笑い声をあげた主は、霧島ひまりの隣にあった。ワックスで固められた茶髪の髪に、整った相貌、すらりと背が高くお洒落な装いは、取り繕った俺とは異なり、今どきの若者をナチュラルにこなしていた。
俺たち三人の視線を一斉に感じた茶髪の男は、目元に溜まった涙を拭う仕草を取ると、三日月型に歪んだ薄い唇を軽薄そうに歪めた。
「いやぁ〜、悪い悪い。そいつの発言があまりにも面白かったもんで」
「面白い?」
男の言葉に怪訝な反応を示したのは郡元だ。
「ん? あー、もしかして君、そいつの間抜けさ加減知らない口?」
「どういうことかしら?」
そう言って郡元は一度俺を見る。その後で再度男に視線を戻して話の続きを促した。
「あん、ほんと知らねぇかよ。んじゃ、教えてやるよ」
男はその言葉を皮切りに、昨日の俺の身に起こった悲劇を滔々と語り始めた。その口調は舞台俳優の口上のように淀みなく、ともすれば明確な悪意を孕み、表情は酒の肴に振舞う飲み仲間のように嬉々としたものだった。
そして最後に、軽薄な笑みを浮かべた男の話はこう締め括られたのだった。
「な? 笑えるだろ? んなわけで、そんなバカで間抜けなやつとつるむってのはおすすめしねぇぜ。んな負け犬なんかほっぽいて俺たちと遊ぼーぜ。どうせ、君もそいつ弄んで——」
「お生憎さまね、すでに私たち、こういう関係だから」
男の言葉を遮った郡元の細くて白い指が、唐突に俺の指と指の間にするりと伸びてくる。きゅっと繋がれた手はしなやかで柔らかく、驚くほど暖かかった。
「え、うそ……?」
目の前で繰り広げられた光景をいち早く察し、大きな瞳を驚愕に染めたのは霧島ひまりのほうだった。宝くじで一等が当選したかのような驚愕さ加減はもはや失礼を通り越して面白いまである。男のほうはあからさまに羨ましげな色を表情に浮かべ、理解できないといったような表情で繋がれた俺たちの手を見ていた。
「……もしかして二人……つ、付き合ってるの?」
おずおずといった具合で問いかけてきたのは元カノである霧島ひまり。そんな彼女に対し、郡元は憮然とした表情を持って冷淡に答える。
「悪いかしら?」
「い、いや、別に悪いっていうか、ちょっと意外だったというか……なんというかその……」
郡元のすべて凍て付かせるような鋭い眼光に射抜かれ、クラス内では潤滑油のような存在である彼女が珍しく狼狽える。人一人殺やっていそうな眼光は、まさに蛇。察しずめそれに睨め付けられた霧島は哀れなカエルと言っていいだろう。ちなみに俺はカエルにも成りきれないおたまじゃくしなのでセーフ。霧島の隣に立つ男に至っては明らかに及び腰なので、卵くらいが妥当なとこだろう。郡元に聞かれたら即座にぶっ叩かれそうな比喩であった。
しかし、言葉に出さずとも霧島の言わんとすることも、俺には重々理解できた。
何度も言うとおり、我が校において郡元美麗という少女の存在は絶大だ。有名人と表現してもなんら豪語壮語ではない。定期テストが行われれば必ず上位三位には食い込むわ、立候補していないのに生徒会選挙で生徒会長よりも票が集まるわ、体育祭で出場する競技は尽くぶっちぎりで一位になるわ、文化祭の出し物で喫茶店でもやろうものなら彼女のホール姿を見たいがため接客をされたいがために二時間待ちになるわで、伝説を挙げればもう枚挙にいとまがないといったらありゃしない。
まぁ、端的に述べただけでも郡元美麗にはこれだけの影響力がある。そんなインフルエンサーの塊のような人間が、俺のような日陰者と交際していると宣言すれば誰だって驚嘆もするだろう。俺だってめっさ驚いて高飛車なお嬢様よろしく白いハンカチ噛んでキィーとなる自信あるしな。
なにはともあれ、この場において先に気圧されたのは霧島ひまりのほうだ。隣に立つ男も反論という反論はないのかその隣で気まずそうに目線を逸らしている。
チェックメイト、だな……。
二の言葉を告げず、郡元と俺の間に視線を走らせる霧島の困った様子にはちょっぴり思うところがあるが、まぁ俺にはもうなんら関係ないことだ。
郡元が冷やかに言を述べる。
「話はそれだけかしら。これ以上、別段話もないのなら、私たちは失礼させてもらうことにするわ。大切なデートの時間を無粋な輩に邪魔されるのは癪だから」
郡元はそれだけ一方的に告げると、俺の手を引いて踵を返す。踵を軸に軍隊お顔負けの華麗なターンを決めるものだから、おさげに纏めた黒髪がふわっと宙に舞う。俺の鼻腔をフローラルの甘い芳香がくすぐった。
彼女の柔らかく温かい手のひらの感触を右手に、されるがまま俺も場を後にする。
その様子はまるで、馥郁たる香りに誘われる蜜蜂の如く。
ふと、遠くのほうから腹を轟かせる船舶の汽笛が、灰色の空の下に高らかに鳴り響いた。
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