チケット売り場で二枚の入場券を購入した俺たちは、いざ魚たちの楽園へと足を踏み入れた。


「私の分まで買ってもらう必要はなかったのだけれど……」


 とかなん俺の半歩後ろでぶつくさ言っている郡元の不服そうな声が聞こえてくるが、久しぶりの水族館ということも加味されテンションが上昇気味の俺には些細なことである。

 それでも「それに今回は私のほうから誘ったのだから、私が奢るのが——」みたいなことを幾度となく背後でぶつくさ言っていルのだが、やはり今の俺のうきうきした足取りを止める理由には至りはしない。


 まぁ、それに過程はどうあれ紛いなりにも男女が一緒に出かけているのだ。いや、俺自身デートだと言い張るつもりは毛頭ないのだが、こういう場面では男が金を出すと相場は決まっていると個人的にはそう思っていたりする。まぁそう思う時点で存外俺ってやつは損な性分をしていると思わざる得ないが。

 そう思う俺をよそに、最後まで生真面目な彼女は不満そうにしていたが、入り口を抜けてすぐ脇にある総合案内所を通り、エントランスホールを突っ切り二階へと続くエスカレーターに乗るころには諦めたような大きなため息をひとつ吐き、大人しく奢ってもらう気になってくれた。


 青と白が入り混じった幻想的な雰囲気に包まれたエスカレーターは、俺たちをゆっくりとした速度で二階に運んでいく。実に十年ぶりの水族館である。否応なく俺の胸は期待と興奮で膨らんでいく。

 たっぷり十五秒ほど掛けて幻想的にライトアップされたエスカレータ内を抜けた俺たちを出迎えてくれたのは、これでもかというほど巨大な水槽だった。

 この大水槽のダイナミックな迫力には、あの郡元も「これは、なんというか……壮大で圧巻だわ」と、思わずといった具合に驚愕の呟きを漏らしていた。そのぽかんと半開きのまま突っ立った彼女らしからぬ姿は新鮮で、俺の期待を裏切らなかった。


 大水槽前は親子連れやカップル、観光目的でどこからかやってきた団体客、中には本格的な一眼レフを持ったおじさんやらでごった返していた。

 俺も郡元も、あの人混みの中に入っていく度胸も気力も持ち合わせてないので、今はフロアの後方の隅に陣取っている。

 後方から見ると、水槽の大きさはより鮮明に感じ取れる。言うなれば、映画のスクリーン。大水槽と銘打つだけの大きさはまさに圧巻の一言に尽きる。この水槽のメインを張る体長五メートルをも超えるジンベイザメの巨体すらすっぼり収まっているのだから、その迫力は言わずもがな。


 他にも、我関せずと重力をまるで感じさせることなく悠々自適に泳ぐマンタやエイ、その横を馬車馬の如くマグロたちの大群が通り抜ける姿は迫力に満ち、銀色の鱗を無数にきらきらと輝かせ、機動的に動くアジやキハダたちの大行列は圧巻の一言。対照的に、我が物顔で海底を悠々と泳ぐトンガリザメからはどこか優雅さを感じさせれる。

 一通り水槽に目を走らせたあとで俺は隣に立つ郡元に話しかけた。


「……前、行かなくいいのか?」

「ええ、今はここで十分よ」


 水槽から目を逸らさずそう口にする郡元。

 その横顔をちらっと盗み見ると、彼女の大きな瞳は水槽の青白いに光を受け、きらきらと輝いているようにも見えた。幻想的なこの空間において、俺には水槽のどんな魚たちよりも彼女のほうがよっぽど幻想的に思えた。

 しばらく後方から眺めていると、人垣が右側に設けられた通路のほうへと流れていく。通路の先に伸びるはこれまたエキゾチックな水のトンネル。大水槽を眺める傍で異様な存在感を醸し出していていたあれだ。


「……前、空いたけど」


 ちょうど、団体客と思わし集団がぞろぞろと件の水のトンネルのほうへと吸い込まれていく。


「ええ、行きましょうか」


 そう言って俺の言葉におもむろに返答した郡元は、ランウェイを歩くようにすたすたと水槽に向かって歩き出した。俺も一メートルほど感覚をあけ、彼女の背中に続く。そうして俺たちはぽっかりと空いたスペースを埋めるように水槽に近づいた。


「こいつは、また……」


 俺は目も前に広がる自分の体積よりはるかに大きい水槽に息を呑んだ。やはり、後方から観るのとは異なる圧倒的な迫力には圧倒されずにはいられない。


「……」


 そんな俺の横で、彼女は無言で水槽を眺めていた。彼女も眼前の壮大な光景に目を奪われているのだろうか。それとも、想像の範囲を超えず、大したことはなかったと落胆しているのか。無性に気になった俺は、目の前を通り過ぎていくエイを追いかけながら問いかけてみることにした。


「どうだ、初めて来た感想は……」

「すごく壮大で幻想的で情緒的に思えるわ」

「……ほぉ」


 確かに、彼女の言うとおりこの水槽は壮大だ。初めて来たときなんかすげぇそう思うし、自分の小ささを思い知らされる不思議な錯覚、とでも言えばいいのだろうか。壮大すぎてこれを目の前にした自分がちっぽけに感じてしまうのだ。

 果たして、隣に立つ彼女も同じことを思ったのだろうか。俺なんかよりよっぽど周囲に壮大な影響を及ぼす彼女——が。


 そんなことを思いながら、俺も分厚いガラスを見据えた。ガラスの奥では相変わらず魚たちは優雅に泳いでいる。

 ふと、俺の視線は水槽越しに映った少女の顔を捉えた。

 改めて見ると、本当に整った顔だ。小さな顔に、前髪の隙間から覗くぱっちり大きな切れ目の瞳、小さくて高い鼻、形のいい桜色の唇。手足はすらっと長く、モデル顔負けのスタイルは、厚手にコートに身を包みながらも色褪せやしない。


 間違いなく、彼女は学校一の美少女だ。他に張り合える者など、俺は身近で見たことがない。俺のクラスでも一目置かれていた彼女、霧島ひまりすらも郡元美麗の前では霞んで見える。


「……」


 しかしどういうわけか、そんな彼女と俺は今、二人っきりで水族館へと訪れているのだ。こんなところを校内の誰かに、とくに男共に見られた日には嫉妬の業火に焼かれてしまうだろう。妬かれるだけに。

 まぁ、あいつらには嫉妬されるだけではなく、同時に羨ましがられもするだろう。いつの時代も雲の上の存在だとか、クラスのマドンナや高嶺の花などと形容される奴らは切望の的なのだ。だから、本来なら俺は、この奇跡的な状況をもっと喜ぶべきなのだろう。他の奴らが望んで得ることができないこの状況を。


「……」


 だけど、今の俺はちっとも浮かれた気分にはなれやしない。

 理由はたぶん、無言で水槽を見つめる彼女の表情から、どこまでも寂しげに見えるかもしれない。

 俺には、彼女が今、何を考え、何を感じ、どこを見ているのか、まるでわからない。そして、そんな自分がどうしようもなくもどかしくてしょうがなかった。

 俺が彼女に対してそう思うのはおごがましいことだろう。重々承知だ。彼女と知り合ったのも昨日のことで、それが当然だとわかっている。……わかっているのに、俺はそう思ってしまったのだ。もっと、彼女を知りたいって、そう、願ってしまった。


 でもやはりこの感情はわがままなのだろう。いや、むしろ自意識過剰で気持ち悪いのかもしれない。だって、この感情は、思いの丈は、彼女にも抱き、そして否定された想いだったのだから……。

 そうやって、やるせない感慨に耽っているときだった。隣に立った郡元がおもむろに呟いたのは。


「なんだか不思議ね」

「こんな冴えない奴とこんなところにいることがですか」


 先回りして薄く笑うと、郡元はつられるように苦笑を漏す。


「まぁ、それも否定できないわね」


 水槽越しに捉えた表情は先ほど垣間見えた寂しげなものではなく、どこかしょうがないやつを見るような顔つき。でも、すぐに元の憂げな表情に戻る。そして、そんな彼女の表情ひとつひとつに俺は目を奪われている。


「けれど、私が言いたかったのはそういう情緒的なものではなくて。ここにいる魚たちのほうよ」

「あ……、そっちね」


 変に斜に構えた自分がいやに恥ずかった。俺は仕切り直すように咳払いをひとつ挟むついでに変に暗い雰囲気も、まとめて吹き飛ばすことにした。


「なに? それはもしかして語尾にサメとか謳っているくせに、このジンベイザメ君はどうしてこんなにも愛嬌のある顔をしているの羨ましいっ! ……なんて嫉妬してん——ってあたたたたたあっ!」

「するわけないでしょう。そんなバカなこと言うこの口は引きちぎってしまおうかしら。どうせこんな口なんてあってもなくてもさほど変わんないわよね?」


 憮然とした声色でそう言いながら、細くて綺麗な郡元の指が俺の耳を千切らんばかりに引っ張ってくる。


「違うからっ! それ、口じゃなくて耳だから! てか、現在進行形で引きちぎろうとしてるからっ! わ、悪かったって、この通り謝るから離してくださいお願いします!」

「ふうん」


 捲し立てるように謝罪の言葉を述べると、小さなく鼻を鳴らし、胡散臭そうな奴を見るような目で一瞥したあとに彼女の細くて白い指がようやく俺の耳から離れた。すぐさまちゃんとついているのか確かめると、我が愛おしい感触に心底ほっとした。すると、すぐ隣からは多分に呆れを含んだため息が溢れ出た。一呼吸間を置いてから、再び郡元が言葉を紡いでいく。


「今さら私がジンベイザメなんかに嫉妬するわけがないじゃない。……そうではなくて、周りの魚たちのこと。一見、遠目から見ると、この水槽はジンベイザメが主役だと誰もが思うけれど、実際近づいてみると気づかされる。実はこの水槽を、この主役を、ここまで壮大に引き立てているのは、周りを泳ぐ小さな魚たちのほうだってことに」

「それはアレですか、平凡な俺に対しての慰め的な意味ですか?」

「……どうかしらね」


 茶化すような俺の物言いに返ってきたのはそんな小さな呟きだけだった。お小言の一つや二つを覚悟しておちゃらけた俺からすれば、彼女の言動はある意外で、肩透かしを食らった気分になる。歩幅が合わない感じで調子が狂う。……いや、違うな。そうじゃない。俺と彼女の歩幅は最初から異なっている。合わなくて当然で、合わなくて自然。エイとマグロが一緒に遊泳できないのと同じこと。だから俺は、今度は俺から見て、感じ、思ったことをありのまま言葉にして紡いでいくことにした。


「でも、やっぱり俺はこいつが主役だと思うけどな。そもそも主役がいなけりゃ引き立て役も輝けないし」


 主役が活躍しない物語ほど薄寒いものはない。誰もが彼らの活躍を望み、ハッピーエンドを願っている。


「主役がいなくても、数で埋めればいいじゃない」

「ん……まぁ、確かに迫力って面でいうと合理性は取れるかもしれないけど、でもやっぱりそれも主役がいてこその話だろ? だから、たぶん、ここの主役もこいつしか務まらない」


 今も水槽の近くにはたくさんの子供たちで賑わっている。そして、そんな子供たちの注目を集め、話題の中心となっているのはやっぱりジンベイザメなのだから。


「つまり、一度決まってしまった主役のキャステングは変えられないってことかしら?」

「まぁ、どこもそんなもんだろ。特別になりたい奴がいる限り、特別はいつまで経っても特別だから」

「だから、ある意味で主役は降板できないと……皮肉ね」


 そう口にした彼女の声はどこまでも冷たく淡々として、自嘲めいているような気がした。隣に立つ彼女にそっと視線を向けると、この水槽の中でもっとも大きな存在をその大きな瞳が追っていた。その瞳はどこか慈しんでいるにも見えて哀れんでいるようにも見えた。


 ジンベイザメと彼女は似ている。


 どちらも舞台の主役という点ではそっくりなのかもしれない。

 ならばきっと、彼女の瞳が宿す感情は哀れみなのかもしれない。

 お互い、舞台という名の水槽の中に囚われたもの同士……という意味では。

 そんなことを考えていると、郡元の視線が俺に向いていることに気づいた。何か言いたとうな顔でこちらを見ている。


「ねぇ、湯之元くん」

 案の定、彼女は俺に話しかけてくる。疑問に満ちた目。それはまるで、先生に答えを求める子供のような瞳であり、独白のようなものでもあった。


「君の求める特別に、意味なんてものはあるのかしらね」


 彼女の吐き出した言葉は、喧騒の中へと溶けて消えていく。この時、彼女の吐露に返せるだけの言葉を俺は持ち合わせていなかった。


「次、行きましょうか」

「ああ」


 今の俺には、ただ彼女の背中に付いていくことしかできなかった。

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