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近年、駅構内からほど近くには必ずと言っていいほどバスターミナルが存在している。基本的に我が祖国日本は、鉄道が生活の中に溶け込んでいる国であるが、先ほど利用した大規模なバスターミナルだったり、そこで着発を繰り返すバスの数量や時刻表の頻度、乗客数の需要を鑑みてみると、これまで地道なバス事業の拡大を行ってきた先人たちの苦労と研鑚が窺えるようだった。
おかげで免許の取得が叶わない高校生の身分にある俺たちだけでも遠方まで足を運ぶことができる。
そのことに多大なる感謝の念を覚えていると、俺たちを乗せたバスがゆっくりと速度を落とし始めた。遅れて、運転手の少しくぐもった車内アナウンスが響き渡る。
降車ボタンを押した張本人は、俺の隣で俺と同じような態勢で同じような吊革に掴まり、されど俺よりわずかにしんどそうな顔をして立っている。
バスが駅前のバス停を出立して約二十分。縦横無尽に市内を走る道路は、車内に立つ者、ましてや子供や女性、老人たちには些か厳しいものある。しかし、休日の土曜日である今日は乗客も多く、生憎と座席に空席はなかった。途中、郡元の前に座っていたスーツ姿の男性が降車して空席が生まれたのだが、毅然として彼女はその席に着こうとはしなかった。
俺は一瞬不思議に思ったものの、理由は郡元の言動を見てすぐに判明した。
「おばあさん、こちらにどうぞ」
「ありがとぉ」
しゃがれた声とともに後方からおばあさんが現れて俺は驚いた。おばあさんは郡元に礼を言うと、よっこらせと口にしながら空席に腰を据えた。
「お嬢ちゃん、ご親切にどうも」
「いえ、これくらい……」
おばあさんの存在に微塵も気づけなかった俺の驚きをよそに、祖母と孫ほどの年齢差がありそうなふたりは静かに言葉を交わしていた。
そうこうしている間に、俺たちを乗せたバスは、無事目的地の近くにある停留所にゆっくりと停車を果たした。
乗客の四割ほどが一斉に席を立ちあがる。運賃を払うため、すぐさま列を形成され、俺もそれに倣い、郡元も俺の後に続いた。ピッ、ピッ、と断続的な機械音が続く中、郡元に話しかける者がいた。
それはもちろん、俺ではない。でなければこの場でひとりしかありえない。果たしてそれは、先ほど郡元が席を譲ったおばあさんだ。
「お嬢さん、さっきはありがとねぇ」
にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべて郡元に笑い掛ける。年齢を感じさせない綺麗な微笑み。
これにお礼を言われた本人は同じ種類の微笑と会釈を持って返礼とした。
その姿を尻目に、俺の頭にはとある漢字が踊った。
——美麗。
なるほど。確かに……。正しく、今の彼女を表現するならうってつけの自体だと、俺はひとり笑いそうなった。
× × ×
「久しぶりに来たな、ここ」
バスから降車を果たし、道なりにしばらく歩いていくと、そのアートスティックな偉容を誇る巨大な建物は泰然として俺たちの前に姿を見せた。
向い風によって運ばれてくる磯の匂い。出発の着発を知らせる腹に響くフェリーの汽笛。それらのすべてが、この辺りがもう海岸近くだということを教えてくれる。
バス停から徒歩五分。俺たちが訪れたのは、地元に根ざし、県民に長らく愛される続ける魚たちの楽園である水族館。
イルカが見られる短い水路に架かる橋を一つ超えた先に構えるそれは、冬空の下、今日も俺たちを暖かく出迎えてくれた。
「ちっとも変わってねぇな」
久方ぶりに訪れたということもあり、無意識に感慨に浸ってしまう。そんな俺を横目にすたすたと綺麗な姿勢で歩くおさげの少女はくすっと口元を緩ませた。
「なんだよ……」
いかん。あまりにも懐かし過ぎるものだから、思わず童心に帰ってしまっていたようだ……。こっぱずかしいところを見られてしまい、俺はその張本人に向かって訝しげな視線を走らせた。
「いえ、ちょっと」
含みのある言い方である。そう返されると逆に気になってしょうがない。
「何、俺なんか変なことでも言ったか……」
「君が変なのは最初からでしょう。気にしないで。それはもう治ることがないから」
「……」
学校一の美少女様はそう言うと、これまで見たことないようなとても優しげな微笑みを浮かべていた。末期の患者に接する医者の如く視線が俺を射抜く。……やめろっ! 俺をそんな憐みのこもった眼差しで見るなっ。泣きたくなっちまうだろうが……。早くも俺のスピリットライフは赤ゲージ。返せ、俺のピアな童心。
せっかくの休日、久しぶりに訪れた水族館だというのに、早くも暗雲の予感。大丈夫か俺……。まだ館内にも足を踏み入れていないんだぜ?
「それで、以前湯之元君がここに訪れたのはいつだったのかしら?」
「えっ? あ、え、えーと……」
突然名前で呼ばれた俺は無様に動揺してしまい、返事をまごつかせる。彼女に湯之元君と呼ばれるようになって日が浅いく、というか昨日からであるため、これがすっごく違和感というか羞恥というか、とにかく調子が狂わせられてしょうがない。
それでもいい思い出というのは鮮明に、かつ美しく記憶に残っているものらしい。しどろもどろしながらも、かつてこの場に訪れた懐かしき自分の姿が瞼の裏によぎった。両親に挟まれた記憶の俺は、どこを切り取っても笑っていた。
「……十年前、だったかな。お前はどうなんだ?」
ふと気になり、背筋を真っ直ぐ伸ばした美しい姿勢で歩く少女に問いかける。
「私は……初めて。ここに住んでいて一回も来たこともないわね」
「マジか。たしかわりとこの辺では有名どころだろ、ここの水族館って」
「そうらしいわね。でも、来たことことがないのだからしょうがないでしょう」
しょうがない。たしかに、しょうがない。人には人の事情というものがあり、別に来たことがないからといって揶揄される謂れも死ぬこともない。結局、いくら有名どころだと宣っても、来るか来ないかは当人次第。……誰かに強制されて来るやつも世の中にいるみたいだけどな。
「先ほど、湯之元君は十年前に来たことがあるって言っていたけれど、そのときは誰と一緒に? もしかして……女?」
「やめてくれない、その意味深な聞き方。まるで昔の彼女について問い詰めれる今彼みたいな気分になっちゃうから」
「はぐらかそうとしている……なるほど、つまりこれは黒。真っ黒だわ。女で確定ね不潔だわ」
「勘違いもはなはだしいなぁおいっ! 十年前の俺は七歳なんだぞ? 家族に決まってんだろ家族」
「家族? それってファミリーのことかしら?」
「何で英語に言い直したのかはこの際つっこまないとして、まぁ、そうだよ」
「ふうん」
この俺の回答の何かが女王さまの不服を買ったのだろう。彼女は、相槌とも無関心とも取れる反応を示すと再び前を向いた。先ほどまでの威勢もすっかり沈静され、さすがの俺にも彼女の変わりようを疑問に思った。
「何だよ、何か文句でもあんのか」
「いいえ、何も」
返ってきた彼女の応答はひどく素っ気ないものだった。冷淡だと言ってもいい。そんな彼女の態度は言外から、これ以上その話題に踏み込んでくるなと示されているようで、ともすれば見えない刃物を喉元に突きつけられるような、危うさを感じさせるものだった。
俺はそれっきり言葉を失った人形のように黙り込み、歩行速度を早めて少し先を歩く彼女の背中を漠然と見やった。
どうやら俺は、見えない地雷を踏んでしまったらしい……。
困った。
一体何が一番困ってるかと言われれば、それが何だったのか、皆目見当がつかないことだ。
そこまで思い当たり、ふと俺は気づく。
二つの平行線は、どこまで行っても交わらない。
磁石のS極とS極は、絶対にひっつかない。
水と油がけっして混ざり合うことがない。
郡元美麗は特別な少女である。
対して俺は、どこにでもいる平凡で冴えない奴である。
ならば、この自問はすでに無用の長物だと言えよう。考えるだけ無駄である。答えはもう出尽くしたのだから。
だったら今は、今の俺にできることを精一杯やろうじゃないか。
手始めに、水族館を全力で楽しむこととしよう。
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