1 それでも湯之元新汰の日常はやおらかに進み始めている
高校に進学してから迎える何度目かわからない日曜日の朝もつつがなくやってきた。朝、といっても、俺が起きたのは午前十一時を少し過ぎてから。用心に用心を重ねた結果、四回目に仕掛けた最後のアラームでやっとこさ起床。昨日の疲れも手伝ってか、ベットから起こす体はえらく重く、普段なら迷わず二度寝コースのところをそれでも頑張って起きたのは、このあと外せない用事があるからに他ならない。
「いってきます」
静まり返ったリビングで朝食とも昼食ともとれるご飯を食べてから自宅の玄関の扉を開けたのは午後十二時を少し回ったころ。
少し迷った末に決めた今日の服装は、特段気取ることも、かといって地味とも派手ともいえない無難な装い。
出かけるといっても、今日はデートというわけじゃないのだからこれが普通だろうと思う——そう自分に言い聞かせながら、鏡の前では入念に寝癖がないのかチェックしていたのは、これから会う相手に失礼があるといけないからである。親しき仲にも礼儀ありとでもいうのだろうか。独りぼっちに定評のあるこの俺だが、他者とコミュニケーションを取る場合における最低限度のエチケットというものはつつがなく弁えているのだ。
整髪料にまで手が伸びる前に踏みとどまれたのは、「あ、あいつとは別に親しくもなんともないから……」という事実に寸でのところで気がつけたからだろう。そんな事実に気がつくと、鏡に向かって髪やら服装とか気にしている鏡越しに写る自分が急に恥ずかしくなり、俺は自分を飾る手を止めたのだ。
外に出ると、雲の隙間から所々青空が覗き、晴れとも曇とも言える、ともすれば今日の俺の気分のような微妙な天気が広がっていた。
十二月も中盤に差し掛かってきたからか、日中だというのに外の気温は低い。ときおり吹きすさぶ冷風には身を縮こませ、ポケットの中に忍ばせていたカイロが早くもMVP。
自宅から最寄りの駅までは約十五分ほどで到着した。
使い慣れたワイヤレスイアホンを耳に装着し、これまた聞き慣れた音楽を垂れ流しながら最寄りの駅まで足を運ぶ頃には、時刻は十二時十五分を回っていた。
電光掲示板に映し出されていた電車の発車時間を横目に改札口を抜け、私服姿が目立つ乗客の中に紛れてホームに降りる。ホームの先のほうまで移動すると、スロープ状に伸びた線路の向こう側から滑り込むようにして目的の地まで運んでくれる電車がやってきた。
電車に乗り込むと、一番近くの壁に背中を預けた。しばらくすると、プシューといったエアーが抜ける音とともに扉がゆっくりと閉まる。
刹那、慣性が働き、俺の体が後方に引っ張られた。
それを合図に、俺を乗せた電車は、定刻通り、今日の目的地を構える終点を目指してゆっくりと動き出したのだった。
いくつか乗客を乗り降りさせること六回、鼓膜に響く曲調が変わること七回——終点であり、市の中心地でもある駅に電車が辿り着いたのは三十分後の十二時四十五分ごろ。
今回の集合時間である十三時三十分までいくばく時間はある。
「さて、どうしようか……」
そう呟きながら、とりあえず一階のホームから二階の改札口まで足を運ぶ。
人が溢れかえった改札口から吐き出されると、何とはなしに俺の足は集合場所へと続く北口前の広場へと向かっていた。
当然のことながら、基本的に家大好きっ子である俺が、休日の日曜日であるのにも関わらず、この寒空の下、独りここまで出張ってきたのには訳がある。
包み隠さず率直に白状してしまうと、現在の俺はどういうわけか同じ学校に通う異性と一緒に水族館へ赴こうとしているのだ。自分のことながら本当に意味がわからない。一週間前の俺が聞いたら卒倒していたこと請け合い。どころか、嘘だと信じて疑わなかった自信があるほどだ。
けれど、事、この問題は関して最も重要なのは、その異性が何者なのかってところに他ないだろう。
その異性に対して一言だけ告げるとすれば、今日、その人物と一緒にいる場面を目撃されようものなら、俺はきっと学校中のお尋ね者になってしまうことだろう。……想像しただけでも恐ろしい。笑えない。なぜ、こうなった?今、思い返してみても経緯は意味不明なのだが。
けれど、不思議とここの場所まで来るのに緊張はしなかった。いや、だからといって変な期待感も、過度な高揚感もあるわけではないのだが。心境はいつになく落ち着いている。冷静な自分でいられている。
皮肉なことに、異性に対して免疫がない俺がここまで落ち着いていられるのは、昨日の苦すぎる経験が俺を一歩も二歩も大人への階段を上らせたのからなのかもしれない。そう考えれば、あの失恋にも、確かな意味や意義というものがあったように思える。いや、そう思わなければやっていけそうにないからかもな……。
誰かを好きになるということは、人間に備えられた本能であり、
あの恋にも確かな意味があり、意義があったのだ。
たとえ今はその意味やら意義がわからなかったとしても……。
駅から出ると、身を縮こませる冷ややかな風が俺を出迎えた。心なしか、行き交う人たちの背筋も丸まっていて、その足取りは誰も彼も早々としている。
道の隅の日陰には、昨日の雪の名残がとどめており、それを尻目に「東京で見る雪はこれが最後ね」と何とはなしに口ずさむ。ミソはここが東京じゃないってことな。
駅から出てから少し歩いたころ、楽しげなBGMの調べがだんだんと近づいてきた。方向から察するに、駅前に設けられた広場から。ちょうど、今回の集合場所でもあるその道すがりに通る必要があるので、俺はふらりと引き寄せられるように足を向けることにした。
広場に辿り着いた俺を出迎えてくれたのは、広場の中央に鎮座する大きなクリスマスツリー。もちろん、クリスマスツリーと命名されるだけあり、三角錐の頂点には蛍光灯の光を反射させた大きな星が煌めいている。木々の葉には所狭しと電灯が懐かれていて、夜の帳が落ちるころにもなると、この大きなもみの木は道ゆく人々を照らし出すように煌々とした輝きに満ちるのだ。
その輝きに魅せられた多くの人々が足を止め、恋人は肩を寄せ合い、子供ははしゃぎ回る。
そして、それらの光景を傍目に俺は毎回の如くこう呟くのだ。
「リア充どもめ、爆発しろ」
「醜い嫉みね。あと古いからそれ、やめといたほうが賢明ね」
「うおっ、何っ! 誰っ!? びびっくりしたぁ〜」
いきなり背後から掛けられた声に反応してびくっと肩を震わせ振り向くと、一メートルほど後ろに憮然とした表情を浮かべた美少女が立っていた。腰に手を当てこちらを半目で見る瞳はひどく呆れている。
「いつの間に……って、誰が醜い嫉みだって? 俺は事実を口にしたまでだ」
我ながら素早く動揺から立ち直ると脊椎反射の如く黒髪の少女に食ってかかる。すると彼女、郡元美麗はこれ以上救えないと言わんばかりに深いため息を吐き出した。
「知らなかったの? 他者に対して自分に持ち合わせていないものを羨み切望することを世間一般的に妬み嫉みというの。実に醜い行為だわ。死になさい」
最後はバカにしくさったように鼻で笑ったところで彼女は満足げに口を閉じた。さしもの俺も出会い頭にここまで罵られた経験は初めてである。謂れもない罵倒に思わず口角がぴくぴくと震え、今すぐにでも逆ネジを食らわしてやりたくなる。売られた喧嘩だと受け取っていいのだろうか。ここで口論大会に興じるのも悪くはないだろう。
「……」
だが、罵倒罵り合いマウント取り合戦を行うには、この場はいかせん人目と環境が悪すぎる。だから俺は込み上げてくる卑屈な感情をぐっと押しとどめ、別の言葉を口にすることで、険悪となったムードの回復を図ることにした。
「と、ところで、なんでもうお前がこんなところにいるわけ? 早くない?」
若干裏返った声をごまかすように近くにあった大きな時計に視線を向けると、約束の集合場所まではあと三十分以上の猶予があった。自分もその早い部類に入る時間に到着しているのだが、これはこれそれはそれ問題だ。言ったあとに気づいてしまう今の俺には、彼女と顔を合わせるまで待ち合わせていたあの全能感にも似た余裕はなくなっていた。
だが、そんな場の繋ぎ程度の意味合いで放った言葉に対し、あろうことか、俺よりも動揺した人物がいた。
「わ、悪い? 私が君より早く到着することで何か不都合なことでもあるのかしら?」
視線をきょろきょろ左右に忙しなく這わし、右手を胸の前でにぎにぎする挙動は控えめに言って超絶可愛——じゃなくて怪しい。
人間、なにか後ろめたいことがあると挙動に現れやすくなるのだが、そのあたりの感覚は冷静沈着を地でいく彼女にも通じるものだったようだ。校内でときたま見かける彼女はいつも仏頂面だし、こういった表情もできるのかと素直に驚いてしまう。
「な、何かしら? その新種の生物を見つけたときのような表情は。やっぱり何か文句があるってわけね」
「べ、別に……」
あまりの意外感に長く見つめてしまっていたのだろう。郡元は何を思ったか、羞恥を通り越して我が威を得たと言わんばかりに口論なら受けて立つわよさぁ殺りあいましょうと、瞳の奥に冷たい光を湛えてそんなことを口走ってきた。
……心外だぜ。
けど、先ほどの想いを思いのまま伝えるのはあまりに恥ずかしすぎるし、俺がもっと大胆な性格なら……なんて、考えるだけ無駄なのだろう。平行線はどこまでいっても平行線のように、たらればなど、所詮どこまでいってもたられば以上になれることはないのだと俺は知っている。
だから俺は彼女の挑発じみた物言いに応える代わりに、上着のポケットからあるものを取り出した。あるものといっても、市販で買えるごく普通のカイロである。もちろん、貼らないタイプ。一回限りの使い捨て。
「これは?」
唐突に手渡された白い正方形を、郡元は大きな目をぱちくりさせてそんなことを聞いてきた。
「カイロ」
「違うわ、行動の意味を聞いてるのよ」
わかり切ったことを言わせるなと、怜悧を思わせる郡元の瞳が語っていた。
そして、そのあまりにも馬鹿にしくさった目は少し俺をカチンとさせる。
「ははーん。さてはお前、俺がここに到着するまでずっと待ってたんだろ? おおよそ一時間くらい」
「うっ……」
「え、マジで?」
山を張った発言だったのだが、郡元はなぜか言葉を詰まらせた。少し恥ずかしそうに視線を逸らす仕草からしてまさかまさかの図星だったらしい。いや、ほんと、何してんのこいつ。
季節は十二月。当然、今日もそれなりに寒いし太陽も出ていない。体感気温だけで言うと十度前後が妥当だろう。
そんな寒空の下、一時間近くも待ちぼうけるのは苦行であり苦痛の所業だといえよう。俺だったらそんなバカな真似はしない自信がある。
推測するに彼女の性格からしてまず待ち合わせに遅刻することは想像し難い。時間にシビアっぽいし。だが、時間に対して真摯であることは、ルーズであるよりよっぽど好感を持てる。ゆえに、そのことについて指摘しても押し問答になるだけで効果的な改善は得られそうにない。人間の性質というのはそう簡単には変えられるものではないのだ。
問題があるとすれば早く到着を果たしたあとだと俺は思う。
俺からしてみれば、近くのカフェだったり構内だったコンビニでもいいから、とかくまぁ寒さを凌げる場所に身を置けばいいものを……。
「でもまぁ、風邪でも引かれたこっちが困るしな」
「……」
彼女の性格上、他人に迷惑をかけることは望むところではないはずだ。それが自立性の高い郡元が一番嫌いそうな気もするし、今日これから行動をともにする人間の立場からしても間違ったことは言っていない。
そして、これが決定的な言葉となり、郡元は観念したように深いため息を吐き出すと、一呼吸間を置いてから俺の手の中にあったカイロを渋々受け取ってくれた。
瞬間、ぽしゃりと小声で何やら呟いた。
「……一応、ありがとうと、言っておくわ」
「え?」
俺の返事を待たずして、聞き返したときにはもうすでに彼女は二階から一階へ下りるエスカレーターに向かってすたすたと歩き出していた。長い黒髪を編み込み、一本のお下げに纏めた背中が遠のいていく。
ま、待てよ? 今、俺の聞き間違いではなければ……。
まさかと思い、慌てて彼女の後を追いかける。幸い、彼女にはエレベーター前で追いついた。
「な、なぁ、今なんて言ったんだ?」
乱れた呼吸も整えずに問いかけると、
「早くいくわよって言いたの」
郡元は一切俺のほうを振り向こうとはせず、ことさら無味乾燥気味に、あるいは事務的にそう口にした。ともすればそれはこれ以上聞くなという彼女からの警告のように思えた。
だから、それ以降、御望みとおり俺は黙って口を閉ざす。
世の中には知らないことのほうが幸せだって事情もある。
たとえば、いつもは長い黒髪に隠れた耳が、真っ赤に染まっていること、とかな。
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