「はぁー……」

「どうしたのかしら、そんな鬱屈そうなため息ついて」


 それからしばらくのこと、俺が多大に内包した心労をため息と一緒に吐き出すと、学校一の美少女様は他人事のようにそんなことを口にしたのだった。

 条件反射の如く「いや、どう考えてもお前のせいだろ自覚ねーのかよ怖ぇよ」と口に出してしまうのはなんとか寸前で押し留める。これを口にすると、もうひと口論勃発は免れない。大体、言い合えるほどの元気も気力も今の俺にはなかった。


 だからここは一つ、視線だけでささやかな抗議とし、この場を収めることにした。


「だから、何?」


 服についた毛糸を払うが如き視線を向けてくる彼女——もとい郡元美麗の現在の風采はというと、あの目に毒なバスタオル姿から一転し、暖かそうなモコモコ素材で作られた寝巻き姿に変わっていた。

 これはつい先ほど、渋って着替えようとしなかった彼女をなんとか言いくるめて着替えてもらった……いわゆる俺の努力の成果ということになる。そして、俺が疲弊した原因もこれにあたっている。


 わざわざ渋っていたのは、ただ単に俺をからかって遊びたいだけではないかと予想しているが、まぁ、あながち間違ってもいないと思う。

 普段、学校での彼女は比類なき優等生である。

 常に凛とした空気を釈然と放ち、教師すら一目置く存在として我が校に君臨している女王さま。ゆえに、口頭だけで今の彼女の姿を説明したとして、一体どれほどの生徒が真に受けるだろうか。たぶん、返ってくる反応の四割が嘲笑で、五割が罵詈雑言、そして残りの一割が無視無関心……これが現実的で妥当なとこだろう。


 仮に俺以外の誰かがそんなことを口にしようものなら俺だって信じない自信がある。

「こいつ何言ってんの?」って、教室の隅っこのほうでそっと口元を緩ませていたに違いない。卑屈なんだよなぁ……。

 まあ、それほどまでに、我が校での郡元美麗の人気は天高く、分厚い人望を誇っているのだからしょうがない。結局、誰がどう説明しようが、こと彼女の問題は本人の口から直接説明しない限り、普段の彼女の素行自体が抑止力となり、ぞんざいな妄言は直ちに打ち消されてしまうのだ。


 だからきっと本来の俺も当然の如く信じなかっただろうし、それ以前に俺が彼女に抱いた印象は完璧主義者の五文字だったので無意味な過程だったのだろう。

 成績優秀、容姿端麗、品行方正と、まぁ、彼女を表すそれはそれは美しい四字熟語を挙げれば枚挙にいとまがない。


 さて、ここいらで話を戻そう。


 これまで蕩々と語ってきたのは、過去の俺が抱いていた郡元美麗の印象である。

 そして今では、その印象は大きく変わっていて。

 他を寄せつかない圧倒的な存在感も、漠然とした噂も、遠目から見た印象でしか彼女を推し量るための判断材料に欠けていたとつくづく思う。


 言ってしまえば、俺はまだまだ目の前の少女を推し量れていない。どの彼女が本物で、どんな感情で動き、何を見て笑うのか、何を思って悲しむのか、彼女の感情心理はこれっぽちも理解できてないのだろう。

 だから俺は、再びソファーに腰を沈める彼女、郡元美麗に水を向けるのだ。


「……んで、俺の普通がほしいって言うが、具体的にはどういうことなんだ?」


 平凡が欲しい……そう言われても余人にはまるで意味不明。だいたい平凡と捧げるものでもなく、自然と身につけている素養だと思う。それを欲しいと言われても困惑はすれど得心でやしない。目に見えるわけでも形があるわけでもないのだから。

 そんな一般常識的な疑問をぶつけると、当の郡元は少し考える仕草を取った。


「そうね……、実は具体的に、そう改めて言われると私にもその辺はよくわかってないの」

「は? それじゃあ——」

「だから、それを見つけるために、明日、出掛けるの」

「出かける……?」


 喉元まで出かけていた言葉を飲み込み、彼女の言葉を反芻する。彼女の言葉には大切な『誰』と『どこへ』が抜けていた。だから、言葉を理解できても大事な意味までは伝わってこない。


「そう。出かけるの」

「誰と?」

「あなたと」

「俺と? どこに?」

「水族館」

「水族館? 俺と? お前が?」


 言って、俺と彼女の間を指を行き来させると郡元はさもありなんと頷いてみせた。

 翻って俺はというとわからないことだらけだ。言っていること自体はなんとなくわかるのだが、ことの経緯がまったく理解できなかった。


「……どうして?」


 だからほぼ反射的にそんな言葉が口をついて出ていた。そんな俺を、郡元の呆れきった視線と声色が射抜く。まるでバカでも見るような眼差しにちょっぴりハートブレイク。


「さっきあなたが自分で言ってたじゃない。俺の普通がどうのこうのって」


 そこまで言われてさすがの俺も思い出す。

 正確には、俺の平凡性を求めた彼女の言葉に対して、具体的に何をどうすればいいのかわからなくて当の本人に聞き直したまでのこと。しかし、問題はそこで提案された思わぬ案に動揺してしまい、脳がフリーズし、自分の言動が頭の中からすっぽ抜けてしまったこと。


 故に彼女に非はなく、これは紛れもない俺の失態ということになるのだが、裏を返せばそれほどまでに彼女の提案は衝撃的だった。

 俺は一度居住まいを正し、ふぅ〜と深く息を吐く。そして、先ほど彼女が言った言葉を思い出し、繋げ、俺はひとつの答えを導き出した。


「とどのつまり、俺と水族館に赴き、平凡さがなんたるかを知りたい、と?」

「まぁ、端的に言えばそうなるかしらね」

「マジ?」

「ええ、マジよ」


 なおも現状を信じられない俺の確認に、彼女は静かな肯定をもって答えてくれた。変なとこで律儀だ……。だからなのか、少しだけ興が乗ってくる。


「本気と書いて?」

「マジってやつ……といえば満足かしら?」


 煩しそうな声色と表情……されど律儀に乗ってくるあたり、意外と悪い奴でもないのかもしれない。

 そこまで考えて、俺はふと気づいた。

 それは、俺自身、郡元美麗という人間をあまりにも知らないということ。

 でも、思えばそれも当然の話であった。なにせ俺と彼女は出会って間もなく、いくら同じ学校に通い、同級生だとしても、これまで関わり合ったことは一度もなかったのだから。


 彼女がいくら校内でも屈指の有名だとしても、関わり合わらなければ聞こえてくる噂から得られるのは漠然としたイメージだけ。

 だから、あの郡元美麗が平凡を要求してきた際には酷く驚いてしまった。それだけじゃない。意外と悪ノリするところも、笑った顔も、不満げな顔も、羞恥心が薄いところだってそうだ。


 俺は、郡元美麗を何も知らない。


「それで、行くの、行かないの?」


 彼女は言っていた。

 俺が平凡を捧げる代わりに、特別を捧げてくれると——。

 なら、最初から俺の答えなど決まっていた。

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