3
ローテーブルに置かれたマグカップの中からゆらゆら立ち昇り湯気が暖房の風に吹かれては消え、また昇る。
紆余曲折あり、ここは同級生の女子が暮らすマンション内。そして、そのリビングにはつい数十分前とは比べものにならないほどゆったりとした時間が流れていた。
「……」
それにしてもさすがというべきだろう。俺の住む街にいくつもない高層マンション、もといこの部屋は騒音防音対策がしっかり施されている。おかげで外部から発生する音という音は恐ろしいくらい遮断されており、先ほどから俺と彼女しかいないこの空間には重たい沈黙が流れ、ひどく気まずい。
この気まずさはあれに似ている。学校の廊下で道を譲り合ったとき、相手とまったく同じ思考回路のまま、逆に互いの退路を防いでしまったときに感じるあの気まずさだ。
ここで一つ気が利いた話題でも提供できれば俺にも幾分と救いようがあるのだが、いかせんこっちは歴戦のぼっち。独りでいることには厚い自信と信頼と定評があるのに、これが二人になった途端、急激に戦闘力が激減してしまうのだ。何か呪いかな?
いやなに、これが同性だったら俺にもなんとか打つ手はあったと思う。適当にアニメの話とかゲームの話とか好きな異性はいないのか(笑)みたいな話を振ってあげればなんとかなったと思わなくもない。無理か、うん無理だな。
ま、まぁ同性でも厳しい状況に置かれている最中、今目の前にいる相手が異性だという点でもう終わっていた。加えて、その人物が美少女であればあるほど倍倍ゲームのようにこちらのコミュ力は減少の一途を辿っていってしまう。
先ほどは一種の興奮状態で気が動転してしまい、学校一の美少女と何の気兼ねなく会話を交わしていたのだが、一旦落ち着いてみると、学校一の美少女がこんなすぐ近くに腰を据えている事実を再認識してしまい、情けないこと極まれり、現在俺の体は石の如く硬直してしまいまともに直視することすら叶わない始末。
時間だけが刻一刻と過ぎ去っていくなかで、さてどうしたものかしらん……そう気を揉んでいたときだ。チリン——と金属同士が接触する硬質かつ澄んだ音音がリビング内に響いた。それが誰の挙動で生まれた音なのか、もはや確認するまでもない。
さすがというべきだろう。この家の住人は、キョドる俺とは違っていた。仮にも男の端くれである俺と二人きりという微妙な空間にいるはずなのに、斜め左前のソファーに腰を据えた彼女は平然とした様子を貫いているのだから。
細くしなやかな指は上品にカップを持ち、くいっと煽るさまはどこか貴族然としている。ここでズズッと音でも鳴らしながら紅茶を飲んでくれたのなら幾分か面白味があるのだが、彼女を前にしてそれは絶対にありえないと断言できる。
だからこそ、余計に疑問を抱くこともあるのだ。
ここは一つ、臆せず質問してやろう。
けれど、それを意を決して問う直前、先に話しかけてき彼女によってそれは無意味と化した。
「それ、早く飲まないと冷めちゃうわよ」
「え? あ、あぁ」
その視線が辿る先はつい先ほど彼女が持ってきてくれたマグカップ。中に入っているのはリクエスト通りのブラックコーヒーだ。
これは俺のためを思い──そう思いたい──彼女が淹れてくれたもの。それなのに当の俺は緊張ばかりして、不覚にも、指摘されるまでその存在を忘れていた。
失礼な奴だと思われたかもしれない——と俺は内心慌てふためきながら取っ手に手を掛けた。そのまま口元に運び、カップの縁に口をつける。追ってコーヒー独特の深い香りが鼻腔を、苦味がある風味が口内に広がった。
「ふぅ……」
ゆっくり喉に流し込むと、自然と吐息が漏れ出た。強ばっていた体から力が抜けていくのを実感する。往々に温かい飲み物にはリラックス効果があるといわれているから、落ち着いて話をしたい今は非常に助かる一杯だ。
そんな俺を一瞥し、彼女は落ち着いた口調で口を開いた。
「落ち着いたかしら」
「……お陰様で」
単純に彼女が飲みたいついでに俺にも提供してくれただけなのか、はたまた彼女なりにこちらの肩肘ぐらいを見兼ねて気を遣って淹れてくれたのか、真相はわからないけれど、後者だったら嬉しいな……とか思いながらぼそっと礼を口にした。
すると、その返事と言わんばかりに彼女は持っていたカップを皿受けにカチャリと置いた。
それから背もたれに体を預けると、細く長い手足をおもむろに組んでこちらをすっと見据えてくる。ここで忘れてはならないのは、現在の彼女はバスローブ姿だということ。
「さて、お互いに落ち着いたところで、これまでの経緯とこれからの方針についてさくっと話し合いましょうか」
「お、おう……」
そう口では返事をしながら俺の意識はまったく別の方向に気を取られてしまう。
バスローブから伸びるしなやかですらっと長い足がゆっくりと組み交わされる。むにゅっと重なり合った太腿が形を変える。いかん。視線が勝手に引き寄せられる!
「まずはこれまでの経緯から……って、あなた人の話を聞いているの?」
「えっ、あ、あぁ……聞いてる聞いてる」
嘘である。本当は魅力的なおみ足に気を取られ、何をどう決められたのか全く把握しきれていなかった。しかしだからといって、それを馬鹿正直に白状するのも羞恥ものなのでとっさにごまかした。ついでに視線も逸らしてしまったせいか、俺の挙動はどうも嘘くさいけれど——事実嘘だけど——そこは時に運に任せるほかない。
「本当かしら? 何か最低で下卑たことを考えているような顔をしていたのだけれど」
彼女はそう言うと、顎に手を添え細めた目でじっとこちらを見据えてくる。それは百パーセント信じている者が取らない仕草である。ひょ、ひょえー。
「下卑た考え? バカな。超ジェントルメンを地で往くこの俺がそんな卑猥なことを考えているわけないだろ?」
「そうかしら? まあでも、私が思うジェントルメンは何か弁明するときに目を逸らしたり、あからさまに小声になったりしないと思うのだけれど?」
「そ、それはお前の中の理想だろ? 押し付けんな。俺の中のジェントルメンはちょっぴりシャイで気弱で内気なんだよ」
「何よその理想……。正直歪だと思うわ」
頭痛を堪えるように、彼女は額を手で押さえながらあからさまにため息を吐いてみせる。
そのどうしようもない奴を前にしたような態度に何かひとつでも反論したい衝動に駆られるが、我ながらすこぶる同感なのでそこに反論の余地はないから悔しい。だから今は大人しく押し黙り、ただ気まずいこの空気をうまくやり過ごすのだ。
しかし相手はあの郡元美麗。簡単に見逃してくれるような相手でもなかった。
「まあ、目の前にバスローブ姿の美少女、もとい私がいれば、あなたのような平凡な男子は気になっちゃって仕方がないわよね」
こちらがが必死にごまかそうとしていた事実をこうもあっさりと口にする郡元に絶句する。……ぐ、ぐぅ。や、やっぱりバレてんじゃねぇか。
必死にごまかそうとしたぶん恥ずかしさも二倍になって押し寄せてくる。視界の端で勝ち誇ったような笑みを浮かべる彼女の姿がありありと浮かぶようで、その気恥ずかしさは四倍増しで悔し恥ずかしい。
「いいわよ別にそれくらいは。視姦されることくらいは許してあげる。陰で私をどう弄ぼうがあなたにも赦される権利くらいはあるわよね」
「ちょっと待て。前提がおかしい。お前の言い方だと、すでに俺がお前に好意を抱いている前提なんだが?」
「え? 違うの?」
おいおい嘘だろマジかよこいつ。きょとんとした顔で小首傾げちゃってるよこの子。素で驚いちゃってる反応だよこれ。いやほんと、どんだけ自意識過剰なんだよ……。俺が惚れてる前提ってどんだけ自信過剰なんだよ。その傲慢な思考にこっちがビックリ仰天だわ。
一瞬、本気で引いてしまったが、将来こいつが苦労しないためにも違うものはしっかり違うと言っておかなければなるまい。これも世のため人のため。こちとら心を鬼にする覚悟はできている。
俺は真面目くさった表情を浮かべると、その元凶たる相手をじっと見据えてからゆっくりと口を開いた。
「おいよく聞け。自分の容姿がちょっと他人より秀でているからって調子に乗るなよ。内面で勝負しろ内面で。いいか? お前らみたいに容姿を鼻にかけ、俺みたいな平凡な連中を侮っている連中ほど後で泣き目を見る羽目になる。昨今の目敏い調査なんかでは美人な奴ほど婚期が遅れる傾向にあるという結果も出ているらしいからな」
「つまり、私もその傾向に当てはまる可能性がある……とでも?」
小首を傾げ、郡元は口元を微笑ます。一見笑っているように見えるがその実、瞳の奥には暗殺者がいて、いつでもこちらを射抜こうとしている。怖っ。美人のシニカルチックな笑み怖っ。思わず日和ってしまう。
「け、警告じゃない。ちゅ、注意勧告だ。考えてみろ、俺にそんな強制力はないし、本当の意味で人は他人に警告しても意味はないんだよ。いくら他人が規制しても変わる意思がない奴は一生変わらないからな」
「ふうん、なるほど。一理あるわね。特にあなたが言うと説得力が違うわ」
「……ほっとけ」
厄介なことに、この世の中には変わろうとしても変われない人間だっている。皮肉なことにそういう奴ほど自分を見限り、間違った方向に進みやすい傾向にある。その点俺は目の前にいる彼女に感謝しなければならないのかもしれない。彼女がいなけれ、今頃の俺も間違った方向へと進んでいたに違いない。
そう考えると今さらながらに冷たいものが背中を走った。一時の気の迷い、若気に至りで済まされない、俺は、その後自分の人生を棒に振ってもおかしくないほどの暴挙に出ようとしていたのだから。
そして、そう思えば自然と俺の口から出てくる言葉があった。
「……その、なんだ……」
けれど、いざ言葉にしようと口を開くと急に気恥ずかしくなり、言葉がすんなり出てきてくれない。喉の奥に小骨がつっかえているあの感じといえばいいだろうか。
正直、昔からこんな不器用な自分がもどかしくてしょうがない。無様で、情けなくてしょうがない。大事なことは口にせず、勝手に空回りして自爆して機を逃す。いつも欲しいものばかりが手の中からするりと零れ落ちていく。慌てて拾い上げようとしてもすでに手遅れで、いつも、泣きたくなる。そんな惨めな自分が嫌いだった。
でも、だからこそ、それ以上に感謝の言葉を口にできないような人間にだけは、俺も成り下がりたくなかったから。
「ありがとな……」
「? 今何か言ったかしら?」
ぽつりと口に出した言葉は彼女に届いていなかったのか、ティーカップを片手に小首を傾げて俺を見詰めてくる。からかっているとかおちょくっているとかではない、本当に聞こえていなかったのだと疑問に揺れるその大きな瞳が教えてくれた。
一瞬、はぐらかそうという考えが頭を過ぎった。頬が無意味に熱くなっているのがわかる。慣れない羞恥に背中がむず痒くてしょうがない。
ふと考えてみると、これまで生きて短くも長い十七年間。家族以外の誰かに礼を口にする機会は少なかったように思う。ほぼ空気のように生きてきた俺は、学校行事におけるほとんどを流されるまま、空いた場所を埋めるみたいに、ぬらりくらりと過ごしてきた。だから、自然と礼を言われることも、ましてや言うことも滅多になかったのだ。
だからこそ、今、久しぶりにその機会が訪れて、猛烈な気恥ずかしさが溢れ出してきているのだろう。今すぐにでも顔を背けたい、逃げ出したい衝動が俺を苛む。だが、俺はそれらの羞恥心から真っ向から立ち向かうのだ。今ここで、俺には助けてもらった感謝を、彼女に伝える義務があるから。
「ぐっ。い、いや、だから、その……」
もう一度。今度はちゃんと聞こえるように……。
そうやって俺は強張った口をゆっくりと動かしていく。
「俺が間違いを犯そうとした時、お前が止めてくれなかったら、今ごろ俺は——」
「やめなさい。お礼の言葉なんてその場限りで片付いてしまうような手段なんてものは私は求めていないから」
——『取り返しのつかないことになっていた。だから、ありがとう』と、そう続けて頭を下げる手筈だったのに、その先の言葉は無情にも、非情にも、礼を伝えるはずの当の本人の言葉に阻まれた。
コトン——と静かに受け皿にティーカップが置かれる音が響く。否応なしにその音の主人へと視線が引き寄せられた。すると、そこには呆れたものを見る目でこちらを見据える少女が一人。
「……」
これにはさすがの俺も押し黙る他なかった。
謝罪は受け取らない——そう真正面から告げられてしまい、他の感謝の伝え方を知らない身からすればもはや打つ手は残っていないのだから。かく言う今の俺は、
お礼すら口にできない俺はもうここにいる理由はない——そんなことを思ったのは放心してからどれくらい経った時だったろうか。遠くのほうからピピーッと甲高い機械音が微かに耳朶を打つ。
「洗濯、終わったようね」
その呟きを耳聡く拾った俺はおもむろに立ち上がる。そんな俺の行動を、ソファーに腰を据えたままの彼女が不思議そうな瞳で覗いていた。
「どうかしたのかしら?」
案の定、疑問が飛んできた。
「今の音、洗濯が完了した音だろ?」
「ええ。そうね」
なんでもなさそうにそう頷いてから、「で、それがどうしたの?」と彼女が先の言葉を求めてくる。そのインプリケーションに気づかないふりをして、俺は立て続けに問いかける。
「確かあの洗濯機の中には俺の服が入ってるって、さっきお前言ってたよな」
「ええ、そうね。あなたの服、雨やら土で汚れてしまっていたから。あぁ、もしかして余計なお世話だったかしら?」
ちらっとこちらを覗き見ながら口元をいたずらっぽく歪める彼女。もはや言うまでもなく、俺の答えを察してなお彼女は笑っているのだ。
……ほーんと、いい性格してんだよなぁこいつ。
「いんや、感謝してる。感謝しているさ。ありがとう。風呂やらこのコーヒーやら何から何まで色々含めて感謝してる」
「別に気にしなくてもいいわ。さっきも言ったとおり、最初から私は感謝の言葉なんて求めていないから」
素っ気なくそう口にしてふいっと顔を横に逸らす郡元。本当に必要ないことだと仕草で教えてくれる姿はなんだか子供ようで、大人びた素養を身に付けた彼女が見せた意外な姿に、不覚にもわずかながらに愛嬌を感じてしまった。
それがお門違いだということがわかっていながら……。
俺と彼女は違う。
彼女は完璧を体現し、なんでも卒なくこなし、物語の中心にいるような主役。対して俺は、地味で平凡な目立つことない脇役だ。
それは圧倒的な現実だと、当たり前の事実だと、校内でまことしやかに流れる彼女の噂話だったり、遠目に眺め見る姿から、自分勝手なファクターを通してそう判断していた。
でも、どうだろう。
今、まさに当の彼女自身と面を合わせ、会話を交わし、表情や仕草、感情に触れて……その間に隔たる圧倒的な差異が少しぼやけてしまった。
何が俺と異なり、何が彼女を『特別』たらしめているのか。
何が彼女と異なり、何が俺を『平凡』たらしめているのか。
「……」
俺自身その答えがわかったところで何もできないことくらいわかっている。そう、わかっているのに、もしかしたらって期待している自分がいて。ひどく、それはもう哀れに思えてしまうほど、この考え自体が滑稽だと理解している自分がいて。バカバカしいにも程があるって納得してしまっているのに。きっと、その答えがわかったところで俺と彼女の間にある絶望的な差は埋まることもないし、ましてや何か起こることはないのだろう。そう、全部理解しているはずなのに。
……だけど、それでも、それでも俺は心のどこかで期待せずにはいられなかった。
そんなどうしようもない自分に思わず自虐めいた笑みが溢れてしまう。
「ねぇ?」
ふいな呼びかけ。彼女が俺を見ていた。
「な、なんだよ?」
物思いに耽っていたからか、返事は少しぎこちないものになってしまう。そんな俺を面白おかしそうに見つめながら、口元に淡い微笑を浮かべ含みのある表情と声色で郡元は何の脈略もなくそれを口にするのだった。
「私はね、君が欲しいの」
「へ?」
人は自分が理解できない言葉には即座に反応できない生き物だ。だからこのときの俺も何を言われたのかいまいち理解できずに呆けてしまう。彼女の口から放たれた言葉だけが意味を持たずに俺の中で煩く反響して考えが纏まらない。
そうやって戸惑う俺に彼女は容赦はしなかった。
「厳密に言えば、欲しいのは君の平凡のほうだけれど」
「は?」
取って付け加えられたような言葉に俺の困惑は一層深くなる。
平凡が欲しい……彼女は確かにそう言った。そう言った気がする。その真意までは判然としないけれど、確かに彼女はそう口にしたのだ。
「……」
一度、言われたことを加味して整理するため俺はマグカップに口をつける。コーヒーは少し冷めてしまっているが、乱れた心を落ち着かせるには丁度いい温度だ。
マグカップから口を離すと、思わず気の抜けるような吐息が漏れ出た。それを思考が纏った合図だと判断したのかバスローブ姿の少女が返答を求めるようにして視線を向けてくる。
「……」
俺は腕を組み、顔を伏せ、さも塾考しているかのように仕草を取った。無論、いまだに困惑中である。
二人とも固く口を閉ざしたこの場に流れる空気は重く、第三者からすれば険悪とも思える雰囲気がこの場を席巻していた。
果たして、その重苦しい空気を壊したのはいやに低く深みのある俺の声色だった。
「どゆこと?」
それすなわち言葉とおりの意味だ。俺には彼女が放った言葉の真意がまるで理解できなかったのだ。
平凡がほしい……確かに彼女はそう言った。紛れもなく、俺の目の前で、平凡なこの俺を前にして、一切を臆することもなく、躊躇いを見せる素振りもなく、ただ淡々とそう口にしたまでのこと。
だからこそ、意味がわからなかったと言っていい。その価値を知っている俺だからこそ余計に、だ。
俺は彼女の続きの言葉を待った。その真意を知りたかったから。
だけど、
「一緒よ。あなただって、特別がほしい……そう思っているでしょう?」
そう言った彼女はティーカップの縁に再び口を静かにつける。
『特別が欲しいでしょう?』
それは、彼女からなんでもないように投げかけられた言葉。特別を持つ彼女からすれば息をするように放たれた言葉だったはずだ。
だけど、不覚にも俺の心臓はその言葉に反応してしまったのだ。
特別がほしい……。
いつも、心のどこかにそう思っていた自分がいて。同時に手を伸ばして足掻いたところで決して手に入らないことがわかっている自分もいて。それでも、それでもどこまでも『特別』を手に入れたいと諦めの悪い自分がいて。
だからこそ、今しがた彼女が口にした言葉には驚きを禁じ得なかったのだ。それはまるで悪魔にでも甘い言葉を囁かれたような錯覚を起こすほど。
喉も乾いていないのにごくりと喉が鳴った。
俺はすぐに返答を口にすることができなかった。
裏を返せばそれは、心のどこかで期待しているから……。
特別を持つ、彼女なら、もしかしたら……。
そんなことを考えていると、ふとすぐ近くに人の気配を感じた。ふわっと甘い匂いが鼻腔を擽る。条件反射で流し見ると、俺の心臓は痛いくらいに高鳴った。なぜなら拳一つ分くらい空けた左肩の位置に見知った顔があったからだ。端的に言えば、学校で一番と言っても過言ではない容姿を誇る郡元美麗がこちらを覗いていたから。しかも、上目遣いで。
「……お、おいっ」
「ん? 何かしら?」
左肩を持ち上げパーソナルスペースの確保をしつつ、俺は上擦った声でそれとなく注意勧告を行う。しかし当の彼女はまるでわかっていないように惚けた表情で俺を見つめてくるだけで決して離れようとはしなかった。どころか俺を見詰めてくるその表情は魔性の女と言っていい。どこか魔性かと言えば、俺の意図するところを理解しておきながら、惚けたふりをしてみせているところがマジ魔性。ギザギザな尻尾に真っ黒な羽が生えているように見えるのは錯覚だろうか。
心臓が張り裂けそうなほどドキドキそわそわしていると、彼女はおもむろにその美顔を俺の耳元に近づてきた。そして、まるで甘く溶けるような声で、そっと一言。
「私の特別をあげるから、君の平凡を私にちょうだい?」
「俺の、平凡……」
自分の声なのにどこか遠くの方から聞こえているような、そんな不思議な感覚が俺を苛む。ぞくっとするような声色や気配に体が硬直した。どこまで黒く大きな瞳に吸い込まれそうな気がした。
「そう、君の平凡を、私に……。そして、私の特別をあなたに……」
「……」
「もし、君が私に協力してくれると言うのなら、あのときあの路地裏で失うはずだった私の純血……それをなかったことにしてくれた君に、これを捧げてもいいわよ?」
そう言いながら彼女は自分の胸元のバスタオルくいっと開いて見せた。当然、その間から覗くのはどこまで深く豊満な胸の谷間。
「——っ⁉︎」
初めて見る異性の魅惑に思わず息が詰まる。これが俗に云う脳がバカになるような不思議な感覚なのだろうかと他人事のように思った俺はもう色々とやばいかもしれない。
しかし、童貞である俺の本能はこの危機に見事に対応するかのように咄嗟に目を逸し、誘惑を振り切ろうとした。そうでなければ今ごろ俺は狼になっていたこと請け合い。だが、俺も健全な男子高校生である。どうしようもない男の部分が無意識に柔らかそうな双丘めがけて伸びようとするのはもはや本能と言っていいだろう。
「っ」
が、俺はそこいらの頭が呆けて本能的に肉体的接触を求める猿とは違うのだ。俺には理性という強靭なストッパーが備わっている。エロから女の誘惑から己を守る最後の盾である。その盾で俺は俺自身の貞操と心を守ったのだ。
そう、女の芳しい誘惑をすんでのところで耐えた俺は偉いと自分に言い聞かせながら、最後に迫り来る彼女の体をぐいっと押しのける。仕上げに背を向けさえすれば完成だ。
これぞ、異性の魅力から目を逸らす鉄壁のチェリーバリアってねっ!!
「わ、わかった、わかったから!」
「ふうん、それで、あなたは一体何がわかったというの?」
そんな挑発てきな言葉とともに、背中にむゆんと筆舌し難い柔らかな感触が俺を襲う。その不可思議な感覚に答えを急かされるように、
「お、俺の、その……平凡でよければいくらでもやるっ、から! だから、だからいい加減離れろ!」
と、俺の口は捲し立てていた。
「いいお返事ね」
そして、そんな満足げな声色とともに、背後から気配が遠のいていくのを感じた。
ふぅ……と、思わず胸を撫で下ろす。一気に疲れを感じた。だが、ここで気を抜くほど俺は甘くない。訓練されたチェリーは甘いだけではないのだ。
それを今からこの女に知らしめてやらねば——と俺は一泊呼吸を空けてから、元の位置に座り直した彼女をきっと睨めつけてから口を開いた。
「け、けど、お前の純血はお断りだからな。それでもいいんだったらお前に協力するのもやぶさかではない」
「ふふ、なるほど。利害の一致ということね。いいわ、そういうことにしておいてあげる。けど、きっとあなたは後悔することになるわよ?」
「……後悔?」
いやに挑発的で蠱惑的な微笑を口元に浮かべて彼女はそれを口にする。
「平々凡々な君が、こんな美少女で可愛くて綺麗な私から高貴なる純血を奪える機会を今後失うのだから」
「——っ、そ、それは……」
こいつどんだけ自信過剰なんだよ……と一瞬失笑ものだと呆れてしまう。が、確かに言われてみれば……と正鵠を射る言葉でもあったと思い直す。
どういう巡り合わせか、今、俺と会話を交わすこいつは学校一の美少女だ。片や俺はどこにでもいる平凡な男子高校生。美女と野獣とまでは言わないが、周囲からすればそれに近い感覚であることは間違いないはずだ。
これからの長い人生何があるか誰にもわからない。わからないけど、彼女のような傲慢で自信過剰で、されどそれを裏付けるような才能を持つ稀有な人間と関わり合うことはないだろうと思った。思ってしまったのだ。
そして、そう思ってしまったが最後——。
頭ごなしに彼女の意見を否定することができなかったのだ。
惜しい——、そう思ってしまった自分が存在したのもまた、確かだったことだから。
「ねぇ、自分で言うのもなんだけど、きっと私、すごく気持ちがいいと思うわよ?」
そうやって揺れ動く俺を知ってか知らずか、彼女はなおも試すようなことを口にしてくるからタチが悪い。
正直、頭の悪い発言だと思う。冷静な俺ならそう思って然るべき発言だ。けれど、初めて異性の誘惑に充てられた俺はどう返していいのか、はたまたどこまでが彼女の本心で、どこからが冗談なのか、まるで判断つかずにただ顔を赤くして硬直するばかり。
が、そんな硬直から開放してくれたのもまた、くすくすとさぞ愉快げに笑う彼女の声だった。
「ふふ、冗談よ、冗談」
「……」
「もしかして、本気にしちゃった?」
笑いすぎたのか、目尻に溜まった涙を拭く仕草を取りながら、こちらを覗き込むように聞いてくる。
そんな彼女に対して、俺はすぐに反論できずに目を逸らすだけ。少なからず、彼女の言葉を間に受けていた自分が存在したののまた事実だったからだ。
そして、そんな滑稽な俺を見た彼女がさらにころころと愉しそうに笑うのだ。常に怜悧で精悍な空気を放つ、あの郡元美麗が、だ。
そう思うと、なんだか悪い気もしないのが不思議だ。
「ふふ、あなたって期待通りの間抜けね」
「んだとこの痴女が!」
「痴女? なるほど、それもそれでありね。痴女キャラ。盲点だったわ。確か、そこら辺の男と見境なく——」
そう言って、両手をわきわきしながら何やら妙な手付きで俺に迫ってくる郡元。
「だっ——! 悪かった! 俺が悪かったから、もういい加減にしてくれ——!」
前言撤回。
こいつ、全然怜悧でも精悍でもないわ。
お巡りさん、ここに痴女がいます助けてください。
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