整理整頓が施された広いリビングには、重い沈黙が流れていた。

 今、この家の主——郡元美麗は入浴中である。当然、彼女が入浴中の俺は独りぼっち。彼女の入浴姿を覗く勇気もないので、現在場所をリビングのほうに場所を移し、居心地の悪さを覚えながらもリビング中央にレイアウトされたL字型ソファーに腰を据えていたりする。もちろん、座る位置は一番端っこ。


 そんな謙虚な俺なのだが、実は今現在身に纏うは先ほどあてがわれたバスローブ一丁というあまりも男らしすぎるスタイルだったりする。

 普段着慣れていないのに、これを他人の、しかも異性の自宅で決行しているのはさすがの俺もどうなのかと疑問に思う。もはや一周回って笑ってしまいそうなくらい意味不明だ。


 でも、だからといって俺に出来ることがあるのかと問われると、それはそれで困ってしまうから今は大人しく彼女の入浴が終わるその時を待つほかないのが非情な現状だからしょうがない。

 すでに彼女が入浴してから二十分経過している。が、以前上がってくる様子はない。然り、彼女の入浴を終えるまでの間、俺はやることがないということだ。完全なる手持ちぶさ。そんな俺がやるべき行動は限られてくるもの。

 そんな事を考えながら、俺は改めて彼女が日々生活しているであろう空間に目を配った。


「……ふむ」


 やはりものの一番に目に留ったのは、俺たちが暮らす街を一望できるほど大きな窓ガラスだろう。フラットバーが一定間隔に配置されており、まるっと全ての景色を見渡せるわけではないのだが、それを差し引いても十分すぎるほどの絶景が望める。


 今は生憎の天候で眺めこそよくはないにしても、快晴の日には沈みゆく夕日を正面にエモーシャルな情景を望むことができるだろう。おいおい、どこの貴族様ですか?


 正直、それだけでも十分すぎるほど豪勢なのに、俺を驚嘆させる材料はあちらこちらに点在して、何十インチかわからないほど大きなTVを筆頭に、足の裏が心地いいふかふかのカーペット、変わったデザインの小洒落れたフロアライト、ぴっかぴかのローテブル、見たことない観葉植物などと、そのどれもが高価そうであり、住む世界の違いを認識させられるような気がする。


 聞いた話によると、彼女、郡元美麗の父親は日本の地方議会議員、いわゆる市議会議員みたいので納得いえば納得できる話だ。

 十七年間という些か長い月日を日本で暮らしておきながら市議会議の仕事内容自体を詳しく知っているわけじゃないけれど、自分たちの暮らす市のため街のため、ひいては国のために働く彼らの給金が高そうだと思っているのは俺だけではないはずだ。


 こんなに優れた物件に住めるのなら……いや、やっぱり疲れそうだし俺みたいな平凡な奴が就ける職じゃないか……みたいなことを真剣に思考していると、かちゃりと扉が開かれる音がした。


「待たせたわね」

「い、いや全然全くこれっぽっちもっ!」


 後方から聞こえてきた声を背中に、俺はソファーの上でぴしっと背筋を伸ばす。

 背後の扉が閉まる。徐々にスリッパを擦る音がこちらに近づいてくる。

 風呂上がりの女子が背後にいるという事実だけで心臓はバクンドクンと高鳴り、ほぼ無意識に生唾を飲みこんだ。


 この時、俺の脳内には光る輪っかを頭上に浮かせた天使とお尻にギザギザなしっぽを生やした悪魔が出現していた。

 先手は真面目くさった表情を浮かべた天使のほう。


『振り向いちゃダメだよ! きっと振り向けば、あなたはお風呂上がりの彼女に見蕩れて狼さんになっちゃう! 』


 ふむ、実にもっともな意見だ。そもそも普通の女子に免疫がない俺が、美少女に耐えれる道理はない。ましてや風呂上がりの艶かしい色香に充てられた俺が、目覚めたときには地下牢獄という未来もないとはいいきれない。いや、それはないか。


 そうやって自身の不遇を想像してしまった俺が天使の意見に傾きかけていると、今度は不敵な笑みを浮かべた悪魔がそっと囁いてくる。


『振り向いちゃなよ。そして考えてみろ? 振り向けばそこに美少女がいるんだぜ。しかもそいつは学校一の美少女ときた。見たいだろ? お前が見たくないはずがないだろ? 目に焼き付けたい、お前の本懐はそうだなんだろ? 』


『だめよ。こんな奴の口車に乗っちゃだめ!ここは耐えて自分をしっかり保つのよ!』


『おいおい。たかが振り向いてちょと拝見させてもらうだけなのにえらい大げさだな。いいか、考えてみろ。お前のところに臆さず現れたってことはちゃんと服は着てるってことだろ? もっと気楽にいこうぜ! 』


 予測通り、天使と悪魔らしく意見の相違が発生する。

 見たい俺と、見てはいけないと自制する俺。

 しかし、巷でも——自称——紳士と知られる俺も一健全な男の子である。気を抜くと見てしまいたいという衝動に駆られてしまう自分がどうしても存在するのだ。


『いけない、見てはダメよ!』


 天使がすかさずフォローに回った。


『うるせぇ! こいつは見たいんだよ。お前は黙ってろ!』


『キャー!』


 あっ。天使が悪魔に吹き飛ばされた。

 畢竟、壮絶を極めた自問自答はこれをもって答えは出されたということか。

 残った悪魔は、やりきり顔でぐっと親指を上げてこちらにむかってサムズアップ。お前ならやれると言われているようで勇気が出てくる気さえる清々しいだ。

 そうして俺もその清々しさに背中を押されるように、ちらっと彼女の方に視線を向けることにしたのだった。


「──!」


 そして、振り向いた先にいた彼女を見て思わず息を呑む羽目になった。

 そう、それはあろうことか、浴室前で顔を合わせた時と同じバスローブ姿だったからに他らない。

 問題は、それだけでもかなり扇情的だというのに、風呂上がりという要素が加わり、隠しきれない女の色香を醸し出しているという点だ。


 さらさらと絹のように揺れる烏の濡れ羽色の黒髪。首筋から鎖骨にかけて流れる艶やかライン。高校生離れした大きく突出したふたつの双丘。きゅっと引き締まったお腹もバスローブからつま先まですっと長く柔らかそうな手足が伸びて、その全部が俺の欲情をかきたたせてくる。くそぉ、さすがは童貞を殺すバスローブ!思わず視線が引き寄せられるぜ!


 だが、そうやって人知れず手に汗握る俺とは違い、「今から紅茶を入れるけど、君も同じのでいいかしら?」と、こちらに問いかけてくる彼女の様子に羞恥はない。


「え? あ、あぁ……」


 たったそれだけの会話からでも俺と彼女との素養の違いというか、器の大きさを思い知らされてしまう。この場において情けないことに緊張を抱いているのは俺だけだった。

 そうやって俺が気を病んでいる間にも、背後のキッチンではお湯を沸かすための準備が着々と進められていた。


 静まり返ったリビング内にやかんに水を入れる音や、コトンとやかんをIHに置いたときに鳴る物音だけが静かに木霊する。

 手際がいいのだろう。聞こえてくる音に迷いは感じない。現にその様子を見ていなくても、お湯を沸かすための準備が着々と整えられていくのがわかる。それらの様子から鑑みて、日頃から行い慣れた動作なのだろうと判断するのはそう難しくなかった。


 それから四分もしないうちにお湯は湧き上がった。まぁ、湧き上がったといっても、本当に沸騰したわけではない。教えてくれたのは、IHを止める甲高い電子音。


「聞き忘れていたのだけれど、あなた、ダージリンは飲める?」

「……飲める、と思う」

「ふうん。その曖昧な返答から察するに、飲むのは初めてのようね。……いいわ。あなたが飲める紅茶の銘柄を言ってくれれば、それを淹れてあげる」

「……」

「遠慮はしなくていいわ。だいたいの銘柄は抑えているつもりだから。よっぽどマニアっくなところか、高級品でなければ対応できると思うわ」


 ほら、さっさと白状しなさい——と最後に付け加えてから、彼女は俺の言葉を待つように黙った。まあ、その発言に籠もった自信から察するに、彼女の言う通り、この家にはそれなりの種類の紅茶が置かれているのだろう。俺もその辺は最初から疑ってなどいない。問題は、それ以前だということを今から伝えないといけないということだ。


 背後からは、数え切れないほど存在する紅茶の中から選ばれる銘柄を提供してみせる気満々の気配をびんびんに感じる。その紅茶に対する強い矜恃が、さらに俺の気を滅入させてくることを彼女は知らない。

 そうやって先ほどから押し黙っていると、俺の様子を怪訝に思ったのだろう。先に水を打ったような静けさを破ったのは彼女のほうからだった。


「もしかしてあなた、普段から紅茶とか飲まないの?」

「うっ……」


 逆に、今日日の男子高校生の中に一体どれほどの数が日常的に紅茶を嗜んでいるのだろう。これはあくまでも予想だが、その数は限りなく少数のように思えるのは俺だけではないはずだ。


「反応が鈍いと思ったらやっぱりそうだったのね。いいわ。だったらコーヒーはいかが? もちろん、これを機に紅茶もといアールグレイを嗜んでみるのも結構よ」


 さあ好きなほうを選びなさい、と呆れにも似た声色とともに選択権は俺に委ねられた。


「……じゃあ、コーヒーで」

「ブラック? それともカフェオレ系がいいのかしら?」

「……ブラックで」

「ふうん。わかったわ。ただし、コーヒーはインスタントだから、味への文句は一切受け付けないわよ」


 この発言にはさしもの俺もさすがに慄いてしまった。こっちは初めからインスタントなブラックコーヒーが出てくるとばっかり思っていたからだ。初めから誰が焙煎された豆から抽出された本格的派が出こよう思うか。

 だがまあ……裏を返せば俺にとって彼女の忠告は全く意味をなさないということでもある。


「安心してくれ。それは杞憂だ。俺は普段から生粋のインスタント派だからな。必然的に最初から文句を言うはずがない」


 我ながら男らしく、無駄にキリッとした声でかつ食い気味に発言してしまった。


「そ、なら安心ね。兎に祭文というものね」

「おい、それはどういう意味だ」

「言葉とおりの意味合いよ。……いえ、少し違うわね。豚に真珠といったほうが適切だったかも。兎さんに失礼だったわね」

「そうそう、俺と一緒にされるとか兎のほうが気の毒……って、そっちでもないわ!」


 あまりにもナチュラルに侮辱してくるものだから、不覚にも気づくのに遅れてしまった。そのおかげで綺麗なノリッコミをかましてしまい、なんだかとても恥ずかすぅい。穴があったら入りたい。

 そうやって俺を羞恥のどん底へと叩き落とした当の本人というと、俺の様子など毛ほども気にする素振りもなく平然とした態度を崩さない。


「まあそうね。あなたの言う通りだわ。ブタもあなた如きと同列視されるのはひどく不愉快よね」

「……ひどく不愉快なのはこっちなんだよなぁ。あと謝罪にかこつけて罵倒するやめろっ」


 純真たる心を抉られ、すでに新汰のライフはゼロよ! うっかり涙が零れてきちゃいそうになるからほんとやめてね。


「あらそれはごめんなさい。私としたことが、あなたに勘違いをさせてしまったようね」

「ごほん。まったくだ。俺以外の奴だったら確実に泣いてるところだぞ。これからは謝罪にするか、罵倒にするかはっきりさせることだな」

「そうね。その忠告はありがたく受け取っておくことにするわ」


 そう言って、こぽこぽお湯をマグカップに淹れる音を鳴らしながら、彼女は素直な態度を見せる。

 お? なになにこいつ。急に従順になったぞ。自分の欠点に気が付いてショックを受けちゃったの? 

 まあ、何にせよ、意外と話がわかるやつなのかもしれん。

 と、彼女への評価を改めようしたとそのとき、俺のすぐ背後で妙に人の気配を感じた。振り向けば、両手にお盆を持って、優しげな微笑を浮かべる同級生が一人……。


「それじゃあ早速、あなたの忠告通りはっきりさせるとして、先ほどあなたに言った言葉……あれ、すべて罵倒だから勘違いしないでね」

「知ってるわんなこと!」


 いやほんと、この女、マジでいい性格してやがる。

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