1 色んな意味で郡元美麗は際立っている

 


「ふぅ……」


 体の芯から冷えていた体が、シャワーヘッドから出てくるお湯によってぽかぽかと温められていくのを感じる。視界もすっかり白く染まり、正面の壁に備え付けられた鏡を白く染め上げている。

おかげで目を赤くした間抜けな自分の姿は見ずに済むのだが、未だに現状を正しく把握できていない俺は、止めどなく降り注ぐシャワーのお湯を頭で迎えながらもう一度——つい数十分前の出来事を思い返した。


 身を切るような寒さと分厚い雪雲に覆われ空。

 場所は、物静かな住宅街の中に広がる小さな公園。

 その中で、ひとりの少女に覆い被さりながら、さめざめと涙を溢す青年がひとり……って、ちょっと待った。タンマタンマ。一旦回想やめ。これはあかんやつですわ。改めて思い返してみるとめちゃくちゃ恥ずかしくなってきました。正直今になって「うわあああああっー」って、猛烈に叫びたくて仕方がないくらいには恥ずかしなってきました。


 でもだからといって、現状がそれを許してくれるかと言えば答えはノーだ。仮にこの場で脇目も振らず恥辱に身を震わせ叫ぼうものなら、壁の向こう側にいる彼女にも伝わってしまうかもしれない。

 だから今は、壁に頭をぐりぐりと押しつけることで、体の中からじわじわと苛んでくる羞恥をなんとかやり過ごしている。


「な、何やってんだよ、俺は……」


 同級生の、しかもろくに会話を交わした経験もない異性にキレて、挙げ句の果てに押し倒し、極め付きは彼女の胸の上で泣き出すという恥辱の数々。思い返すだけでも小っ恥ずかしくて死にそうなのに、その上彼女の自宅マンションの風呂を貸してもらっている現状は、やはり「何やってんだよ」の一言尽きるだろう。願わくば俺も排水口に吸い込まれるお湯のようにどこか遠くまで流されたいとすら切に思う。恥に恥を重ねた今の俺にはそれがお似合いの結末に違いない。


「……」


 しかしそうは思っても、そうはできないのもまた現状なのである。

 俺はいつまでも浴びていたいと思う心地いいお湯を止めるべくハンドルをキュッと絞る。タイムラグもなくシャワーヘッドから出ていたお湯がぴたりと止まった。


 それと同時に浴室は一気に静まり返る。唯一聞こえてくるのは、水蒸気によって天井に浮かび上がった水滴が、ポタリ、またポタリと床に落ちる音と、洗面所からウンウンと可動する洗濯機の駆動音くらい。

 長い時の中、十二月の凍て付く寒さに晒されてすっかり冷え切った体も温まり、正気は無事取り戻すことができた。


 浴室の外に出ると、白く染まった世界は終わりを告げ、煌々とした暖色の光が出迎えてくれた。

 同然そこは俺の勝手知ったる自宅の洗面所ではなく、どこぞの高級ホテルを思わせられるほど広くて綺麗な洗面所である。鏡も横並びに三つあるし、水道だって二つ備え付けられている。

 よく見ると、床も単なるフローリングじゃなくて、石なのだ。しかも、マーブル模様ときたら思い付くのはあれしかない。


「……大理石かよ」


 ひょえーと思わぬ高級仕様に庶民を地で行く俺はおっかなびっくりしてしまう。これ、もし何かの拍子に傷つけちゃったりしたら地下牢獄に落とされてあれよこれよと強制労働とかさせられないよね? などと、一抹の不安に身を竦めていると、今の自分が全裸だという恐ろしい事実に気づいた。慌てて着替えを探そうとキョロキョロ辺りを見渡す。すると、ちょうど足元に白いカゴが置いてあった。中には白い生地の衣類が一枚。


「これって……」


 おっかなびっくりそれを手に取り、目も前にばさっと広げてみる。


「バスローブ……だよな。ん? まさか、これを着ろってか」


 それとなく周りを見渡してみてもそれらしい衣類は他に見られない。だから、たぶん俺の解釈は間違っていないのだろう。よく考えてみると、今日着てきた服の全部が今なお音を鳴らして働くドラム洗濯機の中でぐるんぐるんと回されてしまっているのだ。


「つまり、全裸でこいつを——」


 百歩譲って、俺ひとりならまだ許容できる。なんなら、ちょっとしたお金持ち気分を味わえて悪くないまである。

 だがしかし、この一室には俺以外の人間がいて、しかもその人物が同級生の異性でろくに話したことない相手とくれば百八十度話が異なってくる。そんな相手を前に布一枚で対面しようとは単なる変態ではなかろうか。そんな末代まで恥をかかせるような理由でお縄になるのは勘弁願いたい。


 けれど、だからといって、俺の服の全部が洗濯機の中にある限り現状は現状のまま。手詰まりであることにはなんなら変わらない。

 さて困ったものだ……と、うんうん悩んでいるときだった。不意にコンコンと扉をノックされる音が洗面所に短く響いた。咄嗟に手に持ったバスローブで体を隠す。逮捕断固阻止すべき!


「上がったかしら?」


 ノック音から一秒ほど遅れて声が聞こえてきた。が、ドアが開けられることはなかった。


「あ、ああ……うん。上がった。今上がった」


 動揺は悟られまいと、わずかに上ずった声でそう返しながら、俺は素早くバスローブに袖を通していく。今は全裸でバスローブを……とか甘っちょろいことは言ってもられないのである。

 そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、扉の向こうからは淡々とした声色が続く。


「そう。君の着替えは洗濯中だから、それが乾くまでの間、足元のかごの中にあるバスローブを使ってちょうだい」

「わ、わかった。ありがたく使わせてもらう」

「ええ。それで、他に何か困ったことや足りないものとかないかしら?」

「な、なあ、ちなみにバスローブって裸の上から着るもんなのか?」

「ええ、そうね。その認識で間違ってないわ。バスタオルのダウンとでも思ってくれればいいわ」

「な、なるほど……」


 慌てて身に付けたバスタローブを見下ろしながら、本当にこれでいいのだろうかと思う。もちろん倫理的な意味で。


「他には?」


 問われて思考するも、今は特にこれといって思い当たる節はなかった。


「返事がないってことは問題ないのね? だったら早く出てきてくれるとありがたいのだけれど?」

「え? あ、ああ。悪いな。今出るから」


 そう答えながら、腰の紐をキュッと結び、慌てて洗面所を出る。すると、当然ながら扉の向こう側には先ほど話しかけてきた声の主がいる——まではよかった。問題は、もうすでになぜかバスローブ姿だったことだろう。


「……」


 ぽっかり開いた口が塞がらないのが自分でもはっきりとわかる。息をすることすら忘れてしまった。

 しかし、言い訳なしにそれも仕方がないと思う。扉を開けた先に、バスローブ姿の異性が立っていたら誰だって言葉を失ってしまうこと請け合い。それが、異性に免疫がない童貞であればなおさらで、鼻血を吹き出さなかったことを褒めてやりたいくらいだ。


 柔らかそうな生地に包まれ深い谷間をつくる大きな胸はその筆頭だろう。右翼から俺のリビドーを刺激するのは、首筋から鎖骨にかけて伸びる艶やかなライン。左翼には、折れそうなほど細い腰から骨盤、太腿に伸びるラインを描く撫でやかな曲線が猛攻してくる。

 つまり、今眼前にいる彼女のすべてが、男である俺を自失茫然とさせられるには十分すぎるほどの魅力的脅威の塊だと言えるのだ。

 もはや間違いない。正しくこれは、童貞を殺すバスローブ!


「そこ、どいてくれるかしら?」


 けれど、そう思っていたのは俺だけのようで、下からこちらを覗くしらっとした目から一切の感情の揺れは感じなかった。


「あ、ああ、わ、悪い……」


 唐突に我に返り、慌てて脇に逸れる。当然、すぐに空いたスペースを彼女が通る。途端、芳しい香りが鼻腔を擽り、思わずくらっとしてしまう。くっ、さすが童貞を殺すバスローブを身につけているだけはあるっ!

 彼我の戦力差に思わず歯がみしていると、この部屋の主人はちらっと俺のほう流しみると、妖艶に口を開いた。


「先にリビングで待っていてくれるかしら? 話は私が上がってからでいいわよね」

「あ、ああ」


 わずかなタイムラブを発生させながらもなんとかそれだけ返事する。そして、黒髪の美少女は颯爽と扉の向こう側に消えていっ——


「ああ、最後にひとつだけいいかしら」


 かと思いきや、閉じ切ったはずの扉の向こう側からいやに蠱惑的な声色が鼓膜を震わせてきた。


「私は別に構わないわよ」


 するすると着崩れする音に喉を鳴らす。その音だけで、扉の向こうで彼女の柔肌を守っていたバスローブがどうなったかなど容易に想像できた。

 俺は返事はせず、その先の言葉を待った。

 そして、遅れて聞こえてきたのは、どこまでも艶かしくもいたずらっぽい彼女の声。


「君に、そんな度胸があれば……だけれど」


 具体的なことは口にせず、彼女はその言葉を最後に浴室の向こう側へと消えていった。

 残ったのは、悶々とした思いを胸に、結局は何もすることができず、すごすごとリビングに足を向けた哀れな男だけだったことは言うまでもない。

 ふっ、笑いたければ笑えよ!

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