「——一体どういう——かしら」


「——わかっているの——先ほどまでの——されないことなの」


「あなた、人生を——するつもり? もしかして——なのかしら? あなた、あのとき私が止めていなかったら——のつかないことになってたのよ。迷惑を被るのは——じゃない。君の——や、————、だってそう。軽率なその行動一つ一つが迷惑をかけるの。その辺のことを、もっと自覚なさい」


 思考すること——それすなわち、人類が持つ最大の武器である。そして現在、その武器を放棄した俺は、どういうわけか、閑静な住宅街の中にある小さな公園の中で懇々と説教を受けていた。


 どこかで聞いたことのある冷ややかな声が鼓膜に響く。ただ、その相手がどこの誰で、どういう経緯で俺なんかのためにご高説を述べているのか、それがわからない。

 唯一一つだけわかっているのは、どうやら俺は警察のお世話になることはなさそうだということだけだった。逆に言えば、それ以外は確かめる意義や必要性をろくに感じることができず、俺はただひたすら目の前から告げられる言葉を前に茫然として俯いていた。


「——ねぇ、君、いい加減俯いてばかりにいないで、人の話はちゃんと聞きなさい」

 文字通り、今の俺はただそこにいるだけの空気のよう。そう思うと、あまりの不甲斐なさに自分が笑えてきて、あまりのみっともなさに勝手に失望する。こんな俺など、生きる価値なんてないのかもしれない——なんて、猛烈で痛烈なまでな虚無感に苛まれていた俺の意識は否応なく、


「——っ」


 と、息を詰まらせる音とともに、空気を切り裂いた何かが俺の左頬を捉え、霧散させた。ワンテンポ遅れて痛烈な衝撃が頬を駆け抜け、鞭打ちのような鋭い音が鼓膜を震わせられる。

 その反動でもともと脱力気味だった俺の体は呆気なくふらつき、情けなくも尻餅をついてしまった。

 そこまでされてようやく俺の意識は瞭然とした。平手打ちをされたことに初めて気がついたのだ。そして気がついたら頬はじわじわと熱を帯び始め、地面とキスを果たしたお尻は驚くほど冷たかった。


「やっと正気戻ったかしら?」


 今まで放棄していた思考や感覚といったものが徐々に鮮明になり、俺はこのとき初めて目の前に立ち塞がる人物に意識を傾け、そして目を見開いた。


「お、お前は……」


 顔を上げた先——距離にして約一メールほど前方に悠然と立っていた人物には見覚えがあった。

 忘れるわけがない。目深に被った黒色のキャップも、ワンサイズ大きい同色のパーカーやボトムズだってそうだ。あの眼鏡の小学生が活躍する人気推理漫画に登場する黒尽くめを連想させる格好に加え、強烈なビンタとなればもはや間違いないだろう。

 脳裏に浮んだのは、彼女——現在は振られてしまったが——との待ち合わせ場所に向かう途中、通りかかった大通りの一つ奥にある裏路地で一人の女子が中年男性に絡まれていていたあの出来事。


 けれど、最終的には俺の思い違いに終わり、助けに入ったつもりが入らない世話を焼いたようで、報復としてまさかの平手打ちというあまりにも苦すぎる思い出と化したあの出来事だ。もはや痛むはずがないと思っていた心臓が堰を切ったように悲鳴を上げた。


「午前中のビンタ野郎!」


 だから口調もワードチョイスもついつい荒くなってしまう。


「野郎? 私の性別は女よ。気に入らない。不適切な表現だわ。やり直しなさい」


 俺を見下ろしながら、あるいは見下しながら、そいつは不機嫌そうな声色で訂正を求めてくる。淡々とした口調は酷く冷淡なものだった。思い出すかのように、三時間前ほどに打たれた左頬が無性に疼き出してくる。


「ふざけんなっ。誰が言い直すか。てか、お前の方から先に謝れよ。先に手を上げたのはそっちの方だろ」


 いくら勘違いで余計なお世話だったとしても、そこに悪意まで持ち合わせていなかった。普通、見ず知らずの相手にビンタをかますとか正気の沙汰とは思えない。

 けど、そんな俺の意見を、目の前の黒尽くめ女は飄々とした態度で、かつ理路整然と躱してくる。


「謝罪はしないわ。先に謝ることもしない。だってそうじゃない。君が変な正義感を胸に抱き、下賤な勘繰りをしなければ、最初からあんな事態は起こらなかったはずだわ」

「……ぐぬっ」


 この黒ずくめ女が言っていることはすべて推測の域に過ぎない。現実、俺はこいつにビンタをされたし、心身ともに傷ついた。然り、この場合は被害者は俺で、先に手を上げた目の前の女が加害者という立場になると思う。

 けれど、彼女が言っていることを頭ごなしに全否定することもしない。確かに、あの場面で俺が見て見ぬふりをすれば、変な正義感に囚われなければ、妙な勘繰りを持たなければ、俺がビンタされるという悲惨な未来は起こらなかったはずだから。

 そう思い直し、自分にも非があることに気づいたときだった。不意に、黒尽くめの女の口元が嗜虐的な弧を描いた。


「それに私、犯罪に手を染めようとしていた人間に謝る頭なんて持っていないの」


 その言葉には、この益体のない論争を終わらせるだけの、矮小で捻くれた男を黙らせるだけの威力とインパクトを内包していた。

 そして俺は、先ほどしでかそうとした罪の重さを他人に指摘されて、心中には今さらのように筆舌し難い悔恨が湧き上がってくる。

 すっかり意気消沈してしまい、黙りを決め込んでしまった俺の頭上ではなおも耳に痛い言葉が放たれる。


「知ってる? さっき君が手を染めようとしていた行為を、人は『窃盗』って呼称しているの。このご時世、窃盗は罪。つまり、犯罪よ。その罪も決して甘くないわ。倫理的に道徳的に反社会行為とされ、場合によっては殺人や強姦と並ぶ古典的な犯罪類型とされる。誰もが安易に行うことができる行為だからこそ、身体刑や長期の自由刑のような重い罰を課せられることもあるのよ。未成年だからって罪が軽くなるって思っていたら大間違よ。未成年だからこそ守るべき境界線の区別は付けときなさい」


 そして最後に「まあ、私が言えた義理じゃないけれど……」と小さな声で自嘲気味に吐き捨てたのだった。

 その言葉を聞いて、彼女もまた、援助交際というふしだらな行為に身を晒そうとした一人だという事実を、俺は今さらのように思い出した。

 だからといってそれを皮切りにわざわざ言い負かそうだなんて気力にもなれない。言うなれば俺と彼女は似ている。相身互いと言ってもいい。皮肉にも俺たちは、互いの過ちを互いで止め合った仲という不思議な間柄なのだから。きっと、それを彼女も理解している。理解しているからこそ、それ以上の苦言を述べることはしなかった。

 が、その代わりと言わんばかりに盛大な嘆息をこれみよがしに吐くと、地面に座り込んだまま立ち上がろうとしない俺に問いかけてくる。


「それで、君には一体どういう理由があってあんな愚行に手を染めたのかしら」


 その言い方からするに、彼女にもそれ相応用の理由があったように思える。しかし、このタイミングで問い返してもきっと答えてはくれないだろう。名前も顔も、正しい性格すら知らない相手なのに、不思議と俺はそう思った。


「法律を犯すくらいですものね。きっと非凡な私でも想像できないくらい強烈で壮絶な出来事を経験したのでしょう」


 聞いてやるから言って見なさいと言わんばかりに、黒キャップの女は文字通り上から目線で尋ねてきた。


「……」


 わずか数回言葉を交わしただけでも、俺は理解した。

 この女は、俺に劣るとも勝らないほどひねくれた性格をしている——ということに。だってそうじゃん。わざわざハードルを上げるような言い方がまさにそうじゃん。

 それに目敏い俺は気づいているのだ。

 文字にすれば一見心配されているような兆しも見えるが、実は桜唇が愉快そうに歪んでいるということに。


 たぶん、この女は知っている。この数時間のうちに生じた俺の悲劇の全容を。俺が過ちを犯そうとしたタイミングで都合よく現れたがその証拠だ。

 そして、それを知っていてなお、こいつは問いかけてきている。俺の口から言わせたいのか知らないが、これをひねくれていると言わずして何と表現すればいいのか俺にはわからない。

 わからないから、とりあえず立ち上がり、お尻についた砂埃を手でささっと払う。

 そうして、改めて黒尽くめ女の全容を見据えながら口を開いた。


「お前、ほんといい性格しているよな」

「ええ。私もこんな自分は嫌いじゃないの」


 皮肉を皮肉とわかっていながら心綺楼のように受け流すあたりとかな。相変わらず目深に被った黒帽子の鍔のおかげで全容は窺い知れないが、微笑を浮かべた桜色の唇は形のよい弧を描いていた。

 形の整った桜唇に、つんと高い鼻芯に鼻筋に小さな鼻翼、透明感のある白磁のような肌はきめ細かく、これらの完璧なパーツが小さな顔に収まっていることを念頭に入れると、彼女が相当に秀でた用紙を持っていることは想像に難くない。


 正直、彼女の正体は気になるところだが、今の俺はそれ以上にこの場に止まっていたくなかった。いや、正確に言えば、彼女の前から今すぐにでも立ち去りたかった。これ以上彼女と関わっていたくないという思いの方が強かった。

 だから、五秒ほど向かい合った後で、俺は何事もなかったように踵を返した。


「待ちなさい」


 それを許してくれる人間ではないとわかっていながら。それでも俺は自らの歩みを止めなかった。


「逃げるつもり?」


 咎めるような声が、赤く染まり始めた世界に響く。


「まあな」


 この世界には逃げるが勝ちということわざもある。

「卑怯者なのね。それとも自分が傷つくことがそんなに怖いのかしら」

 怖い。怖いからこそ臆面もなく逃げている。もう一人の自分がそう叫んだが、卑怯で見栄っ張りな俺が体裁を保とうとする。


「無駄な争いは避ける。それが俺の主義なんだよ」

「ふうん、それは実に利己的で保身的なこと……。平凡な君にはお似合いなフレーズだわ」


 ——『平凡』。

 それはたぶん、何気なく放たれた言葉のはずだ。だが、その言葉に俺の体は一瞬反応してしまった。無意識に。

 繰り出す歩幅がわずかに乱れてしまう。

 今まで堰き止めていた黒い何かが再び胸の奥底でうずき出す。それでも俺は、公園の出口に向けて繰り出す足を止めなかった。決して悟らせないように。もう二度と、同じ轍は踏まないように。今度はうまくやってやる。もう二度と、こんな思いをするのは嫌だから。

 だけどそんな俺の決意は、次の瞬間、なじるように放たれた一言によりあまりに呆気なく瓦解した。

「くだらないわね」


 その言葉を聞き逃せるほど俺はできた人間じゃない。


「今、なんつった?」


 振り向きざまに問いかける。普段より自分の声が低くなったような気がした。

 そんな俺を嘲笑うかのように、彼女は肩にかかった黒髪を手で振り払うと、心底どうでもよさそうな口調で淡々と続ける。


「くだらないって言ったのよ。ほんと、実にくだらないわ。あなたのそれは傷つくのを恐れているだけよ。傷つく自分から目を逸らして、言い訳や御託を口にして逃げているだけ。無駄な争いは避ける? 笑わせないでくれる? 自分自身にすら勝てないような者があまり大きな口を叩かないことね。必死に隠そうとしている程度が知れるわよ」


 気づいたとき、俺は彼女に向かって歩み出していた。脇目も振らずただ込み上げてくる熱い何かに突き動かされるまま一直線に。そして、その間にもおしゃべりな口は一切閉じられるということなく、鍛え抜かれた名刀の如く鋭い罵倒は、容赦無く俺の心臓を抉ってきた。


「まあ、平凡を地で征く君の程度なんてたかが知れていたわね。ごめんなさい。私って正直ものだから嘘はつけないみたいなの。特に、君のような凡百を理由にして簡単に何かを諦めては仕方がないことだからと見切りをつけて——」


 黒尽くめの女の言葉はそこで不意に途切れた。すべてを言い終える前に、俺が彼女の口を物理的に塞いだから。だけど、あろう事か、俺は勢い余って彼女を押し倒してしまう。


「きゃあっ——」

 女の子らしい悲鳴が鼓膜を掠めたあとで、俺は地面に両手両肘を突く姿勢、つまり四つ這いになって倒れていた。幸い地面にも目立った石ころなどはなく怪我はしていなかったが、そんなことよりも一つ先まず気になることができた。

 恐る恐る目を開け——、そして俺は、目下に映った人物の顔を見て思わず息を呑んだ。


 抜けるような白磁の如く白い肌。睫毛の長い二重瞼の大きな瞳はじっとこちらを見据え、すっと筋の通った鼻筋は高く、形のいい桃色の唇は綺麗。そして、それらの完璧に整ったパーツが小さな顔に寸分の狂いもなく収まっている。一度見たら忘れない、これこそ神の御業と言わしめるような造形美が、そこにはあった。


「……」

 だけど、今もっとも俺を絶句させているのはその異常に秀でた容姿だけではなくて。実はその顔に見覚えがあったから。

 俺の勘違いという線もなくはないが、こと彼女に関して言うのならば誰かと見間違えるということは早々ないと断言できる。平凡に秀でた俺の感性でモノ言うのなら、まさしく一度見たら忘れない——いや、忘れることができないほどには、他の者たちと一線を画した美を彼女は誇っているからまず見間違うはずがない。まさしく眉目秀麗。


 しかも同じ学び舎に通い、同学年ともなればその噂や姿をお目にする機会も少ない。

 彼女の隣はいつも騒がしいから、いつも独りぼっちな俺の目によく留まっていたという悲しい理由もあったりするのだが、今は置いておいておいたほうが幸せだろう。

 まあ要するに、クラスや学年という垣根を越えて、彼女、郡元美麗という少女は有名人なのだ。


 そして、今。


 そんな学校一の高嶺の花にして成績優秀、品行方正とどこかミステリアスな雰囲気を持ち、絵に描いたような完璧超人が目と鼻の距離をおいて顔を向かい合わせているのだから、俺が絶句してしまうのも無理はないと思う。

 そうやって思わぬ人物との邂逅で呆然としてしまった俺を真上にして、彼女はどこか余裕のある笑みを口元に浮かべた。

 視線と視線が交差する。その視線はどこか蠱惑的で妙に挑発的だった。


「ねぇ、君」

「なっ、なんだよ……」

「もしかして……私を犯すつもりなの?」

「なっ——」


 思い掛けない台詞に、当然のように言葉が詰まる。だがよく考えてみると、彼女に覆いかぶさっている現状は、そう解釈されても仕方がないとしか言えないだろう。押し倒してしまうという段階を持って、今さら弁明もくそもない話だが、下心を持って押し倒したというわけでもない。

 それをどうにかこうにか伝えようと口を開こうとしたとき、まるで俺の意思を嘲笑うように、彼女はなおも開いた口を閉じようとはしなかった。


「いいわ、やりたければやりなさい。まあでも、平凡な君にそんな度胸があればの話だけれど?」

「——っ!」

「ほら、どうしたの? やりたければやりなさいよ」


 さも俺のことなど眼中にないと言わんばかりに、彼女は退屈そうに吐き捨てた。視線もこちらを向いていない。ただ俺に覆い被さられているだけで、抵抗する素振りどころか、助けを乞う声すら上げようとしない。意図せずそれは、言外にお前のことなどどうでもいいと示唆されているようで、ましてや浮かべた表情に嘘などこれっぽちも見えなくて、だからそれがより一層俺自身の価値を浮き彫りにしてくるようで……。


 むくむくと、再び心臓の真ん中あたりにどす黒い感情が湧き上がってくる。

 それはこれまで積み重ねてきた紛れもない自分への劣等感や、その味を知らない奴らへの嫉妬心が織り混ざった、醜くも、されど紛れもない俺の本懐だった。


「く、くそっ! どいつも、こいつも、俺を舐めやがって! 俺にだって、俺にだって——!」


 俺の右手は彼女の胸元へと伸びていく。これまでの自分を払拭するように。


「俺にだって——」

 だけど、彼女の胸元を掴んだ手は、それ以降、一向に動こうとしてくれなかった。

 そしていつしか、ぎゅっと握った手は力なく彼女を解放していた。


「……」


 もはや疑う余地もない。

 最初から、彼女をどうこうする気概も度胸も、俺にはなかったのだ。情けない。本当に。

 こんな自分など、どこまでいっても平凡な人間でしかないという事実を改めて突きつけられたような気がした。つい先ほど、初めてできた彼女にフラれた、あのときのように……。

 そうやって、自分の不甲斐なさに打ちひしがれて俯いていたとき、不意に頭を撫でられるような感触がした。一瞬、錯覚かと思った。でもそれが、単なる勘違いなどではなかったと、目下で淡い微笑を浮かべながら、右手を伸ばす彼女を見て……そう気づかされた。


「あなたみたいな優しい人には、そんな馬鹿な真似は最初からできないわよ」


 まるで全部分かっていた言わんばかりに、最後に彼女は小声で何か呟いていた。そんな言葉を、俺は胸の奥のほうから湧き上がってくる感情を抑えることに躍起になり、正確に聞き取ることができなかった。

 そしてそれも、長くは続くことはなく——。

 いつしか俺は、彼女の優しさにあてられて、彼女の胸の中で無様に、されど純粋に、さめざめと湧き上がる感情を溢れさせてしまったのだった。

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