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そこからの記憶は酷く混迷で曖昧としたものだった。
不透明な記憶の中、唯一覚えているのは、明確な事実として残っているのは、空気のような自分と、呆気なく振られてしまったという残酷な現実だけ。
彼女の自宅から駅へと続く道のりをふらふらとした足取りで引き返す。
皮肉にも、その途中の端々で目に留まるのは、競争して押し合った押しボタン式の信号機だったり、「すごいね」と誉めあった電柱の下に咲く一輪の花だったり、「可愛い」と彼女が愛でていた野良猫だったり……。
その全部が、肩を並べて歩いた彼女との思い出が残るものばかり。
つい先ほど、どうしようもないほど呆気なく振られたばかりなのに、俺との交際を「暇だったから」と何の躊躇なく言い放ってきた相手のはずなのに……。今この瞬間もどうしようもないほどに彼女のことばかり考えてしまっている。
目の前を白い何かが上から下へとふわふわと落ちていく。
雪だ。
先ほどまで止んでいたのが再び降り出したのだろう。
雪は俺の心のように乾き切ったアスファルトの上に優しく舞い落ちてはすぐに形を崩して掻き消える。そんな中にぽつりと小さな水玉模様が突如形成された。一瞬、結晶体になりきれなかった俺のような成り損ないが降ってきたかと思い空を見上げた。だが、そこには分厚い雪雲が広がっているだけで、淡々と真っ白い結晶だけを落としている。その中の一つにも成り損ないは混じっていなかった。
けれど、そんなのは極当たり前のことだったのだと俺はすぐに気がついた。いや、頬から伝っていく感覚が教えてくれたのだ。その滴を生み出していたのは他でもない俺自身だったのだと——。
「……っ」
一ヶ月という短い間だった。
平凡な自分を変えたいという不純な動機から始まった交際だった。でもいつしか、そんな動機すらも端のほうに追いやって、俺は彼女に惚れていたのだ。
肩で切り揃えた少し癖のある亜麻色の髪も、ぱっちりと開いた大きな瞳も、小柄だけど存在感のあるところも、誰にでも分け隔てなく接せられるその気さくな性格も。会話を重ねていくごとに、彼女の笑顔を見るその度に……。
そして、ようやく平凡な自分も悪くはないのかもしれないと思い始めていたのに……。
なのに……そのはずなのに……。
『お前みたいな平凡な奴がこいつと付き合えるわけねーだろ。いい加減気付けよ。お前、こいつにカモられてたんだよ』
『ごめんね、湯之元君。やっぱり君みたいな平凡な人じゃあ私、満足できないみたいなの。でも、たくさん奢ってくれたり、欲しいものも買ってくれたりしてくれたことには本当に感謝しているから』
今日、唐突に突きつけられた酷な現実に、芽生え始めていた小さな自尊心は呆気なく踏み潰されてしまった。
溢れていた涙もいつしか止まり、どす黒い感情が体の真ん中に渦巻く。
その全部が自己嫌悪で、その全部が俺を自暴自棄にさせる。
平凡だからダメなのか?
平凡だから振られたのか?
なら一体、特別って何だ?
特別になれない俺は、何をすれば特別になれるのか?
そんな思考の袋小路に捕まっていると、視界の端に見たことのある看板が映り込んできた。それは俗にいうコンビニで、食料品や雑貨を中心に扱う小型のスーパーマーケット。
俺は導かれるまま虚ろな足取りで店先まで向かい、おなじみの入店音とやる気のない店員の「いらっしゃいませ」を小耳に店内に足を踏み入れる。
向かった先は丁度レジから死角となるパンコーナー。多種多様な色や形をなした商品が整然と棚の上に並べられている。
「…………」
ものの一番に俺の視界に飛び込んできたのはシンプルなデザインの包装が施されたドーナツ。
一瞬、無意識に躊躇った右手を無理やり上げた。頭の片隅ではけたたましい警音が鳴り響いている。次第に呼吸すら怪しくなってきて、視界も次第にぶれ始める。周りの音すらも怪しくなってきて、自分という存在すら見えなくなっていた。
バカなことをやっている自覚はあった。犯罪に手を染めようとしている危機的な状況だということも理解しているつもりだった。
……なのに、それなのに……、そのすべてを尽くドス黒い絶望が塗りつぶしていく。これまで長い間、俺の中で蓄積されてきた絶望に俺は抗うことはできなくて。
果たして俺は、おもむろに掴んだ商品をズボンのポケットの中へと仕舞い込もうとした——まさにそのタイミングで、商品を掴んだ俺の右手は、左脇からすっと伸びてきた手によって阻まれていたのだった。
そして気づいたときにはすでに掴んでいた商品は瞬く間に引ったくられていて、もとあった棚の上に少し乱暴に戻された。
——終わった、何もかも……。
視界の端で黒い何かが揺れた気がした。店員さんだろうか。きっとこのまま事務所まで連行されて、警察に突きつけられるのだろう。現行犯なので言い訳の余地もない。実に呆気ない人生の幕引きだ。それに加え、結果として自暴自棄に陥った挙句、一生消えない罪を負ってもなお、俺は特別の意味は見出すことができなかった。そう思うと、平凡な俺にはお似合いのバットエンドだ。
「……来なさいっ」
言うが早いか、右手首を掴まれた俺は否応なく引っ張られた。抗う気もないので特に抵抗という抵抗はせずに、俺はされるがまま。蛍光灯の冷光を反射するセラミックタイルが上から下に流れていく。すべてが億劫になった俺は、そこで考えることを放棄した。
唯一、記憶に残っているのは、入店時に聞いたおなじみのあのB G Mと、相変わらずやる気のない店員の「ありがとうございました」。
そして最後に、握られた手の感触が妙に柔らかいことと、どこかで聞いたことのあるような声だったということくらいだろう。
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