3
時間に換算すればおよそ十分間という短い間、電車に揺られた俺は、目的である駅に到着を果たしていた。
人の流れに乗り改札口を出てから券売機が設置された壁際にそさくさと身を寄せる。
通行人の邪魔にならないところまで移動してから手に持ったスマホの画面に視線を置いた。出迎えてくれたのは、先ほど開いたまま放置していた彼女とのトーク画面。
——大丈夫? もしかして何かあった?
そこには未だに『既読』がつかない俺のメッセージが寂しそうに表示されていた。その横には『14;00』という送信時刻だけが妙に目立って見える。
「……」
俺は、一向に既読がつきそうにないそれを矯めつ眇めつ見据える。やはり、見据える画面には変動の兆しがない。
俺は深く息を吐き出してから、ほぼ無意識に肩を落としていた。
思えば、彼女と交際を始めてから丁度一ヶ月が経過した。
正直、こういう経験事態初めてで、何をどうすればいいのかさえわからない。皆目見当つかないと言ってもいい。だから、今こうやって衝動的に、思いのまま彼女の家を尋ねようとしているが、果たしてこの行動自体が正解なのか——、それすらもわからない。本当に、わからないのだ。
ただ、ふと気がつくと、もしかしたら迷惑なんじゃないのか……とか、先ほどからそんなことばかり頭を過ぎってしまい、行くか行くまいか悩んでしまっている自分もいる。そして、そんな自分が情けなさすぎて自己嫌悪。
いつしか、集合場所に訪れなかったのも、単に風邪を引いてしまったからで、LINEに返信がないのは、そもそも返信を行う元気がないからじゃないのか……みたいなことを延々と考えてしまう始末。
「ああ、くそっ」
それでも、彼女を憂うこの気持ちに嘘はないと、俺は断言できる。こうして彼女の暮らす街まで赴いてしまっているのがその証拠なのだ。
そんな新たな決意を胸に北口から出ると、それまで悶々としていた想いが爆発するように、いても経ってもいられない衝動に駆られた俺は駆け足で彼女の自宅に直行した。
途中、いくばくかの信号機に足取りを乱された。その度に言われもない不安感に何度も煽られ、彼女の自宅前に到着した頃には息も絶え絶えで、まるで余裕なんてものは一切存在しなかった。
——そして、ついには心のどこかで淡い期待を抱いていた彼女のからの連絡も来ることはなかった。
「……」
おもむろに見上げた彼女が住まう自宅は、駅から十分ほど離れた住宅街の中に建っている。外装は白く、屋根は緩やかな三角型。土地の広さは百坪ほどで、両隣を見やると似たような家が等間隔で建っている。
室内にはカーテンが掛かっており、当然のように中の様子までは窺うことはできない。
幾ばくかある駐車場には車が駐車されていなかった。恐らく、彼女の両親は滞在していないだろう。それがわかってなお、この時の俺には引き返すという選択肢は浮かんでこなかった。
もちろん、それには理由がある。
カーテン越しの室内から僅かに暖色の光量が溢れているのだ。あの留守独特の空気がまるでない。——言うなれば、何となくだが人の気配がある。理屈じゃないけど、俺はそう感じてしまった。
あれれ? おっかしーぞぉー。もしかしなくても俺ってS T K体質だったのかしらん……などと不吉めいた思考が一瞬脳裏を過ったが、あえて気づかなかったことにした。
だがまあ、そう感じてしまったが最後だったのだろう。
俺の足は誘われるように、動き出していたのだ。ほぼ無意識に。
両足が玄関前に揃う。右手はインターホンにすっと伸びていき、そんな自分の行動をどこか他人事のように見据えている。このボタンを押すことで、決定的な何かが変わってしまうような予感を抱きながら。もう引き返すことができないかもしれない……なんて、不思議とそう感じながらもゆっくりと。
そうして猜疑に抱かれてしまった指先は、次の瞬間、インターホンをはっきりと押下していた。
遅れて、嫌に甲高いインターホンが鼓膜に響いた。
「……」
今にも引き返したくなる足をどうにかこうにか耐え忍びながら、俺はその時を待った。一秒、二秒、三秒……と亀の歩みの如く時が流れていく。だけど、その後たっぷり十秒ほど待っても反応らしい反応はなかった。
これは留守なのではあるまいか? と疑いつつも安堵している自分がいることに失笑してしまう。それでも、もう一人の俺が念には念をと、再度インターホンを押下するのを他人事のように眺めていた。
再び、甲高いチャイム音が辺りを席巻し、辺りに溶けて消えていく。だが、やはりそれらしい反応はなかった。
そしてその時は、「これはもう間違いなく留守ですね、はい」と確信した、まさにそんなタイミングだった。
ザザッと砂を足の裏で舐めたくったような雑音が聞こえ、それが壁に備え付けられたインターホンから放たれたものだと即座に気づく。同時に、物言わぬひやっとした感覚に背筋を撫でられたような気がした。
心臓はバクンバクンと早鐘を打ち鳴らし、否応なく不吉な予感を抱かせられる。心の準備などまるで整っていなかった。
だからこの時、決定的な勘違いをしていたことに、このときの俺は気づけなかったかもしれない。
『はい』
インターホン越しから聞こえてきたのは、あろうことか俺の知らない若い男の声。父親にしては若すぎる、言うなればあまり歳の変わらない感じの声色。
……あ、あれぇ……お、おかしいなぁ。確か彼女、一人っ子って言っていたような気がするんですけど。も、もしかして従兄か誰かなのかな?
とまあ、そんな邪推もそこそこに、心臓を鷲掴みにされたような痛みを隠しつつ、俺は即座に対応してみせた。
『あ、こんにちは。お忙しいところ失礼します。俺は……いや、僕は湯之元という者で、少々お尋ねしたいことがあるのですが……』
『湯之元?』
マイク越しから放たれる声色がワントーン下がったような気がした。
『ふうん。んで、お尋ねしたいことって何?』
だが、次の開口時には元のトーンに戻っていたので、それ以降は深く考えることをやめて、やや緊張気味に単刀直入に用件を口にする。
「あのー、実は霧島さん……霧島ひまりさんに用がありまして、ご自宅に参った次第でして」
『……ひまりに?』
「は、はい」
『ふうん』
心底どうでも良さそうな相槌がマイク越しから放たれた。辺りには重い沈黙が流れ、これにはさすがの俺も戸惑った。
「あ、あのー」
先に沈黙に耐えかねたのは俺の方。しかし、それも仕方がないことなのだ。
過去に、俺には友人と呼べる友人がいなかった俺は、当然のことのように他人の家を訪問する機会に恵まれなくて、こういう沈黙には耐性がないのだ。
それに人間という生き物は、不慣れなことはさっさと済ませたくなる習性があると思う。現に俺は、今この瞬間でさえ一刻も早くこの用件を終えたくてうずうずしてしょうがない。ほら、足なんて震えてきちゃっているよ。ふぇ〜、禁断症状が出始めちゃったよぉ……。
なんて、情けなくも愛らしい我が両足を叱咤しつつ、受動態の俺にできるのはただ耐え忍ぶことだけなのだ。
しかし、これも彼女の安否を確認するためだから……そうやって自分で自分を鼓舞していると、今度はどこか弾んだ声色がインターホン越しから聞こえてきた。
『お前ってさあ、ひまりの何?』
「何って……そ、その……か、彼氏……みたいなそんな感じです……はい……」
『彼氏、ねえ……』
口の中で飴玉を転がすような含みのある言い方だ。無駄に悪役っぽい。やはり、俺の知るところにない彼女の身内なのだろうか。そう思うと、なんだか無性に背筋がむずむずしてくる。インターホンに備え付けられているカメラの奥が気になってしょうがない。
「あ、あの……それでひまりさんは……」
『いるぜ』
「ほ、ほんとですか!」
『ああ、いるいる』
何気なく放たれた言葉に俺は安堵した。けれどそれは、悩みの種が一つ解消したに過ぎなかったと、安心した拍子にダルマ落としの如く次から次へと湧き出てくる疑問からそう感じた。そして、その全部を問い質したい衝動に駆られるが、いつまでも玄関先に居座るのも憚られる気がして、湧き水のように湧いてくる疑問の中からもっとも気になる疑問を抜粋し、俺は一つだけ問うことに決めた。
「ところで、一つお伺いしたいことがあるんですが……」という前置きも忘れずに単刀直入に切り込む。
「実は今日、ひまりさんとは、その……遊ぶ約束をしていまして。だけど約束の時間になっても来ないものですから……」
『だから心配になって、いても立ってもいられなくなった君はここにいると』
「まあ、そんな感じですね」
『ふうん』
「それで、その……彼女に何かあったんですか? LINEのほうにも連絡を入れたんですが、音沙汰が全然ないんで」
現に、今こうして彼女がいるであろう自宅の前にいる時でさえ、彼女からのメッセージは届いていない。
目の前にいるはずなのに、一枚の扉を隔てた向こう側にいるはずなのに、今の俺には彼女の存在が酷く遠くにいるように思えてならない。
一ヶ月間という短い間だったが、俺には彼女と築き上げてきた不可視化だけど、確かな信頼関係というものがあった……そのはずなのに。
次の瞬間、インターホン越しから聞こえてきた、たった一言により、それまで築き上げてきたと自負していたものの脆さが露見されることになった。
『まあ、そりゃそうだろうよ』
「え……?」
逆にそれが当然だと言わんばかりの返答に、俺は思わず言葉を詰まらせられた。頭の中が真っ白になって、思わず頭ごなしに反駁したくなる衝動を咄嗟に拳を強く握りしめて抑え込む。それでもなお抑えきれない感情は、大きく息を吐いて物理的に誤魔化した。
「……それは一体、どういうことですか」
そうやってようやく吐き出せた一言。精一杯の見栄を張った、今の俺に出来る最低限度で最大限度の強がり。そしてこれが取るに足らない虚勢であることも、小さすぎるプライドを守るための単なる自己保身だということも、ちゃんとわかっている。それでも、わかっていてもなお、そうやって気を張ってなければ、今の俺は見えない何かに押し潰されてしまいそうだったから。
『知っても後悔するだけだぞ?』
嘲笑を内包した声が耳につく。本人は警告のつもりだろうが、もはやそんなものに意味などなかった。
『おっといけねえ。もはやこれがすでに答えになってたか』
網目状のマイク越しから、ケラケラと愉しげな嗤い声が周囲に煩く響いた。おい、こいつ、今のぜってえ、わざとだろ。ふざけんな。ぶち○すぞ! という叫びをどうにか抑え込んだ俺は正直えらいと思う。
カメラの向こう側にいるやつが明らかにこちらを煽りに来ているのは明白だ。今の自分自身を自制できているのは、せめてこいつの手のひらの上で転がされるのは癪すぎる! というなけなしの矜恃からだ。
『それで? どうするよ?』
具体的なことは何一つ明言せずとも、その言葉の裏に
……ちっ、こいつ性格悪すぎだろ!
直径10mmほどのカメラを俺は鋭く睨みつけた。
いくら恩情に定評のある俺でも許せる最大許容というものがある。
そして、平凡な俺にも譲れないものの一つだってあるのだ。いや、平凡を憎み、平凡を嫌った俺だからこそ譲りたくないものがあるのだ。
それが、今まさに目の前で零れ落ちそうになっているものだとしても──。
「……お願いします。霧島さんに、彼女に、会わせてください……」
返事はなかった。ただ、なんとなくカメラの向こう側から何者かの気配が消えたような気がした。
それから一秒、二秒、三秒と俺は待ち続けた。しかし、やはり返答というか、反応と言える反応もなく、これは謀られたか……そう察したその時、ドアの向こう側からふいに足音が聞こえてきた。開けてくれるのかと思ったが、やはりその後も反応という反応もなく、しばらくしてからふと俺は気がついた。
「……」
ドアのバーハンドルに、俺はそっと手を掛ける。間に深呼吸を挟み、起伏する感情は理性をもって抑制した。
何となくだが、たぶん、俺はこのドアを開いてしまえば、きっと後悔するだろう。もう一度なんて許されず、引き返すことは出来ず、立ちはだかる現実に打ちのめされるかもしれない。
やっと色付き始めた日常が、特別を求めて伸ばした手により、皮肉にもこれまで以上に深く濃いモノクロになってしまうかもしれない。
……それでも、それでも俺は──。
自分で選び、勇気を持って告白したあの子に、言葉を交わし、より好きになれた彼女を信じていたかったのだ。だから、だからは俺は——。
「おっ、きたきた」
玄関の扉を開けて最初に聞こえてきたのは、嬉々に満ちたそんな男の声だった。聞いたことある声だった。それもそのはず、つい先ほどインターホン越しから聞こえてきた声色と同なのだから。
「うわぁっ、本当に来ちゃってたんだ……」
その後に続き、うげっとした呆れ声にも似た嘲笑が鼓膜を掠めてくる。その声は、今日はじめて聞く声色。にもかかわらず、俺の頭はその声の主を知っていた。だから咄嗟に氷の中に閉じ込められた微生物のように、俺の体は停止してしまったのだろう。バーハンドルを握る右手からも自然と力が抜けていくのがわかる。
だけど、それすらも序章に過ぎなかったのだと、眼前に広がった光景が耳元でそっと囁くように教えてくれた。
「……」
譫言のように漏れ出た自らの吐息は、ずっと遠くの方から聞こえてくるような気がした。意識が乖離していくようなそんな不思議な感覚。
この場に到着する前からずっと、俺には考えないようにしていたことがある。
それは今考えられる最悪の展開で、脳裏にその光景が過っただけで胸の奥をズタズタに引き裂かれるような痛みに苛まれてしまう。
だからこれまで、そんなことないって自分に言い聞かせてきた。そうやって非情で残忍な現実から目を逸らし続けてきたのだ。一ミリも前に進んでいないとわかっていながら。みっともなく目の前の幸せにしがみついていただけ。例えそれが一時のまやかしだとしても、平凡な俺に舞い降りたこの時間を大切にしていたかっただけだった。
心のどこかでずっと感じていた平凡な自分と彼女との差異。
空気のように存在する俺と、みんなから慕われる彼女。
俺と彼女は、違う……。
残忍なまでに決定的に。
単純明快なまでに異なっている。
そんな当たり前のことは最初からわかっていた。
だから。だから俺は——。
目の前で知らない男と中慎ましく腕を組む彼女がいても、「ああ、やっぱりそうか」と思うだけだった。
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