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「くそ、酷い目にあった……」
あれから、荒れ狂う鬼人と化した援交おじさんからどうにかこうにか逃げ果せた俺の姿は、無事、彼女との待ち合わせ場所である駅前にあった。
頬に微かな違和感を感じながら、ふへっと安堵のため息を吐き出す。白く染まった息は宙に溢れては寒風に煽られ、雪のように溶けては消えていく。それを傍目に、南極では塵や埃が立つことはないから吐く息は白くならないんだよなぁーとか益体のない事を考えてしまった。
思えば、時刻は間もなく十三時半を回る頃合。後十分から十五分ほどすれば彼女もこの駅前に現れるはずだ。
実に二週間ぶりのデートである。
世間一般的にこの二週間という期間が短いのか長いのか定かではないけれど、恋愛初心者である俺からすればとても、それはとても長かったように思える二週間だった。
同じ高校に通い、クラスメイトなのだから顔を合わせていないというわけではない。ないが、彼女からの要望もあり校内では他人めいている俺たちだから。いや、少なくても、俺にとっては永久とも思えるような時を悶々と過ごしてきたような感覚だったのだ。
だから俺は、当然のように今日という一日を心待ちにしていた。昨晩も楽しみすぎてなかなか寝付けなかったほどには楽しみしていたのだ。
にもかかわらず、今の俺は少し彼女に会いたくないように思えている。
「まあ、こんな格好だしな……」
そう嘆き呟きながら、自分の服装に視線を置いた。
値札の高さに慄きながらも意を決して購入したカーキ色のジャケット、その下に合わせた白色のパーカー、黒のテーパードパンツと同色のスプリットレザーシューズだってそうだ。何度見ても自分の身の丈に合わないおしゃれな装いだと思う。正直、似合っているかどうかわからない。少なくても、自分らしくはないとは思う。無理をしている。背伸びをしている。そう思うけれど、こんな平凡な自分を少しでも底上げするためには、彼女に吊り合うにはこれくらいの装いをしなければならないこともちゃんと理解している。が、今の問題はそこじゃないのだ。
原因はわかっている。てか、あれしかない。先ほどまで永遠と追いかけてきたあのおっさんとの追いかけっこだ。
壮絶とも言える鬼ごっこは、それはもう苛烈を極めた。必死に逃走した俺は何度も転けては立ち上がりを繰り返した。が、辛くも逃げ終えた時には服も髪も汚れに汚れまくっていたのだ。
「まじで最悪だぞ、これ……」
そして今日、何度口にしたかわからない嘆息を吐き出した。
一度は自宅に戻り、着替え直すという考えも浮かんだのだが、時間も時間ということもあり、出来ればすれ違いを避けたかったので、今はしょうがなくこの場に立っている。
そんな俺に行き交う人たちが不審がる視線を向けてくるけど、今はひたすらに耐え忍ぶしかなかった。
「うぅ、寒ぃ……」
季節は冬真っ盛り。ビル群の隙間から吹く寒風はまるで容赦がなく、見上げれば望みの太陽も分厚い雲に覆われてしまっている。それはまるでこれからの俺の行末を暗示してくるようで落ち着かない。
「寒ぅ〜」
「今日、雪降るらしいぜ」
「えぇ〜。どおりで寒いわけだよぉ」
「しかも今年の最低気温だってよ」
「ほんと? だったらまじ最悪なんですけどぉ。ねぇ、早く建物の中入ろっ」
「だな。そだ、今日は家でゴロゴロすっか」
「きゃー、さんせーさんせー。今日はお家デートしよっ」
そう言ってきゃっきゃきゃっきゃと会話を交えながら、俺の脇を二人組のカップルが通り過ぎていく。互いに腕を絡ませ、身を寄せ合いながら実に楽しそうである。そんな彼らの後ろ姿を尻目に、俺はふむふむ顎に手を当て一考する。
「家、デートねぇ……」
盲点だった。実に盲点だったのかもしれない。
というのも、ご存知の通り、悔しくも薄汚れてしまった現在の俺の出で立ちでは、彼女とのデートを決行するにはいささか無理があると思う。いや、それどころか逆に失礼というレベルで、いくら彼氏だと言っても限度というものがあると思うし、下手をすれば彼女に恥をかかせてしまう可能性だってある。
それは彼氏としてやってはいけないことで——。しかし、今この場から動けない限り俺にはどうしようもない事態でもあって。だからと言って何もしなければ確実に幻滅されてしまい、破局への道まっしぐらでもある。
……いやほんと、良いことなんて何もない。それは何としても避けたいところ。これまで生きてきた平凡な十七年間、やっと見えてきた彩りはここで失いたくはなかった。
だからこそのここでの家デートというチョイスは最前の一手だと思う。彼女に恥をかかせる心配もなければ、最近彼女と付き合い始めて寒波を迎えた我が財布にも心優しい。しかも、どういう巡り合わせか両親とも今日は仕事で、帰宅が遅れるらしいというなんともご都合的展開。何とまでは名言しないけど、色々と期待で胸が膨らむばかりである。だって男の子だもん!
「……早く来ねぇかな」
だからより一層、あの改札口の向こう側から彼女が俺の元に駆けてくる姿を余計に想像してしまい悶々としてしまう。でも彼女は、そんな俺の想いとは裏腹にいつまで経っても俺の前に現れてくれない。
凛凛とするからっ風に身を縮こまらせながら、スマホで現在時刻を把握すると、小さな画面に映し出されるは、無念にも十四という数字だけ。期待した彼女からの連絡もなかった。
「……」
冷えた空気の中、いつまでも手を晒しているのも辛抱ならんので、ジャンパーの中へとスマホを押し込んだ。
途端、凛然たる朔風がひゅんと肌をかすめ、鼻先をツーンと刺激してくる。ふへぇと吐き出した白い息も、先ほどよりも幾分か色濃く思えるのは気のせいではないだろう。
その証拠に、俺の視界の先には、ふわふわと白い結晶が舞い落ちてきたのだから……。
それから俺は、一時間、二時間、三時間と辛抱強く彼女を待ち続けた。
いつか、あの改札口の向こう側から溢れんばかりの笑顔を携えた彼女が現れることを馬鹿みたいに信じていたのだ。
しかし、結局彼女は現れることはなかった。
当然、その間何度も彼女のスマホに連絡を入れたのだが、その全部が尽く空振ってしまい、無慈悲にも時間だけが経過していくだけ。だからといって、受動態である俺には、他に打つ手なんてものは待つ以外になかった。
その間にも、雪はしんしんと降り続いていた。場所によってはうっすらと積りだし始め、日中に比べると随分と気温も下がり始めている。体感温度はマイナスの世界。律儀にも同じ場所に立ち続けていた俺の体は、当然の如くぶるぶると震えているし、全身がかじかんでしまっている。
「……これはもう直接確かめるほかないな……」
なんて、誰に聞かせるわけもなくおもむろにそう呟いた後で、俺は鼻をすすりながら重い腰をようやく上げた。
当然、向かう先は一度だけ赴いたことがある彼女の自宅だ。
彼女の自宅があるのは二つ離れた駅。俺の自宅からは真逆の地区にあり、歩けば二十分そこいらで着く。電車を使えば十分ほどの距離で、俺にとっては大したことのない移動距離だが、今の俺としては一刻も早く底冷えした体を労わりたかったので、そさくさと構内に足を向けることにしたのだった。
肩や髪の所々に雪をちらつかせた人たちの間を縫うように歩き、込み入った改札口を抜けていく。階段を上り終え、ホームに出ると接近メロディがうるさく鳴り響いた。すると、しばらくもしないうちに腹に響く走行音を響かせた電車がタイミングよく姿を現し、人の流れに乗って無事車内に足を踏み入れることができた。
暖房が効いた車内は八割ほどが埋まっていた。その多くを占めるのは俺と同じような私服姿が多い。割合で言えば全体の八割ほど。残りの二割はスーツ姿の社会人。
大半の人間がスマホをいじいじしている。中には舟を漕いでいる者もいれば文庫本を広げている人もいた。
俺は誰とも向かい合わない端っこに身を置き、特に何もせずぼーと外の景色に視点をおいた。しばらくすると、プシューと空気が放出される音と共にドアが閉まり、のろのろと電車は動き出し始める。
十秒もすると、パンダグラフから電気を受け取ったモーターが高速で回転し始め、駆動音を響かせた電車はみるみると速度を上げていく。
雪の影響を憂慮する俺をよそに、電車は五分も経過しないうちに次の駅に到着を果たした。
手早く乗客が乗り降りを行う間に、俺はジャンバーポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリを立ち上げる。
指の腹でタップしたのは『ひまり』という名前。本名は、『霧島ひまり』。彼女は、俺と同じ二年六組に在籍している女子生徒で、クラス内の男子間でも可愛いと噂されている。そんな彼女に比べ、校内どころかクラス内でも一度も噂になったことのない俺は、比較対象にすることすらおこがましい存在なのだ。そして、そんな彼女だからこそ、一ヶ月前に俺の彼女になったのだから、人生とは本当に何があるのかわからない。わからないけれど、すべては平凡な自分を嫌い、特別を求めたからこその結果だとも思う。
でも、だからこそ……ふとした瞬間に感じてしまう。
窓に映る辛気臭い表情を浮かべる自分を見ていると余計に思わざるを得ない。
果たして、今の俺は、あの頃の自分と何が違うのだろうか——と。
ふと、炭酸が抜けるような音がした。
乗客を乗せた電車が再び動き出す。
結局、答えはでなかった。
出る前に、俺を乗せた電車の方が先に目的の駅へと到着したから。
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