壁の中にいる

尾八原ジュージ

壁の中にいる

 母がやっていたサチさんの世話係が、十六歳になったばかりのぼくに回ってきたのは、当の母が脳卒中で突然死んでしまったからだった。

 そもそもぼくたちが住んでいる家は母の親戚の持ち物だ。だから母が亡くなった時点で、ぼくと父はここをさっさと出ていくべきだったのだと思う。でも実際には、ぼくたちは引っ越しなどせず、サチさんの世話係は親戚全員がスルーして、(若い男の子にやらせるのはいかがなものかねぇ)などと言われながらも、結局ぼくに回ってきた。たぶん、誰も彼女のことを直視したくなかったのだろう。

 こうしてぼくたち父子はサチさんを押しつけられたのだが、否はなかった。そもそもぼくたちがこの家にタダ同然の家賃で住まわせてもらっていたのは、家族の誰かがサチさんの面倒を見るという条件の下だった。古いけれども好立地で造りもしっかりしたこの一軒家は、二十年前この辺りを襲った大地震にも耐え、今もまだしっかりと建っている。こんな事情でもなければ、ぼくたちには分不相応な物件なのだ。

 サチさんは母さんの従姉で、今年で四十七歳らしい。ただ、もう三十年以上も「壁埋め」になっているので、その外見も内面も、埋められたときの年齢で止まっている。

 彼女がこの家の壁に埋められたのは、母さんが小学生のときだったという。悪いことをした子供を家の壁に塗り込めるのは、この辺りではよく聞く話だけど、大抵は一日とか一週間とか、どんなに長くても一年以内には出してもらえるものだ。三十年以上も埋められているからには、きっとよっぽどのことをしたんだろうと思うけれど、サチさんはまったく反省しているように見えない。六畳の和室の砂壁に埋められた彼女は、いつ見てもすっきりとした明るい顔をしているし、ぼくを見るとやたらと嬉しそうにニヤニヤ笑う。

「タツ坊、おはよう」

 首から上だけをにゅっと壁から出したサチさんは、今朝も十代の女の子にしか見えない。壁から美少女の生首だけが飛び出している様はなかなかシュールだ。

 ぼくは一日に二回、吸いのみを使って彼女に水を飲ませ、歯を磨いてやる。他のことは何もやらなくていいと言われている。お風呂も排泄の世話もしないので、壁の中が果たしてどうなっているのか、まるで想像ができない。

 母が言うには、昔はこの部屋に入ると異臭がすごかったそうだ。でも、今はさほどでもない。ぼくの鼻が慣れてしまっただけなのかもしれないが。

 サチさんはただの水しか摂取していないくせに、不思議と元気そうにしか見えない。今日も肌はすべすべだし、床まで届くほど伸びた黒髪もつやつやしているし、大きな瞳は輝いている。壁に埋められるってのはそういうものなんだな、とぼくは思う。よくも悪くも、彼女は壁に埋められたときのままなのだ。

「おはよう、サチさん」

「タツ坊、今日は学校?」

「うん」

 どうでもいい話を交わしながら、ぼくはお盆に載せた吸いのみを取り上げる。手が使えないサチさんが水を飲み終えるまで、ずっと両手で支えていなくてはならない。それが終わると、水で濡らしただけの歯ブラシで彼女の歯を掃除する。

「はい、口開けて」

「ん」

 サチさんの歯並びは整っていて、きっと母が丁寧に磨いていたのだろう、白い歯がきれいにきちんと並んでいる。頼まれてやっていることなのに、最初はこの歯磨きが妙に「やってはいけないこと」のような気がして、ひどく気が引けたものだ。口中を傷つけてはいけないという心配以上に、「年頃の女の子にこういうことをしていいものだろうか」という、なにかしら罪悪感に似たものがあった。

 今はまったくそんなことはない。日を経ていくうちに、サチさんの歯磨きはただの作業へと変わってしまった。上の歯列を表、裏、嚙み合わせの順に磨く。下も同じ工程で、磨き残しがないように丁寧に擦る。

「はい、おしまい」

「ありがと。そんじゃ行ってらっしゃい」

「いってきます」

 ぼくは座敷の襖を閉め、お盆を持って台所へと向かう。家には誰もいない。父はこのところ、ほとんど帰ってきていない。


 父は昔からフラフラした人で、同じ仕事に三年以上ついたことがない。家に帰らないこともしょっちゅうで、よく母と喧嘩をしていたものだ。

 母が亡くなってから、父はますます家に寄り付かなくなった。たまに酒と化粧品の匂いをぷんぷんさせてリビングでいぎたなく眠っているのを見ると、顔だけはぼくと似ているだけに何とも情けない気分になる。父の出身地には悪い子を壁に埋める習慣がないらしく、父は気味悪がってサチさんに近づかない。

 元々友達の少ないぼくは、自然サチさんとばかり話をするようになった。何も用事がないとき、ぼくの足は彼女のいる六畳間に向かってしまう。

 サチさんは、ぼくがいないときは大抵眠っているらしい。この部屋にあるのは、サチさんの視線の先にかけられた大きな油絵だけだ。どんよりと濁った色をした港の風景で、帆船が黒い海に漂っている。ぼくは絵なんかてんで素人だけど、それでもさほど上手くないとわかる程度の作品だ。

 それ以外には本当に何もない。サチさんはテレビも本も雑誌もスマートフォンも持っていないし、そもそも首以外は壁に埋められているので、それらを持つことすらできない。だから絵を眺めることと、ぼくと話すことだけが娯楽なのだという。

 そんな生活、ぼくだったらすぐに気がおかしくなりそうだが、サチさんはいつも元気そうだ。

「お世話係がタツ坊になってよかったぁ。悪いけど奈津子さん、あんまり好きじゃなかったのよね」

 ぼくに向かってずけずけと母の悪口をいうサチさんは、一体何を考えているのだろう。意地悪なのか、それとも何も考えていないだけなのか、いまいちよくわからない。きゅっと尖ったかわいらしい唇をぺらぺらと動かして、小鳥がさえずるように話す。

「サチ姉さんみたいなひとに何がわかるのって、いっつも言うのよ。処女のくせにってバカにするの。ああ、厭だよねぇ。あたし、いつか壁から出られたらまず美容室に行って髪を切るんだ。かわいい格好して街を歩いて、彼氏を作ってセックスするの。そしたらもう処女じゃないわけでしょ」

「いや、まず風呂でしょ。サチさん、たぶん壁から出たらめちゃくちゃ臭うと思うよ。彼氏なんかできないって」

「失礼だなぁ。まぁセックスはタツ坊としたっていいんだけどさ、だめなんでしょ」

「うん」

 タツ坊は男の子が好きなんだよね、とサチさんはちょっと小声で言う。このことを知っているのはサチさんだけだから、このときばかりは声のトーンを落としてくれる。彼女にそういうデリカシーがあったことは、ぼくにとっては僥倖だった。

 以前、サチさんが壁から出たらセックスしようしようとあまりにうるさいものだから、鬱陶しくて彼女にだけはカミングアウトしてしまったのだ。それ以来ぼくたちはちょっと度を超えて親密になってしまい、それがいいことなのか悪いことなのか、ぼくにはちょっと判断がつかない。

「サチさんって、いつになったら壁から出られるの?」

「ばばあが死んだら出られるよ」

 サチさんの言う「ばばあ」とは、彼女の母親、ぼくの大伯母にあたるひとのことだ。

「それまで出られないってこと?」

「うん」

「どんだけのことしたらそうなるわけよ」

「別に。あたしは悪いことしたと思ってないからさぁ」

 壁に埋まったまま、しかしサチさんは小気味よく笑う。

 サチさんが壁に埋められたのは、埋められていたよその子を勝手に助けたからだという。その子が何をしてそうなったのか、サチさんはどうしても教えてくれなかった。ただ「あたしには、その子のしたことがそんなに悪いことだと思えなかったんだもん」と言っただけだ。やけに清々しい顔をしていた。

 壁の中に埋まっているくせに、サチさんの心は自由だった。この三十数年間、ずっと壁から出たら何をするか考えながら、壁の中で過ごしてきただけの彼女が、ぼくよりもよっぽど明るい表情をする。壁に埋まっていないぼくの方が、よほどがんじがらめになっている。

 父が家に帰ってこないことも、母がそのことでぼくにしょっちゅう当たり散らしていたことも、そのくせ死んだときはひどく穏やかな顔をしていたことも、家計の口座の残高が確実に目減りしていっていることも、うっかり同級生の男子を好きになってしまったことも、それを誰にも言えないことも、何もかもがぼくの肩に重たくのしかかってくる。

 ぼくは時々、サチさんのことをひどく憎らしく思った。


 何か月か経つうち、ぼくはサチさんと過ごす時間をあえて減らすようになっていた。その代わり、大伯母のところにたびたび顔を出すようにした。彼女の健康状態を知りたかったからだ。

 大伯母は今年で七十七歳になるが、まだまだ元気そうに見える。ただ、ぼくの母だって亡くなる一日前まで元気そうに見えていたのだから、長生きするとは限らない。

 ぼくは大伯母に、一日でも長く生きていてもらいたかった。サチさんが壁から出てきたら、もうお世話係は必要なくなってしまう。ぼくと父はあの家から追い出されるかもしれない。それに彼女があちこち出歩いて、色んな人と話すようになったら、ぼくの秘密を誰かにぽろっとしゃべってしまうかもしれない。

 ぼくにとってサチさんは、壁に埋まっている状態が一番都合がいいのだ。

 さいわい、大伯母はぼくのことを気に入っているらしかった。県内でもトップクラスの高校に入学し、真面目に学生をやっていることが、よもやこんな形で功を奏するとは思わなかった。

「サチのこと、悪いわね。本当はほっといたっていいんだけど、あんな具合だからどうしてもそういうわけにいかなくって」

「いや、全然大丈夫ですよ。そんなに手がかかるわけじゃないし」

「達也くんみたいな子がいて助かるわぁ」

 大伯母は嬉しそうに言って、時々仏壇の方を見やる。普段から開け放してある仏壇には、いくつもの位牌と写真立てが置かれている。その写真の中にサチさんの写真があるのを、ぼくはおかしいなと思った。これではまるで遺影じゃないか。

 仏壇に飾られているサチさんの写真は、見るからに古いものだけれど、顔は今とまったく変わらない。セーラー服を着て微笑んでいる彼女はやっぱり結構な美少女で、思春期の女の子にしかない輝きに満ちている。

 ある日、その写真をまじまじと眺めていたぼくに、大伯母が声をかけた。

「サチ、一応亡くなってるからね。位牌も作ってあるのよ」

 位牌も、というところにぼくはひどく驚いた。それでは「死んだことにしている」とか、「死んだも同然だから」というより、まるで「本当に死んでいる」みたいだ。ぼくの顔色を見てとったのか、大伯母は「ちょっといいかしら」とぼくをどかして、仏壇の下の戸棚からいくつか書類を取り出した。

「二十年前に大地震があったでしょう。そのときあの家もひどく揺れて、壁の中でサチの首が折れてしまったの。本人は感覚がないからわかっていないけれど、もう体はとっくに朽ちて骨になっているのよ」

 これが専門業者に頼んだ調査結果、これがレントゲン写真、医師の診断書――大伯母はひとつずつ、正座したぼくの膝の先に書類を並べていく。

「いつかあたしが死ぬときに壁を壊して、あの子も連れていくから。それまでは誰かに頼んで世話してもらいたいのよ。悪いことはしたけども、あんまり哀れだから――」

 その日、ぼくはいつもより時間をかけて、とぼとぼとサチさんだけが待つ家へと帰った。

「おかえりタツ坊、遅かったね」

 サチさんはいつものように明るい声で、ぼくに話しかけてきた。

「うん」

「あんまり遅くなると危ないよぉ。あたしも寂しいから早く帰ってきなさいよね。最近、タツ坊つれないよ」

「うん」

「ん? 何かあった?」

 そう尋ねるサチさんの顔には、あまりに屈託がない。

 ぼくは夢想する。壊れた壁の破片と一緒に、サチさんの首だけがごろんと畳に転がる様を。その時初めて彼女は自分の死を知るのだ。もうお風呂にも入ることはないし、美容室にも行かないし、セックスもできない。それを理解したとき、サチさんはどんな顔をして死ぬのだろう。

 せめてぼくが、サチさんとセックスしたがるような人間だったらなぁ、と思う。彼女の肉体が朽ちたことを悲しむような男だったら、一緒に泣いてあげるのに。でも、そうではないんだよな。

 ぼくはサチさんに、できるだけ優しく微笑みかけた。

「……なんでもないよ。ただ大伯母さんに会ったから、ちょっと」

「そう。ばばあ、死にそうだった?」

「うーん、なんとも」

 何も知らないサチさんは、「早く死ねばいいのに」と毒づく。ぼくは曖昧に笑って、その日以来、サチさんに対して前よりも優しくなった。


 昨日、ぼくは十七歳になった。

 大伯母はまだ存命で、サチさんは今日も壁の中にいる。

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