第15話⁂初美の出自!⁂
フィリピンミンダナオ島のダバオ市は特に日本と関係が深い場所である。
1900年代初頭の日本の事である。
働き口の無い過疎地や農村部などの次男坊や三男坊は新天地を求めてダバオに降り立った。
そこで日本人は「アバカ」労働者として雇われ、マニラ麻の栽培をダバオで始めた。
やがて第一次世界大戦勃発、戦争の余波で、マニラ麻が、高騰したため急激に主要産業へと成長し、発展していった。
その内、日本人経営者も現れて日本人は、どんどん増え、最盛期には2万人がダバオでマニラ麻の生産に関わっていた。
緑あふれる平和な都市として知られるダバオ。
だが、太平洋戦争が勃発して、日本人とフィリピン人との間には、相容れない暗雲が立ち込める事となった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
1910年代に農園経営の為の日本人労働者が、ダバオに大量に移民して来た。
実は、その当時初美の祖父も夢を抱いて日本からダバオに渡っていた。
初美の祖父は優秀な男で、農園の仕事を一気に引き受ける、現場責任者を任されていた優秀な人物なのだが、1945年8月15日の終戦直後に肝臓の病気で死亡していた。
フィリピンで幸せな日々を送っていた祖父母一家だが、戦争勃発で幸せな生活が一変する。
今までは、優秀な日本人親方家族としてチヤホヤされていたのに、急に態度が急変してしまう。
日本人だったという事も有り、酷い迫害を受けるようになっていったのだ。
それは何故かというと、日本軍は戦時中、フィリピン侵攻によってマニラに占領してマニラ大虐殺で10万人を虐殺したとも言われている。
事の真相は定かではないが⁈
それでも…フィリピン人に対して非人道的な行為を多々行なっていたのは事実なのだ。
それが原因で日本人を憎むフィリピン人が増え、戦争が終わってからも、日本人の親を持つ子供たちは、フィリピン国内で差別や迫害を受けた。
仕方なくフィリピン在住の日本人は、日本の名前や出生証明書も捨てることになった。
現場を仕切る農園長の父親と一緒に、若干33歳で農園長代行を引き受けていた勇(マ-ク)は、徴兵は免れていたのだが、とうとう戦争末期の1944年に日本からの要請で初美(ニコル)の父親勇(マ-ク)は、戦争の状況も日に日に悪化の一途を辿っていた事から、日本軍に通訳として徴用された。
初美(ニコル)の父親勇(マ-ク)は、既にフィリピンで在住日本人女性と付き合い結婚して初美はこの時9歳。
だが、同上にも記したように、諸々の諸事情により、日本人家族は無国籍にならざるを得なかった。
散々酷い迫害を受けた為に、日本の名前や出生証明書を捨て無国籍となってしまったのだ。
戦争の焼け野原の中、日本にいる親類縁者の消息もままならない時代の事。
勇(マ-ク)は戦争のどさくさに紛れて、大空襲で両親を失った造り酒屋の長男で天涯孤独になってしまった、戦死した日本人の同僚の戸籍を不正に入手していたのだ。
やがてこのような事が災いして恐ろしい事が………。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
初美は社長の剛と結婚出来て剛の計らいで、母親も豪邸に呼び寄せ幸せな生活を送っている。
まさに幸せの絶頂。
一方の貴美子の方はというと。
社長の剛はしつこく結婚を迫る貴美子との関係を清算するべく、貴美子を異例の大抜擢で石川県金沢支店の支店長として送り出したのだが、どうも最近そこの支店長代理と怪しい関係になっているらしい。
支店長代理中元は東大卒のエリ-ト、年齢は32歳でおまけにクールで知的な2枚目。
貴美子にしてみれば、何も出来ない自分を補佐してくれる中元だけが頼り。
それからこの仕事で成功すれば、日本有数の不動産会社の社長夫人に収まる事が出来る。
それを頼りに必死になって頑張っているのだ。
夜も深まった8時頃、もう会社には誰もいない。
2人はいつもこの時間まで仕事に追われて、2人っきりでいるのが当たり前になっている。
そんな時に、あのク-ルな中元が貴美子の傍に近づき、突然何を血迷ったのか、後ろから貴美子を強引に抱きしめて「支店長僕は……僕は……あなたの事を以前から‥以前から好きでした」
余りにも急なことに驚くと同時に恐怖に苛まれる貴美子。
「ナナ…何をするの~?・・私には社長との間に娘までいる身なのよ……だから‥そんな事はダメよ!・・この仕事が成功すれば私は、社長に結婚しようと言われているの!……だから…そんな・・バカな真似はよして!」
すると中元がニンマリ不気味な笑みを浮かべて尚も。
「あなたは私の協力なしには、ここでの仕事の成功はあり得ない…それでいいんですか?社長夫人になりたいんだったら僕の思いを…僕は……僕は……貴美子さんを……貴美子さんを愛している…良いだろう?」
「何を言っているの?いい加減にしなさい!」
それでも強引にキスをしたのだ。
この男、中元は何を企んでいるのか、仮にも社長の女にこんな酷い事をするなんて……?
この中元の目的は一体何なのか?
【■フィリピンのダバオには日本人街があった■
1900年代初頭の日本の事である。
働き口の無い過疎地や農村部などの次男坊や三男坊は新天地を求めてダバオに降り立った。
やがて、日本人経営者も現れて日本人は、どんどん増え、最盛期には2万人がダバオでマニラ麻の生産に関わっていた。
日本人街が出来上がり、「ここに人が溜まるように」という思いを込めて「ミンタル」(民多留)という名前で繁栄した。
ダバオに住むフィリピン人と日本人との関係はどんどん深くなったが、1941年12月、太平洋戦争が勃発。
日本軍が侵略を進め、やがてダバオは激戦地になり、移住していた日本人は、戦争に巻き込まれて亡くなったり、帰国した人たちもいた。
同上に記したように、日本軍は戦時中、フィリピン人に対して非人道的な行為を多々行なっていたので、フィリピン人の名前へ改名し、仕方なく日本人の親がいた事実は無かったことにした。
しかし、彼らの生活は、諸々の諸事情により貧困を極めた。
そして…現在もダバオの山村には、貧しい生活を強いられている日系2世の人々が住んでいる。
その為、日本国籍を取得したい日系人たちは、日系人会を結成し、日本国籍を取得すべく活動している。
だが、すでに出生証明書がなくなってしまっているので、証拠を探すのは簡単ではないため、日系人たちに聞き取り調査をして日本の親族を探すなど、地道な活動も行われている。
これは、今後生まれてくる3世、4世のために、2世が日本国籍を取得できれば、豊かな国日本で暮らすことができるので必死になって活動して居る。
貧しいフィリピンの人々にとって、日本で暮らす事は夢なのだ。
残念なことに日本戸籍を求めている日系人のうち、未だ1,200人ほどは父親の身元が不明】
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