檻の君

ぺんぎん

檻の君

「お嬢様、どうか」

「来ないで」


 扉越しの拒絶に、使用人は静かに項垂れた。


「ですが、お嬢様」

「彼はどこ?」


『彼』が誰を指すのか、使用人達の間で知らぬ者はいない。


「あの者でしたら、別の仕事を与えております」

「彼以外、ここには入れないから」


 名家の令嬢であるお嬢様。

 彼女は幼少期から、長く仕えている執事――『彼』以外、使用人に心を許していない。いや、使用人達だけではない。彼女の両親である当主夫妻にさえ、会話らしい会話は生まれない。


 以前目にした光景は、どこか冷め切った、一言二言の言葉。もっともお嬢様にとって、両親は忌むべきものかもしれない。


 長く子に恵まれなかった当主夫妻の間に生まれたのが、お嬢様。しかし、女が家を継ぐことは許されず、以前から冷め切っていた夫婦仲は悪化の一途を辿った。


 お嬢様が生まれた後、お二人が共にいることはなくなった。お嬢様のお世話は亡き乳母と、使用人達に任せたまま。互いに愛人の家に入り浸る日々だった。


 噂では当主は愛人の子を養子に迎え入れ、その子供を跡取りにするつもりだとか。真偽はともかく、当主の中でお嬢様は『いないもの』になっていた。


 それが無性に哀れに思え、使用人達は彼女の世話に従事したが、


「いらない」


 お嬢様の心は閉じられたままだった。


「彼を呼んできて」


 お嬢様は再度命令を告げてくる。

 ――彼はお嬢様から離れたがっている。


 彼なりにお嬢様について思うところがあるのだろう。


『いつまでも俺に依存してはいけない』


 そんなことを呟く彼はどこか疲れた、ほの暗い瞳をしていた。退職願すら、執事長に渡していたくらいだ。


 だが、この家に仕えるものとして、お嬢様の命令を無下にするわけにいかず、


「かしこまりました」


 扉越しの非礼を含めて、粛々と頭を垂れた。


* * *


「お嬢様」

「やっと来てくれた」


 嬉し気に微笑む彼女は、カーテンを閉め切った部屋にいても、変わらず眩しかった。


「別のお仕事を任されていたと聞いて」

「……お嬢様」

「その間だけでも待とうと思ったのだけど、」

「お嬢様」

「つい使用人を急かしてしまって、」

「……お嬢様」

「仕事のほうは大丈夫だった? それとも私を優先するよう命令された?」


 どこか悪戯っぽく笑う彼女が小首を傾げて問いかけてくる。


「……」


 ため息をついた。

 長年、彼女に仕え続けたのだ。彼女の性格、癖に至るまで把握している。

 こういう時の彼女は、こちらが答えるまで、同じ問いを延々と繰り返すのだ。


 こちらの言葉は延々と無視し続けた状態で。


「……お嬢様を優先するよう、命令されました」

「そう」


 自分の意思で来たわけではない。そう言われたも同然なのに、彼女は満足そうな顔をしていた。


「今日はどうする? 本を読まない? ああ、それとも使用人に軽食を運ばせる?」

「お嬢様」

「ああ、あなたは何もしなくていいから。呼び鈴を鳴らせばすぐに」

「お嬢様」


 強めに、彼女を呼んだ。主人の言葉を遮るのは不敬だ。即刻解雇されたところで不思議ではない。だけど、彼女は意図して言葉を交わさない態度だった。


 なら、少しだけ強気に出る方が得策だ。

 むしろ、


「何?」


 不敬だと罰する主人の方が気が楽だったかもしれない。


「俺は本日付で、この家を出ます」

「……そう」

「お嬢様の元を離れます」

「……そう」

「ですから、お嬢様はもう、」


「なら、執事長を解雇しましょう」


 一瞬、耳を疑った。


「執事長は関係ありません。俺が望んだことです」

「執事長を解雇して、あなたを辞めさせない者を執事長にしましょう」


 彼女はあくまでにこやかに、こちらを見つめている。


両親あのひとたちがいない今、私が使用人に関する権限はすべて握っているも同然だから」

「ですから、お嬢様、」

「なら、善は急げと言うし、さっそく――」

「お嬢様!!」


 部屋中に響き渡る声。


「どうしたの?」


 呼び鈴に手を伸ばそうとする彼女の細い腕を掴んだ。


「……やめてください」

「なら、」


 振り払うそぶりすらせず、むしろ愛おしげに見つめてくる。


「なら、二度と『辞める』なんて言わないで」


『はい』しか認められない、そんな命令だった。


「何より、あなたはそれでもいいの?」

「……どういう意味ですか」


 分かりきった問いに、分かりきった問い返し。

 幾度も幾度も重ねた、意味のない会話だった。


「あなたがここを出ていけば、あなたの悪事は露見してしまうのに?」


 言いながら、清楚なドレスを摘んでみせる。

 細い両足には、囚人が繋がれるような鎖が着けられていた。


 彼女の両足を鎖で繋いだのは、他でもない俺だった。


「私がここから出ないのはあなたが鎖で繋いだせい」


 責めるような物言いのくせに、不思議と優しさすら感じられる。

 彼女の、こういうところが嫌いだった。


「もし、あなたがいなくなったら、私はあなたの罪を暴露する」

「構いません」


 投げやりな言葉だが、事実だけを口にする。


「それでお嬢様の側を離れられるなら、牢屋に繋がれても構いません」


 彼女の側を離れたい。

 そうできるなら、囚人になったほうがはるかに心穏やかになれるだろう。


「……そう」


 一瞬、彼女のきれいな瞳の奥が揺れた気がした。


「なら、」


 彼女は引き出しの中から短剣を取り出した。

 護身用とも思えないほど、装飾が美しいものだった。


「これで、私を殺して」


 自分には不釣り合いな短剣が渡される。


「私から離れたいのでしょう?」

「それは、」

「なら、これで私の心臓を貫いて」


 無理やり持たされた短剣の切っ先が、彼女の胸あたりに向けられた。


「お、」


 お嬢様と言いかけた口が、うまく動かない。


「私から離れたいのなら、今すぐ私を殺しなさい」


 息がうまくできなかった。


「命令よ」


 切っ先が揺れる。手が震えているせいだ。

 ――意気地なし。


「……できません」

「命令よ」

「できません」

「命令なのよ」

「できません。できないと言っているのです」

「……何故?」


 分かっているくせに。いや、違う。

 分かっていたら、彼女がこんな真似をするまい。


「俺が、嫌いなあなたを殺したくないからです」

「……そう」


 嫌いだとはっきりと言ったのに、彼女はそれでも満足そうだった。


「なら、これからも嫌いな私に仕えてくれる?」


 優しく短剣を奪うと、あっさりと放り投げた。

 カランと、耳に響く心地よい音だった。


 きっと床は短剣を投げたせいで、傷ついてしまっただろう。


「聞いてるの?」

「ええ、聞いています」

「なら、」

「その前に聞いてもいいでしょうか」

「?」

「それです」


 指差したのは、彼女の両足を繋ぐ鎖だった。


「これがどうかした?」

「何故、


 彼女の両足を鎖で繋いだのは、俺だった。

 だけど、繋げと命じたのは他でもない、主人である彼女だった。


 繋がなければ、自害すると。

 自身の首筋に切っ先を向けた状態で。


 命令に従わざるを得ず、しかし従った後は罪を着せられた。


「お嬢様がご自身を繋ぐ意味が分からない」


 俺に執着するのなら、俺を鎖に繋いでおけばよかったのに。

 彼女にはそれができたはずなのに、なぜ彼女はそうしなかった?


「そんなの、決まっているでしょう」


 俺の当たり前の疑問に対して、彼女は不思議そうに答えていた。


「あなたを繋ぎ留めておくためよ」

「……俺を?」

「そう」

「お嬢様を鎖で繋いでおくことが?」

「実際、あなたは出て行けなくなった。……私が罪を着せたから」


 彼女から逃げたがる俺を、罪を着せることで、脅迫という形で繋ぎ留めておく。

 それを考え付いたとき、名案だと思ったらしい。


「……俺を鎖で繋ごうとは考えなかったのですか?」

「まったく」

「何故?」

「私が欲しいのは、お人形じゃないもの」


 俺を『人形』に仕立てたいなら、簡単だと言っていた。


「意思を奪って、動けなくして、そこにいればいいだけにすればいいんだから」


 お世辞にも正気とは思えない『考え』を披露しつつ、彼女は言った。


「だけど私が欲しいのは、お人形じゃなくてあなただもの」

「……」

「どんなに嫌でも、嫌っていても、私の側で、私に仕えてくれるあなたがよかったの」

「……」

「お人形だと、そんなことできないでしょう?」

「……」

「それに、」

「?」

「罪悪感を抱いてくれた」


 その時のことを思い出したのか、彼女は幸せそうに笑っていた。


「嫌いな私を繋ぐとき、あなたは間違いなく苦しんでいてくれた」


 罪だけではなく、罪悪感すら抱いてくれたのだ。

 その感情すらも、彼女のもとに繋ぎ止めておける鎖になればいいと。


「そう思ったから、あなたを鎖で繋げなかったの」

「……そうですか」

「答えになった?」

「ええ。これ以上ないほどに」

「そう。なら、私の質問に答えてくれる?」


 ゆっくりと、自身の手の甲を向けてきた。


「これからも嫌いな私に仕えてくれる?」

「……ええ、もちろんですよ」


 跪き、頭を垂れる。

 一瞬、彼女を繋ぐ痛々しい鎖が、目の端に映った。


「どうしたの?」

「……いいえ。なんでもありません」


 ――そんなことをするくらいなら、自分を繋いでくれてもよかったのに。

 掠めた考えは微塵も見せることなく。


「これからもお仕えいたします」


 彼女の手の甲に忠誠の証としてキスをする、ふりをした。


「俺の大事なお嬢様」

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檻の君 ぺんぎん @penguins_going_home

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