武蔵野の巫女
沢田和早
武蔵野の巫女
う~ん、気持ちのいい朝。奥多摩の山々がくっきり見える。陽射しはきついけど時折吹く風は爽やかで秋の訪れを感じさせてくれる。
「あれ、またいない」
犬小屋が空になっている。ハクのやつ、今日も朝のお散歩に出かけたな。まあいつものことだし、餌皿を置いて立ち去ろうとしたら茂みの中から姿を現した。
「おかえり。お散歩は楽しかった?」
ハクは野良犬だ。あたしが小学生だった時、下校途中に偶然出会って連れ帰った。父も祖父も反対せず家族として迎え入れてくれた。ひと月前に母を亡くした寂しさを少しでも紛らわらしたかったのだろう。
「ほら朝ご飯だよ」
ハクは犬小屋の前にやってくると自分で首輪を嵌めた。餌皿に一礼しドッグフードを食べ始める。
「おまえ、本当は人間なんじゃない」
これまで何度この言葉をつぶやいたことだろう。度肝を抜くようなハクの振る舞いは出会ったその日から始まった。
「白犬だから名前はシロにするね。いい?」
あたしの言葉を否定するように首を横に振る。それだけでなく地面に爪を立てて「ハク」と書くと前足でトントンとその文字をたたく。
「ハク? それがお前の名前なの」
満足そうにうなずく。人の言葉がわかっているとしか思えない。
「言葉がわかるのなら喋ってみれば」
「キャンキャン」
犬語しか返ってこない。どうやら言葉を喋るのは無理みたいだ。
「おまえ全然大きくならないね」
飼い始めて四年。まだ子犬のままだ。どんな犬種なのか調べてもさっぱりわからない。見た目は柴犬に似ているが顔が全然違う。超悪人面なのだ。
ハクの目付きの悪さは天下一品。気の弱い子は目を合わしただけで泣きだしてしまう。でも性質はすごく温厚でほとんど吠えないし人を噛んだこともない。本当に変わった犬だ。
「いけない、もうこんな時間だ」
スマホで時刻を確認したあたしは慌てて家に戻った。無遅刻無欠席無欠課があたしの信条。鞄を持って自転車にまたがると一目散に漕ぎ出した。
授業中のあたしは教壇に立つ先生に釘付けになっていた。先週から教育実習に来ている大学生。受け持ち科目は日本史。最初の授業で一目惚れしてしまった。
「武蔵野が長らく荒野だったのは、土地の者たちが立ち込める魔の瘴気を追い払う
教科書とは全然違う話だったけど凄く面白かった。何より武蔵野や古代神話への愛が猛烈に感じられて、神社の娘としては胸をときめかせずにはいられなかった。
「へえ~、君の家は神社で弓道部所属なのか。実はボクも弓道経験者なんだ。今度部活を見学に行ってもいいかな」
そう言われたのが昨日。そして今日の放課後、本当に来てくれた。さらに部活が終わった後、近くの喫茶店でお茶までしてしまった。これって先生もあたしを特別視しているって考えて間違いないよね。
「玉、ですか?」
向かいあってコーヒーを飲むあたしの心臓はバクバクしっ放しだったけど、先生の話を聞いてようやく冷静さを取り戻せた。
千年ほど前に武蔵野の魔を封じた宝玉は力を使い果たしてただの石に変わった。でも夏が来れば枯れ木に葉が茂るように、石に変わった宝玉も時が経てば再び元の力を取り戻すのだそうだ。
「きっとどこかの神社で大切に保管されていると思うんだ。君の家は神社だろう。何かそんな石の話を聞いたことはないかな」
「あります!」
即答してしまった。神社の弓道場に初めて入った時、母に箱を見せられた。その中に石が入っていたのだ。
「本当かい。なら見せてくれないか」
「構いませんが今日は無理です。二日後の夜、神社に来てください」
すぐに見せられないのには理由があった。箱は満月の夜にしか開けられないのだ。先生は嫌な顔もせず「じゃあ二日後に」と言って帰っていった。
そして今日はその約束の日。あたしは巫女の装束を着て社務所に座っていた。
「相変わらず暇だなあ」
帰宅後は夜八時まで巫女として働いている。巫女と言っても神楽を舞ったり祈祷をしたりなんてことはない。お守りや御朱印を売るだけの簡単なお仕事だ。
「やあ、その巫女姿、似合うじゃないか」
八時ちょうどに先生がやってきた。しかもいきなりの褒め言葉。胸の鼓動が一気に激しさを増した。
「まだ仕事中なのかい?」
「いいえ八時で終わりです。石を入れた箱は弓道場にあります。行きましょう」
社務所の灯りを消して薄暗い弓道場へ向かう。ちょっと緊張してきた。
「これです」
物置から取り出した箱を弓道場の床に置く。これを見るのは久しぶりだな。
「蓋が見当たらないけどどうやって開けるんだい」
「特別な仕掛けがあるんです。ここに押花を置いて月の光を当てる、そうすると光学系の装置が働いて自動的に開くのです。満月でないと光の量が足りなくてうまく動作しないらしいです」
「その押花、
「はい。ある波長の光だけを通すフィルターの役目をするそうです」
そんな話をしているうちにカチッという音がして箱が開いた。中には水色の石が入っている。心なしか記憶に残っている石より色が濃くなっているような気がする。
「素晴らしい!」
先生が石を持ち上げた。月光を浴びて美しさが一段と増した。
「これこそ魔の瘴気を封じた蒼石。ついに手に入れたぞ」
「よかったですね。あ、でも見せるだけですよ。差し上げることはできません」
「それで、もうひとつの石、紅石はどこにあるんだ」
「えっ?」
先生の表情が変わった。まるで別人みたいな目であたしを睨んでいる。
「蒼石があるなら紅石もあるだろう。どこにあるんだ。教えろ」
「な、何を言っているんですか」
「教えろと言っているんだ!」
先生があたしの右腕をつかんだ。痛い。怖い。腕が潰れそうだ。
「離してください。その石しか知りません」
「言え! 言わないのならこうだ」
先生の右手が振り上げられた。あたしは目を閉じた。
「がるるるー!」
「うわあ」
獣の声がした。同時に先生の叫び声も。目を開けるとハクがいた。蒼石をくわえている。
「ハク!」
「この犬め。石を返せ」
先生がハクに飛び掛かる。口にくわえた石を飲み込むハク。体全体が淡い水色に包まれたかと思うとその体が数倍に膨れ上がった。
「ウソ……」
そこにいるのはもう子犬ではなかった。犬よりももっと大きく、もっとたくましい獣だ。
「お、おまえは白狼!」
「そうだ。我は武蔵野の守護獣。魔に囚われた哀れな者よ。今そのくびきから解き放ってやろう。縛!」
先生の動きが止まった。まるで凍り付いたように微動だにしない。ハクの口が前足をこすった。白い体毛が一本宙に舞うとそれはたちまち矢に変わった。
「娘、この矢であの者を射よ」
「えっ、あたしが? でもそんなことしたら先生怪我しちゃう」
「これは破魔矢だ。身体を傷つけずに魔を払える」
「で、でも」
「急げ。金縛りの術は長くは持たぬ。動き出す前に魔を払え」
床に落ちた矢を拾う。まるで実体がないかのように軽い。弓を取って矢をつがえる。手が震える。人を射るのは初めてだ。大丈夫だろうか。
「あれ、花が見える」
先生の眉間に蓮華升麻の花が咲いている。それを目掛けて矢を放った。
――シュ!
矢は眉間に当たると同時に消滅した。先生の体が崩れ落ちる。うまくいったのかな。
「よくやった。ところで娘、我に見覚えはないか」
ハクがこちらを見ている。申し訳ないけど全然記憶にない。黙ってうなずいた。
「そうか。
ハクは弓道場を出て行った。なんだかよくわからないけどすごく寂しそうな後姿だ。
「う~ん」
「あ、先生。気がつきましたか」
弓を放り出して先生のそばに駆け寄る。まだ意識がはっきりしていないみたいだ。
「ボクは、何をしていたんだろう」
「石を見に来たんです。でもいきなりウチのバカ犬が石を奪って飲み込んでしまったんです。ごめんなさい」
あたしが矢を射ったのは黙っておくことにした。余計なことは言わないに限る。
「だめだ、思い出せない。どうしてあんな石に執着したのか、それすらよくわからない。先月から時々意識が飛ぶことがあるんだよ。君にも迷惑を掛けてしまったみたいだね」
「そんなことありません。それよりも先生」
ここからは勇気が要る。深呼吸して言葉を続ける。
「今週で教育実習も終わることですし、今日のお詫びに週末ご馳走させていただけませんか。素敵な店を知っているんです」
「すまない。週末は先約があるんだ。最近彼女の機嫌が悪くてね」
「か、彼女!」
「ああ。教育実習中は一度も会わなかったからむくれちゃってね。次の週末は絶対一緒に過ごすって聞かないんだ。それに実習生とは言っても君は教え子。親密な付き合いはできないよ」
「そ、そうですか」
「じゃあボクはこれで帰るよ。さよなら」
「はあ、さよなら」
先生の姿が闇に消えるとどっと疲れが押し寄せてきた。ハクの大変身は驚きだったが、二週間も持たずに虚しく散った初恋のショックに比べれば些細な出来事に過ぎない。
「さよなら、あたしの初恋」
「おい娘。週末は武蔵御岳山へ我を連れて行け」
いつのまにかハクは弓道場に戻っていた。体だけでなく態度まででかい。
「何よいきなり。そんなに大きくなったんだから自分一人で行けば」
「この体で外を出歩けば大騒ぎになる。普段は子犬のハクで通すつもりだ」
「あんな山へ行って何をするつもりなの」
「紅石を探すのだ。あの山には日本武尊手植えの御神木がある。何か手掛かりがつかめるやもしれぬ」
次は紅石か。やれやれとんでもないことに巻き込まれちゃったみたい。まあいいや。これも乗りかかった船。こうなったらとことん付き合ってあげましょう。
武蔵野の巫女 沢田和早 @123456789
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