第6話 一月五日に少女は天から落ちる

 朝餉を済ませて着替えると、三人はそそくさと部屋を出た。戸口では主人のユミルが三人を待ち構えていた。

「御主人、お世話になりました」

「行きますか」

「はい、街に戻ります」

「そうですか」

 グレンの答えでユミルは何かを悟ったようだった。

「行李は置いていきます、お預かりいただけますよう」

 懐から添書きと金子の包みを取り出した。

「本来ならもっと丁寧な上書きにしてお渡しすべきところ、先を急いでおります。どうぞこれでご勘弁を」

「頂戴つかまつります。時節にも関わらずこうしてお越しいただき、御厚情に預かりましてお有難うございます」

 二人は作法通りの挨拶を交わした。

 挨拶が終わった途端、真面目くさった顔をにこりと崩したユミルが棚に置いていた紙袋をアイカに差し出した。

「お嬢ちゃん、道中でお食べな。銅鑼焼だ」

「ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げたアイカに満足そうに頷くと、もう一度グレンに向き直った。

「またこちらにお越しの折にはよろしくお引き立ての程をお願いします」

 そう言ってユミルはそっと顔を近づけて声を落とした。

「店の者に夜っぴき見張らせたが、おかしな連中が夜通し動き回っていました。どうぞお気を付けて」

「おかしな連中とは」

「筋者じゃありませんが、夜警でもない。どうにも得体が知れない。裏に回って脇道を行かれたほうがよくないですか?」

「それだけわかれば十分で。むしろ表通りを行くほうがかえって安全ってもんです」

 ちょうどエルフの下男が厨房から這い出してきて無言のうちに頭を下げた。

「それでは、これで失礼します」

 戸口を潜って辺りを見回した。周囲はもう薄暗くなっているが、幸い冬霧が一面に立ち込めている。一通り気配を探ってから戸口で待っているアイカとロラに顎をしゃくった。アイカがごくりと喉を鳴らして踏み出した。


 宿を出て半時もすると霧は晴れてしまったが、既に路上には朝の早い職人や担ぎ売りの商人が行き交い、朝駆けの旅人もちらほら見えた。

「グレンさん」

 三歩後ろを進むロラが白い息を吐きながら囁いた。

「尾けられてますよ」

 手を引かれたアイガがびくっと肩を震わせてロラを見上げた。

「わかってる。振り向くな。順番を変えよう。撒こうなんて考えるなよ」

 歩調を変えずにゆっくり歩幅を落としてアイカたちの後ろに回った。

 こうして路上を往来する人々に紛れていれば向こうも襲ってはこないだろう。ただし相手は町中で平然と大筒をぶっ放す連中だ。絶対に襲ってこない保証なんてどこにもないことはグレンも承知していた。しかし、今は賭けるしかない。アイカなら首飾りの加護のおかげで多少撃たれても大丈夫だ。いざとなればロラがアイカを担いで走ることになっていた。


 やがて陽も昇り、路上を往来する人の数も増えてきた。

「これからどこに行くんです?」

 ロラが振り向かずに訊いた。

「俺の隠れ家に行く」

 ロラとアイカの背中を見つめながらグレンが答えた。

「また、あそこに戻るんですか?」

 アイカが心底嫌そうな顔をしたのが気配でわかった。

「違う、別の場所だ」

 グレンはこの街にいざという時の逃げ込み場所を五つ用意していた。そのうち二つは昨夜泊まったような秘密の素人宿だ。

「今度こそ秘密基地なんでしょうね?」

「だから、そんなものはない」


 ふとロラが足を止めた。

「どうした?」

 小声で訊いたがすぐグレンも理由がわかった。

 四、五十人程の人間が、ぼんやり路上に立ち尽くしていた。

 異様な光景だった。

 道具箱を担いだ若い職人、紺の仕着せの丁稚、色褪せて染も定かでなくなった綿入れの少年、箒と馬糞入れを手にしたごみ拾いの老人、背負い籠に野菜を山積みにした農家の老婆まで、口をぽかんと開け、虚ろな眼差しで街の中心部を眺めている。

(何だ)

 振り返ってみると、後ろの人々も足を止めて同じ方向を凝視している。

 グレンは道端に立つ黒い山高帽に貂の襟巻の男に話しかけた。

「これは何です?」

「何がって……」

 身形みなりはいいが顎の先にまばらに無精髭が生えていた。

「何か変わったものが見えるので?」

「ああ」

 やっとグレンに顔を向け

「音がするんだ」

「音?」

 グレンも皆が見つめる方向に顔を向けて耳を澄ませたが、馬の嘶きが遠くで聞こえるばかりだ。ロラが振り返って僅かに首を横に振った。アイカもロラも聞こえないようだ。

「どんな音なんで?」

「うん、もう聞こえないな」

 そう言って足早に歩き去っていった。気が付くと周囲の通行人も再び動き出している。グレンは暫く街のほうへ目を止めていたが、不安そうに見つめるアイカとロラに気づいて顎をしゃくって再び歩き出した。


 やがて三人は、当初の打ち合わせ通り、木戸の手前で道を折れ、チュヴァ河の岸辺へと向かった。遮蔽物の多い街中より見晴らしが利いていて、敵の奇襲に備えやすいからだ。丈の低い松の間に板敷の道が通っている。松葉が一面に散り敷かれて簀の子の境目もはっきりとは見えないが、革靴の堅い踵で歩けば意外と大きな音がした。彼方には岩の上に聳える教会の二本の塔が、木々の間に見え隠れしている。河面を渡る寒風に思わず首を竦めた。ロラとグレンは風から庇うようにアイカの両横にぴったり寄り添って歩き続けた。散在する渡し守の小屋の他には何もない殺風景振りだが、街に近づくにつれて人出も増えるだろうと思案しつつ、グレンは足許に纏わりついた水草を踏みしだいた。

(おかしい)

 濡れた浮き草が松葉にまみれてそこかしこに引っかかっている。

岸辺から板敷の散道まで一町近くある。ここまで川草が打ち寄せられるというのは大雨の季節でもない限りまず有り得ないことだ。


 松が途切れてきた頃、菓子屋の野立て看板の一町ばかり奥に黒いものが見えた。そのまま進むと、それは筵張りの仮小屋だった。物々しい竹矢来が周囲に立て回されていて、門の上には「河原座」と大書された幕が萎れた形で引っ掛かっている。

(今年はここでやっていたのか)

 身も蓋もない名前だが新年の三日間に限って興行を許された官許の芝居小屋だ。全国各地から旅の一座が寄り集まって様々な田舎芝居を見せるのがこの街の新年の風物詩だ。周囲には客目当ての物売りが軒を並べ、興行の間は芝居見物の人々が山をなしていたが、見世が終わって旅芸人たちが去った今は人の出入りもなく、ただ解体を待つばかりだった。

 これらの土地は、香具師や口入屋が権利を持ち、その株は何年かに一度仲間内で高価で回されるという。

 街から続く細道の途中に荷車が停っていた。解体業者らしい仕着せの印半纏の男たちが盛んに板切れを引き出して叩き割っている。その隙間を縫うように三人は芝居小屋へ向かった。

「ここまで来れば一安心だ。あの小屋でちょいと休んで行こう」

 あそこなら風を避けられる。グレンを見上げたアイカが小さく頷いた。


 竹矢来の側にも人がいた。十人ほどの壊し屋の男衆たちが砂の上に腰を降ろしていた。

(この芝居小屋も取り壊すのか)

 これはゆっくりできないかもしれない。眉を顰めて近寄ると、驚いたことに、彼らも街の中心部へ視線を据えていた。傍に頭らしい四十絡みの男が立っていたが、この男も締まりのない顔つきで一点を見つめ、身動きひとつしない。

「兄さんたち」

 グレンが腰を落として手近な一人にそっと声をかけた。全員が一斉にグレンに顔を向けた。どれもこれも呆けたような表情だ。魂の抜けた視線がグレンの背後を彷徨っている。

「何か見えるんですかい?」

 グレンは背筋を這い登る悪寒に耐えながら尋ねた。

「音」

 全員が静かに街を指さした。

「どんな音なんで?」

「空がぴかぴか光るんだ。それでもって、音がしやがるんだ」

 雷鳴かと思ったが、見上げるとこちらが落っこちそうなくらい澄み切った青空だ。小さな雲がちらほら浮かんでいるが、とても雷雲には見えない。

「雲の中、ですかい?」

「違う。街の上辺りの空だ。光が横からさっと走るんだ。何本も、よ。それで赤いのが幾つも筋になって、よ」

 どうも要領を得ない。

(空際線に怪光が見えるということか)

 グレンは彼らの横に膝をついた。

「音はどんな具内なんです?」

「長いのが一回、短いのが三回。これが何回も聞こえるんだ。まるで高い声で唄ってるみたいな」

「人の声みたいな?」

「ああ、気味の悪い声だった。朝っぱらから河に塞壬セイレンでも無えだろうに」

 グレンは暫く耳を傾けていたが、すぐに飽きて立ち上がり、無言でアイカとロラを促して芝居小屋に入った。



 芝居小屋は無人だと思ったが、耳を澄ませると人の声がした。ロラとアイカに顔を向けて人差し指を立てて口に当てた。入口の筵を掻き分けてそっと足を踏み入れた。靴底が砂の上でごろごろ鳴った。簡単な板敷になっているらしい。

「一丈八尺、何だそりゃ……」

 誰かが小声で話を交しているらしい。グレンは思い切ってもう一歩、木戸番の溜りに身を寄せた。三つ蛇の目の暖簾が橙色に輝いている。広いとはいえ小屋の中で煌々と焚火をやっているのだ。

 手でアイカとロラに動かないよう合図すると、捥りの番台裏に潜み、耳を傾けた。

「まず昼飯といきたいところだが、そうも言ってられなくなった」

 誰かが言った。

「馬鹿が下らねえもの見せやがったからな」

 別の声が答えた。

「しかしおめえも大いに豪気なことだ。あれを一丈八尺も押そうってんだからよ」

「あの白毫の位置がどうにも具合が悪りい。護摩に桜の古木を使ってるというが、あの光り具合は我慢ならねえ」

「一丈八尺でいいのかい?」

「前は三丈も引っ張ったっていうのによう」

「それはあすこの土地が穴に落ちる前のことだ。あれから何年経っていると思う? 二百と十年だぜ、今度はこちらが押す番だ」

「暗馬堂のくそ尼め、今までよくも俺たちを苦しめやがった」

「くそなんて言うなよ。気になって催しちまう」


(さて、何の話だ)

 グレンは筵の隅に指を入れて隙間を作った。覗いたすぐ先に焚火の炎が揺れている。十人近い男たちが舞台で車座に座って茶碗酒を嘗めていた。

 異様なのはその顔だ。顔一面を白く塗り潰し、ただ目の下に耳から耳まで黒々と墨を一線引いている。

(祭り化粧か)

 かつて旅先の村祭りで同じような化粧を見たことがあった。恐らく彼らは長っ尻の旅芸人の一座なのだろうとグレンは見当をつけた。

「傘はまだか。さっさと持ってきやがれ」

 一人が首をひん曲げて裏口に呼びかけた。

「おおい、新入り、皆が待ちかねてるぜ」

 すると

「〽へいへいへい」

 調子のいい声がして、下手の幕が開き唐傘の束を背負った小男が姿を見せた。

「〽待ちかね待ちかねお待ちかね、御神酒大路の傘職人が腕にり掛け、本場霊山に生えまする竹にて作った唐傘でござい」

 舞台の上で結んだ紐を解き始めた。

「おう、待ちかねた待ちかねた」

 一人が一本手に取ると、石突を床に立てて足を絡ませ、ひょいと器用に傘の頭の上に立って腕を組んだ。

 これを見た他の者たちも手頃な傘を抱きかかえて立ち上がった。

(これは並みの体術ではない)

 どう見ても真面まともではなかった。魍魎を目にしたような不気味なものを感じて番台の陰から抜け出そうとしたグレンの背中に声が飛んだ。

「おおい、どこへ行く気だ?」

 冷たいものが背をぞろりと流れた。思わず懐の苦無に手を掛けようとしたが、思い直して手をだらりと下げて、腰を屈めて振り返った。

「すみません、無人ぶじんだと思ってちょいと風避けに入っちまいました」

 男たちはいつの間にか練革で象った狗の面を被っていた。

「寒い冬の真っ只中の護摩のはいもあるまいに、お互い誤魔化しは止しにしようぜ。お前さんたちがそっと這入はいって息詰めてこっちを覗いてたのは先刻ご承知だ。後ろの連れもさっさと出てきな」

 観念して後ろ手に合図をすれば、すいっと木戸の陰からアイカとロラが姿を見せた。


「これはまた疵な兄さんには似合わぬ婀娜あだな姐さんと可愛らしい娘さんだ」

 狗面の男たちの間から下卑た笑い声が起こった。

「興味本位で覗いたのは謝る。俺たちはただ風に押されて一休みしようと中に入っただけだ。すぐ出ていくから勘弁してくれ」

 そう言いながら金子を取り出そうと懐を探った。

「莫迦言っちゃいけねえや。猫が炬燵で丸くなるのと同じで、お前さんたちはここに来るべくして来たんだ。そして蜘蛛が網を張るように俺たちはお前さんたちを待ってたのさ」

「運命の女神の導きですね?」

 アイカを庇うように動きながらロラが口を開いた。

「今のご時世、神様なんてのは一人でも多過ぎると思うがね」

 皮肉っぽく誰かがくっと笑った。面のせいで誰が喋っているのか見当がつかなかった。

「安心しな、捕って喰ったりしねえよ」

 男たちが音も立てずに床に降りて傘を担いで焚火を囲んだ。

「お嬢ちゃん、そこに立っていては隙間風が辛かろう。こっちで火に当たりな」

 そう言って一斉に尻を落とした。


 最初は掏摸の類かと思ったがどうもそうではないらしい。この時代の掏摸は相手に気づかれないように財布を抜き取るような優雅なものではない。因縁をつけて数人で囲んで袋叩きにして金品を奪い、身包み剥ぐような凶悪なものだが、この男たちからは暴力の気配は見えなかった。三人は用心深く車座に入ると腰を降ろした。

「こんなものしかないが、温まってくれ」

 ロラとグレンに欠け茶碗を渡すと、徳利からとろとろと注いだ。碗の底を見て驚いた。わざと味を濃くした古酒だ。酒というより味醂に近い。

 口をつけようとしたロラが慌てて止められた。

「これをるのは豪傑だ。水を足さなきゃ飲めねえ代物さあ」

 薬缶を傾けて水を注いでくれた。

「お嬢ちゃんはこっちだ」

 アイカの茶碗には白い濁酒が注がれた。

「屋台で買うてきた甘酒だ。これなら嬢ちゃんでも飲めるだろう」

 三人が碗に口をつけるのを見計らったように、男たちが面を外して茶碗に手を伸ばした。


「昔の人は言ったもんだ。共に火を囲んで盃を傾けたもんは、男女なら一夜の契り、男同士なら水魚の交わり、女同士なら十一八一といちはいちの交わりってな」

 下品な冗談に男たちがげらげら笑った。アイカとロラは意味がわからずきょとんとした顔で周りを見回している。その視線にばつが悪くなったのか、一人が狗面を手に取ってアイカに見せた。

「お嬢ちゃん、この面に興味がおありかい?」

「うん……」

 男の異様な化粧に気圧されたアイカはこくりと頷いたのを見て、男が勢いづいて話し出した。

「こいつはな、天狗面っていうのさ」

「天狗?」

「ああ。天を往く狗さ」

 面を高く掲げて左右に振った。

「上から吊られるような格好で、四本の脚をだらりと垂らしてな。そりゃ不格好なもんさ」

 何人かが腰を浮かして両の手をぶらぶら振ってみせた。そのお道化た仕草にアイカがきゃっと笑った。

「最近じゃ、ああいうふうに空を飛ぶのは鳥か超人と相場が決まってるが、昔は狗も飛んだもんだ」

 別の一人が口を開いた。

「古書に『ある夜、何某と云う兵、城の塔にて寄せ手を望見しつつありしに、空を行く犬あり。年老いたる犬にて、目に見えぬかいなに吊るされたる様なり。死者の魂を連れ行くならんと思われて恐ろしかりし』とある」

「凄いね」

 アイカが感心したふうに言った。気をよくしたのか男は更に続けた。

「西の大陸じゃ天上の犬が月食の原因とされている。天に潜む犬が月を饅頭みたいに喰っちまうんだそうだ。喰われちゃ困るから、人々は食器を叩いて犬を追い払うのさ」


(なるほど、啖呵売たんかばいか)

 黙って聞いていたグレンは鼻白んだ。博識を売り物に客を寄せる。祭礼の日にはこの手の輩が大勢出てくる。この連中も芝居の副業に物売りもしているのだろう。あまり柄の良いものではない。これは何か売りつけられて下手をすれば酒代を吹っ掛けられる、とグレンは心中で苦笑った。

「兄さん、馬鹿あ言っちゃいけねえ」

 男たちの一人が首を傾けてグレンを見た。迂闊にも口に出していたようだ。

「いや、そんな積りは」

 言い繕おうとしたグレンの言葉が遮られた。

「舌先三寸で物を売ろうなんて商売、恥ずかしくってできるもんか。俺たちは役者が本業、売るのは舞いの芸さ。直し酒の十杯分は元気が出ようってものよ」

「舞いとはまた古風な」

「ひと度観れば、保養所の労咳病みも、青息吐息で別荘暮らしのお嬢様も背筋をしゃんと伸ばして兎が跳ねるように馬糞道を歩けるようになる代物だあ」

 ふふんと笑って胸を張った。

「今年はまだ何もやらねえうちに仮舞台も取り壊しだがよ。客が無くてもいいから一回くらい舞おうって言ってたのさ」

 一同が昵と三人に膝を向けた。

「お嬢ちゃんたちが見てくれるならそれだけで果報ってもんだ。どうだい、お代なんて野暮は言わねえ。見物していってくれるかい?」

 アイカはしばらくロラとグレンを交互に見上げていたが、二人が肯くのを見てさっと膝を合わせて居住まいを正すと丁寧に頭を下げた。

「あい、拝見させていただきます」



 男たちがほたほたと膝を叩いて応えた。

「これは殊勝なご挨拶、一差し舞って進ぜましょう」

「見てくれる人がいるだけで張りが出ようってもんだ、なあ」

 男たちが色めき立つ中、一人がぼそりと口を開いた。

「しかし滅法界に腹が減った」

「見苦しいことを抜かすんじゃねえ。なんとかは喰わねど高楊枝というじゃねえか」

「俺たちはしがない芸人暮らしだ。腹が減って何が悪い。これじゃあ舞の切れも鈍くなるってもんだ。見てくれようってお嬢ちゃんにも失礼だ」

 何人かが同意の声を上げた。

「直し酒で腹を騙すにも限度があらあな。矢っ張り舞は昼の用意をしてからにしようぜ」

「そうも言ってられないのはお前らも承知だろうが」

 男たちが二手に分かれて騒ぎ始めた。


「あの、これで良かったら食べてください……」

 アイカがそうっと懐から紙袋を取り出して差し出した。

 受け取った男が口を開いて中を覗き込んだ。

「むう、これは」

 中に銅鑼焼が四つばかり並んでいる。

「お嬢ちゃん、いいのかい?」

「あい、どうぞお召し上がってください」

 男たちはにこりと笑ったアイカの顔を穴が開くほど眺めていたが、やがて紙袋に手を入れると、一口ずつ千切って口に入れ始めた。

 施餓鬼の如く争うかと思ったが案外行儀がいい、とグレンは心の中で苦笑した。


「ああ旨かったあ、牛負けたあ」

 下らないことを言いながら男たちは名残惜しそうに指先を嘗めた。

「お嬢ちゃん、いい功徳を積みなすった。ここは今年一番の舞をご覧に入れましょう」

「まだ今年は始まったばかりだけどなあ」

 男たちが一斉に手もつかずに跳ねるように立ち上がり、足を八方に開いて傘を斜めに担いで見得を切った。一人が呪文のようなものを低い声で唱え始めた。


〽さて天狗と云ふものは、かたち大奔星の如くにして声有り。地に止まるときは、狗にたり。堕つる所、炎火に及ぶ。之を望むに火光の如く、炎炎として天を衝く。其の下のまろきこと、数項すうけいの田処の如く、上えいなるものは則ち黄色有り


 続いて別の一人が謡いだした。


〽しかりとはいへども、輪廻の道を去りやらで、魔境に沈むその歎き、思ひ知らずやわれながら、過去遠々の間に、さすが見神聞法の、その結縁けちえんの功により、三悪道を出でながら、なほも鬼畜の身をかりて、いとど神敵法敵となれる悲しさよ


〽世の中は、夢か現か現とも


 一人ずつ謡いながら順番に傘を開き、声を合わせていく。


〽夢ともいさや白雲の、かかる迷ひを翻し、帰服せんとは思はずして、いよいよ我慢の旗矛の、靡きもやらでいたづらに、行者の床を窺ひて、降魔の利剣を待つこそはかなかりけれ


〽我はこれ、魔辺の天狗の管領、夜行坊にて候、今度彼国へわたらはやと思ひたちて、まづ此国の天狗共よひあつめ、このよしをかたり給は、何も御供つかまつるへきよし、申されけれは、せかい、各わかき物ともを、誘引申事なるまし、そのゆへは、皇国は小国なれとも、神力にふかくし、ことさら、智恵第一の国なれは


〽古唐傘か、小骨折れて見ゆるは


〽庭の鞠か、追い回りて蹴らるるは


〽杵はりか、縄をつけて引きはるは


 やがて全員が何かに憑かれたかの如く傘を回し、手を振り足を回して舞台を跳ね回り出した。その狂騒ぶりにアイカが眼を輝かせ、きゃっと歓声を上げて手を拍ったが、グレンは違った。

(祭礼の踊りどころではない。これは悪鬼の舞だ)

 グレンは我が目を疑った。正気の振舞いではあるまい。背筋に雪が入ったように戦慄が走る。これは禁じられた古い魔を呼ぶ儀式だ。

 グレンが腰を浮かせかけたとき、ふいに謡の声が止んだ。

「誰か来てやがる」

 わっと叫び声が上がって、小屋の筵という筵が捲れて飛んだ。


 その直後、低くくぐもった轟音とともに板敷が砕け、筵に穴が開いた。咄嗟に身を伏せたグレンは素早くアイカを探した。一間半程先でロラがアイカに覆い被さっていた。這い寄ってくるグレンを認めたロラが声をかけた。

「グレンさん」

「無事か」

「はい」

「連中、俺たちが小屋から出ないのに焦れて仕掛けてきやがった」

 迂闊だった。舞に気を向けて奇襲を許した。小屋の周囲には壊し屋の連中もいた。まさかこんな場所で火器を使ってくるとは。連中も形振り構っていられなくなったわけか。グレンは床に顔をつけて不敵に笑った。


「どうします?」

「弾の数を数えたか?」

 ロラが首を横に振った。

「五発だ」

 この男はこんないきなり射撃を浴びた状況で銃声を正確に数えていた。

「連中、小屋の中を掃射する気だ」

 グレンの言葉を証明するかのように再び銃声が聞こえ、砕け散った木片が宙に舞った。弾幕が途切れないよう、銃隊を幾つかに分けているのだ。

「打って出たところを押し包んで討ち取る積りだろう」

 作戦自体は雑なものだが、相手の戦力が読めない。

「銃なんて私には効きませんよ」

「大筒が待ち構えてるかもしれんぞ。お前が川向こうに吹っ飛ばされている間にアイカが攫われたらどうする?」

「むう」

 ロラが唸った。

「いずれ火をつけられる。それまでに逃げるぞ」

「逃げるんですか? 悪党に背を向けて」

「アイカさえ無事なら俺たちの勝ちだ。ちゃんと妹の面倒を見てやれ。お姉ちゃんなんだろ?」

 ロラがはっとしてアイカの見つめた。黄の手拭を目深に被った禿髪の下から三白眼が昵とロラを見つめている。

「わかりました」

「連中の反対側へ抜ける。裏手は手薄だ。ロラ、お前が先頭に立て。その後ろにアイカ、俺が殿軍を引き受ける」

 また銃声がして筵が飛び散った。弾道が高い。小屋の反対側にいる味方に当たらないよう気を使っているのだろう。

「待って。天狗のおじちゃんたちは?」

 アイカが小さく、しかしはっきりした声で言った。

 素早く小屋の中を見回したが彼ら三人の他は誰もいない。徳利と茶碗が転がっているばかりだ。逃げ足だけは早い連中だ。そう思ったが口には出さなかった。

「あいつらは無事逃げ出したみたいだ。心配するな、いくぞ」

 外の気配を窺っていたグレンがロラに向かって叫んだ。

「今だ、走れ」



 銃声が鳴るたびに悲鳴が上がったが、小屋の中からではなかった。それは全て遠巻きに見物している野次馬の発する声だった。

(やっぱり鉄砲じゃ動じないわね)

 モニクは装填の終わった次の五人に発砲を命じた。白煙が上がり木片が飛び散ったが、内部はひっそりと静まり返っている。

「おかしいわ」

 モニクはしばし考えていたが、あっと声を上げた。

「裏手が手薄と知って逃げたのね」

 裏よ、半分は裏口へ、と叫ぶと、鉄塞丸は跳躍した。



 裏口といっても薄い板襖が一枚嵌まっているだけだ。紅い革長靴の靴底で蹴りつけられて砕けて飛んだ。

 裏口にも数人の寄せ手がいたが、まさかこちらから打って出てくるとは思っていなかったようだった。飛び出してきたロラに反射的に引き金を引き、その全てが跳ね返された。

「無駄ですよ」

 外套を脱ぎ捨てて面甲を着けながらロラが一歩前に出た。男たちは慌てて六匁筒を逆さに構えたが、銃弾の効かないロラに怖気づいたらしく、間合いを遠くに取って後退りした。

「出てきて大丈夫ですよ」

 寄せ手たちを牽制しながらロラが声をかけ、それを合図にアイカが、そしてアイカの背中を守るようにグレンが小屋から出てきた。


 アイカを先に出して裏口を潜ったグレンの動きが止まった。

「何だ、あれは……」

 遥かに見えるシーグル教会の上空に、光の華に包まれて巨大な女人像が顕現していた。人を超越し、生命を超越し、因果を超越した高次存在。全長は四十丈はあろうか、二対の翼を備え、曲線で構成された体躯はあくまで優美、輝く衣と五色の彩雲をたなびかせている。直線で半里近く距離があるのに喜悦微笑した貌が衆生を見下ろしているのがわかった。ぞっとするほど美しい。

「きれい……」

 魂を奪われた顔でアイカがぽつりと呟いた。

「大天使め、ついに現神したか……」


 ……唵……


 大天使が「音」を発した。今度はグレンにも聞こえた。耳にではなく頭に直接伝わる神の声。これが神のみが発することができる聖音かとグレンは悟った。清らかな高音がグレンの頭蓋を震わせ、思わず膝をつきそうになった。目の前で呆然と突っ立っているアイカの腕を執り、ロラに向かって叫んだ。

「ロラ! アイカを!」

 振り向いたロラがアイカに歩み寄りながらグレンに訊いた。

「あれが大天使なんですか?」

「そうだ」

「素敵ですね」

「素敵なものか。あれはすぐにも大虐殺を始めるぞ。早くアイカを連れて行こう」

「うん、行こう」

 アイカが気丈に声を上げた。その時、

「誰から殺してやろうかしら?」

 後ろから女の声がした。振り向くと、二丈程の鉄の巨人が、黒革の外套を着た二十人ほどの教団特務戦闘員たちを従えてそこにいた。声は先頭を行く巨人が発したものだった。悪を降伏し威圧する忿怒相の奥に黄金色に輝く双眼、砲丸のような肩、攻城砲の砲身のような腕、鉄の重い軋みを上げながら大股で三人に向かって進んでくる。


「どう? 教団秘蔵の装神具、鉄人『鉄塞丸』よ」

 巨人の面が開き、どうだと言わんばかりのモニクの誇らしげな顔が現れた。

「破邪の力を宿した神秘の鎧よ。人を超え、超人を超え、超常の法力で……」

 鐘を打ったような音が響き、跳躍したロラに殴られた巨人が踏鞴を踏んだ。

「ちょっと、口上くらい言わせなさいよ!」

 しかしロラは答えない。拳が装甲に通じないと見るや、無言で剥き出しのモニクの顔面を狙って再び跳躍した。

「この野蛮人め!」

 モニクが慌てて面を閉じた。その面にロラの拳が叩き込まれて鉄人が転倒した。突然の攻撃に戦闘員たちがわっと悲鳴を上げて一斉に退がった。

 仁王立ちしたロラが振り返って肩越しに叫んだ。

「ここは私に任せて先に行ってください」

「ロラ……」

 ちょっとはにかみながらロラが微笑んだ。

「一度言ってみたかったんです」

 グレンは彼我の戦力と間合いを測ると瞬時に決心した。

「わかった」

 アイカの手を引いた。

「お姉ちゃん!」

 アイカが思わず空いた手を伸ばした。ロラが片頬を歪めた。死戦に臨む戦士は片頬のみ曲げて笑う。そういう笑顔だとグレンは理解してアイカを抱き止めた。

「任せた」

 アイカを抱きかかえるように走り出した。

「待ちなさい!」

 起き上がりながら鉄人がモニクの声で叫んだ。

 待てと言われて待つ奴は馬鹿であろう。逃げ惑う野次馬の間を縫うようにグレンは駆けた。

「追いなさい」

 その言葉に我に返った戦闘員たちが後を追う。

「これでも忙しいの。早々に片づけてあげる」

 鉄人が背から五尺はありそうな金剛杵を抜き出して構えた。


 ロラは、機を窺うなんて悠長はしなかった。一足に跳ぶと、装甲の隙間を狙って貫き手を突き出した。しかしそこに鉄人はいない。その巨体に似合わぬ凄まじい高速機動でロラの背後に回り込んだ。

「動きはど素人ね」

 ロラの肩甲骨の間に三鈷杵を突き立てた。金属がぶつかり合う鈍い音がしてロラが数間も飛ばされて地面に転がった。野次馬の間から悲鳴が上がったが、何事もなかったようにロラが立ち上がるのを見てどよめきに変わった。


「呆れた。金剛鉄の鈷が砕けるなんて、なんて服なの」

 答えずロラがつかつかと間合いを詰める。

「いいわ、なら、剛は駄目でも柔はどうかしらね」

 杵を投げ捨てて軽々と飛び退がって距離を取り、風上に立っていることを確かめると、鉄人の忿怒相の閉じた口が嚇と開いて盛んに泡を吹き出し始めた。その様子にロラの足が止まったが、それも一瞬のこと、すぐに鉄人に向かって歩み寄ろうとした。

 その瞬間、鉄人の口から白い霧がロラ目掛けて勢いよく噴射された。硫黄のような悪臭がロラの体を覆い、白煙が立ち昇った。

「ひいっ」

 見物人の間から金切り声が沸き上がった。風下にいた見物人たちの皮膚や服から薄青い煙が立ち上っている。乱闘を見物していた老人、書学生、勤め人、職人、子連れの主婦、破落戸、外人の貿易商、出前の追い廻し、掛け取りの丁稚、ありとあらゆる種族と階層の野次馬たちが、一様に身をのけぞらせて地面に転がり、みるみる溶け崩れていく。わっと声が上がって生き残った連中が蜘蛛の子を散らすように逃げ出し始めた。

「どう? 魔銀だって一堪りもなくぼろぼろになる強酸の嵐よ」

 舌嘗めずりしながらモニクが楽しそうに続けた。

「まだまだ終わりじゃないわよ!」

 鉄人の胸部装甲が左右に分割され、その隙間から噴炎が放射された。炎が太い龍のようにのたうち、ロラに纏わりついた。まだ踏み止まっていた少数の豪胆な見物人たちが炎に嘗められて瞬時に燃え上がって立ちながら炭の塊と化した。


「ふう」

 忿怒面の下のモニクの口から勝利と殺戮を堪能した満足げな溜息が漏れた。

 しかし、炎が熄んだ跡にロラが呆然と立ち尽くしているのを見て、今度は歯軋りの耳障りな高周波音が響いた。

「どうして死なないのよ……?」

 冬空の下、紅革の面頬も服も吹き飛ばされたロラの裸身が晒された。染み一つない張りのある白磁の肌、黒く艶やかな髪、重く実った胸、引き締まった腰、無毛の股間、しなやかで伸びやかな四肢。

「なによ、若いからっていい気になってるんじゃないわよ!」

 モニクが叫んだ。何この敗北感。しかしその怒りは完全に筋違いだ。

 叫び散らしたおかげで何とか冷静を取り戻したモニクは、ロラがまだ衝撃から立ち直れていないことを看過しなかった。眼が泳ぎ、膝が笑って立っているのがやっとだ。

「でももうあんたを守ってくれる魔法の服は無いわ」

 鉄人が腰を落とし、両の腕を鉄砲に構えて拳を作った。

「これで止めよ! 火箭拳!」

 一気に跳躍してロラに襲い掛かった。朦朧とするロラは避けられない。鉄人の鉄拳が火炎を巻いてロラの腹にめり込んだ。確かな手応えを感じた。ロラの肢体が跳ね飛び、芝居小屋の壁を破って吹き飛ばされ、それからゆっくり土埃を巻き上げて小屋が崩れ落ちた。


 やっと終わった。

「若いからって見せびらかすからこうなるのよ……」

 忿怒面を開いてモニクは大きく深呼吸した。すっかり取り乱して脂汗の浮いた顔に冬の冷たい空気が心地良かった。ほんの少しの時間、瞑目してなすべきことを思案すると、芝居小屋の正面から駆けつけた部下たちを見回した。

「そこの三人、残って死体を確認しなさい。残りは首輪の餓鬼を追うわよ」



 呆然と空を眺める通行人の間をグレンは足早にアイカの手を引いた。大天使の尊さに心打たれた人々が跪いて合掌している。その発する聖音の間隔がどんどん短くなっていた。いずれ音の間隔がより狭まり音が一つに繋がったとき、あれは暴れ出す、グレンは理屈でなく直感で理解した。それよりもまず追っ手を何とかしなくては。頭巾を被り、鉢金を締めながらちらりと後ろを振り向くと、黒い革外套の男たちが小走りに駆けてくるのが見えた。流石に長筒は持っていないが、懐に短筒を呑んでるのは確実だ。


「グレンおじちゃん」

 手を引かれるアイカの声に顔を向けると、白い息を吐きながら三白眼が不安そうにグレンの目を見ていた。

「安心しろ、大丈夫だ」

 疵の走った顔を歪めて無理に笑顔を作った。アイカが安心したように微笑んだ。この娘は少々頭があったかいかもしれない。俺の顔を見て笑うなんて。心の中で苦笑いを浮かべ、首元の布を引き上げて顔を覆った。

「いいか、このまま真っ直ぐ進むと木戸がある。そこを抜けて二町も行けば大通りに出る。そこから教会に向けて一本道だ。俺がいなくなっても一人で行くんだぞ」

「おじちゃんは?」

「後ろの連中の相手をする。済んだら追いかけるから何があっても振り向くなよ。それとな」

 アイカが息を呑んでグレンの言葉を待った。

「おじちゃんじゃない、せめておじ様って呼んでくれ」


「行け」

 立ち止まってアイカの背を押した。アイカは振り返らなかった。ほんのちょっとの間、アイカの背中を見つめ、そのまま踵を返して追っ手たちに正対した。黒装束が建物の影に溶け、顔だけがぼんやり白く浮かび上がった。まるで殺気というものが見えない。戦闘員たちは呆気にとられたが、訓練された通り、懐の短筒の撃鉄を起こし、いつでも抜けるように握把を握った。グレンがあまりに自然な態度で無防備に近づいてきた。一瞬の逡巡の後、射殺すべきだと判断した男たちが、握把を握る手に力を込めた。だがその一瞬だけで十分だった。

 グレンは十分に相手に近づき、そして動いた。苦無を抜くまでついに殺気を見せなかった。最初の男が喉笛を掻き切られて目を剥いた。軽い地響きを立てて倒れたあとも、何が起きたかわからなかっただろう。

 敵が発砲するまでが勝負だ。グレンが二人目に体ごとぶつかり、短筒を抜こうとした腕を押さえてそのまま苦無を腹に叩き込み、その体を盾にするように体を回した。だが軍隊仕様の分厚い革外套だ。刃が貫らなかった。男がグレンの喉に手を掛けた。苦無を逆手に持ち替えて足を深々と刺して抉る。抑えた絶叫が上がり、男が崩れ落ちた。その頃には三人目が短筒を向けていた。銃を抜いたら躊躇うなと教育されてきた男たちだ。轟音、白煙、身を屈めたグレンの頭上を衝撃波を発しながら銃弾が通過して地面に弾かれた。

 発砲音で初めて群衆が我に返った。路上の人々が地に転がる死体と短筒を抜いた男たちと両手に短剣を握った黒装束の男を順番に見た。数瞬の沈黙の後、若い女が上げた甲高い悲鳴を号砲に人々がわっと一斉に逃げ出した。


 ふっと息を吐いてグレンは左脇に飛んだ。苦無が宙を舞い、宙を飛んで喉首に突き立った。立ち込める殺気で息が詰まりそうな中、グレンは影に潜み、風のように舞い、その度に男たちが斃れた。

 それを断ち切ったのは、路上で起きた爆発音だった。音と同時に大量の熱と衝撃が路上に充満した。瀕死の戦闘員が最後の力を振り絞り、マッチを擦って手投げ弾に火を点けたのだ。

 グレンは既に六名の敵を倒していた。爆発が起きて、七人目の胸許に伸びた苦無が爆風に叩き飛ばされ、全身が煉瓦の壁に叩きつけられた。熱に晒された目が開かない。体中を駆け回る痛みを誤魔化そうと叫ぼうとしたが、呻き声しか漏れなかった。体に意識を向けて負傷を探る。骨は折れていない、ようだった。しかし動かそうとすると全身に激痛が走った。視界が赤い。出血しているのか。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐いた。落ち着け、息を整えろ、少し休めば大丈夫だ。痛みが引いたら起ち上がり、嬢ちゃんに追いつかなければ。畜生、柄にもなくあんな小娘に情が移るなんて。だが嬢ちゃんは独りで寂しがってるはずだ。何よりも孤独を嫌う子だ。早く手を握ってやらなければ。きっとロラもすぐに。そこで視界が霞み、グレンの意識は引き込まれるように暗闇の中に沈んで途切れた。



 爆発音に思わずアイカは振り向いた。銃声がしても悲鳴が聞こえても振り向かず足を止めなかった少女が初めて振り向いた。通りの向こうで立ち昇る白煙が見えた。

「おじちゃん……」

 溢れそうになる涙をぐっと堪え、三白眼が上眼遣いに教会の空に遊弋する大天使を睨んだ。あいつのせいだ。あいつのせいでみんなが。あの綺麗で耳障りな音を止めてやる。



 ぺしゃんこに潰れた芝居小屋の残骸の中、黒革の外套の男三人が女の屍体を囲んで見下ろしていた。

「化け物だな、鉄塞丸の錆嵐に炎龍撃、最後に火箭拳でぶん殴られたのに疵一つ見えない」

「超人だからな、身体の造りが違うのさ」

「でも死んじまったらお終えだ」

「いい女なのに勿体ねえ」

 黒髪が纏わりついた屍骸は瓦礫の塵芥の中で眠り姫のように仰向けに横たわっていた。

「まだ生きてるみたいだ」

 本当に活きのいい死体だ。死相を微塵も感じさせない穏やかな死に貌だった。重そうな乳房が上下していないことが、もう生きていないことを示していた。

「これ、どうするんで?」

「医局の解剖室送りだ。小瓶に取り分けて標本にするんだと」

「益々勿体ねえな。こんな滅法界な別嬪なのに」

「滅法なんて台詞を使うな。仮にも俺達は」

 僧籍だぞ、と言って編上靴の爪先で女の肩を軽く蹴った。巨きな乳がたぷんと揺れた。

「まるでお人形みたいだ」

 別の一人が爪先を使って器用に女の脚を大きく開いた。無毛の陰裂がぱくりと露になり、男たちの間で下卑た嗤い声が起こってすぐ止んだ。誰かがごくりと唾を飲み込んだ。

「真っ昼間から変な気を起こすなよ」

「まさか」

「しかし本当に惜しい。見てくれだけは『臥龍梅』でも一二を張れそうな上玉だ。これを切り刻んじまうなんて」

 帝都で一晩遊ぶのに百両飛ぶと評判の高級妓楼だ。

「馬鹿なこと言ってないでさっさと代八車でも見繕ってこい。無けりゃあふごでもいい。おい、そこら辺からましな筵を」

 その時、遠くで爆発音が響いた。

「派手にやってるな」

「ああ、あっちに回されなくて良かったぜ」

 三人のうち主立つ男が手近な筵を拾って女の上にはさりと掛けて、苛立たしげに二人に叱声を飛ばした。

「今はちょっかい出したくなる屍体おろくでも、すぐ脹相に入って目も当てられなくなるんだ。いいからお前たちはさっさと運ぶ手立てを用立ててこい」



 泣いちゃいけない。泣いちゃ駄目だ。

 アイカの小さな足がとてとて駆け続けた。眼は必死で堪えているのに大粒の涙が溢れ、零れ落ちた。

 ロラは一人で大きな鉄の怪物を相手に立ち向かった。グレンのおじちゃんは鉄砲を持った怖い人たちの前に立ち塞がった。アイカを逃がすために。大天使を止めるために。きっと二人とももう生きちゃいない。生きてたらアイカと一緒に走ってる筈だ。だからわたしは走らなきゃいけないんだ。


 目の前に立ち尽くす男を避けようとして水溜まりに足を取られ、叩きつけられるように転んで頭から泥に突っ込んだ。頭の先から靴の先まで泥塗れ。誰かが気づいて声をかけてきた。

「お嬢ちゃん、大丈夫?」

 その手を払い、跳ね起きて、振り返りもせず駆けた。

 泣くまいと思っていても噛み締めた奥歯の隙間から声が漏れた。そうなったらもう我慢できなかった。とうとう泣き声が堰を切った。

「うわああああああああ」

 アイカは泣きながら駆けた。人々が大天使に目を奪われているせいで街は死んだように静かだった。アイカの泣き声は、だから銃弾のように建物の壁に跳ね返って天まで届きそうだった。


 駆けに駆けて、やっとアイカは教会の石段に辿り着いた。僧俗様々な人々が石段の所々で跪き、合掌している。清浄な聖音がアイカの頭を揺らした。石段の下で立ち止まって顔を上げた。涙に濡れた三白眼が大天使を睨み据えた。まだ十歳の少女だ。もう息も絶え絶え、声は嗄れ、顔は汗と涙と洟水と涎でぐちゃぐちゃだ。それでも拭いてる暇はない。休んでいる暇はない。

 立ち止まっていたのはほんの一瞬だった。アイカは合掌する連中を掻き分けるように石段を上った。長い石段はそれぞれの段に孔雀や麒麟などの神獣、あるいは様々な花が彫られて目を飽きさせない造りになっていたが、そんなものはアイカの眼には入らなかった。

 城門は開けっ放しだった。呆けたように口を開けて空を見上げる衛士の横を抜けて中庭に出た。大天使までもうすぐだ。


「行かせる訳にはいかないのよ」

 天空から声が降った。

 アイカの眼の前で、装神具鉄塞丸が背に蝙蝠のような赤い翼を拡げ、空中に浮かんでいた。その姿はまさに法敵を覆滅する神の尖兵、神代の時代の聖戦士だ。

「どうせここに来ると思って大正解だったわ」

 赤い翼が折り畳まれ、鉄の巨人が低い地響きとともに地に降り立った。

 忿怒相が開き、モニクの顔が現れた。

「さあ、お嬢ちゃん、首飾りを返して貰おうかしら」

 アイカの小さい手が首許の金の環を握りしめた。

「お姉ちゃんは……?」

 モニクが考えるふうに少し眉を顰めた。

「ああ」

 それからにんまり笑ってアイカを見た。

「ああ、あの大女なら死んだわよ。煎餅みたいに真っ平になってね」

 まるで他人事のように言った。

「嘘だ!」

「どうして貴方なんかに嘘を言わなくちゃならないの?」

「許さない……、よくもお姉ちゃんを」

 睨めつけるアイカの視線を真正面から受け止めてモニクはせせら笑った。

「あらそう、じゃあさっさと首飾りを返しなさい」

「やだ、絶対に渡さない」

「ええ、死なない限り外せないのは知ってるわ」

 鉄塞丸の破城槌の架台のような鉄脚が前に出た。

「その頸を捻り切ってあげる。鉄塞丸の剛力にその護身具がどこまで頑張れるかしらね」

 巨人が更にもう一歩進んだ。アイカは鉄の巨人を睨みつけたまま動かない。

「安心して。一瞬で殺してあげるからそれほど痛くないはずよ」


 その時、

「やめよ、モニク!」

 横から声がした。巨人の動きが止まった。

 声のする方を見ると、高級神官たちを従えた老人が立っていた。白い絹の神官服を着て、手に黄金色の錫杖をつき、豊かな髭が胸で冬の風に踊っている。三十年ぶりに大地に足をつけた「塔の王」だ。余りに急進的で原理主義的な亜人排斥思想のせいで、教団内外の追及を受けて塔の最上階に幽閉された男。囚われの身でありながら権謀術策の限りを尽くして教団の主導権を握った男。現教皇でさえ彼が望めば四つん這いになって尻肉を拡げて見せなければならないと噂される男だ。その男が三十年ぶりに衆目にその姿を晒した。

 アイカは老人が何者か知らなかった。それでも、この老人が全ての元凶であることだけは直感で悟った。こいつが全部悪い。


「もういいのだ、モニク。大天使ミストローム現神の大願は成就し、操神具もここにある。お前はよう働いた。大儀である」

 巨人とアイカの間に割って入るように老人が緩慢に歩を進めた。

「それが? まだ仕事は終わってません」

 胡散臭げな眼でモニクが老人を見た。

「もういいのだ、その娘を行かせてやれ」

「知ったことじゃないわ」

 老人が立ち止まってモニクを睨んだ。

「命令を忘れたのか?」

「私が受けた命令は首飾りの回収です」

 一瞬、老人とモニクの視線が交錯した。

「狂犬め。こんなことになるなら始末しておけば良かったわい」

「あら、そうですか。じゃあ邪魔しないで下さい。首飾りを取り返すので」

「自分の立場を弁えろ!」

「ええ、弁えてますよ。あの首飾りのせいで部下が大勢死にました」

 鉄人の面が閉じ合わされ、忿怒相の目が金色に輝いた。

「捨て置いてよろしいのですか?」

 神官の一人が老人に詰め寄った。

「構わん、一手間増えただけだ。いずれ首飾りは我らの手よ」

「しかし、早くしなければ大天使が」

「なら君があの操神具を首に架けるかね? 教団の歴史に残るぞ」

 神官が慌てて俯いた。

「今のうちに控えの間から巫女を用意しておけ。誰でもいいから大天使の正義の刃を振るうに相応しい巫女をな」

 やがて鉄の巨人が輝く太陽を背に受けて、鋼の軋みを上げてアイカに向かって歩き出した。



 どうしようとは思わなかった。怖いとも思わなかった。たった一人、冬の夜を裸足でマッチを呼び売りするよりずっとましだ。こいつはゼダおばちゃんを酷い目に遭わせ、ロラ姉ちゃんを殺し、今またゼベル父さんとガミラ母さんに酷いことをしようとしている。みんなわたしに優しかったのに。だから逃げようとは思わなかった。ここで殺されても怖がってなんてやるものか。

 恐怖でも悲歎でもなく、憤怒の涙が三白眼に溢れた。憎悪に満ちた眼が鉄塞丸を見上げた。その視線を嘲笑うように、少女の小さい頭に巨人の鋼の手が伸びたその刹那、出し抜けに轟音が響いた。


 銃声と同時に、まるで少女の視線が巨人を打ったように、巨人の忿怒面に火花が散った。少女の禿髪が鉛弾が発した衝撃で揺れ、巨人が動きを止めた。後ろを向いたアイカの眼がこれ以上ないくらい見開いた。

 少女が振り返った先に全裸に軍用外套を引っ掛けただけの長身黒髪の女が立っていた。革外套の染めの黒さのせいで白い裸身がやけに目立った。歩きながら撃ったばかりの短筒を放ってもう一挺を構えた。水軍仕様の燧発式十三匁短筒。六分半の筒口が巨人を睨み、照門の向こうに血の色の瞳が乗った。

「お姉ちゃん!」

 アイカが叫んだ。



「どけどけ」

 路上で大天使を見つめる人々を蹴り飛ばすように代八車が進んでいた。

「どうするんだよ。ここから先は田舎道だ。昨日までの雪で腐った大福みたいになってる。泥で車が埋まっちまうぞ」

 車を押す男が声をかけた。

「黙って押せ」

 楫を引く男が怒鳴るように答えた。

 真冬だというのに二人とも汗で額が濡れている。使える代八車を探し出すのに結局一時間近くかかった。騒ぎから逃げ出した壊し屋が置き捨てた荷車は、鉄塞丸の錆嵐をもろに喰らって崩れて使い物にならなかったからだ。結局、二人はさんざん探して回ってやっと無事な渡し守の小屋の裏からこの代八車を見つけ、存外な銭を払ってここまで引っ張ってきたのだ。

「大天使が動き出したらここいら一帯も逃げ騒ぐ連中で大騒ぎになる。急ぐぞ」

「本当に大天使は亜人を襲うばかりで人間には手を出さないんだろうな?」

「ああ、そういう話だ」

「どうにも信じられねえ」

「お前も僧兵とはいえ坊主の端くれだろうが。腹を据えろ」


 ようやく芝居小屋だった廃墟が見えてきた。

「おい、いないぞ」

 見張りに残った男がいない。

「雉射ちにでも行ってるんだろうさ。畜生、俺たちよりほんのちょっと年季を積んでるからって偉そうに指図しやがって」

「呑気なもんだ。まあ女の死体を欲しがる奴なんていねえか」

「髪を盗んで鬘屋やら人形師やらに売る連中はいるがな」

「鬘はわかるけどよう、どうして人形師が女の髪なんて欲しがるんだ?」

「人形の頭に女の長い髪を一本々々植え込むのさ。有徳人向けの上等な人形はみんなそうだ。あの女の髪は軟らかそうだからきっと高く売れるぞ」

「うへえ、そいつは気味がわりい」

 二人は辛苦を紛らわそうと無駄口を叩きながら重い代八車を転がし続けた。


「おい、本当にいないぞ」

 艱難の末に簀巻になった女の死体の傍まで代八車を運んだのに、見張りに残った男が見当たらない。

「どこかで蕎麦でも手繰ってる、訳じゃねえよな」

 その言葉が終わらないうちに、二人の顔からさっきまで馬鹿話に興じていた表情がどこかに消し飛び、教団非合法工作員の貌が現れた。踵を薄紙一枚浮かせ、腰を僅かに落として懐の短筒の握把を握って周囲を見回す。

「どうする?」

 先ほどまでの能天気な会話からは想像できない低く早い声だった。

「死体は見当たらない」

「攫われたか?」

「そんな間抜けな奴じゃない」

「兎に角、女の死体を積んで撤収するぞ」

「わかった。女を積み込むから周りを見てくれ」

 そっと簀巻きに身を屈めた男が素っ頓狂な声を上げた。

「え?」

「おい、どうした」

 もう一人が歩哨の心得通り背を向けて周囲に目を走らせながら訊いた。

「見てくれ」

 振り向くと、筵の中で荒縄で縛られた同僚が白目を剥いて伸びている。

「何だこりゃ?」

「見ろよ、作法通り結び目を作らない見事な菱縄縛りだ」

「馬鹿野郎、女はどこに行った?」

 慌てて周囲を見回したが足跡も見当たらない。

「畜生、あの女、狸寝入りを決め込んでやがったか」

「まさか、完全に絶息してたぞ。お前も確かめただろ」

「短筒も早合も一切盗られてる。外套もだ」

「やっぱり化け物だったか……」



 短筒特有の低く響く発砲音とともに、鉛弾が再び巨人の面に正確に命中し、潰れて宙に舞った。

「お姉ちゃん!」

 確かめるようにもう一度アイカが叫んだ。

 短筒を投げ捨てたロラがアイカに顔を向けて微笑んだ。

「遅れて御免なさい。よく頑張ったわね、後は任せて」


 鉄塞丸の忿怒面の下でモニクが呻いた。

「なんで死んでないのよ……!」

 手応えは十分だった。攻城砲の直射すら上回る火箭拳を生身に受ければ超人だって無事では済まない筈なのに。だがこの女はけろりとした顔で立っている。外套の下は瑞々しい全裸だけというけしからん姿で。神聖な教会でなんて破廉恥な恰好なの。普段の自分の身形を意識の外に放擲してモニクはロラを睨んだ。

「化け物め」

「その言い方は失礼ですよ」

 ロラが平然と答えた。その余裕たっぷりな態度すら気に入らない。何よ、若いからってそんな恰好して許されると思ってるの。モニクは静かに激しく激昂した。


「アイカ」

 ロラが少女に目配せした。

「あの雷おばさんの相手は私がするから、貴方は走るのよ。大丈夫?」

 袖口で顔をごしごし拭って、アイカが大きく肯いた。

「うん!」

「聞こえたわよ! 今、おばさんって言ったわね!」

 モニクの怒号が木霊した。



 駆け寄るアイカの眼を見てロラが念押しするようにもう一度問うた。

「アイカ、準備はいい?」

「うん!」

 ロラが差し伸べた手を握ってアイカが再び力強く答えた。

 その手がぐいと勢いをつけて引き上げられた。

「お姉ちゃん、何を」

「喋ると舌を噛むわよ」

 ロラが両手でアイカの手を握り、踵を中心に高速で水平に回転運動を開始した。


 モニクは信じられない光景を見た。大女と小娘が手を繋ぎ、土を捲いて独楽のように回り始めるのを。何を始めたの? 何をする気なの? 「塔の王」すら目を見開いて絶句した。

「お姉、ちゃん……」

 アイカの口から微かに呻き声が漏れた。遠心力で足先に血液が集まって、黒い簾が降りるようにアイカの視野が消失した。

「首飾りの加護があるから大丈夫」

 ロラの返事はしかし半失神状態のアイカには届いたのだろうか。

 やがて巻き上がる土煙で二人の姿がぼやけ始めた。その時、

「行くわよ」

 ロラの掛け声とともに少女の小さい身体が攻城臼砲の砲弾のように宙高く舞った。


 もともとラグリアネス帝が愛妾ニヴルのために作った要塞だ。ニヴルの無聊を慰めるために、庭園には世界中の珍しい樹木が生い茂り、様々な珍獣が放し飼いされていたという。今でこそ、ただの更地に成り果てて往時の華やかな姿は見る影もないが、それでも広さは当時と変わらず三十反以上、端から端までたっぷり二町はある。

 モニクが、「塔の王」が、神官たちが、衛士たちが息を呑んで呆然と見送る中、その距離をアイカは言葉にならない悲鳴を上げながら青空高く放物線を描いた。土の上に着弾してそのまま転々と跳ねるように転がり、礼拝堂に至る低い石段の手前でやっと止まった。


「あ、あんた! 自分の妹に何て真似を!」

 血相変えたモニクの絶叫が轟いた。さっき、その細首を捻り切ると宣言したのも忘れたかのように。

 数秒ほどして、ようやくアイカがよろよろと上半身を起こした。首飾りの護身機能のおかげで怪我一つない。でも意識はまだ混乱していた。

「え……っと……」

「走って!」

 ロラが叫んだ。その声を聞いたアイカは機械仕掛けのようにびくんと立ち上がり、よたよたと礼拝堂の奥へ消えた。


「ま、待ちなさい!」

 ようやく状況を理解したモニクがアイカを追わんと鉄塞丸の向きを変えた瞬間、後頭部に打撃がきた。予想もしなかった衝撃につんのめり、ぐっと唸って振り向くとすぐ後ろにロラが立っていた。後頭部に飛び蹴りを喰らったのだ。

「貴方の相手は私です」

 忿怒面の下でモニクの眼が血走った。

「もう一度殺し直してやるわ」

 接敵状態を契機に安全装置が解除された加速装置が作動し、モニクの中の体感時計が加速した。周囲の風景が鈍化する。空気が水飴のように重い。この状態は数秒しか続かないがそれで十分だ。あの鉄壁を誇った紅い服はもうない。焦れったくなるほどゆったりと動くロラの背後へ回り込み、その背に鉄の腕を叩き込もうと拳を引き絞った。

(その背骨を叩き折ってやる)

 その時、ロラの顔が僅かに動いた。モニクは光沢が消えた虚ろな赤い瞳の視線を感じた。

(悟られてる)

 間違いない。理屈ではなく本能で理解した。何故とは思わない。戦闘では理由は意味を持たないからだ。大事なのは事実を正しく認識すること。この女は鉄塞丸の超高速機動に対応している。でも鉄塞丸の膂力と装甲と重量なら押し切れる。鋼の拳が唸りを上げて突き出された。


 が、必殺の鉄拳は空しく空を切った。身を沈めて拳を避けたロラがそのまま間合いを詰め、巨人の腹部装甲に肘を入れた。梵鐘を撞いたような音とともに、巨人が数歩後退った。

「何? 今何を使ったの?!」

 静かに佇むロラに向かってモニクが叫んだ。

「力や、速さや、技や、装備に頼っていては私に勝てませんよ」

 赤い瞳を半眼にロラが答えた。

 何それ、意味わからない。モニクは言葉を失った。

「それに同じ手が二度も通じるわけありませんよ、基本です」

 何かの判じ物のように呟きながらロラが歩き出した。


「くっ」

 巨人が腰を落として構えを作った。全身の力を矯め、拳の先に集中して一気に解放した。火炎で加速された拳がロラを襲う。鉄塞丸の誇る最大最強最終の一撃必殺技だ。ロラは避けない。今度こそ仕留めた。モニクはロラの顔面が弾ける光景を確信した。

 重い鋼の塊同士が激突する音と衝撃波が空気を震わせた。鉄の拳がロラの顔面に突き刺さった、筈だった。モニクは我が目を疑った。涼しい顔のロラは鼻血一筋流していない。

「その程度では私の熱く燃える正義の心を撃ち抜けません」

 まるで鼻先に止まった蝶でも見るような眼で拳を見つめ、巨人の太い鉄腕に両手を添えると、無造作に捻った。

 鈍い音を立てて、巨人の右腕の肘から先が千切れて地面に転がった。自動応急機能が働いて切断面が閉鎖されたが、間に合わなかった循環液が血のように滴り落ちた。

「え」

 何が起こったの? 本能が大音量で警告を発している。目の前にいるのは人の格好をした怪物だ。


 兎に角間合いを取らなければ。あの女の間合いで戦うのは危険だ。鉄塞丸が天高く飛び上がり、背から赤い鋼翼が展張した。忿怒相の鉄仮面の口が開き、錆嵐が自らの装甲を侵すことを防ぐための中和剤の泡が滴った。

「あの魔法の服無しでどこまで耐えられるかしらね?」

 空中の巨人のあぎとから地上のロラに向かって白い霧が凄まじい勢いで吹きつけられた。塩の柱が崩れるように革の軍用外套が塵と化して散った。

「このまま溶かしてやる!」

 今度こそモニクは勝利を確信した。

「これからは脂の乗った艶な年増の時代なのよ!」

 モニクはまだ根に持っていた。しかし、彼女の勝利の凱歌も続かなかった。白い霧を掻き分けて全裸のロラが現れたせいだ。


 軽々と跳躍したロラの右拳が錆嵐を噴射する巨人の口に突き込まれた。

「ちょっと!」

 狼狽えるモニクの目の前でロラの右手が引き抜かれた。内蔵されていた法力器官や鋼索が零れ落ち、自らへの浸食を防ぐために錆嵐が緊急停止した。

 生身にもろに錆嵐を浴びてどうして無事なの? 平衡を失って落下した鉄塞丸の中でモニクは取り乱していた。

(何? 何なのこの女)

 だが、モニクの混乱した思考も何かが裂ける悲しい音で中断された。ロラが赤い翼を引き千切った音だ。嫌な汗がモニクの全身を濡らした。頭部を回して見上げれば地を這う鉄塞丸に馬乗りになった全裸の女と眼が合った。冷めた血のような瞳に見据えられてモニクの全身が慄いた。まるで異教の伝説に出てくる死を告げる天使だ。

「さっき、アイカの全身の切り刻んで殺すって言ってましたよね」

 そんなこと言ってません。抗議の声を上げようとしたが、恐怖で声が出ない。モニクの絶望を見捨てるように赤い瞳が薄く笑った。

「同じように殺してあげます」



 礼拝堂の仄暗い空間に足を踏み入れると、中は驚くほど静かだった。両側には壁画が描かれた壁が長々と続いていた。荒れ狂う波に翻弄される舟の上で合掌する異形の人々、三ツ首の竜に挑む騎士、みすぼらしい姿の老若男女を導く僧衣の巨人、盾を並べ槍を構えた兵士の列に襲いかかる裸女の群れ、高い塔から飛び降りる有翼の女性、火を噴きながら空高く舞い上がる城、他にも様々な絵が並んでいた。それぞれが神話の有名な一節であることをアイカは知らなかった。


 二列の長い塗り机が奥まで不気味に続いている。ざっと二百人は座れるだろう。十人ほどの聖服の男女が思い思いに机に肘をついて一心に合掌していた。座椅子の下は掘り火燵こたつになっているようで布が掛けられていた。身廊を抜け、奥の内陣に辿り着くと、祭壇が置かれ、正面に豪奢な装束の男女の像を両脇に従えた恰幅のいい老人の像が立っていた。

 これは孤児院で教わっていたのでアイカも見覚えがあった。神様だ。孤児院で暴力と抑圧と硬い安売りパンと胡瓜の酢漬けだけの日常をアイカに強いた張本人だ。アイカがお行儀の悪い子だったなら気の利いた罰当たりな台詞の一つも叩いて唾の一つも石畳に吐いていただろうが、今の彼女はそれどころではなかった。この礼拝所の裏側に大天使がいる。アイカは首を左右に振って出口を探した。


 出口はすぐ見つかった。内陣の左側に小さな木の扉が見えた。そこに向かおうとしたアイカは後ろから呼び止められた。

「お嬢ちゃん、そっちはいけない」

 深く嗄れた声だった。ぎょっと振り向くと一番手前の席に襤褸をまとった浮浪の老人が座っていた。がんにんさんみたいとアイカは思った。願人坊主ともいう。路上で他愛もない芸を見せて金銭を乞う半聖半俗の賤民のことだ。

「その扉は向う道への入り口だ。行ってはいけない」

「向う道?」

「地獄に向かって歩くことになるから向う道っていうのさ。坊主は『地獄』って言葉を嫌うからね」

 老人が歯の抜けた口を大きく開いて笑った。

「でも行かなくちゃ」

「外に何が待っているのか知っているのかね?」

「うん、大天使だよ」

「そう、九大天使の第四位、神の笑みを意味するミストロームだ」

「優しそうだね」

「優しいものか。ミストロームは笑天使。笑みを浮かべて悪鬼羅刹を灼滅するからそう呼ばれているのだ」

「でも行かなくちゃ。お父さんやお母さんのために。それにお姉ちゃんも。正義の味方とか運命の女神とかちょっとおかしいこと言ってるけどわたしのお姉ちゃんなの。それとグレンのおじちゃんも」

 首に提げた金の環を握りしめた。

 アイカの首許を一瞥して老人の目が悲しげに歪んだ。

「お嬢ちゃん、行かないほうがいい。行けばお嬢ちゃんは人でなくなる。天使に取り込まれてしまうのだよ」

「ごめんなさい。でも決着をつけないといけないの。運命の女神が行けって言ってるの。つまり」

 老人の目を見つめて言った。

「お姉ちゃんを信じてるの」

「嗚呼、運命の女神も酷なことをなさる」

 草臥れた老人の体が縮んだように見えた。

「行きなさい。お嬢ちゃんに運命の女神のご加護があらんことを」

 そう言って目を瞑って椅子に沈み込んだ。


 扉を抜けると、すぐ上空に大天使が滞空していた。聖音がひと際大きく響いてアイカの頭を揺らた。負けるもんかと睨み返したが、ここからどうすればいいのかわからなくて途方に暮れた。大天使と合体しなければとわかっていても、どうやって合体すればいいのか誰も教えてくれなかったのだ。

「どうしよう……」

 アイカが茫然と立ち尽くした。だが心配は無用だった。陳腐にも首の金環が輝きだし、アイカの体が光に包まれ、そして消えた。


 気がつくと、アイカは天使の中にいた。手の感覚も足の感覚もない。寒くも熱くもない。何も見えず何も聞こえず、声も出ない。それでも不思議に心は穏やかで不安は感じなかった。アイカは大天使の目を通して外界を見て、大天使の耳で音を聞き、大天使の肌で風を感じていた。蜜のような甘い匂いが嗅覚を満たした。五感が大天使と融合し、果てしなく拡張される感覚と意識。だが、それを処理し理解するにはアイカの自我は小さく弱く幼すぎた。

 ふかふかのお布団にくるまれているような幸福感と全能感がアイカの内に沸き上がった。神人融合の法悦を享けたアイカの自我が溶け流されていく。そうだ、大天使を止めなくちゃ。おとなしく帰さなきゃ。でもどこに帰ればいいの? どうして止めなくちゃいけないの?

 突然、アイカの意識が自分の務めを思い出した。そうだ、この街に巣食う害虫をやっつけないと。神様の敵、亜人と呼ばれる害虫を。そうしないと、おうちに帰れない。それは大天使の意思なのだが融合を果たしたアイカにはもうどうでもよかった。アイカは笑顔で大天使とともに叫んだ。

「主の御力を見よ」


 庭園に清らかな聖音がひと際大きく響いた。大天使を見上げる「塔の王」が哄笑した。ついに、ついに始まるのだ。世界を取り戻すための戦いが。あれからもう五十年ばかり経った。あの時の約束がついに果たされようとしている。

 庭園の中央では全裸のロラが熱心に鉄の巨人を殴り続けていた。


 だめだ。だめだよ。そんなことさせない。かつてアイカだった意識の深奥で、小さな声が囁いた。暗闇の中のマッチの灯のように微かで小さくて消え入りそうな声だった。そしてその声は次第に力を失って消え、しばらくして火が灯るように再び小さく響いた。やめて。やめて。悲しいくらい小さい声だ。それでも声は続いた。その度に何度も繰り返して沈黙し、何度も繰り返して闇から声を上げた。まるで何度も新しいマッチを擦るように。何故懸命に声を上げいているのか、声の主にもわからない。それでもいい。全ての燐寸を擦ってしまう積りだった。何度でも、何度でも。いざとなれば街ひとつ燃やしたって構わない。


 永劫の暗闇と時間の中で、ふいに耳許で唄が聞こえた。


〽天公は天の君と訓べく、天の君は天の神と通へば、神通ありて天を飛行するおそろしきものゆゑ天の君と称。さて字に天公と書き通はして、天狗とも書るより、沙弥浄土にいふ天狗の事に引合せて牽強の説おこれる也


〽依之、今の百鬼大師は十一面の化身にして慈悲眼に満てれとも、円宗の法を護らむかために大天狗に成らむと誓ひ給へり。されは遂には我等か種類なるへし


 どこかで聞いた謡の節だ。聞き覚えのある声色だった。何時だったか、誰だったかも思い出せない。でもどこか懐かしく楽しく怖い声。

 誰? 誰が唄ってるの?

「お嬢ちゃん、よう頑張った。よう自分の心を出し抜いた。今こそ我ら芸の秘奥を尽くさん」

「これは昼餉の御返報、礼に及ばず」

「我らが天狗の舞の味、召され候へ」

 視界の隅に天狗面が顕れた。練革で象られたそれは、アイカの視線に気づいてにやりと口を歪め、にゅっと灰色の大きな牙が覗いた。頭の中に邪悪な呪が響いた。


「諸ノ災患悪夢悪相一諸ノ不吉祥魍魎鬼神鳩槃荼等モ永ク不得便ヲ天狗土公大歳神宮山神木神江海神水神火神饉餓神塚神蛇神咒詛神」



 大天使ミストロームの数町手前の空間にそれは存在した。

 見上げる人々の間からどよめきが起こった。「塔の王」の表情から歓喜が消えた。最初、大天使が請来した法具だと思った。だが、邪悪で異質な波動を感じてすぐその考えを否定した。あんなものはどの文献にも、どの口伝にもなかった。

 教会を巻いて流れる河面の上空で朧げな球体は回転しながら暗黒球体となり、拍動するように、足掻くように拡大を始めた。


 大天使が初めて動いた。天衣が翻り、穏やかな視線を球体に向け、口を開いて謡うように何事か唱えた。庭園で大天使を見上げる衆生はそれが聖句であると知ったが、何故か耳が滑って聞き取れない。人の身には理解できない高次の聖句だ。嫋やかな手が降魔の印を結んだ。明らかな対敵動作。球体を敵と認めたのだ。

 大天使の呪に感応し、その口許から黄金の光に包まれた六体の天使が現れた。中性的な美しい顔立ち、艶やかな黄金の甲冑に身を固め、五重の瑟々座しつ しつざに仁王立ちし、手に破軍の弓と炎の矢を携えていた。


「嗚呼、あれこそが六天炎王」

 誰かの感極まった声が聞こえた。大天使ミストロームが使役する護法童子だ。高速で天空を往き、数千度の火炎の矢を放って法敵を焼き尽くす天界の兵。その矢からは誰も逃れられず、誰も助からない。

 六天炎王は宙を飛んで暗黒球体を取り囲み、一斉に焔の矢を放った。矢を受けた球体の拡張が止まった。

「大天使! 大天使ミストローム!」

 庭園の人々が歓声を上げた。

 その間にも護法天使たちは次々に矢を放ち、その度に球体は少しずつ小さくなっていく。

「よいぞ、そのまま滅却してしまえ」

 「塔の王」が祈るように呟いた。

 歓声が更に勢いを増した。人々は滂沱の涙を流し、合掌して一心に声を励まして大天使と六天炎王を讃えた。

 その時、暗黒球体の中心から数本の触手が伸びた。雲丹うにの棘が密生した蛸足のようなそれは、空中を高速機動する六天炎王たちを難なく搦め取ると、蠅を舌に捕えた蛙のようにそのまま球体へと引き込んだ。


 一瞬で人々の声が収まり、静寂が訪れた。ほとんどの者は目の前で何が起きたのか理解できていないようだった。

 「塔の王」は理解していた。素早く側に立つ若い神官を手招きすると、低い早口で告げた。

「今すぐ地下の祈祷所を再起動せよ。大天使に合力するのだ」

「無茶です。祈祷僧たちの疲労は限界です。それに魔法輪も再調整が」

 怯えた声が「塔の王」の焦燥と怒りに満ちた視線を受けて止まった。

「急げ。それとも今ここで殺されたいのか?」

 ひっと悲鳴を上げて神官が踵を返して駆け出した。


「ああ、神様」

 群衆から上がった哀声で振り返った「塔の王」の顔が強張り、食い縛った口が怒りに歪んだ。目の前で悪夢が展開していた。

 暗黒球体から再びおぞましい触手が何本も這い出し、それから引き摺り出されるように巨大な凶々しい不定形の物体が姿を見せた。胴体なのか頭なのかもわからない。触手と同様に黒々とした棘が剣山のように密生している。その姿はまるで直立する棘だらけのくら色の蛸だ。どこに目があるのか、どこを向いているのかもわからない。


「……堕天使……」

 誰かが呻いた。その言葉に全員が確信した。誰も堕天使を目撃したこともなく、どの聖典もその姿を記していない。それでもあの凶悪で醜悪な姿は堕天使以外にありえない。

 神の被創造物でありながら、神に反逆したと古い創世文書に記された存在。神に敗れ醜怪な姿に変えられ、地平の彼方へ落とされた神の失敗作。反逆の理由は高慢とも堕落とも復讐ともいわれている。だが、堕天使の最後の出現とされている記述は二千年以上昔のことだ。教都の公文書資料館にも信頼に足る堕天使の観測記録はない。故に神学界でも堕天使は教義のための形而上の存在というのが定説だ。「塔の王」もその存在を信じていなかった。


 だが堕天使は確かに実在した。空に浮かぶ大天使より頭二つ分は大きい。魚を数週間放置したような異臭が庭園まで漂い、数人の若い女性神官が嘔吐した。瘴気を巻いた堕天使が低く底から響く音を発した。

「何だあの音は?」

「堕天使が聖音?」

「まるで喉を鳴らしたような」

「違う、あれは喉を鳴らしたんじゃない。唸ったんだ」

 それは戦いを告げる鬨だ。堕天使は巨大な頭部を振り、吊り上げられたように脚をだらりと揺らした不格好な姿で空に浮かび、大天使に向かって前進を開始した。


「合掌せよ。今こそ法難の時、信仰が試される時、善が悪を超越する時ぞ」

 「塔の王」の声に人々が一斉に動いた。結跏趺坐して合掌し、神の勝利を祈る経文の詠唱が庭園に満ちた。

 その声に励まされるように、五色の彩雲から妙なる音が響き、大天使の口から銀色の焔の束が迸った。直撃を受けて堕天使の棘が吹き飛んで宙に舞い、緑色の体液が飛び散った。

「堕天使よ、滅せよ! 漂う小さな灰に還るがよい!」

 小さく歓びの声が上がったが、すぐに止んだ。

 弾けた肉が見る間に再生され、新しい棘が生えていく。人々の表情に絶望の色が落ちた。


 大天使の銀の箭を受けながらも堕天使は前進を止めない。そして、一本の脚を高く振り上げ、右袈裟に振り下ろした。大天使の巨体が傾いた。大天使が印を解き、堕天使に向けて手を伸ばし、弾指しようとしたが、その手首にも堕天使の脚が巻きついた。堕天使の脚が次々に大天使の体に搦みつき、海女を襲う大蛸のようにその身体を締め上げた。それでも大天使はまだ笑顔を湛えて抵抗を続けていたが、それも長くは続かなかった。聖なる銀の箭が止み、彩雲が色を失い霞れて消え、聖音が止んだ。

 代わりに堕天使が音を発した。街中の人がそれを聞いた。

「一丈八尺、確かに返してもらったぞ」

 誰にも意味はわからなかった。それでも、後に生き残った多くの人々が確かにそう言ったと証言した。


 堕天使が脚の縛めを解いてゆっくりと後退した。もはや、大天使の身体は石化が始まっていた。罅が走る音が庭園まで聞こえた。飛翔力が失われ、大天使はその形を失いながら、奈落に落ちるようにゆっくりと落ち始めた。地に落ちて砕け散ると誰もが思った次の瞬間、眩い光が発生し、その光に飲み込まれるように大天使ミストロームは消滅した。


「大天使が入滅した……」

 人々は夢から覚めたように呆けた顔でそれを見ていた。あちこちですすり泣く声が聞こえた。誰かが上げた甲高い悲鳴を合図に、波を打って人々が一斉に逃げ始めた。足早な逃走は、やがて無秩序な壊走に変わり、全員が石段へ殺到した。何人かが転んで踏み潰され、更に多くの人数が他人に押されて石段から転げ落ちた。


「アイカ……」

 ロラは大天使が消え去るのを昵と見つめていた。足許には少し前まで鉄塞丸だった鉄塊が転がっていた。

 すぐにロラは空中の一点にアイカを認めた。大天使から剥離し舞い落ちる幾つもの石片の中にアイカがいた。遠くからなのでゆっくりに見えるが間違いなく空中を自由落下していた。気を失っているらしい。橋から投げ捨てられた人形のようだった。小さく光って首飾りが砕けて散るのが見えた。

「アイカ!」

 あの高度だ。首飾りの加護がなければ死は免れない。早く下で受け止めてやらなければ。でもこの距離では間に合わない。それでもロラは跳ねるように駆け出した。

 お願いです。運命の女神様、今までずっと貴方の言う通り運命を受け入れてきました。悪と戦うことも。記憶を無くしたことも。でも、今度ばかりはお願いです、どうかアイカを助けて。

 駆けながらロラは祈った。祈りながら駆けた。だが無慈悲な運命の女神は答えない。かわりに聞き慣れたむっさいおっさんの低い声が答えた。

「アイカは任せろ」



 身体は爆発の痛手からまだ回復していない。痛みを紛らわそうと口中で呪を唱えたが、もう何度も唱えたせいでほとんど効かなくなっていた。だいたい動く影を縫うような危ない真似なんて五体満足でも上手くいくか怪しい。しかも空中を落下する石の影に潜むなんて。

 グレンは大口を叩いたことを後悔していた。痛覚以外の感覚が麻痺してしまったようだ。しかし、諦めるのは論外だ。このままでは少女が死ぬ。もう何人も仲間の死に立ち会ってきた。これ以上はもうたくさんだ。


 あんた、犬みたいにいつもやけに張り切ってるな。そのままじゃ折れちまうんじゃないかい。尻尾がよ。

 死んだ仲間が囁いた。

 何と言われようと構わない。嬢ちゃんを助けなければ、俺の一分が立たない。


 腰の胴乱から羅睺仁を取り出すと、数も確かめず数粒一気に口に押し込んで噛み砕いた。これは使いたくなかった。数種類の麻薬と毒茸を調合した秘薬。定められた用量用法を守ってきちんと服用しないと昏倒し、死に至りかねない。特攻丸とも呼ばれる劇薬だ。

 数分保てばいい。いや、嬢ちゃんを無事に地面に降ろすまで保てばいい。打ちのめされた五体に力が舞い戻ってきた。全身の筋肉が収縮を始め、疵だらけの体が跳躍した。怪しい薬の力を借りてグレンの念が加速した。



 アイカは気を失ってなかった。大天使に取り込まれてから入滅し、外に放り出されたこともしっかり覚えていた。首飾りが小さい光になって消えたことも。そして、自分が凄まじい高さから地面に向かって落ちていることもちゃんと自覚していた。

 耳許の風切り音が喧しい。湯に漬けた寿留女するめのように神経が弛緩しきっていたおかげだろうか、恐怖は感じなかった。ひどい風圧で眼が開けていられない。このまま落ちて死ぬんだ。ここ数日、死人を大勢見てきたせいか、自分の順番が来たと思っただけだった。アイカは目を閉じてその時を待った。だから、名前を呼ばれていることにしばらく気がつかなかった。


「アイカ!」

 空耳がうるさい。お願いだから静かにして。

「アイカ! 眼を開けろ! 手を伸ばせ!」

 それでも空耳は止まない。仕方なく苦労して眼を開けた。眼の前に黒装束の男がいた。アイカと一緒に落ちながら、彼女に向かって手を伸ばしている。

 幻覚だと思った。どうせ幻覚ならロラ姉ちゃんのほうが良かったのに。それでも必死に叫ぶグレンの灰色の瞳と眼が合った瞬間、幻覚じゃないと悟った。

「おじちゃん!」

 凄まじい風圧の中、三白眼が大きく開いた。少女の小さい手が懸命にグレンへ伸びた。あと数寸が届かない。アイカが再び叫んだ。

「おじちゃん!」

 その時、グレンの手から黒い糸がするすると延びてアイカの小指に巻きついた。



 捕まえた。逃げるなよ。グレンは素早く腕を引いてアイカの体を手繰る。糸ではない。俺が惚れた女の髪だ。そう容易く切れるものじゃない。加速する風圧の中、アイカの手を掴まえて引き寄せた。

「おじちゃん!」

 風を切る騒音を抜けてアイカの泣き声が聞こえた。よし、生きてる。無事だ。触って声を聞いて改めて実感した。親猿にしがみつく子猿のように、少女がグレンの腰に手を回した。

「大丈夫だ。安心しろ」

 そう言って苦労して地面に目を向け、地面に映る自分の影を探した。幸い太陽は中天だ。すぐ見つかった。

 右手をアイカの背中に回し、左手で頭を抱えて顔を寄せた。

「目を閉じてろ。すぐ終わる」

 今から女の新鉢を割らんとする狒々爺いみたいなことを言って、グレンはアイカを抱き締め、地面の一点を目掛けて突っ込んだ。



「アイカ!」

 アイカとグレンが、周囲の石塊とともに落ちる勢いそのままに地面に激突したのをロラは見た。

「ああ」

 絶望の呻きが唇から漏れた。それでもまだ、もしかしたら、一縷の望みに縋ってロラは駆けた。

「アイカ! グレンさん!」

 叫びながら落ちた地点に駆け寄ったロラはその場に立ち尽くした。死体がどこにも見えない。落ちた痕もない。

「え、どこなの、アイカ?」

 場所を見誤ったかと周囲を見回した。ふいに足首を掴まれる感覚がした。見下ろすと、影から見覚えのある鉄籠手が伸びていた。

「グレンさん!」

 水面から浮き上がるように、影から黒装束の男の上半身が這い出した。鉢金と覆面の隙間から灰色の目がロラを見た。やがて、黄の布を喧嘩被りした禿髪の少女の頭が見えた。

「嬢ちゃんを頼む」

 産婆が赤子を取り上げる慎重な手つきでぐったりしたアイカを引っ張り出して地面に寝かせた。

「気を失ってるだけだ。すぐ目覚める」

 地に座り込んで頭を垂れたグレンが言った。

「どうやって?」

「影に潜み影に生きるが俺の売り口上だ。影に飛び込んだのさ。だが、嬢ちゃんには刺激が強過ぎたようだ。それとな」

 草臥れきった動きで上衣を脱ぐと全裸のロラに差し出した。

「俺以外の前であまりそんな格好をしないでくれ」



 名を呼ぶ声と頬を優しく叩かれる感触でアイカが醒めた。目を開けると、綺麗な青空とアイカを覗き込む二つの顔が見えた。

「助かったの?」

 ぽつりと呟いた。途端に地から引き剥がされて抱き締められた。

「アイカ!」

 懐かしいおっぱいの感触。ロラの体臭が鼻孔をくすぐった。それと鉄と硝煙の臭いも。

「お姉ちゃん……」

 やっと終わった。アイカはぼんやりとそう思った。


「まだ終わりじゃないぞ。生きて帰るまでが遠足だ」

 無粋な声がした。目を向けると、座り込んだグレンがこちらを見ていた。覆面で表情は読めないが目が小さく笑っていた。

 グレンの声にはっとしたようにロラがアイカの手を引いて立ち上がった。

「そうね、帰りましょう」

「うん」

「ちょっと待ってくれ」

 グレンが覆面を下ろしながら振り向いたアイカとロラに照れるように言った。

「体中痛くて立てないんだ。ちょっと手を貸してくれ」

 アイカとロラが顔を見合わせてふふっと笑った。

 三人が無事なのを見届けたように、堕天使が犬の遠吠えのような音を発した。三人が見上げる中、堕天使は空中高く舞い上がってそのまま消えた。その姿が見えなくなっても、三人は呆然を空を見つめていた。



 庭園に至る通路を三人はゆっくり歩いた。敵地のど真ん中だというのに、その歩みが緩慢なのは主にグレンのせいだ。色々と無茶をしすぎたせいで、一歩足を踏み出す度に激痛が走った。

「負んぶしましょうか? お姫様抱っこでもいいですよ?」

 ロラの申し出はしかし丁重に断られた。グレンにも貫目というものがある。同業者に見られたらもう稼業を続けられない。

 アイカとロラに左右から支えられてグレンは慎重に足を進めた。


「帰れると思ったのかね?」

 庭園に至る朱塗りの大門の前で白衣の老人が立っていた。「塔の王」だが、三人は老人が誰なのか知らない。

「まさか、『塔の王』か」

 グレンが呻いた。亜人排斥を叫ぶ秘密結社「橋の騎士修道会」の最高評議員の一人、長年にわたって亜人への攻撃を繰り返し、ついに大天使を現神して大量虐殺を企んだ黒幕だ。

「その名で呼ばれていることは知っている」

 老人がさっと手を上げた。

 門の陰から二十人ほどの衛士が長筒を手に飛び出して銃列を敷いた。

 ロラが二人を庇うように前に出た。

「無茶苦茶にしおって」

 老人が三人を睨みつけた。

「満足したか、この凡俗どもが」

「正義をなしただけです」

 ロラが答えた。

「正義? そんなものは下らぬ。ただの泡沫の夢だ。正義に意味があると思うかね?」

「すみません、難しい話ならよく判らないので止めてもらえます?」

 ロラが真剣に申し訳なさそうに言った。老人が顔を激怒で歪んだ。

「そうだ、お前はもうお終いだ。お前はただの薬で頭のいかれた邪悪な老人だ。お前にはもう何も残ってない」

 アイカに支えられたグレンが言った。

「ふん、今回失敗したからどうだというのだ。もう一度やり直せばいいだけだ」

 老人が再び手を上げた。衛士たちが一斉に撃鉄を起こした。

「その前に目障りな邪魔者を始末せんとな」

 グレンが腰の苦無を抜いて足を引きながらアイカの前に出た。ロラが更に一歩前に出た。

「撃ってごらんなさい。皆さん、ただでは済みませんよ」

 老人が鼻で嗤って手を下ろそうとしたその瞬間、場違いな木枯らしが吹いて声がした。

「待て!」


「誰だ!」

 誰かが叫んだ。この場合、まず誰何するのが悪党の作法である。

 大門の屋根に五人の人影が腕を組んで立っていた。全員が役者のような色彩豊かな派手々々しい装束に過剰な装飾を施した得物を持っている。

「問わば答えて進ぜよう! 閻魔様のお使えよ! 血も涙も無え手前えら鬼畜の大悪党、十万億土の冥土の使者が、闇に裁いて地獄に送る!」

「『自動剣』のハーガン!」

「『魔弾』のイオニィ!」

「『氷雪』のスネウ!」

「『神速』のクリフ!」

「『天眼』のコラス!」

 五人揃って見得を切った。

「我ら、『白浪五人衆』、参上!」

 全員が呆気にとられる中、「とうっ!」の掛け声とともに、五人が屋根から飛び降りた。

「大天使を現神して街を破壊し無辜の民を殺戮せんとする企み、我らが見逃すと思ったか!」

 ハーガンと名乗った男がまた見得を切って叫んだ。この人たち、見得を切らないと喋れないのかしら、アイカは訝しんだ。

「喰らえ! 氷雪魔法絶対奥義甲ノ参『冷凍光線』!」

 銀糸で編んだ長衣を纏ったスネウという娘が杖を振り上げ、杖頭から銀色の光線が伸びた。たちまち、「塔の王」と衛士たちが凍り付いて動きを止めた。


「まあ、とっても素敵だわ」

 ロラが眼をきらきら輝かせた。

「そう?」

 アイカが興醒めした顔で答えた。見上げるとグレンも仏頂面だ。

 ハーガンが嫌味なくらいいい笑顔を浮かべて三人に顔を向けた。

「後は『白浪五人衆』と特別機動警邏隊が引き受けよう、ご協力感謝する!」

 もう一度見得を切ると、氷の立像たちのほうに踵を返して歩き去っていった。

「ねえ、さっさと帰ろうよ」

 アイカがぼそりと言った。

「そうだな」

 グレンがアイカの頭を優しく撫でた。



 庭園に出ると、武装した警邏たちが教会の衛士たちを武装解除していた。普段の警邏より装備も動きもいい。恐らくさっき言っていた特別機動警邏隊という精鋭部隊なのだろう。その中を三人はとぼとぼと歩いていた。

「ご協力なんて程度のものじゃなかったと思いますけど」

 グレンを支えながらロラが訝しげに言った。

「いいんだよ。二人とも無事だったんだから。それにお父さんもお母さんも」

 反対側でアイカがにこりと笑ってロラとグレンを見上げた。

「そうだな。その通りだ」

 グレンがアイカの頭をごしごしと撫でた。

 三人の横を鳥打帽の男たちが手帳を手に駆け抜けた。「白浪五人衆」を取材するために駆けつけた瓦版の記者たちだろう。

「早くおうちに帰ろうよ。お腹減った」

「ええ、帰りましょう」

「途中で団子でも食って帰るか?」

 グレンが立ち止まって、懐から煙草を二本取り出しながら訊いた。

「駄目だよ、お母さんががっかりするから」

 アイカがマッチを取り出して二人の煙草に点けた。

「そうね、早く帰りましょう。今日は私がご飯を作りましょう」

「料理なんて出来るのか?」

 グレンが煙をくゆらせながら尋ねた。

「やったことはないですけど、この間、ガミラさんが料理してるのを見たからきっと大丈夫ですわ」

 その言葉にグレンが思わず噎せた。

「それはちょっと遠慮したいな」

「もう、早く帰ろうよ」

 アイカが二人を引っ張るように歩き出した。


 こうしてアイカの最初の冒険は終わった。数年後、ロラは記憶を取り戻し、アイカには傍迷惑な姉がもう二人増えることになるのだが、それはまた別の話。

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マッチ売りの少女血風録 hot-needle @hot-needle

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