第5話 一月四日に少女は髪を切る
冬の朝の教会というと、敬虔な信者でなくとも厳粛な気持ちにさせるものだが、この日はほんの少し違っていた。朝食前の大事な勤行の時間だというのに、教会の奥に位置する宝物殿の前でちょっとした騒ぎが持ち上がり、物見高い神官や修道士たちが見物の輪を作っていた。
輪の中心で、黒い毛皮の外套を羽織った金髪の女が腕を腰に当てて仁王立ちしていた。その前で宝物殿の鍵を預かる管理僧が哀願に近い悲鳴を上げた。
「なりません。宝物殿の扉を臨時に開けるのは教皇様のお許しが必要です」
「うるさいわね、力尽くで開けてもいいのよ」
苛立ちを隠そうともせず、モニクが言った。両手が微かに放電している。衛士たちも恐れて声も掛けられない。
「駄目です! 御料簡を!」
管理僧も必死だ。宝物殿の鍵を死守できなければ、鄙な人口希薄地帯にある教会で森の動物相手に御神籤を売る生活を死ぬまで続けることを意味していた。
「じゃあ、無理矢理宝物殿を開けられたことにすればいい。それなら上への言い訳も立つでしょ」
モニクが首をごきりと鳴らして前に踏み出そうとした。
「朝から何をやってる?」
声のする方を振り返ると、そこに聖界騎士の四人が立っていた。「空」のマスタガ、「紐使い」ミシヤ、「黒粉」テララ、「完全者」フーバ。四人は油断なく間合いを取りながらモニクを取り囲んだ。モニクの手の放電が止んだ。管理僧が小さく悲鳴を上げて見物人の輪に逃げ込んだ。
「見てわからない? 宝物殿に用があるのよ」
「おばさんが宝物殿に一体どんな用なの?」
薄笑いを浮かべてテララが訊いた。
「機動僧兵の支援もなく超人二人を相手にするのよ。この中に置いてあるがらくたが必要なの」
「手出無用だという『塔の王』の言葉を忘れたのか? そもそも貴様は我らの支援に回るよう命じられているはずだ。勝手に動くことは許されていない」
フーバが咎めるように言った。
「知ったことじゃないわ。私は奪われたお宝を取り戻すだけよ」
「失点続きで乱心したか」
マスタガが穏やかな口調で言った。
「我ら聖界騎士は教団内の反逆者に対して裁判抜きで生殺与奪の権利を許されている」
「ふん」
モニクが鼻で笑った。
「特務神官『雷姫』のモニク、貴様を拘束する。大人しく縛につけ」
その言葉と同時に聖界騎士四人が一斉に構えた。
「まあ、勇ましいこと」
モニクが悠然と手首の銀環に手をかけた。銀の腕環が石畳の上に転がって硬い音を立てた。それを見て緊張を解こうとした聖界騎士たちが、はっとして身構えた。
「貴方たちもあのお爺ちゃんも思い知るべきね」
モニクの貌に肉食獣の笑みが浮かんだ。
「私こそが『最強』だと」
教会の奥庭でモニクが聖界騎士たちをこんがり美味しく焚き上げていた時刻より少し前、乞食小屋では顔にぽつりと何か当たってグレンが目を開けていた。熟睡していた。彼のような稼業の者にしては随分と不覚なことだ。息遣いを感じて目を転じれば、グレンの首に両手を回して柔らかな肢体を押しつけたまま、ロラがすぴすぴ寝息を立てている。苦笑しつつ周りを探ると、背中越しに家に近づく足音を感じた。グレンは口中で呪を唱えた。
(艶ある玉子は古き徴にて艶無き物が新しきなり弱き火に焼かば魚の味抜けむ強き遠火に限るとそ知れ筒井筒井戸の水は虫ぞ棲む沸かして飲めよ漉して使え……)
意味不明な内容だが、自己暗示をかけるための合言葉だ。呪によって精神が極度に集中したグレンは息を詰めて五感を研ぎ澄ました。足音は一人分、踵を地に付けた歩法、規則正しく落ち着いた呼吸、恐らく敵ではないと察したが油断はできない。全く殺意を見せずに人を殺せる暗殺者は滅多にいないが皆無ではない。
静かに左手で刀を引き寄せ、右手をロラの背に這わせて中指で命門を強く押した。熟睡する者を静かに起こす経穴の一つだ。ぱっと目を開けたロラは昨夜の続きと思ったのだろう、グレンを顔を見て淫蕩に微笑んで唇を寄せてきた。
「家の外に誰かいる」
ロラはグレンの言葉で全てを察したようだ。顔つきが急に険しくなった。
「装備を着けろ。外の奴は俺が相手をする。いざとなったら嬢ちゃんを担いで壁を蹴破って逃げてくれ」
黙って頷いたロラが静かに立ち上がった。ロラが革服に身を固める横で、グレンが戸口に歩み寄った。銃を構えようと思ったが止めた。銃声で敵を集めかねない。相手は一人だ、一息に組みついて声を上げる暇も与えず殺す。グレンは静かに腰の苦無を一本抜いた。重ねた荒筵の隙間から朝の冷風が吹き込んでいた。
ふいに外から何かを擦る音が聞こえた。微かに黄燐の臭いが漂ってきた。グレンに驚愕と緊張が走った。
(擲弾か!)
西瓜の買い出しのように爆薬を縄で十字に縛り、導火線に点火してから縄の端を握ってぐるぐる振り回し、遠心力を利用して宙に放つ。後世の手榴弾に似ているがこちらのほうが危険度ははるかに高い。導火線が短すぎれば手元で爆発し、長ければ敵に投げ返される。
グレンは自分の迂闊を呪った。まさか市街地で爆薬を使うとは予想もしなかった。家ごと吹き飛ばす気か。振り返って毛布ごとアイカを抱きかかえたロラに目で合図すると、一気に荒筵を跳ね上げて外に跳ね出そうと踏み出した。
「え?」
目の前に立っていたのは、爆薬を投擲しようと身構える擲弾兵ではなく、冬の寒風のなか、背中を丸めて煙管に火をつけようと苦心しているダークエルフの女だった。
「え?」
金髪に白い木綿布を巻いたダークエルフが眼を見開いてグレンの剣幕に凍り付いている。二人は動きを止めて互いを見つめ合った。
「あ、ゼダさん、お早うございます」
家の中からロラの挨拶の声が聞こえた。
「お早うございます!」
毛布で梱包されたアイカが続いて大声を出した。
「知り合いなのか?」
油断なくダークエルフから目を離さずグレンが訊いた。
「そうよ、だからその物騒なものを仕舞ってちょうだい」
ゼダが煙管の雁首でグレンの手の苦無を軽く叩いた。
「そんなことより、早く家に来てちょうだい。アイカちゃんの首飾りについてよ。詳しいことは家で話すわ」
見上げるとどんよりした空模様、直ぐにも雪が舞いそうな気配だ。ゼダを先頭に四人は裏通りを分け入って行った。途中、落ちてる薦を拾い上げて、十匁筒と直刀に巻きつけた。ロラも目立つ面甲を外して外套の下に隠した。
道がひどく入り組んでいる地図屋泣かせの土地だ。店と店の入口が民家と入り混じり、そこを抜けるとまた新たな町屋が広がっている。
「どうして俺たちの隠れ家がわかった?」
黒装束の上から薄茶の外套を引っ掛けてたグレンが歩きながら尋ねた。あの場所を借りるにあたっては細心の注意を払った。そう簡単に足がつくような場所ではなかった。
「烏よ」
ゼダが歩調も落とさず事も無げに答えた。
「なに?」
「烏に探して貰ったのよ。街中の烏の目からは逃げられないわ」
「鳥使いなのか?」
「そんな大袈裟なものじゃないわよ。長く生きてるとね、それくらい出来るようになるの」
ちょっと得意げにゼダが笑った。
第七施療院という石柱の立つ曲がり角で、ゼダはようやく足を止めた。この辺りにしては贅沢な白壁の塀が続いている。その塀沿いを進み、雪がちらつき始めた頃、施療院の裏手にある小さな石造りの平屋に入った。
「我が家へようこそ」
ゼダがそう言って扉を開けた。
「占い師なのか?」
水晶玉やら筮竹やらの占い道具が乱雑に積まれた棚を見てグレンが訊いた。
「近頃は占いなんて誰も来ないのよ。家主に言われて三軒隣の空家を使って手習いの師匠をしてるけど、これが大評判なの」
鬱蒼とした本の山を見回しながらグレンが訊いた。
「教えるのは方違えか、五行か?」
「文字と算術よ」
手習いの師匠としては不気味でむさ苦しい恰好もなるまいと、服も髪も努めて小綺麗にしているという。
「昔に軍隊で習った算術がこんなところで役に立つなんてね。幾つになっても学問は成しておくもの、とはよく言ったものだわ」
ゼダは戦場で吉凶を占って方角や刻限を定め、軍勢の布陣や進退を定める軍配師の一族を由緒とする者だった。ところが、兵制改革に際して、志ある者に砲術を教育すべしとの帝国陸軍の命で、創設されたばかりの陸軍砲兵学校に入校し、当時、土木工学と並んで最新学問である弾道学を学んでいる。彼女は、火器戦術の進展により崩壊した旧い複雑な軍事機構から脱却を図った軍事技術者の一人だった。腰帯に差した小型の槌は、彼女が軍配師だったことの僅かな証なのだろう。
「実は家主にもそこを見込まれたのよ」
ゼダが照れ臭そうに笑った。
「でも、商家の売掛や帳簿付けの算術って砲兵の見越し計算より難しいのよ。時々、手習いの子供たちに笑われて参っちゃうわ」
「子供たちはこの家に遊びにきたりするんですか?」
ロラが古書の山の隅に置かれた算術書の背表紙を眺めながら訊いた。
「いいえ、うちはお化け屋敷って言われてて子供たちは滅多にここには入ってこないわよ。お化け屋敷のおなご先生って言われてるの。失礼しちゃうわ」
ゼダが自嘲気味に笑った。
「そうですか。それでは……」
ロラがゼダを横目で見やった。
「子供じゃないんですね。なら、上にいるのは誰なんです?」
「鋭いわね」
ゼダが天井を見上げた。アイカとグレンがつられて顔を上げた。
「秘密基地に秘密の仕掛けがあるのは当然ですわ」
得意そうにロラが胸を張った。
「言ってることはよくわからないけど、ただの隠し部屋よ。臥せってるから静かにして」
ゼダが暖炉の前で屈んで火を熾こし、アイカを寝台に座らせ、本の山を動かして即席の椅子を作ると、ロラとグレンに勧めた。二人の尻の下に敷かれた本の中には、国内でも名のある図書館でしか読めないような稀覯本も少なくない。学問を志す者や古書の収集家が見れば怒りで荒れ狂うか卒倒しそうな光景だが、この部屋の者は誰も気にしなかった。
ゼダがアイカの隣に腰を降ろして口を開いた。
「ある人に頼まれたの。教会の人よ」
アイカに向かって微笑むと、少女の頭に巻いた黄色い手拭を取って乱雑に切っただけの髪を優しく撫でた。
「かわいそうに、後でちゃんと整えてあげようね」
それからロラとグレンに顔を向けた。
「お坊さんと言っても小銃術が専門のお人よ。つまり修道兵」
グレンが無言で刀の入った薦を引き寄せた。
「やめて、ここは野中の一軒家じゃないのよ。街中で物騒はお断りよ」
ゼダが慌てて手で制した。
「教会から逃げ出してきたんですって。体を壊して三日ほど寝込んでるの。動くなって言い聞かせてるけど、本当に動けないのよ」
「名は?」
グレンに問われてゼダは声を潜めた。
「コンラットていうの。『医師団』って講の人よ。グレンさん、あなた『処方箋』って読んだことある?」
グレンが黙って頷いた。
不定期に出回る教団の内幕を記した怪文書だ。中身は児戯に等しい内容だが、醜聞好きの庶民の間で秘かに人気で、政府も教団も躍起になって取り締まろうとしている。
「要は教団内の不正と腐敗を糺すってのを看板にしてる人たちよ。端から見たら下衆の内輪喧嘩にしか見えないけどね」
「少し話を聞きたい」
教団の内部を知るかもしれない貴重な情報提供者だ。
「私も」
ロラが手を上げた。
「後で引き合わせてあげるわ」
寝台の下から小さな火鉢を引き出して火を起こして鉄瓶を置いた。
「それでアイカちゃんの首飾りのことなんだけどね」
煙管に煙草を詰めながら、ようやくゼダが本題を切り出した。
「ただの護身具じゃないってのはもう言ったわね」
アイカの首に手を伸ばして金の環に触れた。
「でも見慣れない呪も仕込まれてて、気になって調べたのよ」
「それはこちらも承知してる」
グレンが懐から煙草を出してくわえた。その手許を見つめるロラの視線に気づいて、黙って一本差し出した。
ロラが無言で微かに微笑んで煙草を受け取った。
「話を続けていい?」
ゼダが仏頂面で言った。
「あ、ああ、頼む」
グレンが柄にもなく居住まいを正して言った。
「専門用語や小難しい理屈を並べても聞き流されるだけだから、単刀直入に言うわね」
「この首飾りは大天使を動かすための鍵なの。操神具ってやつね。この街の教会に『塔の王』ってのがいて、こいつが大天使を現神して亜人を攻撃させようとしてるの」
「それはワットさんて方から聞きましたわ」
「俺も床下で聞いた」
「あらそう、でもこれは聞いてないでしょ」
ゼダがくわえた煙管を上下させて得意げに笑った。
「神人融合したらアイカちゃんが大天使を操れるって思ってるでしょ」
「違うのですか?」
ロラが訊いた。
「それが違うのよ。亜人だけを選んで襲えって呪はもうその首飾りに仕込まれてるわ。アイカちゃんは入魂のためだけの贄なの」
贄という言葉に反応してアイカがびくりと身を竦ませた。
「じゃあ、私が大天使と一緒になってもみんなを襲うのを止められないの?」
アイカが不安げにゼダを見上げた。
「お父さんもお母さんも襲っちゃうの?」
ゼダが優しくアイカを引き寄せてあやすように笑顔を作った。
「大丈夫だよ、婆がそんなことはさせないわ」
「手はあるのか?」
グレンが訊いた。
「首輪の呪を書き換えるのよ」
「そんなことができるのか?」
「これでも年経た古狐ですからね」
ゼダが不敵に笑った。
「今からアイカちゃんの首飾りを書き換えるわよ。二人は」
戸口を指さした。
「裏から梯子を取ってきて」
梯子を受け取ったゼダが壁に立てかけた。
「この上の天井板が外れるようになってるの。コンラットさんが寝てるわ。騒いで埃を落とさないでね」
「最初は俺が話す」
グレンが言って先に梯子に足を掛けた。
隠し部屋といっても屋根裏に近い。床板は張ってあるものの、身を屈めないと奥に入って行けない。職人の家によくある造りで、こういう部屋に弟子を住まわせておく。居候部屋とも言うが、半ば物置の扱いだ。ゼダも普段はそうしているらしく、占い道具を運ぶ
「コンラットさんとやら」
グレンが部屋の隅に向かって声をかけた。
「心配は無用に願いたい。俺はグレンというケチな野郎だが、裏道を往来する者なので役人や坊主を嫌う。その俺が少々物を尋ねたいのだ」
床から身を起こす気配があった。
「ちょっと失礼しますね」
ロラが天井の、といっても手を伸ばせばすぐそこにある板止めを外して天窓を開けた。朝の清々しい空気が入ってきた。雪はもう止んだようだ。
無精髭だらけの痩せた男が笈を盾にじっとこちらを窺っている。
「心配ならそのまま聞いてもらっていい。コンラットさん、あんた、教会で研究僧をやってたワットさんってお人を御存知か?」
「知っていると言えばどうする?」
コンラットが小さく咳き込んだ。
「昨日の午後にお会いしたんです」
ロラが床に座って背筋を伸ばした。
「事の次第をお話しします」
昨日のワットとの会話と、その後の乱闘騒ぎについて事細かに語った。コンラットという元僧兵は物わかりの悪い人間ではないらしい。聞き終えると瞑目してゆっくり息を吐いた。
「そうか、エルフの魔法工匠が手掛けた魔装具は、そのアイカなる少女の首にあるのか」
ゆっくりした動きで毛布の下に隠した短筒を取り出し、撃鉄を戻して遠くに置いた。
「私たちはその首飾りを奪うべく教会を抜けて、探し回っていたのだ。まさか首飾りのほうが自分から寄ってくるとは皮肉だな」
首をがくりと落として薄く笑った。
「確かに私もワット殿も『医師団』の一員」
教団は四十年前、現教皇擁立の際に、亜人排除を唱える急進派と、亜人との共存を唱える穏健派の間で争いがあった。下級神官のエルベルトなる者が、時に穏健派の有志を集め、「治癒と慈悲」修道会を作った。
「これが年々発展し、後に『医師団』になった」
「医師団」は長年にわたって激派の張本である「橋の騎士」と陽に陰に争ってきたが、近年は次第に押されて教団の主導権を奪われ、その勢力も気息奄々たる状態だという。
「恥ずかしいことに『医師団』も争いの中で割れてしまった」
コンラットが続けた。負けが込んだせいで「医師団」の中から分派活動する者まで現れ、混乱に拍車をかけた。亜人との共存は認めるが社会的権利を制限しようという「階級派」や亜人を劣等人種として奴隷として遇するべしという「選民派」、亜人を畜獣と同じように管理、飼育して使役しようという「収容所派」等々が独自行動に走り、ついに「医師団」は四分五裂の状態に陥った。
「そんな中、『橋の騎士』に送り込んでいた諜者から、大天使現神の情報が入った。これを阻止できれば『橋の騎士』の勢力は大きく後退し、『医師団』は再びかつての団結を取り戻せる。そう考えて大天使の操神具を奪うべく、同志数人と語らってカルフィールに向けて出発したが、途中で追っ手がかかり、また私の病気も重なってついにはぐれてしまった。やむなく一人で現神が行われるこの街に辿り着き、ワット殿の手引きでここに潜り込んだ」
「ゼダも『医師団』の支援者なのか?」
グレンが訊いた。
「いや、ゼダ殿には金子を払って匿って貰っているだけだ」
この時代の宿泊制度は結構煩雑で、余程のことがない限り、もぐりの宿は許されない。政府は宿屋の利権を守る必要があり、また、無宿渡世の者が入り込んで治安を乱すことを恐れたのだ。故に役人はこの手の無許可の素人宿を「盗人宿」などと呼ぶ。つまり、ゼダがやっていることは立派な違法行為だ。
「アイカを教団から守り抜かねばならない。教団の追っ手を躱す手立てに心当たりはあるか?」
グレンが首を傾けて探るように尋いた。
「心当たりを一つ教えよう。私も体の具合が良くなれば訪ねようと思っていた」
枕の下から覚書を取り出した。
天井板を戻して梯子を下りてきた二人をアイカとゼダが見上げた。
「どうだった?」
ゼダが囁くように訊いた。グレンが煙草をくわえてコンラッドから預かった紙片をひらひらさせた。
「何それ?」
「コンラットって人は咳は少ないけど胸の病みたいですね。埃っぽいところで寝たきりにさせておくのもお身体に悪いのでは」
ロラが煙草を受け取りながら心配そうに言った。
グレンが懐から二分金を二枚出してゼダに押しつけた。
「これで肉か何か精のつくものでも食わせてやってくれ」
「勘弁してよ。私は曲がりなりにもダークエルフの占い師なのよ。肉屋に入ったのを見られたら商売が上がったりだわ」
思わずグレンは苦笑した。
「なら本町で生薬でも買ってやるんだな」
「そんなことより、首飾りの呪の上書きはどうなりました?」
ロラがアイカの頭を撫でながら訊いた。
「もう終わったわよ」
「うまくいったのか?」
「うーん」
一言唸ったゼダが鉄瓶を取って、湯呑に白湯を注いで一同に手渡した。
「うまくいったわよ」
笑顔でゼダが告げた。
「どういうことだ?」
グレンが自分とロラの煙草に火をつけながら言った。
「まず、呪の書き換えはうまくできたわ。アイカちゃんが入魂しても大天使は亜人を襲うことはないわ。何もしないまま静かに入滅するはずよ。アイカちゃんも無事」
「やったじゃないですか。これでもう心配ないですね」
「理論上はね」
「はい?」
「魔法は科学と違って厳密にはいかないものだし、おまけに最後に修法が行われたのは二百年前で、しかもその時は大天使の制御に大失敗してるのよ」
言い訳めいた口調でゼダが答えた。
「うまくいかないときはどうなるのだ?」
グレンが湯呑の白湯を一口啜った。
「二百年前の大天使バーンヒーラーは散々暴れまわった挙句に入滅するときに大爆発を起こしてトランドの街を吹き飛ばしてるわ」
「確率はどのくらいなんです?」
ロラがおずおずと訊いた。
「そうね、だいたい一割くらいかしら」
「爆発する確率が一割か……」
グレンが大きく溜息を漏らした。
「ごめんなさい。爆発しない確率が一割なの」
「駄目じゃねえか!」
小さく叫んだグレンは湯呑を床に叩きつけようと振り上げたが、アイカの怯えた視線に気づいてそっと腕を下した。
「つまり、アイカ嬢ちゃんを連れて逃げて逃げて逃げ回るしかないのか」
自嘲するようにグレンはせせら笑った。手に手を取って駆け落ちじゃあるまいに、まさかこの俺が女子供を連れての逃避行とは。
「待って、まだ手はあるわ」
ゼダが湯呑を呷って火鉢の猫板に置いた。
「どんな手だ」
「アイカちゃんの首飾りを外すのよ」
「死なない限り外れないんじゃなかったのか?」
「理論上はね」
「また理論上か。まさか嬢ちゃんを仮死状態にして外すとか言わないよな?」
「馬鹿なことを言わないで。首飾りを騙してこの紐を伸ばすのよ」
「できるのか?」
「半日くらいかかるけどね」
「ならすぐやってくれ」
「そうはいかないの。今から手習いの時間なのよ。昼前には終わって帰ってくるから、貴方たちで昼ご飯の買い出しに行ってきてくれない?」
「なんで俺たちが」
グレンが眉を顰めた。
「だって五人分も買い置きしてないのよ。買ってきて貰わないと困るわ」
先ほど受け取った二分金のうち一枚をグレンに差し出した。
「じゃあ、コンラットさんに元気になってもらえるように、お肉も買ってきましょう。ついでに生薬も」
ロラが嬉しそうに言った。
「おい、勝手に決めるな」
周章ててグレンが釘を刺したが、あっさり無視された。
「ついでにアイカちゃんも床屋に連れて行ってあげて」
「おい、嬢ちゃんまで連れ出すのか」
「こんな辛気臭い部屋でアイカちゃんを一人ぼっちにしておくの?」
「自分で言うな」
「それに、小さい女の子を連れた若夫婦なら誰も怪しまないわよ」
「莫迦な。俺たちが夫婦に見えるわけがない」
ましてや家族など。グレンが
「あら、さっきから二人の煙草のやり取りを見てたら結構お似合いだったわよ」
悪戯っぽくゼダが微笑んだ。
「まさか、なあ」
「ええ、私たちが夫婦なんて。アイカと姉妹なら兎も角」
ロラがグレンに同調して言った。
「あら、でも夕べはお楽しみだったんでしょう? アイカちゃんから聞いたわよ。ねえ?」
ゼダに話を振られてアイカがきょとんとした顔でロラとグレンを見回した。
「うん、部屋の隅で毛布を被って二人でごそごそしてたの。あのね、確か……」
慌てたグレンが手を振ってアイカの言葉を遮った。
「わかった、三人で飯を買いに行こう。だからそれ以上言うな」
隣でロラが返り血を浴びたように顔を朱らめた。
曇り空の下を、三人はアイカを真ん中に手を繋いで歩いていた。ロラとグレンは空いた手に籠をぶら下げている。まさかこの俺が家族を装って外を歩く羽目になるとは、グレンは皮肉に口を曲げた。得物はゼダの家に置いてきた。長物を担いで買い物に行くわけにはいかないが、懐に仕込んだ苦無一本だけというのも心細い。
「もっとにこにこしないと怪しまれますよ」
ロラが小声で注意した。
「こうか?」
グレンは無理に笑顔を作ってみたが、顔に走る疵のせいで不気味に歪んだようにしか見えなかった。
それでも二人を見上げて楽しそうに笑うアイカと目が合う度に、グレンは無理に口角を上げて顔を引き攣らせた。
「一軒いい店があるわよ」
とゼダに教えられた床屋はちょうど施療院の門前にあった。
「ようこそいらっしゃいました」
「この子をよろしく頼む」
出迎えた若い髪師に十文銭を十枚掴ませた。
鏡の前にアイカを座らせると、若い髪師は大仰に声を上げた。
「お嬢ちゃん、こりゃあ立派なざんばら髪だ」
鏡に映るアイカにむかってにっと笑った。その気風の良さにつられてアイカも恥ずかしそうに笑い返した。
「初手にお尋ね申しますよ、お嬢ちゃん。頭に傷や腫れ物など御座いますでしょうか?」
髪を切る前のお約束の口上だ。小刀を二本重ねたような大振りな髪鋏の切れ味を確かめながら髪師が訊いた。
「いいえ、ありません」
アイカが緊張気味に答えると、更に尋ねて
「どのような髪形にいたしましょうか、何でもお好みを言いつけてください」
「えっと……」
アイカは口ごもった。生まれてこの方、床屋で髪を切ってもらったことがない。どう答えていいのかわからなかった。鏡を見つめる三白眼が泳いでロラと視線が合った。
「かっこよくしてくださいな」
ロラがきっぱりと言った。
「かっこよく、ですかい……?」
髪師が思わず口ごもった。
「いや、女の子らしく似合いの髪形を頼む。細かいことは任せた」
グレンがロラの腕を掴んで言い直した。
「へい、お任せください」
アイカの後ろに回った髪師は、湯で濡らして固く絞った手拭でアイカの髪をごしごし拭きながら喋り続けた。
「ああ、これは楽な毛だ」
不思議そうにアイカが視線を上げた。
「硬すぎず柔らかすぎず、これはお嬢ちゃんのお心が素直なおかげだ」
「お嬢ちゃんは女にしておくのが惜しいくらい、きりりとした顔立ちだ。これはかえって可愛らしく仕上げたほうが見映えがするってもんだ」
そう言いながらアイカの髪に鋏を入れた。
「お嬢ちゃん、痛かったら言ってくださいましね」
「そうか。モニクがなあ。今朝の騒ぎはそれか」
藤の椅子に身を任せた「塔の王」シュカンが小さく呟いた。
その背に向かって世話役の老人が口を開いた。
「はい、聖界騎士四人を殺害して宝物庫を暴き、装神具『鉄塞丸』を奪うと特務の実動隊を率いて姿を消しました」
「そうか、ついに『鉄塞丸』が日の目を見るか」
感慨深げに視線を宙に泳がせた。
「追っ手は出したか?」
「まさか、無駄に死人を出すだけですので」
愚問だと言わんばかりに老人が小さく笑った。
「これは我の眼鏡違いだったな。それほど腕が立つとは思わなんだ」
「塔の王」が笑おうとして思わず咳き込んだ。
「よろしいのですか? モニク殿を野放しにしておいて」
「よい、操神具を大天使に追い込むいい勢子になってくれよう」
「しかし、モニク殿は相当に気が昂っている様子、どんな騒ぎを起こすか知れませぬぞ」
「あれは、頭に血が昇れば昇るほど頭が冴える
世話役の老人が頭を下げた。その白髪頭に「塔の王」の感極まった声が降った。
「もうすぐ我らの悲願が叶う。楽しみだな、ロックよ」
二時間ほどして、三人はてくてくとゼダの家へ道を歩いていた。ロラとグレンの籠には油紙に包んだ猪肉に適当に買い求めた野菜、生薬の包みが乗っている。
「ねえ、変じゃない?」
アイカの三白眼がロラとグレンを交互に見上げた。
「とてもお似合いよ」
「ああ、よく似合ってる」
生まれて初めて床屋で本格に髪を切ったアイカはしきりに
「えへへ」
答えを聞く度にアイカは照れ臭そうに笑った。
次の角を曲がればゼダの家が見えてくるところまで来ると、路上に人だかりが出来ていた。
「あら」
ロラが小さく声を上げた。人だかりを見るグレンの顔が強張った。
むっつり押し黙って眺めている野次馬の一人に声をかけた。
「何かあったんですかい?」
話しかけられた中年の職人らしい男はグレンの疵面を見て一瞬ぎょっとしたが、連れの若い女と少女を見て安心したのか話してくれた。
「この先で番所の連中が縄を張ってるのさ。急ぐなら道を違えたほうがいい」
「捕物ですかい?」
「そのようだ」
見ると町内の火消しも鳶口を手に路上をうろうろしている。
そのうち、わっと歓声が上がって物見高い人々が走っていった。
「どうやら終わったみたいだ」
職人の男が腕を組んだ。流石にこの齢になれぼ駆け出さないだけの弁えはあるのだろう。
背伸びすると野次馬の彼方に六尺棒や刺股の影がちらついた。
「新年早々、真昼間から捕物とはこの辺りも物騒なことだ。先日も爆弾騒ぎやら撃ち合い斬り合いやらで大勢人死が出たというが、お天道様が出てるうちから、斬った張ったが増えやがった。見なよ」
人垣を掻き分けて怪我人が運び出されてくる。捕り手の小者が戸板に担がれて二つ続いた。
「どけ、道を開けろ」
「見世物じゃねえぞ」
「道を開けねえ者は同類と見なしてしょっ引くぞ」
役人が殺気立った大音を発していた。鉢金付きの警帽に鎖籠手までつけ、弾帯に腰刀と短筒を吊るして手に一尺四寸ほどの長十手を持ったいかにも凶々しい恰好に作っている。
役人の嚇し文句に一旦は引いた見物人だが、別の戸板が現れると再び騒ぎ出した。
「あれが咎人だ」
「よく見せろ」
「女の身で道中差一本で捕り手を二人も斬ったそうだ」
「いや、暴れたのは二階に隠れてた男のほうだ。仕方なく与力が斬り捨てたとさ」
(女だと)
グレンははっとして目を見張った。ロラも同様に人垣の向こうへ視線を投げている。怯えて見上げるアイカの手に気づいてそっと握り返した。
新しい戸板が四方を六尺棒に囲まれて通り過ぎていく。上には真っ白く粉を吹いたダークエルフの女が赤い捕縄で高手小手に縛り上げられて俯せに乗っている。目潰し粉を大量に浴びせられたのだろう。ぴくりとも動かない。
(ゼダ)
悪い予感が当たった。
「ひっ」
横で小さく圧し殺した悲鳴が上がった。アイカがグレンの手を痛くなるほど握り締めていた。
「ゼダおばさん、死んじゃったの?」
今にも泣き出しそうな声でアイカが訊いた。
「安心しろ、死んじゃいない」
筵が掛けられていないのは、まだ息はある証拠だ。
続いて来た戸板は違った。今度は筵が被せられてその上を捕縄でぐるぐる巻いていた。血に染まった腕が筵の端からだらりと地面に向かって揺れている。その袖は紛れもなくコンラットのものだ。
(困ったことになった)
捕殺に至るというのは、ただの素人宿の摘発ではあるまい。表立って出てきたのは警邏だが、やはり教団の内部抗争絡みの工作員狩りなのだろう。
「嫌なものを見た。道を替えよう」
わざと人に聞こえるように言って、アイカの手を引いて歩き出した。グレンに引かれるようにアイカとロラが後に続いた。グレンとしては、躊躇することなくこの場を離れるのが分別だった。
悠々と歩き続けて七番街中町の脇通りに出た。折角買った食い物は目立つので籠ごと捨てていた。空は再び曇りはじめてまだ三時過ぎというのにもう誰彼の暗さだった。また雪が降るかと家路に急ぐ人々もいる。
一階が格子造りの二階建ての料理屋がぎっしりと立て込んでいる。街の人にとって、七番街の中町に行くといえば、ちょっとした贅沢を意味していた。
「どこへ行くんです?」
ロラが小声で訊いてきた。
「黙って笑ってろ。尾けられてないか気を配れ」
それだけ答えてグレンは煙草をくわえ、ロラにも一本差し出した。
ゆっくり西に歩いて建物の切れ目に出た。やがて、家もまばらになり、出会い茶屋が増えていく。表向きは甘味を売り物にしているが実態は男女に密会場所だ。折しも板塀の張り出しに女が一人所在無さげに空を仰いでいる。健気に男を待っているのだろう。
やがて雪が降りだしてきた。ゆっくりとじっとりと小糠のように降ってくる。町屋が途切れだした辺りでグレンはアイカに語りかけた。
「もうすぐだ。辛抱してくれ」
そのまま周りを見回して路上に人影が無いのを確かめると、通り沿いの煮売屋へすっと入った。
「もうし」
アイカに積もった雪を払いながらグレンが奥へ声をかけた。
「どなたかお頼み申します」
この辺りの煮売屋は単なる総菜屋ではない。酒場と休息所を兼ねている。近所の祭礼の時は頼まれて屋台も出すし、懇意の宿屋が客で満員になると分宿先にもなる。これも違法なのだが、何故かこの辺りは目こぼしされていた。何か事情でもあるのだろうが詳しくはグレンも知らない。
グレンがもう一度呼びかけた。土間の腰掛に筵が敷かれている。そこにアイカとロラを座らせ、グレンは土間に立って店の者を待った。
ようやく人の気配がして、陰気なエルフが下男の成りで顔を出した。
「お着きなさいまし」
「連れが雪に濡れて参っておりましたので、先に腰を降ろした失礼をお許しください」
グレンが慇懃に頭を下げた。
「申し伝えが御座いますでしょう。手前ども、少々仔細があって表の宿泊まりは障りがあります。何分よろしくお願い申し上げます」
渡世の者が素人宿を頼む際の口上だ。
「まさか『影縫い』のグレンさんで……」
下男の顔色が変わった。
「お待ち申しておりました。どうぞこちらへ」
慌てて店台の奥から鍵を出すと、腰を落として先に立った。
「これは恐れ入ります。それでは上がらせていただきます」
店の下働きに至るまで始終相手を立てて通すのも客が素人宿を使う際の作法だ。さっと上がると下男の後ろに続いて廊下を進んだ。
「こちらが東、こちらが西、裏口は雨戸の戸袋脇にございます」
万が一の逃げ道を教えているのだ。雨戸の裏の壁が薄い板張りになっていて、蹴破れば簡単に外へ飛び出せる仕掛けだ。
「お部屋はこちら。後で店の主人がご挨拶に参じます」
そう言ってエルフは廊下を戻っていった。
部屋は寝台が二つ、真ん中に火鉢と丸机に木造りの椅子が二つ、寝台の脇に木沓が一組ずつ並べてあった。火鉢の火を起こしていると、横幅の広いドワーフの下女を連れた若い男が入ってきた。
「『煮売り』のユミルと申します。店の者が碌な挨拶もできず、とんだ失礼をいたしました」
両手を膝に置いて丁寧に頭を下げた。
「いえ、急に飛び込んできたこちらも悪うございました」
グレンが同じ姿勢で頭を下げて答えた。
グレンの返事を受けてユミルが頭を上げて笑顔を見せた。
「まさかこんな別嬪さんとかわいいお嬢さんをお連れとは」
「渡世の仁義で道連れになっただけのこと。お気を使わないでおくんなさい」
後ろで控えてきた下女が鉄瓶を火鉢に掛け、茶葉の入った硝子瓶と湯呑を机に乗せ、それからアイカの足元に木沓を置いた。
「先代はどうされました?」
その様を眺めながらグレンが尋ねた。
「隠居いたしました。猫の代わりに若い妾を膝に乗せて悠々自適でございますよ」
最後に下女が封を貼った軍隊行李をグレンの前に置いた。
「先代よりお預かりしていたお荷物で御座います。どうぞ中をお改めください」
姿勢を正してユミルが言った。
「いえ、それには及びません。お有難うございます」
その言葉にやっとユミルが相好を崩した。
「食事は後程届けさせます。お酒が入用ならご面倒でしょうが店台にお言い付けください。裏に野天風呂を用意しております。いつでもお使いくださいますように」
それだけ言うと一礼して部屋を出ていってしまい、それを見届けたグレンは糸が切れたように寝台に座り込んで大きく息を吐いた。
「随分とお顔が広いのですね」
感心した顔でロラが窺うように訊いた。
「やめてくれ、組合を放り出されてなし崩しでこの道に半分足を突っ込んでるが、所詮はその筋でも親分無し子分無しの半端者だ」
薄く笑って火鉢の様子を見ながら煙草を二本出した。
「そんなことより早く嬢ちゃんの髪を乾してやんな、風邪を引かれちゃ面倒だ」
やがて、下女が早めの夕餉を膳に運んできた。
「しっかり食べないと力が出ないぞ」
親しい人のあんな姿を見たからだろう。青ざめて俯くアイカを励ますようにグレンが話しかけた。
「ゼダおばさん、どうなっちゃうの?」
「大丈夫よ。ですよね?」
アイカの髪を撫でながらロラがグレンに確かめるように話を振った。
「ああ、ただの素人宿の手入れだ。お叱りだけですぐ帰れるさ」
そう言ったもののグレンにも自信はなかった。捕方のあの人数もやり様も度を越えていた。
「それよりさっさと喰え」
不安を振り飛ばすように促して皿に手を伸ばした。
膳の中身は煮豆に甘辛く味をつけた牛蒡、大根の煮付けに三ツ葉豆腐という宿屋飯だが、煮売屋の看板を掲げているだけあって随分味は良かった。
膳を下げに来た下女に銭を握らせて煙草とマッチの買い出しを頼むと、アイカとロラに浴衣を持たせて風呂に送り出して、自分も浴衣に着替えて寝台に寝そべった。久し振りの真っ当な寝具の心地良さに思わず声が出た。瞑目してこれからについて考えを纏めようとしたが、ついつい寝入ってしまった。
しばらくして戸を叩く音で目が覚めた。
半身を起こして
「どうぞ」
と声をかけると
「失礼いたします」
ドワーフの下女が入ってきて、袱紗に包んだ煙草とマッチ、続いてこれをお嬢さんにと竹皮で包んだ饅頭を置いた。
「これはわざわざお有難うございます」
「お酒はいかがいたしましょうか?」
「いや、結構でございます。ところでつかぬ事を伺いますが」
袱紗を返しながらグレンが訊いた。
「はい」
「朝餉は四時でよろしいのでしょうか?」
「へい。その通りですが」
下女が視線を下げて口ごもった。
「まだ幼い子供さんには酷な話。朝餉の刻を遅らせてもよろしゅうございますよ」
この頃の宿はまだ暗い夜明け前に宛行いの舌が火傷しそうな飯を出し、へいまたのお越しをと叩き出すのが流儀だが、この寒さの中で濡雪で髪を濡らしたアイカに同情してくれているのだろう。
慌ててグレンは手を振った。
「いえ、その心尽くしだけで有難い。朝餉は時間通りにお願いします」
「わかりました。こちらこそいらぬ気を回して失礼いたしました」
下女が頭を下げて出て行った。
やれやれと煙草の封を切り、一本くわえようとした時に、からからと二組の木沓が床を叩く音が聞こえた。
「ただいま!」
アイカが湯気が立った真っ赤な顔で入ってきた。腹が膨れて身体も暖まって機嫌を戻したようだ。
「いいお風呂でした」
続いてロラが顔を見せた。はだけた胸元が薄く桃色に染まって思わず目を奪われて息を呑んだ。
「そうかい、そいつは良かったな」
真面目な顔を作って立ち上がった。
「さて、では俺も風呂を使ってくる」
それからアイカに顔を向けた。
「饅頭を差し入れて貰った。さっさと喰っちまいな」
野天風呂といっても裏庭に風呂がごろんと置いてあるだけだった。底が鋳物で縁が木桶の変哲もない風呂桶が竈に乗っている。底板に砂が溜まってざらつくが、それでも近所の農家に貰い湯するよりはましだ。何よりも周囲は畑ばかりで視界を遮るものが少なく見晴らしがいいのが気に入っていた。グレンがこの宿を選んだ理由もそれだ。寄せ手を遠くから察知することができる。
久し振りにゆっくり湯に浸かった余韻を楽しみながら部屋に戻るとアイカとロラが身動ぎせずに待ち構えていた。
「どうぞ」
ロラが茶を淹れた湯呑をグレンに薦めた。
「いただこう」
伸ばした手をロラの手が掴んだ。視線を向けると思い詰めた赤い瞳がグレンを見つめていた。
「これからどうするんです?」
目を横に移すと、アイカも真剣な眼でこちらを見ている。
「そうだな」
ゆっくり湯呑を取って一口啜って勿体ぶって
「逃げる」
と呟いた。
「逃げるんですか、悪党に背を向けて?」
ロラがむっとした口調で言った。
「コンラットさんが渡してくれた紙切れのところに行かないのですか?」
「敵の手が回ってる公算が高い。危険だ。それに」
ちんと湯呑を指で弾いた。
「嬢ちゃんの首飾りを外す当てが無くなった。逃げるしかないだろ。できるだけ街から離れる」
「それじゃ二百年前と同じように大天使が暴走しちゃうじゃないですか」
「どの道、入滅するときに爆発するから同じことだ」
「せめて街の人を避難させるとか」
「誰が信じる?」
「超人組合に話をすることはできないのですか?」
「無理だな」
グレンが小さく薄ら笑った。
「俺は組合から破門された身だ。誰が信じるものか」
湯呑を煽って机に置くと、アイカに顔を向けた。
「逃げ回ることにかけては任せておけ。大天使が現神するまで守り切ってやる」
「じゃあお父さんとお母さんは?」
黙って眼を伏せていたアイカがぽつりと口を開いた。
雑貨屋の夫婦は諦めろなんて俺の口から言えるか。グレンは黙って煙草を二本抜き出して、一本をロラに差し出した。
「わたし、街に戻る。大天使を止める」
アイカの言葉に、一瞬マッチを擦った手が止まった。爪が焦げる臭いに慌てて煙草に火を移すとマッチを火鉢に落とした。
「落ち着け、嬢ちゃん、十回のうち九回は爆発するんだぞ」
「でも、一回は爆発しないんでしょ、それに」
赤い三白眼がグレンを見据えた。
「嬢ちゃんじゃないよ、アイカだよ」
グレンはアイカの眼を覗き込んでいたが、ふっと視線を流してロラに向けた。
「お前さんはどうなんだ、ロラ?」
「ええ、私も同じ意見ですわ。むしろ爆発するなんて楽しいくらい」
にこりと笑って煙草をくわえると、顔を寄せてグレンがくわえた煙草から直接火を点けた。ロラの体臭に思いがけず動顛した。
ひとつ煙を吐いてグレンが観念したように苦笑いした。
「わかった。明日の朝、街に戻ろう」
顔を見合わせて笑うアイカとロラをよそに、グレンは店から受け取った行李を引き寄せると、封を切って蓋を開けた。丁子油の強い臭いが鼻についた。中には油紙に包まれた苦無が十本ほど並んでいた。一本ずつ取り出して油紙を剥がして仔細に錆を確かめる。何年も寝かしていたせいで、僅かに錆が浮かんでいる。行李を探って風呂敷に包まれた砥石を取り出した。
今では道具屋でも手に入れることが難しい上物な梨地仕上げの
鉄瓶の湯を湯呑に注ぎ、左手の指につけてさっと砥石に落とす。
アイカとロラが興味深げに見守る中、苦無の刃先を梨地合砥の上にぴたりと当てて指先に神経を集中して上半身を動かした。
「リターニャとアルベルタを置いてきたのは痛かったな」
アイカとロラの息を詰めた視線の居心地の悪さに耐えられず、思わず口を開いた。
「誰です?」
ロラが首を振って訊いた。
「刀と鉄砲だ」
どちらもゼダの家に置き去りにしてしまった。今頃は警邏の収蔵庫の中だろう。刀は無銘の一尺六寸だが旅先の古道具屋で見つけた掘出物、床尾を切り詰めた十匁筒も金をかけた特注品だった。得物を選ばないのが暗殺者の身上だがそれなりに愛着があった。
「まさか、武器に名前をつけてるのですか……?」
ロラが気味悪そうに眉を顰めた。
「え、いや、それは」
思わず赤面して研ぐ手が乱れて指を切った。
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