第4話 一月三日に少女は性に目覚める

 新年も三日目になると、色街である十一番街も人の往来が増える。日の出とともに登楼したり、私営浴場に朝湯を洒落込む粋客がそぞろに歩き回っている。勿論ただの風呂屋ではない。湯女と呼ばれる遊女が目当てだ。そうやって賑わいを取り戻しつつある街で、アイカは店の前で新しい商売を始めた。

「火い要らんかね、火い点けて進ぜましょ、火い要らんかね、この手で点けて進ぜましょ」

 アイカが路上の人々に向かって健気に声を張り上げた。店の前に拙い字で「マツチすりますいち文」と大書した看板を立て、マッチを入れた藤籠を片手に道行く人の煙草にマッチを擦って火を点ける。他愛もない商売だが鼻の頭と頬を真っ赤にした可愛らしい少女が点けてくれるというので面白がって足を止める者も少なくなかった。たまに一束買ってくれる者もいた。アイカの後ろをロラが笑顔で腕を組んでいる。用心棒の積りだが、美女と幼女の組み合わせは否応なく人の目を引いた。

 最初はアイカを店の外に出すことをゼベルもガミラも嫌がった。店の手伝いをしたいというアイカの熱意に負けて店の前でならと不承々々に認めたのだが、ついでにと店に入る客も増えて今では満更でもない顔をしている。


 やがて昼になり、四人が店の卓子で芋と野菜が入っただけの粥の軽い昼餉を終えた時に、その客は現れた。

 驚いたことに来訪者は紛れもない紳士だった。色街に足しげく通う者や色街の店で働く者とは根本的に違う空気を纏っていた。もっとも、店の四人とも紳士とは何かと訊かれても返答に窮しただろう。一つだけ言えるのは、扉の前で静かに佇むだけで、こちらの気分まで紳士的にさせる不思議な能力を持っていることだった。

 ゼベルが立ち上がって自分が座っていた椅子を勧め、ガミラが茶を淹れるために一礼してそそくさと暖簾の奥に消えた。客の男は物慣れた動きで椅子に近づくと、洗練された動作で腰を降ろした。店内を見回す目にも不思議な落ち着きが備わっていた。


 時候の挨拶をひとしきり交わしてから、来訪者はようやく用件を切り出した。

「ワットと申します」

 そう言って卓子に名刺を置いた。

「今日はそこのお嬢さんに用件があって参りました。その首飾りの件で」

 その一言で一同に緊張が走った。



 最初に反応したのはガミラだった。茶菓を並べながら浮かべていた来客用の笑顔がすっと引いて表情が強張った。次の刹那には椅子からさっとアイカを吊り上げ、両の太いかいなで小さな少女の体をしっかり抱き締めて男から間合いを切った。丸太のような腕の間でアイカがきゃっと小さく悲鳴を上げた。

「この娘をどうしようっていうんだい?」

「まあ落ち着いてください」

 ワットは出された茶を一口啜った。

「皆さんに危害を加える積りはありません」

 そう言ってにこやかに笑いかけ、それから懐にゆっくり手を当てた。

「煙草を喫ってもよろしいですか?」

 やはりこいつは紳士だ、とゼベルは内心舌を巻いた。紳士にしか言えない台詞だ。

 ゼベルが小さく頷くのを認めて慎重に懐から煙草を取り出すと、続いてマッチの頭を爪で弾いて優雅な動作で煙草に火をつけた。

「私は教会で研究僧をしていました。過去形なのは、今朝その職を辞したからです」

「それがうちのアイカとどう関係があるんだい?」

 灰皿を勧めながらゼベルが訊いた。

「話を最後まで聞いていただきたい。教会は地下に巨大な半自動祈祷所を作り、十年にわたってほとんど連日祈祷を捧げています。そしてそれを指図しているのが『塔の王』です」

「塔の主のことかね? そんなものは悪さする子供を叱りつけるための詮の無い作り話じゃないのか?」

 この街の親は、魔物が教会の塔の天辺から見張っていて、悪童を見つけて魔界に連れ込もうとしていると脅して子供を叱る。

「教会に縁のない方々の間でそう思われていることも承知しています。でも『塔の王』は実在します」

 そう言ってワットは長く煙を吐いた。


「それで、その王様は何のために祈祷を成そうとしてるんだい?」

 ガミラがアイカを抱えたまま椅子に座りながら訊いた。

「大天使を現世に呼び寄せるためです」

「大天使? あの芝居や講談に出てくるあれかい?」

「ええ」

「あれは互いに争う現世の衆生を罰するために神様が遣わしたものじゃないのか」

 ゼベルは疑わし気に訊いた。

「さに非ず。トランドに流血の禍を呼んだ大天使は人の手で呼び出されたもの。『塔の王』はそれを再現せんと暗躍しているのです」

 一同が息を呑む中、ワットは湯呑を口に運んで唇を湿らせた。

「目的はこの街の亜人の駆逐です。しかし、トランドと同じやり様では人間まで巻き添えにしてしまう。そこで用意されたのがその首飾りです」

 アイカの首許を指さした。

「その首飾りこそ大天使を制御する操神器。身に着けた者が大天使と融合することで、大天使は亜人のみを寄り分けて殺す粛清機械になるのです」

「そんな……」

 ガミラが擦れた声で悲鳴を洩らした。

「落ち着いてください。それも操神器を着けた者の心の持ち様次第。操神者が望めば誰も害さないまま大天使を静かに入滅させることも可能なのです」

 ワットは最後に一つ大きく吸うと、短くなった煙草を灰皿に押し消した。

「『塔の王』は愚かにも二百年前の種族間戦争を再現せんとしているのです。もはや教団は彼の狂った野望のための道具に成り果てた。それで私は教団を抜けてきたのです」

 そう言ってワットはアイカに向かって大きく頭を下げた。

「あと三日のうちに祈祷量は臨界に達し、大天使の現神は避けられない。その時、大天使の暴走を止め、そのまま静かに入滅させてください。この街の罪なき人々を救うために」


「わかりました。お任せください!」

 ロラが勢いよく声を上げた。

「いや、ロラさんは黙っててくれ。あんたが頼まれたわけじゃない」

 ゼベルが冷静にロラに言って、心配そうにアイカの顔を覗き込んだ。

「アイカちゃん、どうする?」

「え……?」

 事の重大さを受け止めきれないアイカは混乱していた。大天使を止める? このわたしが?

「そんな、困ります……」

「アイカが危ない目に合わない裏付けはあるのかい?」

 ガミラがワットに向かって問うた。

「記録が残っていなのので何とも」

 すまなそうにワットが答えた。

「しかし、何もしなければこの街の住人全員が危ない。こんな小さい娘さんにこんな大役を押しつける無茶は承知しています。しかしその操神器は一度着用してしまえば死なない限りもう取れない」

「だいたいどうやれば大天使とやらは止まるんだい?」

「それは簡単です。文献によれば大天使に近寄れば大天使のほうから操神者を取り込むようになっています」

「全然簡単そうに思えないけどねえ」

 ガミラが眉を顰めて言った。

「それにもう地下の祈祷炉は臨界近くまで達しています。もう教団も大天使の現神を止められない。それまでにアイカちゃんを拉致しようと躍起になって仕掛けてくる筈です」

「わたしがやらなきゃいけないの?」

 ガミラの膝の上でアイカがおずおずと口を開いた。

「大丈夫よ、アイカ。これも運命の女神の計画の一部。あなたはその首飾りを着けるように選ばれたのよ。悪党の悪巧みを止めるため」

 ロラが湯呑の茶を啜りながら平然と言った。

「気楽に言わないでおくれ、アイカはあんたみたいな超人じゃない。普通の女の子なのよ」

 ガミラが抗議の声を上げた。

「確かに超人にしては少し小柄ね。でも他に方法はないわ。ここが分かれ道よ、相棒。マッチを擦るか、擦らないか。マッチを擦らずに寒さに凍えるか、正義の炎で暖炉の薪を燃え上がらせるか。決めるのはあなたよ」

 ロラが真面目な顔でアイカを見つめた。

「わたしがやらなければ、ゼベルおじさんもガミラおばさんも死んじゃうのね?」

「ああ、この街の人全員が死ぬ」

 ワットが努めて冷静に答えた。

「わかった、やってみる、やらないとだめなんだよね……」

 自分に言い聞かせるような言葉を聞いてガミラが黙ってアイカを抱き締めた。巨大な双球の谷間に押し詰められた少女の肺から小さい呻き声を洩れた。



「それでは私はこれで。残された時間は少ないが、教団に残る同志たちと連絡を取って蜂起の準備をしなければ。何かあればお報せしましょう」

 そう言って店の扉を開いたワットの動きが止まった。店の前に三十人程の男たちが佇んでいた。全員が黒革の外套を羽織り、足許を重そうな編上靴で固めている。その中央で黒い毛皮の外套を引っ掛けた年増の美女が両手を腰に当てた。

「首飾りを取り戻しに来たら脱走僧までいるなんて、手間が省けて助かるわ」

「懲りない人たちですね」

 ロラが皆を守るように前に出た。

 ロラが紅い革長靴を鳴らしながら路上に降りて足を踏み出したその瞬間、凄まじい轟音とともに物凄い力でロラの体が持ち去られた。

 音がした左手を向いた一同は凍り付いた。一町先に停まった幌馬車の荷台の上で、筒の短い山砲の砲口がこちらを睨んでいた。


 軽砲の車輪と車軸を外し、砲身と砲架を幌付きの荷馬車に乗せて隠して運んで至近距離から平射を浴びせる。キブツ州の独立派が始めたこの砲撃術は、市街地の中にある政府や軍の施設への奇襲砲撃のみならず、独立運動に無関係な住民への無差別攻撃にまで用いられて悪名を馳せた。

 キブツの政府軍は荷車の幌と側板の使用を通達で禁じ、これを守らない荷馬車に対して無警告で容赦なく銃撃を加えて住民の流血に拍車をかけたという。


「流石に真っ赤な釣鐘女も六斤砲相手じゃひとたまりもなかったわね」

 モニクが満足そうに呟いてからアイカたちを睨みつけた。

「さあ、お嬢ちゃん、怪我しないうちにこっちに来なさい」

 それからワットに人差し指を向けた。

「そこのあんたもよ。教会内部の裏切り者の名前を洗い浚い喋って貰うわ」

 男たちが一斉に外套を跳ね上げ、短筒を抜くと撃鉄を起こして構えた。

 モニクが満面の笑みを浮かべた。

「別にその店を吹き飛ばしてから連れて行ってもいいのよ」



 百を超そうかという数の野次馬が遠巻きに見守る中、モニクは取り出した葉巻の吸い口を噛み千切ってくわえると、男たちの一人が差し出すマッチで火を点け、余裕たっぷりに吸い込んだ。端から見れば悪の秘密結社の女幹部そのままだが、ここのところ黒星続きだった彼女はとても気分がよかった。足許を空気を読まない豚が通り過ぎたのも気にならなかった。この時代はまだ、下水道もなければ街の清掃という概念もなく、人々は己れの出すごみや人糞を川に棄てるか街中に溢れる豚に喰わせて太らせていた。この頃の都市居住者にとって、豚は野良犬や野良猫よりありふれた存在だった。

「さて、早く返事を聞かせて頂戴。さっさと帰って一風呂浸かりたい気分なの」

 そう言ってすっと左手を挙げた。

 黒革の外套の男たちの短筒が一斉に雑貨屋の前で立ち尽くすアイカたち四人に照準を合わせた。


「さあ、早くしなさい!」

 モニクが駄目押しで叫んだその瞬間、地面が揺れ、先ほどの大筒の数倍の轟音と衝撃が路上を吹き荒れた。周囲で野次馬の悲鳴が上がった。

 裂けた木材が人体の部品と一緒に降り注ぎ、男たちが反射的に身を屈める中、ただ一人背筋を伸ばしたモニクが甲高い声を張り上げた。

「何? 暴発?」

 大筒を積んでいた荷車が跡形もなく吹き飛んでいた。爆風は荷馬車を中心に半径三十間程の円の中にいた路上の野次馬たちを一掃し、半裸の女の泥相撲を売り物にしている酒場を跡形もなく吹き飛ばし、道路を挟んだ古美術店の硝子張りの飾り棚をその枠組ごとへし折って中に飾ってあった時代物の白磁の大花瓶を店の主人のドワーフごと粉々にし、隣の飯屋で遅い朝食を取っていた亜人の娼婦の一団を薙ぎ倒していた。

「火薬は二発分で十分って言っておいたのに」

 モニクは歯軋りした。きっと降ろすのが面倒で定数通り十六発分の発射薬を積んでいたのだろう。


 沸き上がる悲鳴と泣き声の中、高く燃え上がる炎の中から、人影が地から生えたかようにゆらりと立ち上がった。黒く見えたのは炎を背負っているだけではなかった。酒瓶を握ったまま千切れた手首や足首が入ったままの革靴が転がる中、頭の先から足の先まで黒装束の男が、背に吊った大口径の士筒を抜き払いながらこちらに向かって歩いていた。その後ろを恐怖で気の触れた靴磨きの少年が意味不明の譫言うわごとを叫びながらふらふらと通り過ぎた。逃げ出そうとした人々の暴走に踏み潰された老人の上げる呻き声がどこまでも木霊した。爆発は人と亜人の区別なく殺傷していた。


「本当に生きてたのね」

 モニクが呻いた。三十人の男たちの短筒の筒先が動きを揃えたようにグレンに向けられた。グレンの灰色の目がゆっくり値踏みをするように男たちを見回した。次の瞬間、三十挺の燧発式短筒が一斉に火を噴いた。

 しかし、三十発の鉛弾は、現れた時と同じように唐突に影に沈んで消えたグレンの頭上を空しく通過し、僅かに一弾が音に驚いて顔を出した娼館の遣手婆の顎を吹き飛ばしただけだった。


「畜生、どこだ」

「慌てるな、全周警戒だ」

「影だ、影を見張れ」

 男たちに初めて動揺が走った。彼らは予備の銃を抜いてモニクを中心に円陣を張り、四方に視線を走らせた。モニクが両手を開き、念を込めた。手首の銀環の魔法輪が回り始めた。両手が帯電している。グレンが姿を現せば間髪入れずに電撃で動きを止め、短筒で仕留める。それで決着けりがつく筈だった。不敵な笑みを肉感的な唇に浮かべたその時、モニクは視界の隅に信じられない光景を見てわが眼を疑った。


 六斤歩兵砲の直撃で吹き飛ばしたはずの紅革の怪人が、大股でこちらに歩いている。

「嘘でしょ、どうして死んでないのよ?」

 モニクはその姿を呆然と眺めた。全く傷を負ったように見えなかった。

「今のはちょっと失礼じゃありません?」

 ロラがちょっぴり怒った口調で言った。周章あわてた数人が引き金を絞ったが、短く高い金属音とともに銃弾は全て弾かれた。そのままロラはつかつかと歩み寄ると、荒ぶる大猿のように腕を振り、その度に男たちが悲鳴を上げて吹っ飛ばされた。


「落ち着きなさい! 小娘と裏切者を確保して人質にするのよ!」

 その声に数人がアイカたちに近寄った。

「動くな、撃ち殺すぞ」

 ガミラがアイカを庇おうとするのを筒先で牽制しながら、一人がアイカに腕を伸ばそうとした。その背後にグレンが浮き上がり、無造作に筒口を向けて引き金を引いた。筒口を後頭部に押し付けていたせいで音はそれほどではなかったが、それでも間近のアイカには十分に大きかった。十匁弾を後頭部に受けた男は、顎から上の顔の部品と脳髄を路上の泥水に撒き散らしながらアイカの目の前にもんどりうって倒れて血飛沫を少女の頬に飛ばした。

 すかさずガミラがアイカを守るように抱き締め、頬の血痕を拭う頃にはグレンは既に三人目の喉を搔き斬っていた。灰色の髪の男は声一つ立てなかった。心臓だけがまだ死を信じられないとでも言いたげに拍動を続け、泡立つ音と共に血が溢れ出た。

「死ね!」

 月並みな台詞とともにモニクの掌から雷光がグレンの背に飛んだ。雷撃を浴びたグレンは跳ねるように壁に突き飛ばされ、そのまま壁の影に消えた。


 獣のような唸りを上げてモニクが周囲を見回した。紅革で全身を固めた大女が部下を次々に投げ飛ばし、殴り飛ばしている。もう立っている部下は半数を切った。その時、警邏が使う呼子の独特の高音が鳴り響いた。

「モニク特務官、警邏が来ます」

「わかってるわ」

 モニクが葉巻を吹き捨てて憎々しげにアイカを睨んだ。一瞬視線が交錯する。しかしすぐ視線を外してモニクが大声で指示を飛ばした。

「撤収するわよ。死傷者を回収して第二回収地点まで移動、急いで!」


 モニク率いる「黄金の麦」非合法工作部隊の動きは素早かった。数人が煙玉を投げ、その煙幕の中で斃れ傷ついた仲間を担ぎ、あっという間に消えた。後には破壊と死と静寂だけが残された。豚が女の脚をくわえて路地裏に消えた。

「莫迦野郎どもめ、この街の警邏どもの足腰がそんなに軽いわけねえだろ。一時間待っても来ねえよ」

 ゼベルが吐き捨てるように毒づいた。その手には警邏が使う呼子が握られていた。先ほどの呼子を吹いたのは彼だった。


 アイカは凍り付いたように呆然と突っ立っていた。目の前に転がる生首と目が合ったせいだ。

「大丈夫?」

 ロラがアイカの前に立って訊いた。

 ロラが屈み込んで頬に触れた。はっとしてアイカが初めて顔を上げてロラを見た。

「大丈夫だよ」

 そのアイカの三白眼がふいにロラの後ろに向けられて止まった。ロラが振り返ると、そこにグレンが立っていた。ロラが振り返るより早くアイカが口を開いた。

「待って」

 アイカがロラの手を取った。

「さっき助けてくれたの」

「お前たちの話は床下で聞いていた。俺たちは共通の敵を相手にしている」

 グレンが低く嗄れた声で言った。

「首飾りは渡せないけど」

 アイカがグレンを見据えて言った。

「構わない。そのかわり街を出るな。常に近くにいろ」

「一緒に行動するということですか? 一緒に戦隊を組んで?」

 ロラが楽しそうに横から口を入れた。

「誰がそんなことを言った」

 即座にグレンが否定した。

「ロラ、行こう」

 アイカがロラに小さい手を差し出した。

「そうね、いずれ警邏が来るわ。その前に行かなければ」

 ロラがその手を取って微笑んだ。


「待って! どこに行くんだい?」

 ガミラが声を上げた。

「わたしわかったの。ここにいたらみんなに迷惑がかかるもの」

 振り返ったアイカが寂しそうに微笑んだ。

「駄目だよ、行っちゃ駄目」

「ありがとう。でも行かないと」

「兎に角行かないでおくれ」

 ガミラの哀願にアイカは必死に涙を堪えた。

「アイカは普通の人間なんだよ。争いごとは超人のロラさんと黒ずくめ野郎に任せときゃいいんだ」

 ガミラが駆け寄ってアイカを抱き締めた。

「お願いだよ。毎日寒い思いはさせない。毎日暖かいご飯を食べさせてあげるから、家に入っておくれ」

 オークの女の眼から大粒の涙が滴り落ちた。思わず少女の三白眼が涙に濡れた。

「そうだ、また悪い奴らが来たらおじさんとガミラおばさんが守ってやるからよう」

 ゼベルも涙声だ。

「ごめんなさい。でもマッチを擦ることに決めたの。大天使を止めたら帰ってくるよ。その時はちゃんとお店のお手伝いするから」

 そう言ってアイカはゆっくりとガミラの腕の間から抜け、それからワットに顔を向けた。

「ワットさん、大天使は必ず止めます。任せてください」

「ああ。有難う。本当に済まない」

 ワットが紳士らしい動きで深く頭を下げた。

 もう一度、アイカはゼベルとガミラに向き直ってぺこりと頭を下げた。

「それじゃ、お父さん、お母さん、行ってきます」



 この頃の十一番街の裏通りは、表通り以上の魔窟だった。杉戸一枚に三畳ばかりの薄っぺらな建物が軒を並べ、誰彼たそがれ時ともなれば百鬼夜行絵巻もかくやという修羅場が繰り広げられる。

「ちょいとそこのお眼鏡さん」

「あら久し振り、また会ったわね、知ってるわよ」

「粋な兄さん」

 などと肌を露にした女たちが呼びかけ、手を差し出し、通行人の帽子をふんだくり、取り返そうとする手を取って中に引きずり込む。ここは白首と呼ばれる私娼の巣窟なのだ。しかしそれも日が落ちてからに限ってのこと。昼商いしなければという警邏の目こぼしで成り立っているこの私娼通りは、昼は至って閑散とし、寒風吹き込む今の季節となれば女たちは板戸を閉め切り、人通りはほとんど無い。


 その通りをグレンは背に受けた電撃の痛手も感じさせぬ様子ですたすたと足早に歩いていた。実際場慣れしたグレンにとってこの程度の負傷は問題にもならない。それより気掛かりなのが、後ろを五歩程離れて付かず離れず尾いてくる二組の靴音だ。大股で落ち着いた革長靴の規則正しい足音と、とてとてと小走りしたかと思うと草臥れたように歩みを落とし、また思い出したように走り出す落ち着かない革足袋の不規則な足音の不協和音がグレンの心を苛立たせていた。


 こちらが立ち止まると向こうも止まる。歩き出すと向こうも歩き出す。ついに我慢を抑えきれなくなったグレンは振り向いて下手糞な尾行者二人に声を低く抑えて言った。

「どこまで尾いてくる気だ?」

 アイカとロラはちょっと不思議そうに目を合わせて考えるふうだったが、やがてアイカがひそひそ声で答えた。

「だって近くにいろって言われたから」

 それからもう一度ロラを見上げ、確かめるように言った。

「だよね?」

 ロラが真面目な顔でアイカに頷いた。

「だよねー」

「だよね、じゃない」

 グレンは自分の軽忽を心の内で罵った。あれは店の近くにいろと言った積りだった。やむ無く怒り肩で一歩二人に踏み出せば、同時に二人が一歩後退って間合いを切った。

「俺は隠れ家に帰る。尾いてくるな」

「だって、私たち行くところがないし」

 アイカが小さくしかし断固たる口調で抗議の声を上げた。

「あの店にいればいいだろうが」

「無理だよ。あんな騒ぎ起こしておいて」

「そうですよ、グレンさん。あの騒ぎの責任を取ってください」

 ロラがアイカを励ますように言った。

 ぐうの音も出ない。確かに荷車に火を付けたが、まさかあんなに大量の火薬を積んでいたとはグレンも思ってなかった。

「だからって何でお前たちが尾いてくるんだ?」

「だって今夜寝る場所の当てもないんですよ。近くにいろって言ったくせに」

 さも当然のようにロラが言った。またそこに話を戻すのか? グレンは暖簾に頭突きしているような徒労感に襲われた。

「うるさいよ! 痴話喧嘩は他所でやっとくれ!」

 突然、閉め切った戸の奥から女の怒声が飛んできて三人は頭を竦めた。貴重な睡眠を邪魔されて怒っている。

「わかった、尾いてこい」

 根負けしたグレンが不承々々二人に顎をしゃくった。アイカとロラが顔を見合わせてにんまり笑いあってグレンの後を追った。



「ここだ」

 狭い路地を伝うように抜け、ようやくグレンが憮然とした顔で立ち止まった。

「わぁ」

 目の前の建物を見上げたアイカの顔がぱっと輝いた。煉瓦造りの三階建ての高級住宅だ。まるで御伽噺に出てくるお家みたい。窓全てに窓帷カーテンが掛かり、二階と三階には広い内椽ベランダがつき、小さな煙突が三つも立って薄く煙が漂っている。

「素敵なおうち」

「違う、そっちじゃない」

 グレンが首を振った。

「この家の裏だ」

「うら?」

「こっちが近道なのだ。騒ぐなよ」

 グレンが六尺余の大柄な体を斜めに傾けて鉄製の柵と柵の狭い隙間に入っていった。その後ろに続いたアイカは小さい三白眼を大きく見開いた。

 華麗なお屋敷の裏庭、春になれば美しい草花が生い茂るであろう花壇の向こう側に、巨大なごみの塊が転がっている。

 夕陽に透かして眺めれば紛う方なき木造平屋の人の棲み処だ。軒は一部傾き、窓は全て割れて薄板か筵で塞がれ、雨樋が外れて風に揺れている。こんなのおうちじゃない。おうちの形をした別の何かに違いない。雑貨屋を後にしたことをアイカは早くも後悔していた。

「これが秘密基地なんですね」

 顔面を歪めて言葉も出ないアイカをよそにロラが楽しそうに声を上げた。

「どこから入っても同じようなものだが、一応入口はこっちだ」

 グレンが先に立って建物の中に入った。とはいえ、入口には戸も無い。荒筵を重ねて掛けただけの乞食小屋だ。


 家具らしいものが殆どないせいで、中は案外広かった。十畳ほどの土間の真ん中に簡単な囲炉裏が設えられ、廃材で即席で作ったとしか思えない自在鉤が吊るされていた。その横にどこかから拾ってきたような机と椅子が一組に野戦用の組立式の寝台が一つ、部屋の隅には薄汚れた軍隊行李が二つと塗りの剥げた長持が一つぞんざいに転がっていた。


「それで、秘密の絡繰からくりはどこなんです? 隠し戸は? 仕掛け部屋は? 秘密の抜け穴は?」

 子供のように赤い瞳を輝かせたロラが壁を掌で叩いたり押したりしながら部屋の中を歩き回った。その度に薄い部屋の壁が悲鳴を上げるように軋み、撓んだ。

「莫迦、止めろ、壊れるだろうが。そんなものはない」

「えー、秘密基地なのに何もないんですか?」

 ロラが心底失望した顔で詰るようにグレンに問うた。

「当たり前だ、借家だぞ、大家さんに怒られるだろうが」

 それから慌てて長持に腰を下ろそうとしたアイカの両脇に手を入れて担ぎ上げた。

「こら、そんなところに座るんじゃない」

 そのままアイカを寝台に運んで座らせた。

「いいか、頼むからあの長持は絶対に触るな」

 身を屈めてアイカを昵と見つめて言い聞かせるように言った。

「何が入ってるの?」

「俺だって誰にも知られたくないことがあるんだ」

 そう言って囲炉裏に火を起こすと、背の鉄砲を外して机に置き、鉢金を外して頭巾を取った。前線が若干後退しかかった灰色の髪を総髪に撫で付け、太く高い鼻に頑丈そうな顎、顔立ちは狂犬のように落ち窪んだ灰色の瞳と鼻梁から顎に走る刃物疵で歪んでなれれば端正といえたかもしれない。

 仲良く並んで寝台に座るアイカとロラの視線に気づいてグレンは狼狽えた。

「あまりじろじろ見るな。恥ずかしい」

 続いて装具を外し上衣を脱いだ。身体中を走る疵が囲炉裏の火に照らされて露になった。右肩から背中にかけて皮膚が弾けて血が滲んでいる。モニクの電撃にやられた疵だ。

「痛くないの?」

 心配そうにアイカが声をかけた。

「たいしたことはない。疵は筋肉まで達していない」

 そう言いながら広口の硝子瓶を取り出すと、中の黒々とした膏薬を指に取って火傷疵に塗り込んだ。しかし背中の後ろまで手が届かない。舌打ちして膏薬を仕舞おうとしたとき、ロラが手袋を外しながら寝台から立ち上がった。

「私が塗りましょうか」

 そう言って有無を言わせず硝子瓶を取り上げると、グレンの背に回った。

「薄く塗ればいいんですよね?」

「ああ、頼む」

 仕方なく答えて塗りやすいよう背を伸ばした。

 ふいに、柔らかく冷たい掌がグレンの背中を優しく這い、グレンは思わず声を上げそうになった。

「痛かったですか?」

 ロラがグレンの耳許に顔を寄せて不安そうに訊いた。

「いや、大丈夫だ、続けてくれ」

「はい」

 嬉しそうにロラが答えた。



 モニクが苦労して塔の最上階の鍵を開けると、部屋の中は火事かと疑う程に煙っていた。茉莉花の強い匂いに混じって、枯草を焚いたようないがらっぽい臭いが鼻についた。

(うわ、この爺い、大麻喫ってる)

 下町の日雇いで暮らす労働者たちが好んで用いているので、特務神官であるモニクも仕事柄、一度ならずその臭いを嗅いだことがあった。彼らは大麻の茎から手で揉み出した樹脂を手垢とともに練って固め、煙管に詰めて喫う。


「モニク、参りました」

 衝立の陰に老人の他に気配があった。四人分、気配を隠そうともしない。全員が凄腕だ。例の聖界騎士か。思わずモニクは息を呑み込んだ。

「入りたまえ」

 衝立を抜けて進み出ると、部屋の中央に藤椅子が二つ、朱色の丸卓子を挟んで置かれていた。「塔の王」が椅子に背を預けて優雅な素振りで手招きしている。

 聖界騎士たちの嘲るような視線を感じながら、モニクは努めて落ち着いた動作で椅子に腰を降ろした。

「大麻はどうかね?」

「余り嗜みませんので」

 慎み深くモニクが答えた。

「今日、黒煙を見た」

 老人が煙管を吸ってゆっくりと煙を吐いた。

「あれは何の印かね?」

 モニクは観念したように深呼吸してから口を開いた。

「首飾りの奪還に失敗しました」

「ふむ」

「相手は超人が二人、一人は『影縫い』のグレン、もう一人はロラという名の新顔で、歩兵砲の直撃にも平気な化物です。とても特務隊の現有戦力では対処できません」

「そうか……」

 モニクの反応を楽しむように老人が微笑んだ。

「この不始末は敵の戦力分析を怠った君の不手際が生んだものだ、違うかね?」

「あんな怪物が出てくるなんで聞いてません!」

「問題とすべきは、複数の敵性超人が作戦地域まで長駆潜入することを許し、また、定期的な内通者の検索を行わなかった特務の怠慢だ」

 聖界騎士筆頭のマスタガが口を開いた。

「馬鹿な、既にここ三日間で『橋の騎士』に反抗する『医師団』の工作員五名とその内通者の修道女を捕らえ、昨日の戦闘の二時間後には脱走して敵と接触したワット研究僧を全裸に前掛けだけの女中が接客する焼肉屋で捕捉しています」

 煙で喉が嗄れるのも構わずモニクが反論した。

「でもその全員を殺してしまったじゃない」

 腰に幾つも革袋をぶら下げたテララが皮肉っぽく言った。その言葉に残り三人が小さくせせら笑った。


「部屋の空気が少々澱んできたようだ」

 老人の手が窓を指さした。

「開けるが良かろう」

 聖界騎士たちが鷹揚に動いて窓を開け放った。冬の冷風が室内に吹き込んで、大麻の煙を押し流した。モニクの口から安堵の溜息が漏れた。

「煙草でも喫って落ち着きたまえ」

 待ち兼ねたようにモニクの手が毛皮の外套の懐から葉巻を取り出し、芋飴を投げられた欠食児童のように忙しなく吸い口を噛み飛ばした。


「それで、これからどうするのかね?」

 抑揚のない口調で老人が尋ねた。

「機動僧兵の出動を要請します。突撃僧兵中隊を二個、対超人用装備で」

「それでくだんの超人どもを仕留められると?」

「敵の戦力は見極めました。今度こそ確実に」

 老人が何かを考えるように手の煙管を弄んだ。その仕草を眺めながら、一刻も早くこの席から抜けたいとモニクは心の中で念じた。

 ふいに何かを思い出したように老人が手を止めて口を開いた。

「いや、そこまでしなくても良い」

「はい?」

「そこまでして首飾りを奪い返す必要はないと言ったのだ」

「どういうことです? あれは現神する大天使を制御するための操神具なのでは?」

「なんじゃ、知っておったのか」

 老人が小さく笑った。

「なら仕方がない。確かにあれは大天使に入魂し、その力を御するための魔法の首飾りだ」

「それは承知してます」

「入魂とはすなわち人の身命を大天使と融合させること。どう御するかについては全て首輪に刻印されているのだ」

「すみません、もう一度言ってください」

 モニクが据わった目つきで老人を睨んだ。

「つまり、融合させる人間は誰でもいいのだ。あとは首輪に仕込まれた呪文の効用により、大天使は亜人のみを選んで攻撃する」

「つまり、今首飾りを着けているあの小娘でもいいと?」

「そうじゃ」

 物凄くいい笑顔で老人が答えた。この薬物中毒の老いぼれが、モニクは必死に殺意を押し殺した。


「どうしてそれを早く教えてくれなかったんです?」

 身を乗り出したモニクは卓子の端に震える手を突いてやっとのことで体を支えた。

「敵を欺くにはまず味方を欺けの例え通り、君たちが必死に首飾りを追うことで、『医師団』の工作員を摘発することができた。君の部下の死は決して無駄死ではない」

 老人が落ち着き払って言った。

「もはや首飾りの童女を追う必要はない。今後の行動は追って指示する。もう帰っていいぞ」

 それだけ言って聖界騎士たちに顔を向けた。

「寒いから窓を閉めてくれんか?」



 傷の上から包帯を巻いたグレンは、行李から引っ張り出した平服を羽織り、頭巾を被って寝台に並んで座る二人を振り向き

「食い物を買ってくる。すぐ戻るから大人しく待ってろ」

と言い捨ててさっさと出て行ってしまい、アイカとロラは薄暗い部屋に残された。やっと一息ついたアイカが小さく溜息をついた。

「疲れた?」

 ロラがアイカの頭に頬を寄せて訊いた。

「大丈夫」

 そう答えはしたがアイカはもうくたくただった。

「いいのよ、お休みなさい。ご飯になったら起こしてあげるから」

 ロラが優しくアイカの軽い体を抱き寄せた。

「大丈夫だよ」

 そう言いながらも、囲炉裏の炎を見つめるアイカの三白眼が少しずつ閉じていき、少女はすぐ眠りに落ちた。



 美味しそうな匂いに鼻先をくすぐられ、アイカが目を覚ました時はもう日も落ちて外は真っ暗だった。燭台の灯の中、椅子に座って鉤に吊った鍋を掻き混ぜるグレンの背中が見えた。ふいにグレンの影が僅かに動いた。

「起きたか? 少し待ってろ、もうすぐ飯だ」

 背中でそう言ってグレンはまた鍋を掻き混ぜる作業に戻った。

 アイカは体を起こそうとしたけど、ロラの手が巻き付いていて動けなかった。なんとか眼を上に向けると、ロラがすうすう寝息を立てていた。

「飯が出来たらまとめて起こしてやる。そのまま寝てろ」

 またグレンの声がした。

「違うの、おしっこ……」

 やれやれといった感じでグレンが腰を上げた。


 アイカがお花摘みから戻った頃には夕餉の支度はほとんど整っていた。支度といっても碗三つに木匙三つを机に並べただけだ。ロラがまだぼうっとした顔で寝台に座って囲炉裏を見つめていた。グレンが杓子を手に欠けた碗に料理を取ってアイカとロラに手渡した。閉める間際の八百屋からただ同然で贖ったのだろう、雑多な屑野菜を適当に放り込んだだけの雑煮だったが、赤味噌仕立ての丸い煮餅がアイカの眼には珍しかった。口をつけるとほんのり味が染みていた。

「おいしい!」

 思わず声が出た。

「そうかい、そいつは良かった」

 初めてグレンが笑顔を見せ、自分の椀の餅をアイカの椀に落とした。


 簡単な夕餉の後、木製の湯呑に黒茶が注がれた。アイカの黒茶には砂糖がたっぷり入れられた。

 黒茶を啜りながらグレンが口を開いた。

「話はだいたい床下で聞いた。教団が大天使が現神したらそのお嬢ちゃんを融合させて大天使を入滅させる。それまで嬢ちゃんを守り切れば俺たちの勝ちだ」

「敵がアイカを捕まえるまで現神を延期することはないのですか?」

 ロラが湯呑をふうふう吹きながら訊いた。

「恐らくそれはない。教会地下の魔法輪群はずっと回り続けている。祈祷炉はもう臨界寸前だ。回転数を落とすと祈祷炉は冷えて廃炉になってしまうから、奴らももう回転を落とすことはできない。どんなに頑張って引き延ばしても三日が限度だ」

 グレンが煙草を取り出した。

「つまり遅くとも大天使は三日以内に現神する」

「なるほど、では長くても三日間、守り切ればいいのですね。私にも一本ください」

「そういうことだ」

 嫌そうな顔でロラに煙草を勧めながらグレンが答えた。

「いっそ地下の祈祷所を破壊するのはどうです?」

「無理だな。あの教会はもともと皇帝が外遊中に何か起こった時に立て籠る場所として造られたちょっとした金城湯池だ。詰めてる衛士どもも参拝客相手の客商売で巫山戯た格好をしてるが、一皮剥けば気合いのった野戦僧兵。四十七士だって容易く陥せる代物じゃない」

 そう言ってグレンはマッチを擦った。


「それで、どうしてグレンさんは私たちを助けてくれたのです?」

 勢いよく紫煙を吐き出してロラが訊いた。

「俺はもう何年も教団内部に巣食っている『橋の騎士』という秘密結社を追っている。聞いたことはあるか?」

 アイカとロラが勢いよく顔を横に振った。

「そうだろうな」

 グレンは黒茶を一息に呷った。

「亜人を皆殺しにして帝国を種族間戦争以前の時分に戻そうと企む連中だ。目的は時代錯誤もいいところだが、奴らの行動力は本物だ。最初は政府の大目付からの依頼だった。教団に根を伸ばしている狂信的な連中の資金源である麻薬密輸の現場を探れと言われてな」

 顔馴染みの超人三人と共に商人のていで教都に潜入して現地協力者と合流し、渡世の者に化けて侠家に潜り込んだ。そこで腕を見せて荷担ぎ兼用心棒として雇われ、麻薬取引の現場に立ち会ったまでは良かったが、彼らは既に教団の隠し目付に目をつけられていた。侠家と教団の特務に囲まれて仲間三人は捕殺され、グレンのみが包囲を破って血路を開き、時には物乞いに身をやつして追っ手を撒きながら数カ月かかってようやく帰還した。

 実際に薄氷を踏む思いだったのだろう。グレンの顔が苦々しく歪んだ。

「命からがら逃げ帰ってみれば、依頼主の大目付は病を得て急死していた。どうせ教団の息のかかった者に密殺されたのだろう。部下だった与力衆も後難を怖れて知らぬ存ぜぬの一点張り、挙句に乱心者と呼ばれて放り出された」

 超人協会からは「『影縫い』のグレンはその身分及び特権を無期限に停止する」と一札が全国に回された。こうなると超人も哀れなものだ。政府からは潜在的犯罪者と見なされ、裏社会からは恨みを晴らさんと付け狙われ、枕を高くして寝ることもできない。

「それ以来、俺は一人で『橋の騎士』を追ってる。構成員を締め上げて回って、やっとここまで辿り着いた。俺は仲間の仇を討たないと死んでも死にきれないのさ」

 どうして俺はこんな奴らに身の上話をしているんだ。グレンが自嘲気味に嗤った。



「お仲間の仇討ちなんですね。お手伝いしますわ。一緒に悪党をやっつけましょう」

 両の拳を握りしめたロラがわくわく顔で言った。

「ふん、大きなお世話だ」

 煙草を踏み消しながら強がりを言ってみたものの、内心その通りだ、とグレンは思った。今まで孤立無援で戦ってきたせいで、孤独が精神を苛んでいたのかもしれない。仮にも敵を同じくするロラたちと出会ったことが、グレンを饒舌にしていた。

「喋りすぎた。もう寝ろ、寝台を使え」

 アイカはもう舟を漕ぎ始めていた。グレンは苦無の刃先で囲炉裏端の石を二つ弾き出すと、器用に襤褸布を巻いてロラに差し出した。温石に使えということだろう。

「囲炉裏の番はしてやる」

 そう言って黒装束に着替えて装具を引っ掛けた。燭台の灯を消し、毛布を一枚取ると、二尺一寸の直刀を抱えて胡坐をかいて壁に凭れかかり、いつでも抜き打ちできる姿勢で目を閉じた。光源から距離を取るのは夜討ちに備えての用心だ。囲炉裏の微かな光の中、ロラがアイカを促して二人して寝台に横たわり、毛布を被った。



 いつの間にか浅く眠っていたらしい。気配を察してグレンはゆっくりを目を開けた。囲炉裏の火はまだ保ちそうだ。その光の中、ロラがグレンを見下ろしていた。一糸纏わぬ白い肌が囲炉裏の灯で朱く染まって見えた。

「どういう積りだ?」

 こうした状況は薄々予想していたが、グレンはわざと訊いた。

 答えるかわりにロラが口角を挙げて嫣然と微笑んだ。

「寒くないのか?」

「寒いですよ、早く毛布の中に入れてください」


 殺し屋稼業というものは、本来孤独で神経が脆くなりやすい。生真面目に殺人ばかり続けていると、堅固な堤が蟻の一穴によって浸食され、ついには崩落するように、精神的な負荷が溜まって自壊する。

 故に、優秀で長続きする殺し屋は、たいてい常人とは異なる緊張の発散方法を持っている。ほとんどの者は性的倒錯者だ。恐らくこのロラという女もその手合いなのだろうとグレンは思った。

 彼は暗殺者にしては珍しく正常な神経を持っていた。自分をも第三者の目で眺めることができる冷静な男だ。それでも、仕事の前後には無性に女の肌が欲しくなることがある。彼の場合、仕事の関係者や素人女には手を出さない。専ら銭で片が付く商売女だったが、今夜ついにその独特の職業規範を破ることになりそうだった。


「嬢ちゃんはいいのか?」

「ぐっすり寝てますわ」

 ロラが跪いて毛布の中に入ってきた。グレンの手から刀を取って傍らに置くと、脚を開いてグレンの膝に乗り、装具と軍衣の前を外しにかかった。芳香がグレンの嗅覚を優しく刺激した。

「嬢ちゃんが起きるぞ」

「起きたら、その時のこと」

 グレンの手を取って汗ばんだ重い乳房に押しつけてきた。

「うふ」

 グレンの舌が女の細い首筋を這い、手が腰から背中へと滑った。押し殺した喘ぎがロラの唇から漏れた。

「声を立てると嬢ちゃんが目を覚ますぞ」

 グレンがロラの耳許で囁いた。

「じゃあ声を塞いでいてください」

 そう言ってロラの濡れそぼった唇がグレンの乾いた唇に重ねられた。

 没頭する二人はアイカが震えながら三白眼を限界まで見開いて凝視していることを知らなかった。

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