第3話 一月二日に少女は魔女と会う

 次の日の朝は抜けるような快晴だった。店の前で金の首飾りを朝日に煌めかせながらアイカは箒を使っていた。ロラはゼベルに連れられてさっさと朝餉を済ませて寝台を贖いに出かけていた。ガミラは近所の酒場に納めるための什器の梱包に忙しい。何もしなくていいと言われたけど何かお手伝いしないと気が済まなかった。

 昨夜は本当によく眠れた。あんなに気分のいい朝を迎えたのは久し振りだ。ただ一つ気になったのは、雪隠に行った時に微かに聞こえたガミラの呻き声とすすり泣く声だ。お腹が痛かったのかしら。心配だったけど怖くて様子を見に行けなかった。朝ご飯の時にガミラに訊いてみたけど、ガミラは顔を真っ赤にして黙り込むだけだった。やがてアイカの真摯な赤い瞳に耐えられずガミラが小さく答えた。

「アイカちゃんがお赤飯を焚くようになったら教えてあげようね」

「今夜から猿轡を使おう」

 ぼそりと言ったゼベルの肩をガミラが小突き、小柄なゴブリンの体が椅子から転げ落ちて床の上を正確に三回転半した。


 アイカはいつの間にか箒で落葉を掃くのが楽しくなっていた。暖かい服を着て、暖かい靴を履いて、暖かいご飯。アイカは幸福で嬉しさ絶好調だった。通行人が懸命に路を掃く少女を見て笑顔で通り過ぎた。アイカは落葉を追って裏通りに足を踏み込んだ。三白眼の赤い瞳が不乱に路上の枯葉を探す。そのせいで、裏通りの陰に寄り添うように男たちがアイカを眺めているのが眼に入らなかった。


「この子か?」

 男たちの一人がぼそりと言った。その声にはっと顔を上げたアイカはやっと六人の男たちが自分を見つめていることに気がついた。

「お嬢ちゃん、アイカちゃんだね?」

 揃いの黒革の外套を羽織った男の一人が口を開いた。言葉遣いは優しかったが口調は石のように冷たい。

「はい……」

 箒を抱き締めて小さく答えた。

「その首飾りを返してもらえるかな」

 首元の輝く金色の環を指さした。

「うん。でも取れなくなっちゃったの……」

「取ってやろう。一緒に来な」

「うん、いいけど……」

 アイカはおずおずと言った。

「殺さないでくれる?」

 男たちの間で嘲るような笑いが起こった。

「ああ、上に訊いてやるよ」

 別の男が腕を伸ばしてアイカの襟首を掴もうとした。

 やっぱり世の中ってうまく行かない、救いを求めるようにアイカの眼が泳いだ。


 ふいにアイカの三白眼がある一点を見つめて止まった。アイカの眼に気づいた男たちが背後を振り返った。そこに人影が立っていた。

 額から頭頂まで覆う鉢金、軍衣の襟元に鎖帷子が見えた。足許を軍用の編上靴で固め、布で覆った顔から鋭い目が覗いている。上から下まで黒ずくめ、きっとこの人もロラと同じへんたいさんに違いない。アイカはぼんやりとそう思った。


「なんだ貴様は」

 次の瞬間には男の脳天に黒衣の男が無言で短剣を突き刺していた。いつ間合いを詰めたのか誰にもわからなかった。

「何者だ、お前?」

 別の男が言い終わった頃にはもう二人、首筋と胸に短剣を受けて地に伏していた。黒衣の男は刺した短剣を抜かない。噴き出す返り血を浴びないための心得だ。腰に並んだ鞘から刃渡り七寸の細い三角形の短剣を両手に抜くと、無言で残る三人に歩み寄った。

 一人が懐から短筒を引き抜くと同時に撃鉄を起こして流れるように構え、そのまま引き金を引いた。素晴らしい手並みだ。轟音と閃光。外すほうが難しい距離だ。しかし、黒衣の男は沈むように消え、銃弾は空しく石壁に弾かれて火花を散らした。


「畜生、どこだ?」

 残る二人も銃を構え、三人が円陣を組んで周囲に血走った目を走らせた。その円陣の真ん中に黒衣の男がいた。舞うように回ると同時に男たちが崩れ落ちた。後頭部に短剣の柄が生えていた。柄頭の円環に結んだ黒い布が揺れている。アイカは知る由もなかったが、東の島国でかまりや乱破などと呼ばれる不正規兵が好んで使う苦無という短剣だ。


 男たちの屍体から苦無を抜いて血を拭い鞘に戻した黒衣の男が蒼白な顔で立ち尽くすアイカを見下ろした。黒衣の男を見上げるアイカの顔が今にも泣き出しそうに歪む。眼前で繰り広げられた血の惨劇に頭が真っ白で悲鳴を上げるだけの知恵が回らない。

「その首飾りを寄越せ」

 低く押し殺した声だった。

「……」

 アイカは必死で唇を動かそうとしたが声にならない。

「首飾りを寄越せ」

 黒衣の男が苛立ちを押さえてながらもう一度言って鉄籠手を嵌めた手をアイカの首筋に伸ばした。アイカは思わず眼を閉じた。その瞬間、

「お邪魔しますね」

 高音のよく通る声が響いた。



「すまないね、わざわざ運んでもらって」

 ゼベルが寝台を担いだロラに声をかけた。本当は悪いと思っていない。最初から運んでもらう積りで付き合せたのだ。運び賃が浮いたおかげで随分安く買えた。

「これくらいお安い御用ですわ」

 ロラがにこやかに答えた。道を行く人々が寝台を軽々と肩に担ぐロラに目を剥いた。

「今晩が楽しみです」

 浮き浮きしながらロラが言った。

「なあ、ロラさん」

 ゼベルが呟くように訊いた。

「何でしょう?」

「アイカちゃんは俺を父ちゃんって呼んでくれるかな?」

 ロラは首を傾げて少し考えてから口を開いた。

「私がお父さんって呼びましょうか?」

「止しとくれ、あんたみたいな年頃の娘さんに父親呼ばわりされたら一気に老け込んじまう」

「でも私はアイカの姉代わりですから、私がゼベルさんをお父さんって呼んだらきっとアイカもそう呼んでくれますよ」

「そういう問題じゃないと思うがねえ」

 大きく溜息をつこうとしたゼベルの足が止まった。思わずロラがつんのめって肩の寝台が大きく傾いだ。

「どうしました?」

「血の臭いだ」

 さっきまでの悩めるお父さんの面相はどこへ行ったのか、剣呑な顔のゼベルが低い声で言った。ロラが黙って寝台をそっと路上に置いた。直後に黒色火薬を用いる小火器特有の重く湿った発砲音が聞こえ、それを合図に弾かれるようにロラが駆け出した。



「お邪魔しますね」

 外套を脱ぎ捨てたロラが歩きながら声をかけた。

「寝台を運んでたら聞こえてきたんです。間違いなく筒の短い燧発銃の発砲音でした」

「お前は誰だ?」

 問われたロラは立ち止まり、嬉しそうに腰に両の手を当てた。革の軋む小気味良い音がした。

「『黒焦げ』ロラです。あなたは?」

「『影縫い』のグレンだ」

「かっこいい二つ名ですね。私もそんな素敵な二つ名を」

 ロラが言い終わらないうちにグレンは音もなく距離を詰め、正確に胸の中央に右手の苦無を突き立てた。心の臓を一撃、即死の筈だった。苦無の切っ先は紅革の上衣の表面で止まっていた。すかさず左手の苦無を逆手に持ち替えて今度は脇腹に叩き込んだがそれも阻まれた。手応えが硬い。まるで鉄板に刃を立てたようだ。この女は服に何か仕込んでいる。老練な暗殺者であるグレンの思考は速い。苦無を捨ててロラの腹にすっと掌を置いて力を発した。寸勁と呼ばれる内臓を破壊する暗殺技だ。今度は効果があった。僅かに二歩程後退さったロラがほんの少し驚いた顔をした。

「今のは効きましたわ」

 すかさずグレンは上段の蹴りを放った。編上靴の重い爪先がロラの顳顬こめかみを貫いた。

「これは今ひとつですね」

 ロラは顔色一つ変えずに平然と立っている。覆面から覗くグレンの目が驚愕に僅かに歪んだ。次の瞬間、その顔がロラの掌底に張られて身体が石壁に叩きつけられた。

 周囲の死体を見回してロラが言い聞かせるようにグレンに言った。

「ここの後片付けはあなたがやってくださいね」

「貴様、何者だ?」

 石壁に体を預けたグレンが呻くように問うた。

「強化兵? 合成人間? 戦闘ゴーレムか?」

「さっき『黒焦げ』ロラって言いましたよね。もう少し素敵な二つ名を募集中です」

「本人も知らないの……」

 やっと口が利けるようになったアイカがおずおずと答えた。やがて人々の集まる足音が聞こえてきた。

「畜生、その首輪は預けておく」

 そう言うとグレンの姿が影の中に落ちるように沈んでいって気配が消えた。

「影の中に身を隠すから『影縫い』って言うのね」

 ロラが感心したように呟いた。


 野次馬に混じって駆け付けたゼベルとガミラは、裏通りに折り重なって転がる血塗れの死体に呆然とした。血溜まりの中、わんわん泣きじゃくるアイカがロラにしがみついていた。二人に気づいたロラが困ったような照れたような顔で微笑んだ。



 血溜まりを避けて屈んだ老警邏が凶々しい十手の先で死体を小突いた。周囲では警邏所の小者たちが死体を戸板に乗せて運び出している。

「こりゃ酷え」

 昨日の今日でまた死体だ。しかも今度は六つ。警邏は大きく溜息を吐き出した。

 この老人、通り名を「靴屋」のギャレクという。八番街で息子夫婦が営む小さな靴屋がその名の由来だ。今は職を解かれて正規の警邏ではない。知識と経験を惜しまれて嘱託として雇われている補助警邏士だ。番屋に詰めなくていいかわりに近所で事件が起これば紺の仕着せを引っ掛けて真っ先に駆け付けなくてはならない。

 この老人は齢の割に好色な性質で、この先の長屋に若い女を囲っているのは前にも書いた。その食い扶持が馬鹿にならず、きつい役目と知りつつ実入りの良さについ引かれてこの仕事を続けている。


 それももう引き際かもしれない。新年早々二度も近所で殺しが起こるなんて老骨がぽっきり折れちまう。腰を擦りながら立ち上がると、傍で佇む女に声をかけた。

「また会ったね。お互い人殺しに縁があると見える」

 鎌をかけてみたがこの娘が下手人でないことはわかってる。この娘から人を殺めた臭いはしない。長年の稼業の勘だ。

「ええ」

 屈託ない笑顔でロラが答えた。

「殺しの始終を見てたというお嬢ちゃん、確かアイカって名だったね」

「ええ」

 答えた長身の女をゆっくり見定めた。肩に引っ掛けた麻色の外套の下は首から足先まで紅一色の革尽くしの奇妙な格好だがよく見るといい女だ。僅かに色好みの血が騒いだ。

「ちっと話を聞かせて貰えるかね?」

「今泣き疲れて家で寝てます」

「そうかい、それじゃ嬢ちゃんが起きるまであんたの話を聞かせて貰おうか」

「いいですよ」

 ロラがにこりと微笑んだ。人死にが転がる現場に似合わない笑顔だった。


「あんた、これをどう見るね?」

 並んだ戸板の上の死体に顎をしゃくった。

「六人とも地味だが身形みなりはいいし、体つきも大したもんだ。薬をやってる痕もない。とてもここいらの破落戸らしくない。まるで修練を積んだ兵隊みたいだ」

「そうなんですね」

 ロラが感心したふうに頷いた。懐から煙草とマッチを取り出し、ロラにも一本勧めた。

「おまけに全員短筒を二挺ずつに分厚い鎧通しを落とし差しだ。そんな用意のいい連中なのに、銃を抜いたのは三人だけ、撃ったのは一人だけ」

 深々と吸った煙を吐くと、意味ありげにロラを見やった。

「おかしいとは思わないかえ?」

「何がです?」

「こんな手練れの連中がいい所なく皆殺しだ。しかも全員一刺しで仕留められてる。凄腕の仕事人だってこうはいかない。相手は一体どんな化け物なんだ?」

「確か『影縫い』のグレンさんとか名乗ってました」

 ロラが細く長く煙を吹きながら答えた。ギャレクの目が丸くなった。

「あんた、知ってたのか? どうして今まで言わなかった?」

「ごめんなさい、聞かれませんでしたから」

 ロラが本当にすまなそうな顔をして頭を下げた。

 これだから最近の若い者は。心の中でギャレクは毒づいた。様々な理由をつけて若者を罵るのは老人の特権だ。


 小者たちが路上の血溜まりに砂を撒くのを眺めながらギャレクが煙を苦々しく吐き出した。

「それにしても『影縫い』のグレンか、こりゃ厄介だな」

「お爺さんはグレンて方を御存知なのですか?」

「爺さんは止しとくれな。ギャレクだよ。ギャレクって名前があるんだ」

 苦笑いしながらギャレクがロラに向き合った。

「超人だよ。政府の極秘任務ばかり請け負ってた。政府お抱えの殺し屋ってやつさ。精神的に問題があるとかで超人組合を除名になって引退したって話だ」

「お詳しいですね、ギャレクさん」

「警邏所に出回ってる回報に載ってたのを覚えてただけさ。超人の動向を掴んどくのも警邏の大事な仕事なんでね」

「凄いですね」

 相変わらずロラはにこにこ顔だ。さっきから手応えのない返事ばかりだ。この娘はもしかして頭が軽いのでは。ギャレクは密かに訝しんだ。

「雑貨屋夫婦から聞いたよ。ロラさんも超人なんだろ。仲間内の話ならあんたのほうが詳しい筈だろうに」

「それが全然知らないんです」

「あんた、もしかして超人組合に登録してないのか?」

「組合があるなんて初めて知りました」

 臆面もなく煙を吐き出しながらロラが答えた。

「参ったね、もぐりの超人さんか」

「何か問題あったでしょうか?」

「いや、別に御法度って訳じゃないけどね」

 恐らくどこかの田舎から出てきたばかりなのだろう。ギャレクは苦笑しながら短くなった煙草を踏み消した。

「さて、嬢ちゃんに話を聞きに行こうか。そろそろ嬢ちゃんにも起きて貰わないとな」



 アイカは店の中央の椅子に座っていた。正確には椅子に座ったオークの女丈夫の膝に座っていた。

 椅子に座ったギャレクが腰を屈めてアイカの視線まで頭を下げて口を開いた。

「また会ったね、アイカちゃん。災難だったねえ」

 アイカの三白眼が赤く腫れている。かわいそうに、こんな年端もいかぬ子供なのに。ギャレクは心の奥で少し同情した。

「昨日は押込、今日は追剥だ。何か心当たりはあるかい?」

 アイカがぶんぶん首を横に振った。

「だよなあ」

 思わず苦笑いが漏れ、上体を起こして溜息をついた。十そこらの少女に殺人の心当たりなんてある訳がない。ギャレクは蜜蜂の巣を抱えた熊のような格好のガミラを見上げた。

「兎に角、二日立て続けに嬢ちゃんの周りで殺人なんて尋常じゃない。余熱ほとぼりが冷めるまで当分は番所で匿ったほうがいいと思うが」

「お断りだね、アイカに番屋の牢で寝起きしろって言うのかい?」

 ガミラが膝の上のアイカに腕を回した。巨き過ぎる胸がアイカの頭上に圧し掛かり、その質量でアイカの頭が少し傾いた。

「牢にぶち込んだりしないさ。ちゃんと上客用の座敷を用意する。嬢ちゃんには寒い思いもひもじい思いもさせねえ」

「いや、絶対にいや」

 黙りこくっていたアイカが口を開いた。

「ほら、アイカもそう言ってる」

 ガミラが老警邏を睨み据えた。ギャレクは母性が嵩じたオーク女の迫力に僅かに狼狽いだ。

 店台からゼベルが声を掛けた。

「『靴屋』の旦那、家内もこう言ってるんだ。大丈夫、アイカちゃんの面倒はうちでしっかり見るよ。何たってうちの店には頼もしい用心棒もいるんだ」

 そう言ってアイカの隣に座るロラを見やった。

「ええ、お任せくださいな」

 ロラが相変わらずいい笑顔で言った。

「わかったよ、嬢ちゃん、何か思いついたら報せておくれな」

 渋々立ち上がると腕を伸ばしてアイカの頭を撫でた。

「あい」

 やっと少女が笑顔を見せた。帰りに息子夫婦の店に寄って孫の顔を拝むか。ギャレクは少し嬉しくなって思わず顔が綻んだ。

 踵を返そうとしたギャレクの足が止まった。

「そうだ、ロラさん」

「何でしょう?」

「あんたのことも報告書に書かなきゃならない。超人組合から声がかかると思うから承知しといておくれ」

「わかりました」

 ロラが丁寧に頭を下げた。

「それじゃ、邪魔したな」

 そう言って肩を揺すりながら老警邏は去っていった。


 扉が閉じるのを見計らってガミラがアイカにそっと話しかけた。

「アイカ、首飾りのことどうして言わなかったんだい?」

 アイカがガミラを見上げた。

「警邏に連中の一味がいるかもしれないからですよ」

 アイカが口を開くより先にロラが答えた。

「成る程ねえ」

 ゼベルが感じ入ったように腕を組んで頷いた。侠道と警邏に頼み事をすると後が恐いというのはこの街の住人の常識だった。それを改めてこんな少女に教えられるとは。

「流石、頭脳担当ね」

 ロラが感心したようにアイカに微笑んだ。

 言うのを忘れてたと答えられない空気だった。仕方なくアイカは黙り込んだ。

「でも怖くないのかい?」

 ガミラがもう一度尋いた。

「怖いよ。でもロラが守ってくれるから。それにゼベルおじさんもガミラおばさんもいるし、平気だよ」

 三白眼の赤い瞳に見つめられてガミラの目頭が熱くなった。

「うんうん、ちゃんとおばさんたちが守ってあげるからねえ」

 アイカを抱き締める腕に力が入り、窒息しかけたアイカが小さく暴れた。


「兎に角、その首飾りはちゃんと調べたほうがいいな」

 店台で煙草に火を付けながらゼベルがぽつりと言った。

「あんた、当てがあるのかい?」

 ガミラが頭を回してゼベルに顔を向けた。

「占い師をやってるダークエルフの婆さんが三つばかり離れた通りに住んでる。どこぞの王宮で魔術師をやってたって噂だ。随分な古狐だがまだ頭ははっきりしてる」

「信用できるのかい?」

「多分な。あの婆さんには昔の貸しがあるんだ」

「そんな話は初耳だよ」

「別に色気のある話じゃないさ。俺はお前一本だからな」

 微かにガミラが赤面したのをアイカは見逃さなかった。

「昼餉を取ったら俺が呼びに行ってくる。その間、アイカちゃんを頼むぜ」

「わかったよ」

 ガミラが小さく答えてアイカを締め上げていた腕の力をほんの少し緩めた。




 ダークエルフの占術師が店を訪れたのは、夕餉の支度を始めようかという頃だった。エルフは「不老の民」と呼ばれている。その名の如く、成年に達すると齢を取ることを忘れたかのように容姿が変わらない。この老婆も二十そこそこの娘にしか見えなかった。背は五尺五寸余り、張り出した胸と丸く曲線を描いた尻、扁桃アーモンド成の二重の目、緑の瞳、厚めの唇、赤みがかった長い金髪に新しい木綿を巻き、絹切れを継いで作った帷子の上に黒い綿の外套を羽織っている。外套の隙間から腰帯に差した小振りな槌が見えた。


 ダークエルフはすたすたと店内を進むとさっさと椅子に座って溜息をつき、それからゆっくりと一同を見回した。

「アイカちゃんというのは貴方ね。よろしく、アイカちゃん、私の名はゼダ、クのキの一族のゼダよ」

 お婆さんが来ると思っていたのにこんな綺麗なお姉さんだなんて。アイカはおずおずの頭を下げた。

「アイカです」

 満足そうに頷いてからゼダが紅服の怪人に目を向けた。

「そちらがロラさんね、よろしく、ゼダよ」

「ロラです。よろしくお願いしますね」

 臆した様子も見せずにロラが笑顔で答えた。

「さて、茶を一杯お呉れでないかしら。もう齢だから遠出は辛いの」

 ゼダが懐から金細工の煙管を取り出して刻み煙草を詰めた。


 茶菓を出すと、ガミラは夕餉の支度に奥に引っ込んでしまった。ロラもガミラを手伝うと称してその後を追い、店にはアイカとゴブリンとダークエルフの三人が残された。ゼダが皿に盛った浅漬けの胡瓜を一つ摘み上げ、口に入れてぽりぽりと咀嚼するのをアイカとゼベルが息を詰めて見ていた。やがてゼダは茶を一口喫むと満足げに溜息を洩らし、アイカの前に椅子を運んで顔を寄せた。

「お嬢ちゃん、ちょっとお顔を上げて頂戴ね」

 アイカが言われるままに素直に顎を上げた。

「これが件の首飾りね」

 細い指がアイカの首の銀の紐にぶら下がった金色の環に指を当てた。

「なるほど、これは値打ち物だ」

「首に掛けたら紐が締まって脱げなくなっちまったそうだ」

 ゼベルが口を挟んだ。

「これは着用者を守る護身具だわ。銃や剣や魔法からある程度は守ってくれる。王侯が着けてるものと一緒ね」

「それがどうして脱げなくなっちまってるんだい?」

「こいつはご丁寧に着用者が死ぬまで外せない仕掛けになってるのよ。奪われないための用心ね。着用者が天寿を全うすれば脱げるようになるわ」

「そんな……」

 アイカが小さく悲鳴を上げた。

「それじゃ一生この首飾りは外せないの?」

 泣きそうな声でゼダに訊いた。

「大丈夫よ、お嬢ちゃん、この婆が外せる手立てを探ってやろうね」

 宥めるように言って首飾りに顔を近づけた。

「ふむ、呪文が細かく彫られてるね、呪力を込めた魔法の呪文だ」

「読めるのかい?」

 ゼベルが訝し気に訊いた。

「こういうのは読むんじゃないよ。感じるのさ」

 首飾りを見る眼を細めてゼダが呟くようにいった。

「古いエルフ文字で『血ヲ以テ身命ヲ害スル能ワズ』と彫られてる」

 流血を伴うやり方では傷つけ殺すことはできぬ、という意であろう。

「それだけならまだいいのだけれど」

 ゼダが探るように呟いた。

「読めない呪文があるわ」

「年経たゼダ殿でも判じ兼ねるものなのか」

「やめてよ、私だってわからないことはあるわ」

 言いながら熱心に首飾りを眺めた。

「帰って調べてみないとね」

 そう言って身を起こすと胡瓜を一つ口に放り込んだ。その時、奥の暖簾からロラが顔を出して三人に声をかけた。

「ご飯ができましたよ」


 夕餉を終えたゼダが店を後にする頃には周りはすっかり暗くなっていた。

「自分の家が一番落ち着くのよ」

 夜道は危ないので泊っていけというゼベルの言葉に応えてゼダは言った。

「判じ物は二日のうちに解けるわ、もし何かあったら報せて頂戴」

「わかった。すまないな」

「気にしないで。それより」

 顔を寄せて低い声で言った。

「あのロラって娘さんだけどね」

「ちょっと変わってるわね」

「ああ、超人だって言っただろ」

「そうじゃないの、あの娘は得体が知れない。気をつけなさい」

 それだけ言うと振り返りもせずダークエルフは夜の街に消えていった。呆然と見送っていたゼベルは、ふいに大きく一つくさめをすると、身を竦めて店の中に入った。



「全滅? 六人とも?」

 工房で座って腕環の調整をさせていたモニクは報せを聞いて呻いた。隣で技術僧が細い針を使ってモニクの腕環に仕込まれた魔法輪を調整している。電撃の出力と方向を制御できる腕環がなければモニクの電撃は敵味方を問わず攻撃してしまうのだ。

「はい」

 報せを持ってきた男が答えた。

「あの赤尽くしの大女にやられたの?」

 あの女との交戦は避けるように言い聞かせておいた筈だ。

「いえ、『影縫い』グレンにやられました」

「あの男、生きてたのね……」

 その名を聞いてモニクは小さく眉を顰めた。


「『塔の王』には伝えたの?」

「はい」

「それで何か言っていた?」

「もう不正規兵には任せておけないと」

「ふん」

 鼻で笑った。最初からあの首飾りの真の価値を伝えられていれば、ここまで後手に回っていない。この事態を招いたのは王の過ぎた深慮のせいだ。

「教都から聖界騎士を呼んだそうです。数は四名。今後我々は彼らの支援に回ります」

「何ですって!」

「動かないで」

 思わず立ち上がろうとして、腕環を調整していた技術僧が声を上げた。モニクは忌々し気に上げかけた尻を椅子に落とした。

「何を考えてるの? 白浪の五人と正面からやり合う気なの?」

「『塔の王』のお考えが我らにわかるわけがありません」

「そういう思考停止は危険よ」



 「小隠は陵藪に隠れ大隠は朝市に隠る」の故事に倣ったかはわからないが、占術師ゼダは十一番街の外れ、十番街との境界近くの古い石造りの平屋を棲処にしていた。扉を開けると独特の臭気が鼻を突いた。饐えた紙と羊皮紙と違法な薬品と自分の体臭が入り混じった臭いだ。他人なら思わず鼻を歪めるだろうが、彼女には一番気分が落ち着く臭いだ。周囲には様々な書籍が彼女の胸の高さまで平積みされ、薬瓶が散乱し、床には脱ぎ散らされた衣服が山をなしていて、戸口から寝台までの僅かな通路以外は床板も見えない。彼女は大雑把な女だった。


 暖炉にしゃがみこんで火をつけると、外套を衣類の山に放り投げて寝台に倒れ込んだ。そのままゆっくりと眼を閉じ、三十分ほど思考を遊ばせていたが、急にかつと眼を見開いて本の壁に近寄った。学者や研究者がこの部屋を目にしたなら、まずその貴重な蔵書の質と量に目を剥き、続いてそれらがぞんざいに床に山積みされている様を見て義憤に駆られるに違いなかった。しかし生憎と粗大な性格の彼女は気にもしない。壁の前でしゃがむと、膝の高さ辺りの本に指をかけ、小さな唸り声とともに一気に抜き出した。均衡を失って倒れそうになる本の列を器用に肩と背で押さえて宥めると、お目当ての本を手に鼻唄混じりに再び寝台に戻った。



 「塔の王」ことシュカンがこの高い塔の座敷牢に囚われてから三十年、だが、教団内の上層部や有能な官僚たちは、今だに彼が教団に大きな影響力を及ぼしていることを承知している。彼らは老人がまるでユグドリク朝末期の稀代の謀略家アリファダル太上皇であるかのように日々噂し合っていた。

 しかし、そうした読みの深い連中も、老人の真の姿を知れば仰天し、己の無知を呪って喉を掻き毟って嗚咽するだろう。

 彼こそ、教団内で亜人を深く憎む人類至上主義秘密結社「橋の騎士修道会」の上級評議員にして、その実動機関「黄金の麦」の元締めなのだ。

 老人は一代の怪物だった。五十年前、細々と開かれていた亜人排斥を謳う偏狭なだけの弱小修道会「橋の騎士」にどこからともなく現れて入会するや、四畳半に机一つの修道会をあっという間に巨大な秘密結社に育て上げ、時至ればかつての同志を次々に粛清し現代の地位を築いた男。その余りの過激さ故に幽閉されたとされているがそれも定かではない。いずれは「橋の騎士修道会」の上部結社員全てが「黄金の麦」機関員で占められてしまうだろう。


 その老人は今、幽閉されている塔の頂部から漫然と夜の街を眺めている。背後に佇む四つの人影が燭台の灯りで僅かに揺れた。

「この街の人口の何割が亜人だと思う?」

 ふいに老人が口を開いた。

「わかりかねます、我らはこの街に着いたばかり故に」

 聖界騎士四人の筆頭格のマスタガという男が答えた。

 老人が小さく溜息を吐いた。

「四割だ、十年もしないうちにその数は過半を超えるだろう」

 老人は自分の胸に手を置いて大きく二度息を吸って吐いた。

「ここに居ても聞こえてくる。巷間では、亜人に土地を奪われ、職を奪われ、飢民に身を堕とした民の怨嗟の声に満ちておる」

「はあ」

 どう答えれば意に沿えるのか判じ兼ねて思わず気の抜けた返事が出た。


 老人は滔々と語り出した。

「昔、大陸の東に転生者と名乗る者が現れて、ある芋をもたらした。冷害に強く痩せた土地でも多産なことから亜人どもはその芋によって子を養った。やがて、その芋が風土病により全滅し、亜人もまた数百万が飢えて倒れた。生き残った亜人どもは糧を求め大挙して黒い森を抜け大陸の西に雪崩を打った。五百年前のことだ」

 種族間戦争の遠因として有名な話だ。しかし何故に今その話を? 一同は密かに訝しんだ。

「此度の企ては、大陸を亜人が黒森を抜けてくる以前の状態に戻す運動の嚆矢になるものだ。この地に大天使を現神させ、街の亜人を一掃する」

「それは……、トランドの悲劇の二の舞なのでは」

 四人のうち、全身を銀糸で覆ったミシヤという名の女が口を挟んだ。

 大天使バーンヒーラーが齎した災禍は、甚大な被害を両軍に及ぼし、皮肉にも大いなる和解への原動力になった。教団も従来の人間至上主義を捨て、表向きは他種族との宥和へと教義の転換を余儀なくされたのだ。

「聖女ラヴァナーラの失策は」

 老人はため息をついて更に続けた。

「現神のみに力を注ぎ、入魂じっこんを軽視したことにある」

「と言いますと?」

「教皇ディレクシウス二世の事績を仔細に調べたところ、現神した大天使に人身を融合させることにより制御は可能である。記録によれば、かの帝も自らの末娘を大天使ヤールーに捧げたという」

「なんと、御老人は人身御供を企んでおられるのか!」

 思わずマスタガが声を荒げた。彼らも敬虔な聖職者なのだ。

「神人融合により、大天使は亜人のみを正確に選別して殺す正義の利剣となる」

 「塔の王」は動じない。巨大な地下祈祷所の建設と失伝した経文の発掘に二十年、祈祷所を稼働して十年の歳月を要したのだ。

「しかも、一度祈祷を成就すれば、魔法輪に改良を施すことにより、より迅速な現神が可能になる。西大陸からの亜人駆逐は目前である」

 久し振りに喋り過ぎて声が嗄れたのか、老人は硝子の器から芥子汁入りの水を呷った。

「しかし、その肝心の操神器を奪われているではないですか」

 テララという女が言った。腰に幾つも革製の袋を提げていた。その全てに火薬が詰められていることを知らないものはこの場にいない。

「うむ、その件だがな」

「最初はお主たちにその奪還を命じようとした。しかし、気が変わった」

「と言いますと?」

「融合させる者は誰でも良いのだ。つまり、今操神器を着けているという小娘でも問題はない。既に手は打った」

「では我らの任務は?」

「油断ならぬのは白浪五人衆だ。儂が自ら檻に入ったのも言ってみれば先々代の白浪衆に追われてのこと。あ奴らがどんな妨害に出てくるやも知れぬ。大願成就まで奴らの動きを阻み、祈祷所を守り抜け」

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