第2話 一月一日に少女は家を出る
夜は明けて新年が訪れたが、陽は顔を出さなかった。いつ降り出してもおかしくない鉛色の雲がのしかかり、空をいつもより低くしていた。朝だというのに夕刻のようだった。まだ昨夜の火事の熱が残る焼け跡を黒い毛皮の外套を羽織った女が数人の男を連れて歩いていた。地面も壁も黒一色で、撒き散らされた木材や倉庫の木枠が燻って白い煙を吹いている。地面に拡がる瓦礫の中、数体の死体がまだ回収されずに転がっていた。
「赤い女?」
女が凱旋将軍のように悠然と周囲を見回しながら口を開いた。齢は三十辺り、引っ詰めた金髪、どぎつい口紅、脚を動かす度に外套の胸元で豊満な谷間が踊った。
「でかい女でした」
後ろを歩く男が答えた。禿頭に爪で引っ掻いたような墨を入れている。
「ありったけ撃ち込んだのに全部跳ね返しやがった。まるで赤く塗った教会の大鐘だ」
自分の冗談が気に入ったのか男は軽く笑っが、女の冷ややかな目に気づいてすぐ笑いを引っ込め真面目な顔を作った。
「あれは間違いなく超人です。女の餓鬼が一緒でした」
取り繕うように男が言った。
「どこに行ったのか掴んでるの?」
苛立ちを抑え込みながら女が訊いた。
「街中の情報屋に声をかけてます。目立つ女でしたからすぐ見つかりますよ」
「ねえ、いつまで連いてくるの?」
両手で黒革の外套を抱えたアイカが立ち止まって振り返った。にこにこ顔のロラが足を止めてアイカを見下ろしている。
「だって私たちは相棒だもの」
穴だらけの外套を羽織ったロラが顔いっぱいに満面の笑みを乗せて答えた。
「違うよ、私たちは相棒じゃない。昨夜会ったばかりなのに」
「二人で悪党をやっつけたじゃない」
不思議そうな顔でロラが言った。
「戦ってません。私は眺めてただけ」
「つまりあなたが頭脳担当、私が戦闘担当ってことね」
合点がいったようにロラが何度も頷いた。
何言ってるのこの人? アイカは得体の知れない恐怖に身を震わせた。
「それで作戦は?」
そう言って懐から小さな首飾りを取り出してアイカの手に握らせた。
「これは?」
「唯一焼け残っていたの。きっと悪党の親玉を捕まえる手掛かりよ」
「お願い、わたしの話を聞いて」
アイカはほとんど泣きそうだった。
「ええ、次は何をすればいい?」
ロラが瞳を輝かせた。
「お願い、わたしすごく眠いの。昨日から寝てないの」
「なるほど、睡眠不足は頭の働きを腐ったタールのように鈍らせるものね。流石は相棒、頭の使い方を知ってるわ」
感心したようにアイカの頭を優しく撫でた。
「わかったわ。ここで待ってる。作戦が決まったらここに来て」
「うん……」
肯くしかなかった。そうしなければきっとこの赤い大女は何時までも付きまとい続けるだろう。
アイカはロラを残して再び踵を返すとぺたぺた歩き出した。
振り返る度にロラはにっこり笑って手をぶんぶん振っていた。作り笑いを浮かべるのも億劫になってアイカは足早に家路に急いだ。マッチは一本も売れなかったけど、手には素敵な革の外套が三着もある。売ればきっとお金になる。父親が上機嫌で運が良ければ撲られるのは三回くらいで済むかもしれない。
新年最初の朝の奇跡だった。父親は家に一つしかない椅子の上で寝汚く眠りこけていた。家にある服を着込めるだけ着込み、足許に空の酒瓶が転がっている。アイカは足音を殺してゆっくりと階段を上がり、自分の屋根裏部屋に忍び込んだ。隙間だらけで風が音を立てて吹き込む天井裏だが、彼女が唯一心を休める場所だ。やがて目覚めた父親はアイカを撲ってまたマッチを売りに行かせるだろう。でもそれまでは毛布に
盗んだ外套を床に降ろし、ふと前掛けに押し込んだ首飾りを思い出した。そっと取り出して目の前にかざした。渡り一寸ほどの金の環が銀に輝く紐にぶら下がっている。
なんて綺麗な首飾りなんでしょう。まるで
するとなんてことでしょう。首飾りの紐がするすると縮んでいって、少女の首にぴったりくっついてしまったのです。まるで少女のために
「え?」
アイカは慌てて首飾りを外そうとした。しかし紐は二度と伸びず、どうやっても外せない。
「どうしよう……」
アイカは小さく取り乱した。確かに素敵な首飾りだけど、犬の首輪のように一生外せないとなれば話は違う。こんなものをしていたら父親は間違いなくアイカを余計に撲るだろう。
その時、一階から父親の意味不明の怒鳴り声が響いた。起きた。怒ってる。どうしよう。アイカは手近の襤褸布で首飾りの上から巻き付けて首を竦めた。子供らしい浅知恵だったが、他に誤魔化す知恵は浮かばなかった。
突然、轟音が響き、父親の声がぱたりと止まった。どうしたんだろう? アイカは恐る恐る足を延ばし、少しずつ階段を下りて行った。その足が一階の光景が目に入った途端に石のように動かなくなった。
この家に引き取られる前、孤児院の修道女は子供たちにいつも言っていた。人の生命は神様から賜ったとても大事なもの。どんな生命でも奪ってはいけませんよ。
この家に引き取られてから、アイカはあの優しい修道女の言葉は嘘だと身をもって知った。死んだほうがいい人間は確実に存在する。
その死んだほうがいい人間が床に手足を広げて仰向けに伸びていた。胸に大穴が開いている。そこから血がゆっくりと床を汚していた。
アイカは父親の死体を見ても何の感慨も浮かばなかった。実際、アイカはそれどころじゃなかった。父親の死体を見下ろしていた五つの人影がアイカに気づいて顔を向けたからだ。
一人は暖かそうな毛皮の外套に体を包んだ金髪のとても綺麗な女だった。他の四人が着ている黒革の外套に見覚えがあった。昨夜、アイカを殺そうとした男たちが着ていたのと同じもの。アイカが火事場から盗んできた三着の外套と同じもの。
アイカは階段を先程までの下りる動きをほとんど正確に逆回しに再現して階段を上がった。部屋の真ん中で途方に暮れて立ち尽くした。どうしよう。次は自分が殺される。
やがてたくさんの重い軍靴が荒々しい音を立てて階段を上がってきた。金髪の女と眼が合った。綺麗な人だ。混乱した頭でアイカはぼんやりと思った。ちょっと年増だけど。だって目尻にいくつも細い皺があるんだもん。
その時、女の後ろにいた男が女を庇うように前に立つと、拳銃の銃口を向け、躊躇いもなく至近距離から哀れな少女を撃った。
閃光に目が眩み、轟音が鼓膜を叩き、平らで薄い胸の真ん中に拳銃弾が直撃し、アイカは床に叩きつけられた。
不思議と痛みはなかった。予想していた死の深淵もお花畑も見えなかった。金髪の女がつかつかと歩み寄ると、呆然と床に転がったアイカの首の布を剥ぎ取った。それから前掛けに張りついた潰れた鉛の塊を摘まみ上げてまじまじと見つめ、ぽいと投げ捨てた。
「立たせなさい。それと、誰も入ってこないよう入り口を見張って」
男のひとりがアイカを持ち上げ、そのまま雑巾のように壁に押しつけた。ようやくアイカは自分がまだ天国の門を潜っていないことを悟った。でも何が何だかわからない。
「どうして……?」
それだけ言うのが精一杯。
「盗んだ首飾りのおかげで命拾いしたわね」
女がアイカの顔を覗き込んだ。
「盗んでません。わたしじゃありません」
アイカが小さく絞り出すように声を出した。
「じゃあ誰が盗んだの?」
「大きな女の人、赤い格好の……」
「そいつは何処にいるの?」
「そこに……」
アイカが控え目に窓を指さした。部屋の全員が揃って顔を向けた。
紅の革に身を包んだロラが窮屈そうに身を捩り、小さな破れ窓からアイカの屋根裏部屋に入ろうとしていた。
頭はすんなり入れた。頭を振りながら何とか両肩も入れた。問題はそこからだ。巨すぎる胸の双球が四角い小さな木枠を抜けられないことは誰の目にも明らかだった。それでも赤い女は諦めない。肩を揺すりながらじたばた悪戦苦闘している。異様な光景に全員が動くのを忘れた。
(やめて、壊れちゃう)
アイカは心の中で窓枠のために祈った。むうと一言、女が小さな唸り声を上げた。その時、アイカは自分の部屋のたった一つの窓が永久に失われたことを知った。
次の瞬間、何かが引き裂かれる音と底が抜けるような音がして唐突に壁が崩れ、土煙が濛々と上がり、その中から長身の女が姿を見せた。背後には闘牛でも通り抜けられそうな穴が開いていた。首に掛かった木枠を無造作に引き千切って満足げに微笑むと、ロラは見得を切るようにゆっくりと部屋を見回した。
「私の相棒から手を離しなさい」
ロラは一歩前に踏み出し、きっぱりと言った。狭い部屋だ。そのままアイカを壁に押さえる男の手首を掴み、無造作に引き剥がすように横に振った。六尺近い大男が女の子みたいな悲鳴を上げながら吹っ飛び、壁にもう一つ大穴を開けた。僅か数分でアイカのささやかな部屋は破壊されようとしていた。
三白眼を見開いて穴を見つめるアイカにロラが声をかけた。
「アイカ、その首飾り、とても似合ってるわ」
満足そうに微笑んだロラをアイカは力無く見返した。
「あんたね、うちの者と倉庫を吹っ飛ばしたのは」
毛皮の外套の女がロラを睨み据えた。
「あっちがいきなり撃ってこなければああはなりませんでした」
外套の女が両脚を肩の幅に拡げ、ゆっくりと手を提げた。両の手首に嵌めた銀色の腕輪に仕込んだ魔法輪が回り出した。
「あんたの名を聞いておくわ」
「ロラよ、そしてこっちはアイカ」
やめてよ、どうしてわたしの名前まで言っちゃうの。しかしロラはそんなアイカの無言の抗議なんて気にしない。
「覚えておきなさい。悪党を棺桶に叩き込む者の名だから。あなたの名は?」
「モニク、『雷姫』モニクよ」
「二つ名ね。悔しいけどいかしてるわ」
「あんたにも二つ名をつけてあげる。『黒焦げ』ロラっていうのはどう?」
そう言うや否や、モニクが両手を前に掲げた。魔法輪が唸りを上げた。モニクの両手から電撃が迸り、ロラに襲いかかった。
「あああ!」
幾筋もの細く激しい雷の舌に全身を嘗め回されたロラが悲鳴を上げた。モニクの顔に不敵な笑顔が浮かんだ。しかしそれも数瞬のことだった。
「ごめんなさい、変な声を上げてしまって。だってとってもびりびりしたんですもの」
全身を電光に舐め回されながら恥ずかしそうにロラが微笑んだ。
「どうして……、死なないの……?」
モニカの喰い縛った口から狼が唸るような声が漏れた。
「だって正義の味方ですもの」
それで十分だろうという風にロラが言い切った。
「くッ」
モニクが更に力を込め、雷撃が勢いを増し、部屋中が雷で満ちた。後ろに立っていた男たちが感電して壁に叩きつけられた。板床の継ぎ目に沿って火が走り出した。
「やめて、わたしの部屋が火事になっちゃう!」
アイカの哀願はあっさりと無視された。前掛けの中のマッチの黄燐が燃え始めた。
「わわわ!」
アイカは慌ててマッチを床にばら撒いて更に火の勢いを強めた。今や部屋中の可燃物が燃え始めていた。
それでもモニクは電撃を止めない。それどころか更に出力を上げ、銀環の魔法輪が高い唸り上げた。その音が耳を突き刺す高周波域に達しようとした瞬間、不意に金属が割れる鋭い音がして雷が止んだ。
灼け融けた銀環が弾け、手首に小さい火傷を作ったモニクが小さい悲鳴を上げた。炎の中でモニクが敵意と憎悪を込めた眼で平然と佇むロラを睨んだ。
「ここは危ない。もうすぐ警邏も来ます。引きましょう」
後ろで男の一人が声をかけた。
「覚えてなさい」
悔し気にロラとアイカに一瞥してモニクは手首を押さえながら階段を駆け降りていった。燃え上がる部屋の中にアイカとロラだけが残された。
「覚えていろなんて、もう少し気の利いた捨て台詞はないのかしらね」
ロラが苦笑しながら同意を求めるようにアイカに言った。でもその声はアイカに届いていなかった。
アイカは涙目で部屋の最期に立ち会っていた。この部屋は彼女の唯一の場所だった。何故か両手で盗んだ外套を抱き締め、アイカは呆然と立ち尽くしていた。
「燃えちゃう、わたしのお部屋が燃えちゃう」
口に出した途端、堰を切ったように大粒の涙が火を消す勢いでぼろぼろとこぼれ落ちた。勿論その程度では火事は消えない。それでもアイカは静かに泣き続けた。そんな少女の心を無視してロラがアイカを抱きかかえた。
「ここは危ない。安全なところに行くわよ」
そう言ってまだ無事だった壁を体当たりで突き抜け、アイカの悲鳴を細く引きながら外に飛び降りた。
保安官と消防が来たのは、家が燃え尽きて見上げるアイカの涙が涸れ果てて随分してからだった。屋根が燃え落ちた家を見聞した老保安官は、間抜けな強盗が何も盗むものがないことに腹を立てて住人を殺し、放火して逃げたと結論づけた。周囲では消防隊員がお座なりに後片付けをしている。皆、新年早々に駆り出されて明らかにうんざりしていた。それでも保安官は家族と家を失った少女に同情するだけの気配りは持ち合わせていた。
老保安官はアイカの前に屈みこんだ。右腰のホルスターに突っ込んだ拳銃のグリップが揺れた。支給された官給品ではない。私物のヘヴィバレル仕様の特注品だ。老人は、若い頃、有名な爆弾強盗団のひとりを射殺したことを、今にでも自慢にしていた。保安官はアイカに目線を合わせるとゆっくり話しかけた。
「嬢ちゃん、お名前は?」
魂が抜けたような表情の少女が眼だけ動かして保安官を見た。炭と涙の痕で顔が汚れている。警邏は制服の胸ポケットから取り出したハンカチでそっと少女の顔を拭った。
「アイカ……」
「アイカちゃん、押し入った連中を見たのかね?」
「うん、黒い服の女の人が一人と黒い服の男の人が大勢……」
「男は何人くらいいたのかい?」
「わからない……、五人くらいいたと思う」
新年早々でこんな粗末な借家に大勢で押し込むとは間抜けな連中だ。保安官は心の中で毒づいた。
「どっちに逃げたかわかるかい?」
「わからない……。家が燃えてたから……」
放火された家の住人は強盗どころではなくなる。こんな小さい子供相手に念の入ったことだ。そんな心得がいい連中がどうしてこんな家を襲ったのか増々わからなくなった。まあいい。それよりこの少女の始末が先だ。
「アイカちゃん、近くに身内はいるかね?」
アイカが力なく首を横に振った。
「そうかい、なら保安官事務所に行こうね。引き取ってくれる施設を見つけてあげよう」
アイカが三白眼を見開いてもう一度首を横に振った。
「孤児院はいや」
「でも行くところもないんだろう?」
警邏は立ち上がってアイカの手を取った。
「いや、孤児院はいや」
アイカが同じ言葉を呟いた。
「でも身寄りもいないんだろう?」
警邏は段々焦れてきていた。彼は孫ほど齢の離れた愛人を囲っていた。早くこの少女を孤児院に預けて、半裸の愛人が布団を暖めながら待つアパートに帰りたかった。
「身寄りはいます」
声のほうを振り向くと背の高い女が傍に立っていた。ぼろぼろの麻色の外套は浮浪を思わせたが、合わせから上等そうな紅い革服が覗いている。
「どちらさんかね?」
長身の女が巨大な胸を張って自信たっぷりに答えた。
「私はロラ。アイカの姉です」
シーグル教会は、アミナスト朝時代の末期、ラグリアネス帝の頃にチュヴァ河の岸辺に突き出た形で建設された要塞を原型としている。砦ではあるが、後の時代のそれに比べて随分と優雅で、河から断崖の頂上に至る石段は緩やかに曲がりくねり、所々に花を象った縁飾りが彫りつけられている。
その石段を金髪の女が登っていた。引っ掛けた黒い毛皮の外套の胸元が大きく広がり、脚を上げる動きに合わせて大きく波打った。敬虔な教会には似つかわしくない格好だが、すれ違う神官たちは皆モニクに丁寧に頭を下げる。
石段の中段に差し掛かったモニクが溜息をついて視線を上げた。河に面して二本の丸屋根付きの塔が聳えている。彼女はその南側の塔に幽閉されている人物に用があった。
石段を上りきると、胸壁とそれに連なる小振りな造りの城門が見えた。彼女の姿を認めた歩哨の衛士が何事か叫び、鎖の軋む音が轟いて真新しい鉄製の柵が重々しく持ち上がった。三年前の暴動の教訓で取りつけられた最新式の鉄柵だ。この城門は正門ではなく、もとは砦の主が水遊びのために出入りする裏門だったという。
ラグリアネス帝はこの要塞を愛妾ニヴルのために建てた。ラグリアネス帝は一般に酷く評判が悪い。帝は父を幽閉して帝位を奪い、極端な人間至上主義政策を行ってバンデラス平原の亜人諸族に戦いを挑んだ。その遠征は二十年に亘り、帝国衰退の因になったとされている。
鉄柵の向こうに小さな門扉があり、そこにも歩哨が立っていた。緑青を吹いた銅板を打ちつけた西方風の扉だ。ニヴルは西方から帝都を訪れた商人の娘だったと伝えられている。
歩哨が扉を開けると、中は庭園だった。正確には庭園の跡地だ。華美を認めない教団はここを教会に改築するにあたって、美しい庭の木を全て伐根し、優美な起伏の地形を削って整地し、ただの更地にしてしまっていた。
彼女は再び低い石段を上がって石造りの建物に入った。中は簡素な礼拝堂で、五十絡みの白髪の神官が彼女を待っていた。
「これはモニク特務神官殿」
神官がモニクに丁寧に頭を下げた。
「チャハル二級神官」
モニクが軽く会釈を返した。年長のしかも格上の相手に対して明らかに非礼だったが、二人ともさも当然のような態度だった。
「『塔の王』に用事かね?」
「ええ、報告に来たのよ」
「そうですか。あのお方は一体何を考えているのか」
そう言ってくの字に折れ曲がった金具を差し出した。
「聞かないほうがいいですよ。貴方のためです」
金具を受け取ったモニクがそのまま礼拝堂の奥の回廊へ歩いて行った。
南側の塔の基壇に行き着き、扉の脇に吊るされた小さな鐘を鳴らすと、ゆっくりと扉が開いて襤褸をまとった小柄な老人が現れた。
「これはこれはモニク様、今日はどういった御用事で?」
闇の底のような
「王様に会いに来たのよ。他に用事なんてあるわけないでしょう?」
そう言って預かった金具を見せた。
「そりゃそうだ」
老人が小さく笑ってゆっくりと体を引きずるように石の螺旋階段を上っていく。腰が萎えているのだ。「塔の王」が幽閉されてから三十年は経つが、この老人はその時から今日までずっと彼の世話役を務めていた。
やがて、第二の扉が見えて、そこで老人の足が止まった。ここから先は一人で行けということだ。
「今日の王様の機嫌はどう?」
「最近は気鬱気味に見えて日に一度の食事を摂らずに塔の下にお捨てになることがある。若い頃に麻薬や毒薬を試されたつけかもしれぬ」
「そう」
それだけ言うとモニクは扉を抜けて階段を上っていった。こんなに階段を上ってばかりで脚が太くなったらどうしてくれるの。彼女は心の中で毒づいた。
昇るにつれて丸い壁面はどんどん狭くなっていった。等間隔に石の小窓が開いていてそこから漏れる光が足元を明るく照らしている。螺旋の終点に踊り場があり、格子の嵌まった鉄扉が見えた。モニクは扉の鍵穴に金具を差し込んだ。
鍵穴はそれ自体が独立した鋳鉄の塊だ。最近の鍵と違い、この鍵は回転運動を伴わない。金属塊の内部に松葉
塔の最上部は外から見るより広々としている。毎日のように香水を撒いた大理石の床から部屋の中央の暖炉の熱で蒸された
「入りますよ」
返事も待たずにモニクはつかつかと革長靴を鳴らして進むと、衝立の陰から顔を突き出した。朱塗りの長持ちが三つ、窓際の壁際に並んでいる。窓が三方に開いて彼方に抜けるような青い空が広がり、冬の風が容赦なく吹き込んでいる。どこにも人影はなかった。
ふいに背後に気配を感じてモニクは振り向いた。そこにいつの間にか人が立っていた。「塔の王」は世にも稀な殺人術の達人だった。
「来たな、モニク」
滑らかな声が聞こえた。
「シュカン様、いい加減お戯れはお止めください」
モニクが詰るように言った。
「こうでもしないと技が鈍るからな」
老人が笑いながら答えた。八十を軽く超えているにも関わらず五十程度にしか見えない。特級神官の白い絹の神官服を身にまとい、豊かな髭が胸まで垂れている。鼻が高く、目が大きく、唇は薄い。囚われの身でいながら教会の全てを支配する男。神官長でさえこの男の顔色を窺わなければ生きていけない。
「すまんが窓を閉めてくれ。この風は老骨には厳しい」
気配を隠すために窓を開け放っていたのだろう。モニクは肩を竦めると窓際に近寄った。
円形の暖炉を挟んで二人は藤椅子に座って向き合った。
「失態だな、モニク」
老人がせせら笑った。
「私の失態じゃありません。積み荷を追っていた超人に襲撃されたんです」
「例の白浪五人衆かね?」
「違います。今まで見たことも聞いたこともない大女と小さい
「ふむ」
「あんな物何に使うんですか?」
「それは君の考えることじゃない」
「新たに六人送り込んでいます。首飾りは奪い返しますよ」
「そうすべきだな。死にたくないのなら」
老人がモニクの眼を覗き込んで薄く笑い、モニクは背筋から踵まで冷気が走るのを感じて微かに身を震わせた。
「一体どういう積りなの? あの人たちは誰なの?」
家から唯一持ち出せた外套を両手に抱えたアイカが横に並んだ赤ずくめの長身の女に責めるように言った。新年を祝う人たちでごった返す大通りを避けて二人は路地を進んでいた。
「あいつらを引っ張り出したのは私じゃない。あなたが引き寄せたのよ、アイカ。足を使った地道な捜査で悪党の居場所を突き止めたあなたの手柄」
ロラがにこやかにアイカを見下ろした。また訳のわからないことを言ってる。アイカは何を言っても無駄だと悟った。話題を変えよう。
「ねえ、その恰好……」
「ん?」
「とっても素敵ね」
年端のいかぬアイカにも正直に変ですねと言わないだけの思慮はあった。
「ありがとう」
ロラが嬉しそうに笑った。
「その首飾りも素敵よ」
手を伸ばしてアイカの首飾りの金の環を指の背で撫でた。ロラの言葉でアイカは思い出した。
「そうだよ。この首飾り、取れなくなっちゃたんだよ。どうしてこんなのをわたしに渡して着けさせたの?」
「着けたのはあなた自身よ、アイカ。これも運命の女神の大きな計画の一部なの」
そう言われたら返す言葉がなかった。
「私はただの配達係。全てを運命の女神の手に委ねてるの。考えるのは苦手だから」
ロラがしれしれと笑い声を上げた。
「それに、わたしの姉さんだなんて嘘を言って……」
「孤児院に放り込まれたら悪党を追えないじゃない。それに正義の味方には世を忍ぶ仮の姿が必要よ」
「違います。わたしは正義の味方じゃありません」
「そう。普段は普通の人の振りをして市井に潜み、いざ悪党と対決する時に正体を現すのが正義の味方ってものよ」
「それにどうして姉だなんて……」
「お母さんのほうがよかった? でも私はまだお母さんって齢じゃないし」
「いくつなの?」
「よく覚えていないの」
「どこから来たの?」
「それもよく覚えていないの?」
「どういうこと?」
「全然覚えていないのよ。夕べあなたと出会う前のことは」
「え?」
「つまり記憶がないの。私には」
威張るようにロラが笑った。言葉に詰まったアイカは、そんなロラの眼を呆然と見上げた。
「それで、作戦はどうするの?」
ひとしきり笑ってからロラがアイカの三白眼を覗き込んだ。
「何? 作戦って?」
「これから二人で悪党を追い詰めるんじゃない。作戦立案はあなたの役割よ。次は何をすればいいの?」
「取り敢えずこれをお金に替えよう」
アイカが両手に抱えた外套を揺すった。ロラが銭を持ち合わせてるとはとても思えなかった。
「ここだよ」
十一番街にある雑貨屋の前に立った。壁の破れ目を普請の廃材で塞いだ粗雑な造りだが中は広い。隣は裸の女と大型犬がレスリングする見世物を売りにしている高級紳士倶楽部だ。十一番街はいわゆる色街で、新年を祝う人もこの時間帯はまず足は向けない。この店も近所の遊郭や逢引宿、いかがわしい酒場、薬屋などを相手の小商いが主で、什器や安物のドレスに腰布、酒や肴、合法薬物まで夜の店に必要なものは大抵揃う。
「ここにいつもお酒を買いに行かされてたの」
呟くように言ってアイカが扉を潜った。黴と埃と抹香の混ざり合った臭いが鼻につく。ぎっしり並んだ雑多な商品の奥の店台で、赤い綿入れを羽織ったゴブリンが店の備品のように背を丸めて座って茶を喫んでいた。
「おや、アイカちゃん、新年おめでとう」
扉の音に顔を上げたゴブリンが好々爺の笑顔を浮かべて声をかけた。
「新年おめでとうございます、ゼベルさん」
ゴブリンが立ち上がると手を叩いて暖簾の奥に声をかけた。
「おい、アイカちゃんが来てくれたよ、何か出しとくれ」
それから振り返って、大きな鉤鼻の奥の数珠玉のような目が優しく微笑んだ。
「お年賀という程ではないが、ゆっくりしなさい。さあ、お連れさんも」
そう言って店の中央の
アイカの手の外套を取って卓子に乗せようとしたゼベルの動きが止まり、小さく眉が顰んだ。
「アイカちゃん、その足、どうしたね?」
泥に塗れた小さな素足が紫に腫れ上がって痛々しかった。
「おうちが燃えちゃったの。それでこの外套を売りに来ました」
「まさか今朝の火事騒ぎはアイカちゃんの家かい?」
「うん」
消え入りそうな声だった。椅子に座ったアイカがうなだれた。
「親父さんはどうしたね」
「死んじゃった」
ゼベルの顔が悲しげに歪んだ。
「そうかい、あの極道者もついに年貢の納め時かい」
そう言って店の奥へ取って返すと暖簾に首を突っ込んで大声を上げた。
「おい、ちょっと来ておくれ。いや、それは後でいいから、兎に角来ておくれ」
それだけ言うとさっさと戻ってきてアイカの顔を
「あんな因業奴でも親は親だ。大変だったねえ」
節くれだった指に優しく頭を撫でられて、涸れたはずのアイカの涙がまた滲んできた。
「いったいどうしたんだい?」
奥から女の声がした。直後にばさりと大きな音がして、海が割れたように暖簾の奥から巨大な影が姿を見せた。
身の丈七尺を超えようかというオークの女だ。紫に近い黒い長髪、吊り目がちの細い眼、黄の手拭を喧嘩に被り、逆三角形に盛り上がった分厚い体躯が渋茶の単衣に押し込まれていた。
「あら、アイカちゃん、どうしたのその恰好?」
薄い眉が八の字に歪み、尖った顎に乗った厚めの唇から心配そうな声が出た。
「ガミラおばさん……」
巨大なオーク女を見上げたアイカが小さく頭を下げた。
「話は後だ。アイカちゃんを熱い風呂に入れて、それから暖かい服を着せてあげとくれ。もちろん靴もだ」
「そんな、悪いです」
アイカの声を無視してゼベルが微笑んだ。
「いいんだよ。こんないい服を売りにきてくれたんだ。お年賀の余禄だと思えばいい」
「そうだよ、アイカちゃん、おばちゃんと一緒にお風呂に入ろうねえ」
オークの怪力でアイカの小さく薄い体がひょいと持ち上げられた。オークの女は母性が強い。アイカは西瓜より巨大な胸に圧しつけられ、じたばたしながら暖簾の奥に消えた。
この街も御多分に漏れず幾つか名物があり、そのうちの一つにシーグル教会の地面は他より熱い、というものがある。教会を支える奇妙な岩山の裾に深い亀裂が走り、その縁のところだけ木々が生い茂っている。周囲全てが赤茶けた地面の中で、長々と緑地帯があるのは、地面が僅かながら暖かいことを表していた。事実、街が雪で冷たく薄化粧する寒い朝でも教会の建つ敷地に積雪はほとんど見られないし、教会の桜は周囲よりも一月近く早く開花するので「教会桜」と呼ばれて有名だ。春先になると、花見を洒落込もうと夜に教会の敷地に忍び込んだ酔漢が衛士に追われて殴られるのが風物詩になっていた。
何故教会の地面だけ熱いのか。これには様々な説がある。篤信ある人たちは神の奇跡といい、岩山に封じられた悪竜が火を噴いているからと本気で信じる人もいる。今のところ最も有力なのは、帝都大学のエーアリヒ教授が数年前に帝国地理学会で発表した説だ。教授は、火山の熱に温められた地下水脈が教会の地下を通っているために地温が高いと主張した。ただし、無神論者の学者たちが庭を掘ることを教会が許さないため、この説はいまだ検証されていない。
実際のところ、教会の地下には温水脈も火竜もいない。地下深くにあるのは、巨大な岩盤層の隙間にできた三反ほどもある地下空洞に手を入れた秘密の祈祷場だ。中央の空間に護摩壇が焚かれ、そこで数十人の祈祷僧たちが唸るように一心に祈りを捧げている。壁面には大小様々な規格の魔法輪が縦横に組み合わされ、高速で回転していた。本来は数万人が必要な法力の蓄積を、魔法輪群の高速詠唱により僅か百に満たぬ祈祷僧で成し遂げようとしているのだ。この場所は教団の修法技術と現代魔法技術の偉大な融合体だった。
「調子はどう?」
滝のように流れる汗を手巾で拭いながらモニクが隣に立った祭壇差配番の管理僧に尋ねた。
「法力転換率は予定より三厘二毛ほど下がっています」
「原因は?」
「魔法輪の消耗が予想以上で交換が間に合いません」
魔法輪は回転運動の摩擦と熱による性能劣化が避けられない。このように長時間にわたって高速回転させていれば尚更だ。それを少しでも防ぐためにチュヴァ河から水を引いて冷却しているが、立ち上る蒸気のせいで中はまるで蒸し風呂だった。その中で上半身裸の技術僧たちが汗だくで魔法輪を交換している。
苛立たしく手巾の汗を絞るモニクを見兼ねた技術僧が輪奈織の手拭を差し出した。
そこまで暑いのなら毛皮の外套を脱げばいいものだが、彼女は脱がない。暑苦しい毛皮の外套の下に何も着けていないからだ。毛皮の下は全裸であるべきというのが彼女の信条だった。流石に神聖な祈祷場で脱ぐ訳にはいかない。痴女のような格好をしていても彼女は痴女ではないのだ。
「それで、あとどれくらいで臨界に達するの?」
「あと七日。祈祷僧たちの疲労も限界です。薬も許容量一杯まで投与しています。これ以上の投与は医僧局が認めないでしょう」
モニクが一心に祈祷を捧げる僧たちを見やった。彼らは各地の教会から選りすぐられた精鋭の祈祷僧たちだが限界はある。彼らの肉体的精神的な疲弊は技術僧以上だろう。並みの祈祷僧なら発狂者や死者が出てもおかしくなかった。
「出来るだけ急がせなさい。大願成就の暁にはここの機械も祈祷僧も好きなだけ休めるわ。医僧局には私が話をつけておくから」
「わかりました」
諦めたように管理僧が合掌した。
「『塔の王』はどこまで本気なのかしらね?」
ふいにモニクが呟くように言った。
「どこまで、とは?」
管理僧が怪訝な顔をした。
「本当に大天使を現神させる気なのかしら?」
現神とは神性を物理的に顕現させる技術だ。物質の体を持った物理神自体は珍しいものではない。実際に数年に一度は神が現世に物理的に現れ、観測報告が教団に届けられている。教団はそれを大天使と呼んでいる。突然中空に出現し、そして突然姿を消す。短くて数分、長ければ数時間に及ぶ。大きさも形状も様々だがどれも言語に絶する美しさだという。
教団は出現する時期や場所に規則性を見出そうと躍起になっているが、まだ成果は得られていない。しかし、こちらから呼び出してその奇跡の力を振るわせることはできる。
記録によれば現神が成就したのは二度。一度目は四百年前、教皇ディレクシウス二世は大天使ヤールーを現神させ、教都に押し寄せる亜人の軍勢を焼き払った。
二度目は二百年前の種族間戦争のさ中だ。要衝トランドの防衛戦の際に、聖女ラヴァナーラに導かれ、聖俗数万の宗徒が野戦祈祷場で半年の祈念の末に大天使バーンヒーラーを現神させた。しかし、現神したバーンヒーラーは暴走し、トランドを包囲していた盟約軍だけでなく神聖連合軍まで無差別に攻撃を加えた。両軍合わせて四十万を超える死者が横たわったと伝えられている。トランドが焼け焦げた巨大な円形の窪地になったのはこの災禍のせいだ。以来、教団は現神技術を禁忌として長く封印してきた。「塔の王」はその封印を解こうとしている。
「現神する気じゃなければこんな大掛かりなことはしませんよ。この場所を作って動かすのに千両箱で八百五十積み上げてるんですよ」
今更何を言っているのか。管理僧が呆れ顔で答えた。
「でも、トランドの悲劇の再来になるんじゃないの?」
しきりに汗を拭きながらモニクが言った。
「理論上、操神は可能です」
若い頃は技術僧だったという管理僧は嬉しそうな顔をした。
「わざわざカルフィールのエルフの職人に制御具を外注しました。刻印技術にかけてはエルフが一番ですからね」
手拭を使っていたモニクの手が止まった。
「それってもしかして首飾りみたいな形の?」
「なんだ、ご存知だったんですか」
少し残念そうに管理僧が答えた。
「ただの護身用の魔装具じゃないの?」
「操神者の身を守るためにそういう機能も備えています」
「じゃああの餓鬼の首にぶら下がってたのは……」
暑気と高い湿度のせいではない嫌な脂汗がモニクの顔面を流れて胸の谷間に溜まった。
アイカが攫われるように暖簾の奥に消えるのを見届けたゴブリンがにこにこ顔で座っている長身の紅い女に向き直った。打って変わって真面目な表情だ。
「それで、あんたは一体何者なんだい」
「ロラといいます。アイカの相棒で悪党の敵です。よろしく、ゼベルさん」
「その外套の下はどうなってるんだね?」
「ああ、これですか」
立ち上がって外套を脱いだ。首元から爪先まで紅革で締めつけられた肢体が露になった。
「こりゃ凄い。超人かね?」
見上げるゼベルの顔が途端に輝き、目尻が下がった。
「ええ」
「握手してもいいかな?」
立ち上がって手を伸ばした。
「喜んで」
ゼベルの手を両手で優しく握ってロラが微笑んだ。
「新年早々、こんな店に超人が来てくれるなんて縁起がいい。ちょっと待っててくれるかね。茶菓を出してくるから」
「そんな、お構いなく」
「駄目だよ。何も出さないなんてうちの店の名折れだ」
そう言って卓子の外套の束を両手で抱えて商品棚に押し込んだ。
ゼベルはすぐ戻ってきた。一口大に切り揃えた羊羹を盛った皿を置き、ロラの前に置いた湯呑に急須の茶を注いだ。
「どうぞ。口に合えばいいのだけどね」
ロラは軽く頭を下げると楊枝を取って羊羹を一つ口に運んだ。
「まあ、美味しい」
ロラがぱっと顔を輝かせた。
「随分古本屋に通って本を読んだりしたんだ」
「羊羹の?」
「いや、超人の話だ。こんなに間近で会えるなんて感激だ」
ゼベルが子供のように目を輝かせた。
「子供の頃から憧れててね。超人の出る芝居を見に行ったり、超人
「それは光栄ですわ」
茶を一口啜ってロラが微笑んだ。
「銃弾とか平気なのかね?」
「ほぼ不死身ですわ」
「空は飛べる?」
「残念ながら」
「力はどれくらい?」
「さあ、計ったことがないので」
「防御系の超人なのかね」
「どうなんでしょう」
恥ずかしそうにロラが笑った。
「その服も魔法の服なのかね? 面甲も」
「さあ、どうでしょう」
両手を面甲に添えてゆっくり外すとゼベルに差し出した。受け取ったゼベルは息を詰めてためつすがめつ眺めならが呟いた。
「上物だね。鋼の板に革を張ってるのか。これは何の革かな?」
「さあ?」
「その服の革と同じものかね?」
「どうでしょう」
そう言いながら胸元の革帯を緩めて首元を広げた。蒸せた薔薇の香りとともに透き通るような白い胸元が覗いた。ゼベルはその肌の白さに目を奪われ、思わず身を乗り出した。
「あんた、何やってるの?」
いつの間にか暖簾の前に仏頂面のガミラが立っていた。
「あ、いや、ロラさんが服を見せてくれるというもんでな」
口ごもりながら椅子に座りなおしたゼベルは、ガミラの太く引き締まった筋肉質の脚に隠れるように立っていたアイカに声をかけた。
「おや、アイカちゃん、これはお似合いだ」
ガミラとお揃いの黄布を目深に喧嘩被りにし、黄色のセーターの上に軍用毛布を仕立て直した麻色のフード付きのケープ、裾を紐で絞った深緑色の短袴、足許は毛糸の靴下に革の地下足袋。
「ごめんね、もっと可愛らしくしてあげたかったけど、うちの店は子供向けの服は少ないから」
ガミラがすまなさそうにアイカの頭を撫でた。恥ずかしそうにアイカがぺこりと頭を下げた。
「ゼベルさん、ガミラさん、こんな素敵な服をありがとうございます」
「いいんだよ、こちらも好きでやってるだけだから。なあ」
ゼベルが同意を求めるようにガミルに顔を向けた。ガミルがにっこり笑って身を屈めるとアイカの頬を撫でた。
「さあ、ご飯を作ってくるからちょっと待っててね」
「女房は料理には少しうるさいんだよ。あいつの親父も爺さんも皇宮の料理人だったんだ」
ゼベルが得意げに説明した。もっとも皇帝の台所は常時数百人の料理人が働いていて上は厨房長から下は料理屑の清掃人まで幾つも世襲の役職がある。ガミラの父祖がどの位の地位にいたのかゼベルも知らなかった。
やがて、昼餉が出来上がった。店中にいい匂いが漂った。羊の肉団子に茄子の揚げ煮、肉と野菜の煮汁、そして干した果物と香料に僅かに
「わあ」
アイカは軍隊のように整然と並ぶ皿に目を丸くした。
「これ全部食べていいの?」
「皇室料理とはいかないけど、奮発したからたくさん食べとくれ」
「いただきます!」
合掌もそこそこに匙を取った。一生懸命に匙を動かして料理を貪るアイカを目を細めて眺めながらガミラが宣言した。
「あんた、アイカちゃんをうちの子にするからね」
文句はあるかい? そんな口振りだった。
「構わねえよ。俺も常日頃から子がいねえことを心苦しく思ってたんだ」
昨今は異種族婚も珍しくなくなっていたが、種族が違えば子は成せない。それを覚悟で夫婦になったとはいえ、母子の情が深いオークの女には辛いものだ。じゃあなんであんな小柄なゴブリンに嫁入りしたのと姉妹に問われたガミラは顔を赤らめてこう答えている。
「指と舌が天才」
「話はだいたいアイカちゃんから聞いたよ」
食後の黒茶を啜りながらガミラが口を開いた。腹がくちくなったアイカは奥の部屋の長椅子ですやすや寝息を立てている。
「厄介な面倒ごとに巻き込まれてるみたいだねえ」
「やはりそうかい」
懐から取り出した煙草に火をつけながらゼベルが言った。
「アイカちゃんが持ってきた外套だがね」
棚に押し込んだ黒革の外套に目をやった。
「軍隊仕様の高級品だ。それも三着、御丁寧に硝煙の臭いつきだ。こんな曰く付きは表の売り物にならないから裏の倉庫に回すがね」
ガミラがロラに向き直った。
「アイカちゃんはうちで引き取るとして、あんたはどうするね?」
「悪党を追い詰めるだけですわ」
にこにこ笑顔を浮かべたロラが口を開いた。
「そうじゃないよ。
質問の意味が理解できなかったのか、ロラが笑顔のまま顔を傾げた。
「あんたの食事の立居振舞いを見たけど、理にかなった見事なものだった。どこかの高家の出と見たけど違うかい?」
「さあ、よく覚えてないんです」
ロラが笑顔で首を振った。
「ねえ、あんた、超人さんなんだろ」
ガミラが探るような顔をした。
「超人には縄張りってのがあるんだろう? 街とか村とか。この街は白浪五人衆の縄張りだ」
「正義を成すのに縄張りなんて関係ありませんわ」
ロラの答えにゼベルが笑い出した。
「こりゃいい。確かにロラさんの言う通りだ」
「駆け出しの超人さんなんだね」
ガミラが煙草をくわえ、ロラにも勧めながら言った。
「何か特技とかあるのかい?」
「悪党を殴ることは大得意ですわ」
「それじゃうちに置いとけないよ。うちも人手不足だけど穀潰しを居候させる余裕はないんだ」
残念そうにガミラが煙草をくゆらせた。
「ええ、構いませんわ」
ロラがにっこり笑った。
突然、木が軋む音がして店の扉が唐突に開き、無言で若い男が二人入ってきた。どこに出しても恥ずかしくない破落戸がにやけた顔で立っていた。ゼベルとガミラの顔つきが急に暗くなった。
「自治会費の集金に来た」
額に墨を入れた銀髪の男はそれだけ言うとずかずかと奥に進んで店台の前に立った。
自治会と称してみかじめ料を集めるのはこの時代の地回りの侠家の常套手段だ。それでも新年早々の気の緩んだ隙を狙って金を集めるのは悪辣だ。
「年末に払ったばかりだろ」
「文句あるのか、緑肌野郎。一体誰のお陰で安心してここで商売やれてると思ってるんだ。今月は何かと物入りなんだよ」
普段から言い慣れてるのだろう。男の口から立て板に水の勢いで滑らかに脅し文句が流れ出た。
大きく溜息をついたゼベルが奥に入って二朱銀を二枚出して店台に置いた。それを取ろうとした銀髪の男の手首を、くわえ煙草のロラが掴んだ。
「姉ちゃん、何の真似だ?」
力任せに振り解こうとしたが手が離れない。怪力だった。
「もう閉店です。今日はお引き取り頂けます?」
紫煙を巻いてロラがにこやかに言い放った。
「結構いい女じゃないか。うちの店で働かないか?」
精一杯の虚勢を張ったが強張る顔では効果は薄かった。
「お断りします」
言うやいなや硬いものが砕け折れる嫌な音がした。手首を握り潰された銀髪の男が長くか細い悲鳴を上げて崩れ折れた。
直後にもう一人の男が懐から抜いた匕首を刃を上に両手で構えてロラの横腹に体ごと突っ込んだ。体重の乗った上々の体当たりだった。一尺余の刃が根元まで突き刺さったとゼベルは思わず眉を顰めた。硬い金属音がして鮮血が飛んで床を汚した。
弱々しい泣き声を漏らして身を屈めたのは男のほうだった。切断された親指が二本ぽとりと床に跳ね、後を追うように匕首が落ちて音をたてた。ロラのほうは全くの無傷だ。刃先がロラの腹筋に刺さらなかったせいで、体当たりの勢いで指が滑ったのだ。
「鍔の無い刃物の刺突は危ないわね」
他人事のようにロラが言いながら、落ちた指を丁寧に拾い上げて男の上着のポケットに押し込んだ。
「すぐ医者に行けば繋がるかもしれませんよ」
それから二人の襟首を掴み上げ、紅革の長靴を鳴らして扉まで引き摺ると、犬に餌でもやるように二人を店の外に投げ捨てた。
「戻ってちゃんと親分さんに伝えてください。この店の用心棒は私になったと。ご近所も、この街もです」
よろよろと歩き去る二人の背に声を投げて店に戻ったロラをゼベルとガミラの驚く顔が迎えた。
「ちょっと
ロラが指先を口に当てて照れるように微笑んだ。
「驚いた。あんた、本当に超人だったんだね」
呆れるような声でガミラが言った。
「ずっとこの店にいてくれ。あんたはうちの店の用心棒だ。三食寝床付きで月二朱でどうだい?」
ゼベルの言葉にロラが嬉しそうに微笑んで頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いしますね、ゼベルさん、ガミラさん。でもお手当ては要りませんわ」
「そんな、超人が店にいてくれるなんてそれだけで商売繁盛間違い無しだ。もっと付けてもいいくらいだ」
「そうだよ、ロラさん。なんならもっと上げてもいいんだよ」
亭主に和してガミラが身を乗り出した。ロラがすいと手を上げて二人を制した。
「お手当ては結構です。お金は中毒になりますから」
ロラの笑顔に思わず夫婦は互いに顔を見合わせた。
夕餉は牛鍋だった。午睡から揺り起こされて眠気まなこのアイカの眼の前であかあかと燃える炭火の上に鉄鍋が架けられ、襷掛けしたガミラが食材を運んできて慣れた手つきで調理を始めた。
鉄鍋に味噌が煮立ち、長葱が弾け、牛肉が焦げる香ばしい匂いが漂ってきた。その様をアイカは鍋に穴が開くほど見つめていた。
「すごい」
少女には初めて見る料理だ。
「大陸の東の島国の料理よ」
ガミラはそう言って皆の小皿に肉と長葱を取り分けた。アイカは小皿の手前に置かれた二本の細い棒に当惑した。
「箸っていうのよ。その国ではこれを使ってご飯を食べるの」
箸を使ってまだ赤身の残っている牛肉を摘まんで口に入れた。
「お肉はやっぱり半生がいいわねえ」
左手で頬を押さえてうっとりした声でガミラが呟いた。
ロラが器用に箸を使う横で、アイカもガミラの手つきを見よう見真似で箸を使おうとしたが、すぐ諦めて逆手で握って食べ始めた。
「今日は新年初日だから特別だ。こんな御馳走は滅多にないから一杯食べるんだよ」
ガミラがにこにこしながらアイカの頭を撫でた。
「はい!」
物心ついた時からこんなに食事に恵まれた経験がなかったアイカは本当に嬉しそうだった。
四人で肉や長葱を口に運んでいる間、ゼベルはしょっちゅう冗談を言ってアイカを笑わせた。
「それで、アイカちゃんの寝床はどこにしよう?」
鉄鍋の肉があらかた無くなったころ、さりげなくガミラが言った。
「布団部屋があっただろ」
葱を掬いながらゼベルが答えた。
「寝台が無いわよ」
「明日、家具屋に行って買ってこよう。今夜は私らの寝室で寝て貰う。私ら夫婦は布団部屋で寝よう」
「そんな! 悪いです!」
アイカが思わず声を上げた。
「わたしは布団部屋でいいです! 寝台ってあまり好きじゃないし」
「私も布団部屋で平気ですよ」
誰も聞いていないのにロラも声を上げた。
アイカの真剣な眼を昵と見つめていたガミラが小さく肩を竦めた。
「そうかい、すまないねえ」
「明日、素敵な寝台を買ってきてあげるからね」
ゼベルが味噌で汚れたアイカの唇を拭きながら微笑んだ。
「わあ」
アイカは布団部屋を見て小さく歓声を上げた。暖かそうな布団がいっぱい。見ているだけで暖かくなってきた。寝間着のまま布団の山に飛び込んで頬擦りしてうずうずと笑った。
「気に入ってもらえたようだね」
ガミラが安心したように言った。
「ああ、よかったよ」
思わずゼベルが微笑んだ。
「ロラさんもここで寝てくれるかい?」
「ええ」
言いながらロラが長靴を脱ぎ捨て、体を縛る紅革の帯を外して肢体を締め上げる革服を脱ぎ始めた。
「こりゃ眼福だ」
ゼベルが思わず嘆声を漏らした。
「さあ、私たちもさっさと寝るわよ」
ロラから目を離せないゼベルの襟首を引っ張りながらガミラが言った。
「それじゃお寝み、アイカちゃん。いい夢見るんだよ」
「お寝みなさい」
アイカが慌てて立ち上がってぺこりと頭を下げた。
ゼベルとガミラが立ち去ったのを待っていたかのように、アイカは満面の笑みを浮かべてもう一度布団の山に挑みかかった。
「うふ」
しばらくじたばた布団の海を泳いでいたが、ふいに視線を感じて後ろを向いた。そこに艶然とアイカを見下ろす全裸のロラが佇んでいた。白磁のような肌、大きく豊かに実った乳房、優美で力強い曲線を描いてくびれた腰、引き締まった尻、しなやかに伸びた四肢。風呂場で見たガミラおばさんの高密度の筋繊維で練り上げられた裸身に比べてなんと柔らかな曲線でできていることか。紅い甲羅を剥いたロラの凄絶な美しさに思わず声を呑んだ。
「えと……」
言うべき言葉が見つからない。
「さあ、寝ましょう」
ロラは微笑みながら身を屈めて有無を言わさずアイカを抱き止めると、そのまま布団の山に潜り込んだ。
「ちょっと……」
抜け出そうともがいてみたが無駄だった。まさにアイカはぬいぐるみの気分を味わっていた。ロラの手足はどこまでも
「おっ母さん……」
母親の顔も名前も知らない。でも思わず声が出てロラの身体に抱きついていた。
「お姉さんよ」
ロラが優しくしかし決然たる口調で訂正した。
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