マッチ売りの少女血風録

hot-needle

第1話 大晦日に少女は炎と踊る

 今年最後の夜はひどく寒い夜だった。雪が容赦なく降り積もる中、一人の哀れな少女が道をとぼとぼと歩いていた。

燐寸マッチ買わんかね、燐寸擦らんかね」

 道行く人々に声を掛ける少女は素足だった。荷車が走ってきたからでも、浮浪の子が盗んだ訳でもない。人の同情を引くために彼女の父親が裸足で送り出したのだ。

 少女は古く黄ばんだ前掛けの中にたくさんのマッチを入れ、手に一束持っていた。日がな一日、誰も少女から買わなかった。びた一文だって少女に渡す者はいなかった。背広姿のオークが気の毒そうに一瞥をくれて少女を振りほどくように足早に歩き去った。


 寒さと空腹に震えながら少女は歩き回っていた。立ち止まったらもう二度と凍えた足が動かない気がしていた。

 ひらひらと無慈悲に舞い降りる雪が少女の髪を覆った。それを振り払う気力さえ残っていなかった。どの窓からも蝋燭の輝きが広がり、肉を焼く香ばしい匂いがした。今日は大晦日だ。少女はそのことばかり考えていた。


 やがて少女はよろよろと裏通りに入り、風と雪を避けられる家と家の隙間を見つけ、力尽きて座り込んだ。小さな足を体にぴったりとくっつけたが、寒さは容赦なく少女の体を支配していった。家に帰ることはできなかった。ただの一本も売れずに帰れば飲んだくれの父親にひどく撲られてしまうのだ。その父親だって実の親じゃない。お上から支給される年に二分のお助け金目当てに孤児院から引き取られただけだ。あと五年もしてお助け金の支給が止められたら少女を遊郭に売り飛ばすことを父親は隠そうともしなかった。


 少女はすっかりかじかんだ手で苦労しながらマッチを一本取り出した。壁に擦り付けて指を暖めれればどれほど幸せになれるだろう。

 少女は躊躇なく売り物のマッチで壁を擦った。黄燐独特の臭いとともに暖かく輝く炎が少女を小さく照らした。素晴らしい光。手をかざすとまるで蝋燭の灯だった。少女は大きな鉄の暖炉の前に座っているようだった。暖炉に掛けた串に通した肉の焼ける匂いまで感じられた。炎は少女に祝福を与えるように踊り、少女は足を伸ばして温まろうとした。しかし、すぐに小さい炎は消え、暖炉も消え失せた。残ったのは手の中の燃え尽きたマッチだけだった。


 少女は舌打ちをひとつくれて前掛けに手を入れてもう一本取り出そうとした。幻の快楽のために全てのマッチを擦ってしまう積りだった。いざとなれば街ひとつ燃やしたって構わない。その時、出し抜けの怒号に少女の決意が凍りついた。

「誰だ! そこにいるのは!」



 今年最後の夜がゆっくりと流れていた。しかし、神様のはらわたさえ凍らせる冬はまだ始まったばかりだ。既に冬は九十七の凍死者を路上に転がし、百一の焼死体を瓦礫に埋めていた。寒さがつけた火だ。薪も買えなくなった連中は、窓も扉もない借家に火をつける。この街の冬はいつも凍死より焼死のほうが幾らか多い。

 冬は女たちに化粧する気力すら失わせる。真っ赤になった耳と鼻と頬、瞬時に凍りつく洟水。例え風下に歩いていても口を開けずに凍った空気は吸い込めない。人々はせめて新年を温かい家で迎えようと身を屈めて黙々と足を動かしていた。


 そんな大通りから幾つか街区を離れると、そこはもう人影どころか野良犬さえ見つからない静寂の世界だった。この街路だってそうだ。両側は石造りの倉庫だ。殆どの扉は打っ違いに打ち付けた板で塞がれ、窓には硝子がなかった。この場所は主に小売りの商店の売り物を扱う目的で建てられた倉庫街だが、小商いの寿命が夏の虫より短いせいで、所有者も中身もころころ変わり、どの倉庫にどんな荷が積まれているかなんて誰も知らない。中には何年も扉が開けられたことがない倉庫も珍しくない。そんな中で、たった一つ、大晦日から孤高を守るように明かりが灯った倉庫があった。


 倉庫の中で大勢の男たちが長持や行李を動かしている。その横で木製の事務机に置かれた桐箱を数人の男が覗き込んでいた。全員が黒革の外套を着て軍用の重い編上靴を履いている。

「それで税関は?」

 整った鼻髭の金髪の男が訊いた。

「楽勝です、書類も無し、検査も無し」

「高くつきましたけどね」

「それだけの価値はある。禁断の魔法技術だ」

「カルフィールのミクラス山に棲むエルフの魔装具職人の逸品だ」

「ただの安物の首飾りにしか見えませんけどね」

「防弾性は完璧なはずだ。着用者の体の表面に魔法の防壁を張り巡らせる。これを見ろ」

 首飾りを両手で丁寧に持ち上げて燭台にかざした。

「女の二の腕の産毛より細かく呪文が彫られている。これを彫った呪文細工師の生涯最高の作だ」

「どうして最高って言いきれるんです?」

「そいつはもう死んでるからだ。今頃はもう土に還ってる」

 金髪の男がにやりと笑った。


 漁師が冬の海で被る羊毛を編み上げた帽子を被った男がおもむろに身を震わせた。骨まで染みる寒さだ。

「ちょっと用足しに行ってきます」

 そう言って倉庫を出て二十歩程の壁に向かうと、長々と放尿した。この時代の人間は手酌をするように己の一物を逆手に持って排尿する。長い外套に跳ねが飛ばない用心だ。

 小便の立てる湯気の中、満足げに溜息を洩らした男は、それでも夜戦の訓練を受けた人間らしく、数十歩先のほんの小さなマッチの短い火を見逃さなかった。気づいたことを悟られないよう、濡れた手を壁で拭う。ゆっくり倉庫に戻ると、抑えた声で告げた。

「誰かいます。ほんの一瞬、小さな明かりが見えました。きっと寒さを紛らわすために煙草を点けたんでしょう」

「警官か?」

 金髪の男が小さく舌打ちした。怪しまれないよう敢えて歩哨を立てなかったことが裏目に出たか。

「いくら夜警でも間抜けすぎます」

「地元の破落戸ごろつきかジャンキーかもしれません」

「確かめるしかあるまい。お前ら、銃の撃鉄を起こしてついて来い」

 外套の前を広げて、ホルスターに仕舞った短筒の握把を撫でた。


 男たちは緩やかな横列を組んでゆっくりと進んだ。降りしきる雪が足音を消してくれる。やがて、全員が倉庫と倉庫の隙間に筒口を向けると、金髪が羊毛帽子に小さく顎をしゃくった。頷いた羊毛帽子が小さく息を吐くと一気に距離を詰め、押し殺した声で叫んだ。

「誰だ! そこにいるのは!」

 続いて全員が突進して筒口を並べた。


 そこにいたのは警邏でも破落戸でも薬物中毒者でもなかった。薄汚れ萎れた服を着た裸足の子供が震えているだけだ。さっきまでの緊張を誤魔化すように皆が小さくせせら笑った。

「なんだ、餓鬼かよ」

 全員が撃鉄を戻して銃を仕舞った。

「坊主、ここで何をしている?」

 金髪が尋ねたが子供は答えない。乱雑に切り込んだ髪の子供が三白眼を大きく見開いて固まっていた。小さい赤い瞳が取り乱して震えている。

 誰かの手が伸びて子供の襟首を掴むと、軽々と引き上げた。固まった関節が無理に伸ばされた痛みで子供が小さく悲鳴を上げた。

「こいつ、女だぞ」

 男たちの間から嘲りを含んだ呟きが漏れた。

「どうします?」

「どうせ浮浪の餓鬼だ。殺せ。後で川に棄てれば誤って落ちたと思われて終わりだ」

 金髪の男が無慈悲に言い放った。

 少女を立たせた男が腰の後ろに手を回して短剣を抜こうとするのを金髪が手で制した。

「血を流すと面倒だ。これを使え」

 そう言って外套の懐から平紐を取り出した。


「え?」

 少女の口から小さく掠れた声が漏れた。少女はまだ混乱していたが、どうやら自分が歓迎されていないのはわかった。目の前の怖そうなおじさんたちが実は優しい天使で、暖炉の前に座らせてくれて、毛布をかけてくれて、温かいスープをご馳走してくれるとは思わなかったが、まさか殺されることになるとは。空腹と寒さで思考力が低下していたおかげで不思議と恐怖はなかった。どうせこの先いいことなんてひとつもないのはわかってたけど、せめてマッチを全部擦るまで待っててくれないかしら、掻き混ぜられた思考の底で少女はぼんやりと思った。その時、

「悪党の皆さん!」

 甲高い声が響いた。


「悪党の皆さん!」

 聞こえなかったと思ったのか、もう一度、更に大きな声が響いた。

 全員が声のするほうを見上げた。二軒先の倉庫の屋根に人影が見えた。やっと全員の視線が集まったのを確かめたからか、人影がふわりと路地に降りた。ぼろぼろの麻色の外套が風で翼のようにはらんだ。

 男たちが手慣れた動作で銃を抜くと、撃鉄を起こした。

「皆さん、密輸品の取引なんて悪いことは今すぐやめなさい」

 落ち着いたよく澄んだ声だった。その声に向かって男たちが一斉に無言で無造作に引き金を絞った。発砲の閃光と轟音、だが、人影は微動だにしない。男たちに小さい動揺が走った。

 人影がゆっくりと外套を脱ぎ捨てた。


 六尺を超える長身の女だった。艶のある黒髪を後ろで高く束ね、やや丸みを帯びた顔に尖った顎、二重の切れ長の眼、血のように赤い瞳が男たちを見据えている。顔面の露出した半首成はつぶりなりの紅い面甲、首から爪先まで体の曲線に沿ってが艶やかな紅い革で覆われ、その上から何本もの紅い革帯がいくつかの鋼環で合流し分かれながら、奔放な胸と括れた腰と豊かな臀としなやかな四肢を無慈悲に絞り上げるように走っていた。


「へんたいさんだ……」

 少女は子供らしい正直な感想を漏らした。

 男たちの感想は違った。手応えはあった。短筒とはいえ至近距離からの射撃に平然としている。

「化け物め」

 小さく呻くと男たちはもう一度発砲した。全弾が命中した。そのうちの一弾が女の右頬に当たって火花を散らした。しかし女は傷一つなく平然と立っている。

「銃では何も解決しません」

 女が澄ました顔で言った。

 男たちは訓練された動きで銃を仕舞い、幅広の匕首を抜いて女に襲い掛かった。

「仕方ありませんね」

 あまり残念そうに聞こえなかった。女は肢体を締めつける革の軋り音をさせながら大股で歩き出した。


 少女は見た。女が腕を振るたびに男たちが空しく吹き飛ばされ、壁に激突し、地面を水切り石のように跳ね転がるのを。

「自業自得です」

 どこか折れたのか、悲鳴を上げてのたうち回る男に女が平然と声をかけ、それからすたすたと歩いて倉庫の前に立つと、両手で勢いよく扉を開けた。


 ざっと一個分隊の男たちが装填済みの銃を手に待ち構えていた。帝国陸軍から横流しされた軍用小銃。生産性を上げるために照門もないが、五歩の距離なら外しようがない。それが一斉に火を噴いた。

 直後に堪えきれなくなったような女の哄笑がこだまし、やがて怒号と悲鳴と重い金属音と何かが折れる嫌な音が、倉庫の外で呆然と立つ少女の耳朶を叩いた。


 突然、足許の地面が浮き上がる衝撃と轟音に少女は体を竦ませた。倉庫から火の手が上がり、やがて倉庫全体が松明のように燃え上がった。怒鳴り声も泣き声もいつの間にか熄んでいた。

(暖かい……)

 少女は漫然と火事を見つめていた。何が起こったのか理解が追いつかないが暖かいのだけはわかる。暖炉の幻は見えなかったが、少女はただ嬉しかった。だから眼の前に、何事も無かったように火の海から出てきた長身の紅い女が立ったことに気づくのに時間がかかった。


「あなたも気づいたのね」

 上気して頬を少し赤らめた女がにっこり笑って話しかけた。

「どこかの悪党が何か悪巧みをしていることを」

 呆けたように少女は女を見上げた。

「もしかして、超人……?」

 奇矯なコスチュームに身を包み、超常の力を振るって悪人と戦う男女がいることは、少女も街角に立つ瓦版の読売で知っていた。

 女が少し悩むように首を傾げた。

「ええ……、確かそうだったような」

 考えるのが苦手なようだった。女は気を取り直して身を屈めて少女の三白眼を覗き込んだ。

「よく悪事を突き止めたわね」

「え?」

「私の名はロラ」

 そう言って右手を差し出した。

「あ、アイカ……」

 艶々した紅い手袋をおずおずと握り返して少女が答えた。

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