迸れエロス 『夜の飼い犬』

「ほら、飼い主にきちんと挨拶してください」

 上等な革靴とともに、命令が下された。それを受けて私は、ご主人様の爪先に、そっとくちづける。

 ゆったりとソファに座り、しなやかに組まれた足の先、趣味のいいダークブラウンの革靴に敬愛を示したのち、ゆっくりと舌を這わせる。行儀良く犬のように四つん這いになって奉仕する。ご主人様の心に敵うように、丹念に足先を舐める。

 本革の質感がざわざわと舌をくすぐり、苦く渋い味と匂いが、じりじりと興奮を煽る。昂りのまま下品に音を立てて舐め吸うと、弄ぶようにぐりぐりと口に爪先をねじ込まれた。意地悪なご主人様の悪戯に、必死になって応える。

 すっかり口元が涎まみれになって、体が火照り始めた頃、やっとご主人様は私の口を解放した。

「一生懸命ご挨拶できましたね。いい子には、首輪をつけてあげましょう」

 穏やかな微笑を浮かべながら、手を差し伸べて許しをくださる。傍らの首輪を咥えて、ご主人様に恭しく差し出した。涎にまみれたそれを、ご主人様は躊躇いなく手に取る。頭を垂れて首輪をねだれば、ご主人様はくすくす笑いながら所有の証を着けて下さった。

 ご主人様の大きく筋張った手が首輪に触れる度、鎖骨にちらちらとドッグタグが揺れる。私の名が刻まれた、特注のお気に入りだ。

 最後にかちりとリードを留めて、私は完璧にご主人様の飼い犬になった。つつつ……と、首元から艶めく黒革のリードを辿る、ご主人様の指先。思わずじっと見惚れていると、持ち手まで辿った掌(てのひら)が、くいっとリードを引っ張った。

 かちりと、目が合った。首を引かれ無様につんのめった私を、ご主人様はじっと見下ろしている。床に四つん這いの私と、私を見下しリードを握る、ご主人様。

 私は、彼の飼い犬なんだ。

 視線と首輪で、そう思い知らされる瞬間。彼の犬であることを許される瞬間。私はたまらない至福を覚える。嗜虐的な微笑に見つめられ、ぞくぞくと背がふるえる。生唾を飲み込む。

 勝手に快感を覚える私に、ご主人様は呆れたように苦笑する。

「本当に、はしたない犬ですね。甘やかしすぎたかな」

 憎まれ口を叩きながらも、私の頭や頬をやさしく撫でる、ご主人様。その意地の悪さと情愛が恋しくて、掌に頬擦りしてくちづけて、たくさん甘やかしてもらう。掌、指先、手首、隅々までそのぬくもりを感じたところで、彼は立ち上がってリードを引っ張った。

「さ、まずはいつも通り、僕とお散歩しましょうね」

 この一晩の間だけ、私と彼は上司と部下の関係を棄て、犬と飼い主になる。彼の前でだけ、私は『生真面目な上司』をやめられる。

「返事は?」

 ご主人様の命令に、元気いっぱい返事した。

「わんっ」

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2021 萌音 実践女子大学現代文学研究部 @jissen_genbun

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