古山ほか藻 『文化祭終了から学生展まで』
「改めて、新涼祭お疲れ様。初めてだったし疲れてるのは重々承知だけど、次回から学生展の作品制作に入ってもらうから、振休中に英気養っといてね。じゃ、解散てことで。気を付けてねー」
手を振る西本先生に挨拶をして小会議室を後にする。暗くなった外と廊下が蛍光灯の明るさで隔絶されている。非日常感。
「いつきサンは学生展で描くもの決まった?」
「いや全然。締め切り十一月末? 間に合うかな。
「えっとね、夏休みに尾瀬に行ったって話したよね。そのときいい感じに撮れた写真があって、それをもとに描こうかと思ってるよ」
智子さんはワタシが友達を下の名前+さん付けで呼ぶのをいたく面白がって真似してくる。予期せぬお茶目さである。旅行先で撮った写真から描いたものを展覧会に出すような、ただただ冒険しない、当たり障りのない人間だと思っていた。
学生展とは、都立高校の美術部が届を出せば出展可能な展覧会のことだ。西洋美術館の大きな展示室を借りて実施される。どうせなら、ということで我々は参加することにした。文化祭後に間髪入れずに制作が始まるあたり、思っていたよりハードスケジュールになるらしい。にもかかわらず、ワタシは特にモチーフを思いつけていない。
文化祭の打ち上げだろうか、呑んでもいないのに――呑んでいるのかもしれない――酔っているような、騒々しく青春している集団を尻目に校門を後にする。
ここから地下鉄駅に向かい、乗車し、某ターミナル駅まで智子さんと適当な話をするまでが下校といった感じだ。
いつもぼんやりとモヤがかかったような、記憶に残らないような話をしているが、今日は飛びぬけて上の空だっただろう。一仕事終えて、息をついたからこそ次の仕事の見通しがきいていないことに焦り始めている。うちの美術部は三年生の先輩三人と一年生のワタシと智子さんの五人で、先輩たちは受験のため籍は置いているだけ……つまり実質二人のみ。その、ある意味唯一の仲間といえる智子さんがモチーフを決定している、という事実もまたワタシの焦燥感に磨きをかけていた。
智子さんと別れ、JRの改札をくぐる。先ほどまでの非日常感は駅構内の時間感覚の無さによってすっかり薄れたようだった。文化祭という非日常のせいでだるくなった頭に鞭を打ち、馬車馬のように働かせる。
結論からいうと、ワタシのキャンバスに描かれるものが決まるのは振替休日後の部活中、つまり明後日である。決まらなかったのはモチーフではなくワタシの気持ちで、そういうのは崖っぷちに追い込まれ、妥協という形で決まるものだ。
「ぜっったい締め切りギリギリんとこでキツくなるよ。今日中に決めときー。」
今日中か……。
「今日中ですか……」
「今日中よ」
我々はどちらも油彩画を制作するので、今日の部活動ではキャンバス張りの作業を済ますことになっている。水彩画のための水張りというキャンバスのこしらえ方と違い、油彩画用の布を木枠に張って固定するキャンバス張りは、やかましい。そこそこ固い木枠にトンカチで釘を何本も打ち込むからだ。ちょっとした土木工事くらいのデシベルだ。くそうるさい。
当然そんな状況の中で妥協に値するような案が浮かぶはずもなく、作業が終わって静けさを取り戻した美術室に下校を促すチャイムが鳴る。西本先生が半分にやつきながら眉をひそめてこちらを見ている。隣にいる智子さんはポコポコいくつか案を出してくれたのだが、ワタシの反応が芳しくないので考え込んであまり話さなくなってしまった。
「あーじゃあさ、白木さん描いちゃえば?」
「智子さんですか……」
「白木さん的にはオーケー?」
「私は良いですけど……」
ワタシに視線が集まる。
「描くための資料集めとか、そういうのにかかる手間がほとんど省けるし良くない?」
うーん……
「油彩は最悪絵の具削るか、上から絵の具被せちゃえば全然関係ない絵も描けるしさ。このまま悩み続けるよりとにかく描き始めちゃった方が案外描きたいものも見つかるかもよ?」
人物画、しかも目の前にいる人を描くにあたって観察は必要不可欠である。
あの後、ワタシは反論が見つからないという理由で西本先生の案を飲み込んだ。最後に講評会――学生展の搬入日に作品の設置が終わった後、展示スペースごとに他校の生徒同士でグループになって行われる緩い批評会のようなものらしい――の説明を受け、やっと学校を後にした。
今、私のクロッキー帳にはキャンバスを前に作業をする智子さんのスケッチが数体描かれている。ノープランでいきなり筆をとるのも怖いし、やる気というのはその作業を始めなければ湧かないものだと意識の高い人がSNSでしゃべってたのを見かけたので。
実際、出所のつかめない漠然としたそれは確かに発生しているような気はする。そして、スケッチが描画より観察に比重を置く行為だからか、やはり発見がある。智子さんというモチーフの意味が可視化されていく。先生はおそらく、部室にずっといるとか、ワタシと多少関わりがあるとかの条件が揃っていたから彼女を描かせることをひらめいたわけではないだろう。逆に、ワタシが持っていた智子さんの印象が予想以上に希薄だったことが分かった。
「描きにくくない?」
「気になったら角度とか変えるから、大丈夫。そっちも作業中にじろじろ見られて集中しづらくない?」
「平気だよ」
美術室の天井は、単に高いというだけでなく日光を取り入れるとかなんとかのために傾斜している。話し声は空間に合わせて広がって、最後にその傾斜を流れるだろう。
なるほど、こういう顔で私と喋っていたのか。
地下鉄のホームに着いてからもワタシはなんとなく智子さんをじろじろ見ていた。言い換えれば、今まで智子さんをじろじろ見たことはなかった。ワタシが視線をやっているからか、智子さんもこちらを向いて話している。今までは平行線のように、同じ方向を向いて話していた。
「地下鉄って電車来た時の風すごいよね」
「地上と違って空気の逃げ場がないからかね」
九月といってもまだ夏日は続く。地下鉄駅構内では、日光は遮断されているが、七十パーセントくらいの湿度が身体や線路やホームの柱にまとわりついている。
描くことがきっかけになったのかは分からないが、智子さんとの会話が――というより、記憶に残る会話が――増えた。ワタシの意識の変化かもしれないが。
それだけというわけではないけど、彼女には純粋さというか、潔白であることを感じる。ただ、自分の立場やワタシの機嫌をとるために上手く飲み込んでいるだけかもしれないが、思考の通り道に揶揄や皮肉といったものが無いように見えるからだ。だからこそ今まで顧みなかったのかもしれない。そういう当たり障りのない人間は、つまらなさがそれに比例しているような気がするからか。数名ではしゃいで教室の扉を破壊した生徒の話をしたときも、扉と生徒と学校のことを心配していた。こういう人間を前にしてウンザリしなかった自分にも驚いた。何かに対する忖度にも、打算にも見えない。その希少性に意識が引っ張られて、反感を覚えてみたりするのを忘れていた。どんな人間が何を食わせたらこういう人間が育つのだろう。
カマイユ技法による下塗りが終わった。
そろそろ制服の袖も伸びようという時期だ。時間をかけすぎたかもしれない。智子さんはワタシよりも順調なようで、一応「こういう作風なんですよ」と言えばギリギリ通るくらいの画面が出来ている。
描くポーズは簡単に決まった。最初に西本先生に言われたことを汲んで、キャンバスに向かう姿を選んだ。資料集めもくそもない。
片付けには結構時間がかかる。油絵具は一週間やそっとでは乾燥しないので、紙パレットに出したそれらはそのまま保管する。
「智子さん早いね、進むの」
「そうかな、まだ三分の一いってないくらいの気持ちだから結構不安なんだ」
智子さんは、古着屋で購入したという男物のヘタったシャツを作業着にしている。衣服に油絵具がつくとだいたいおしゃかになるのだ。我々は制服が普段着なので、尚更おしゃかは回避しなければならない。
「そう? なんか画風によってはもう完成でも良さそうじゃない?」
智子さんは若干後退して自分の作品を見つめている。目頭から目尻にかけて刃物を滑らせできた亀裂を慎重に開いてできたような一重まぶたの飾らない大きな目。そこから漏れるまなざしはやや険しくなっていたが、普段の穏やかさが残る分、妙にコミカルだ。
「う~~ん……言われてみればそうかも」
一つ一つの関節の、華奢だが確かな存在感も彼女をモチーフに据えてから気づいた。
筆は水ではなく専用の油……筆洗液を用いて洗う。
換気してはいるものの、油や絵の具のにおいが室内に充満している。揮発性油はハッカのようなにおいがする。
智子さんは細身の筆を片手に、自分の作品を見つめている。
「いつきサン、忙しい?」
今日は制作の最終日で、最終確認的な作業がメインだ。それにしても、もともと週二回程度の活動日がほぼ三倍になるとは思わなかった。それでも前回になってやっと二人ともそれらしい妥協点に達した辺り、西本先生のスケジューリングとキャラに合わないあの急かしっぷりは功を奏したということだろう。
「どうしたの?」
「意見が欲しくて……描き込みの度合い、ちょっとだけ上げたいんだけどね」
筆を置いてイーゼルを回り込んで行く。
「さすがに全体は無理だから……どのへんやったら良いと思う?」
風景画は草原を近景に据え、中景の湖が晴天を反射している。遠景の山は空気遠近法で青みがかっている。
「手前の方の草は?なんとなくだからあれだけど。山は立体感出てるし、空は描き込んでも効果薄いような気がするし」
「そっか、草か……。ありがとう、手間とらせちゃったね」
智子さんはどうせずり落ちて来る緩い作業着の袖をまくると、紙パレットを手に取った。
日が落ちるのが早くなった。窓には美術室内が反射している。暖房の労働音と作業音が混ざり合っている。
キャンバス上の智子さんには、ある程度描き進める度に不満が発生した。作家性と言ってしまえばそれまでなのだが、必要以上に自分の意思が画面に乗るのが気になった。今はそれと、単純な実力不足による不満は残っている。
とりあえず梱包までは一週間放置して乾燥させる。決して大きい方ではないが、小さな作品でもない。美術館に直に持参するのは困難だろう。トラックが運んでくれるらしい。
久々に智子さんと顔を合わせない日が続いた。
「んじゃ、私職員室に用事あるから。勝手は分かったみたいだし、あとはよろしくねー」
先生が美術室を後にすると、智子さんは梱包作業を中断してその後ろ姿を追うように見る。いなくなったことを確認すると、自分の鞄を泥棒のようにまさぐり、リップクリームを取り出す。色付きリップの一つや二つ、西本先生は流すと思うのだが。以前はワタシに目撃されるのも避けていたようだが、偶然目撃してしまった。校則を破る、という悪行を智子さんがしているのは意外だった。唇の色が薄いのを気にしており、彼女的には校則違反という罪を背負ってでもどうにかしたい事柄らしい。
梱包には段ボールとプチプチの大きいやつを使う。かなり厳重で、搬入の際には骨が折れるだろう。
展示は、直接生徒と顧問が赴いて行う。その日は公欠を取り、昼休みが終わる頃に学校を出る。
誰もいない昇降口に下駄箱の開閉音がよく響く。非日常感。
智子さんと西本先生と合流し、いつもの地下鉄に乗る。構内にはあまり人気が無いのに、発車メロディーはいつも通り流れていた。
いつものターミナル駅でJRの線に乗り換え、智子さんと雑談しているとすぐに最寄りに到着した。西洋美術館は、ほかにも美術館や博物館、動物園もが設置されている某公園にある。目印は入り口の前の謎オブジェだろうか。
展示が終わり、講評会の実施を促す放送が流れる。展示作業が早めに済んで、まだせこせこ作業しているところもある他校の作品を見て回っていた我々は自分たちの展示スペースに戻る。
はずだったのだが。
はじめて仮病を使った。改めて自分の作品とそれに対する自分の立場を考えたら、無性にこそばゆくなってしまった。こういうことを恥ずかしがるのはガキっぽいな。咄嗟にいかにもお腹が痛い人の動作と表情を作り、一緒にいた智子さんに事情を説明して展示室から出てきてしまった。なんとなく本当に腹が痛くなってきたような気がする。馴染みのない場所で仮病を使ってサボるという馴染みのないことをするのは実に非日常的だった。
「改めて、搬入と展示お疲れ様。搬出やったら、それ以降は特に予定とかはないから、次回からは自由制作ってかんじで。お腹壊した人もいるわけだし、しっかり休んでねー。じゃ、解散てことで。気を付けてねー」
手を振る西本先生に挨拶をして西洋美術館の敷地を後にする。
「あの……」
「いつきサン?」
「モデルしてもらったから、何かお礼がしたいんだけど」
遠慮する智子さんを丸め込む。
日没後の空気に腹の奥がそわそわしてきた。
「これとこれだったら、どっちが良いと思う?」
「一つ六百円ちょっとでしょ?どっちも買うよ」
納得を示した智子さんは駅の近くの適当なドラッグストアに足を運んだ。別に薬の選別をしているわけではない。
「ううん。二本もあっても使い切れないし……」
あまり意識したことはなかったが、そういえばドラッグストアには化粧品コーナーがあった。
「んーじゃあこっちは? こっちの方が色濃いし、ちょこちょこ使えば長持ちしそう」
智子さんは持っていた片方の口紅? を棚に戻し、じゃあこれで……と手元に残った方を差し出した。
唇に色をつけるものが一つで漫画の単行本より高価であることに一瞬面くらったが、油彩の値段を思い浮かべてなんとなく納得した。
「ありがとう、大事に使うね」
購入したものを渡して駅に向かう。まだ帰宅ラッシュではないが、スーツ姿の社会人がそこそこ見受けられる。休みなく働く改札の音がホームに向かう階段の方にも聞こえてくる。
「あの、買ってもらったやつ、つけてみても良いかな?」
電車は待たなくてもすぐ来るのだが、一息つきたくてベンチに腰掛けた。ベンチは冬の冷気に直であたっていたので臀部が冷たい。
「智子さんのだし、ワタシに聞かなくてもいいよ」
そっか、というとプラスチックのパッケージを開け、恭しく口紅?を取り出す。
紅部分の表面の処理が安っぽいが、それが品質に影響しているかはよく分からない。平らな面をスタンプを押すように唇に当ててつけている。電車が一本来たが、次のに乗ろうと言って智子さんを待った。
「変じゃない?」
どこかで聞いたことがあるような台詞だ。
「そういうのよく分かんないけど、変ではないと思うよ」
「良かった」
智子さんがほっと息をつくと次の電車が来る。車内は暖房が効いているので、今のうちにジャケットを脱いでおく。
智子さんのあくびが白くなる。
「次、何描くか決めた?」
「まだ思いついてないかな、いつきサンは?」
「ワタシもまだかな」
緩慢な動きで乗車して向こうのドアの近くに立った。ターミナル駅まではとにかく、一緒だ。
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