第二章 横浜奇譚

   一、ニューヨークの幻


 圭が日本へ旅立ってからも、圭司は時間があると領事館を訪れて掲示物をチェックしている。圭がストロベリーハウスに託されて十五年ほどが経過しているわけであり、手がかりになるようなものが簡単に見つかるなどとは思っていないが、日本とアメリカをつなぐこの場所が、唯一圭に繋がる何かが見つかる可能性が残っているのではないかという淡い期待を抱いて通っていた。

 ——今日も収穫なし、と。

 領事館へ通って五年近くなる。何もないことにすっかり慣れてしまい、がっかりなどはしなくなった。


「どうだった?」

 店のドアを開ける。圭司が帰宅した気配に気がついたステラが奥から出てきて聞いた。

「いつもの通りさ。特に何もないよ」

 そう言いながら、店に奥にある休憩室に行き、ソファへ深々ともたれかかった。後ろをついてきたステラが近くの椅子に座ってじっとしばらく何か考えているようだった。

「ねえ、圭司」

 夕方まで休もうかと目を閉じた圭司に、ステラが話しかけた。圭司が顔を上げるとステラがこっちを見ていた。

「私たち、間違った方向を探してるってことはないよね?」

「どういうこと?」

「ずっと考えてたの。だって、こんなにも何も見つからないってことは、何かこう、別のアプローチが必要なのかなって」

「別のアプローチか」

「だって考えてもみて。ハウスに預けにきた女性、がもし本当にいたとしたら、もし彼女が来られなくなったとしたら、代わりに誰かが圭を引き取りに来てもおかしくないよね」

「まあ、そうだね」

「本当にそんな人、いたのかって」ステラはそう言って意味ありげに圭司を見つめている。

「えっ、ごめん。意味がわからない」

「私はサスペンダーさんに会ったことはないんだけどさ、彼の記憶は本物なのかなって。そう考えるのはおかしいかなあ」ステラが一言一言をわかりやすいように丁寧に自分の思いを説明する。「だって、認知症の症状があるんだよね?」

「それはつまり——、サスペンダーさんの記憶違いってこと?」

「あるいは、妄想と現実が入り混じってしまっている、とか」

「そんなことは……。いや、でも圭が預けられたのは事実だし」

 圭司はまったく疑わずにそう信じて、何年もの間実在していたと思われる母親を探しているのだ。

「でもそれはサスペンダーさんだけの記憶なんでしょ? その記憶が確かなのかはメリンダ夫人も亡くなってるし、本当のことは誰も知らない。たとえばなんだけど、極端な話、どこかで誘拐された子とかがハウスの前で置き去りにされたってことだって、ないとは言えない」

 圭司は思わずごくりと唾を飲み込んだ。

「じゃあ、圭を預けたっていう女性は存在しないって君は考えてるってことか」

「あくまでも可能性だけなんだけど」と唇を噛んで天井を見上げた。

「つまり、サスペンダーさんの記憶の中だけにいる……」

「そう、実際には存在しない、幻の女性かもって、そんなことを考えたの」

「ニューヨークの幻の女性——」

 圭司の思考が止まってしまっていた。

「だって、考えてもみて。日本という国から子供をその女性が連れてきているとすると、パスポートとかも取っているはずよね? そうすると、女性の名前はわからないけど、子供の名前はわかっているんだから、領事館で存在証明ができるはずじゃない? なぜできないのかって考えたの」

 それは圭司も何度も考えた。一番わからないことがそこだったからだ。日本にはちゃんと戸籍というものがある。タカハシケイという子供が行方不明になっていれば、捜索願いが出されていてもおかしくない。サスペンダー氏の記憶によれば、領事館にも探しに行ったということだ。わからないはずがないじゃないか。

つまり、そういうことは考えなかったわけでもない。

「もうひとつは、そもそも日本の人じゃない、とか」

とステラが突拍子もないことを言い出した。

「いや、それは賛同できないな」

 圭司には、まったく根拠はないが圭は間違いなく日本人だという、確信があった。なぜと聞かれても困る。そう思うからだ、としか答えようがない。

「もしな、ステラ。君がいうように圭がアメリカで生まれていたとしても、あの子は日本人の子供だよ。ただ、サスペンダーさんの記憶のことは、君の言う通りもう一度確かめてみる必要があるのかもしれないな」


 その夜は店が忙しい夜だった。

 夜の九時過ぎだったか、日本から国際電話があったが、厨房が忙しすぎて電話に出ることもできないくらいだった。ステラが代わりに用件を聞くと、日本の音楽事務所からの電話で、圭をその事務所で面倒をみさせてくれないかということらしい。

 圭の歌は特別なんだ。そんな大事な話をこんな忙しい時に言われてもな。

 今度ゆっくり話をさせてくれと伝言をステラに頼んだ。そんな俺を横目で見ながら、ステラは電話の向こうの女性——後でわかったが、社長秘書の早瀬恵という——と楽しそうに長話を始めていた。

 頼む、ステラ。料理を運んでくれないか——

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【新編】シング ニューヨークの幻 西川笑里 @en-twin

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