第一章 ニューヨーク編

   一、感謝祭の夜に


 その店はニューヨークの東側、アジア系の人々が多く住む街角にあった。そこらはわりと治安も良い場所で、二年前にオープンした和食をメインに提供する小さな店だったが、ニューヨークあたりでは珍しい「丼物」が――特に日本から来ている――ビジネスマンや和食好きのアメリカ人にも好評で、店の名前を「ロック・イン・ジャパン」といった。


「――よいしょっと」

 店の横にある従業員用のドアから掛け声をかけながら後ろ向きに出てきたのは、この店のオーナー兼コックで名前を高梨圭司という。その両手には大きなごみバケツを持っている。

 圭司がアメリカに住んでもう十年になる。日本での悲しい別れを忘れるためと、プロのミュージシャンになるという――人生最後ともいえる――夢を賭けて渡米してきたが、身の程を知り今に至る。日本でのアルバイトで覚えた調理の腕がよかったのか、店の評判はなかなかよい。「人生を賭けた最後の夢」よりもアルバイトの方で食ってるのだから、人生なんてわからない。


「圭司、これもお願い」

 いったん閉まった裏口のドアが再び開いて、開業の時からウエイトレスとして働くステラが右手に持った小さなゴミ袋を差し出した。ステラは年は三十過ぎだったか、ブロンドのいかにも陽気なアメリカ女性だった。ありがたいことに安い給料にも文句ひとつ言わないで楽しそうに働いてくれている。

「なんだよ、ステラ。帰っていいって言っただろ」手にしたごみバケツを足元へ下ろし、ステラからゴミ袋を受け取りながら圭司が言う。

「もうちょっとで片付くから気にしないで」

「今日は構わないって。せっかくの感謝祭だ。デートでもしてターキーでも食べておいでよ」

「ははっ、そんな相手がいたら、きょうははなっから仕事なんて来てないわよ」

 ステラはそう言って、ちょっと肩をすぼめ、眉を上げておどけて見せた。

「あれ? 面接の時に、彼氏を待たせてるから、雇うかとどうかすぐに決めてって言ってたじゃないか」

「二年も前の話よ。とっくに別れたわよ」

 ケラケラ笑いながらステラがいう。

「そりゃまたお互いに寂しい感謝祭の夜だな」

 二人は目を合わせて小さく笑った。

「ねえ、感謝祭用に仕入れたターキー、余ってたよね。温めていい? お腹すいちゃった」

 ステラが圭司の顔を覗き込んだ。

「いい考えだ。じゃあ、せっかくの感謝祭だ。秘蔵のシャンパンでも開けようか」

「わお」

 ステラは大袈裟に両手をパチンと叩き、右目でウインクをして店の中へ入っていった。圭司はその姿が店の中に消えるのを見届けると、いったん足元へ下ろしたごみバケツを再び両手にぶら下げて、ごみ置き場へ向かったのだった。


 手にしたごみバケツを集積場に置こうとしたときだ。先に置いていた大きなごみバケツの間で何かが動いた気配がした。犬か猫でもいるのかと思い、そっとごみバケツの隙間を覗き込むと――そこに人間がいた。

「うおっ」っと思わず声を上げて一瞬たじろいだが、それが人間であることを頭の中で整理できると、もう一度ごみバケツの隙間を覗いた。

 そこには感謝祭の夜だというのに、髪の短い子どもが――ノースリーブにジーンズの格好だ――両手で肩を抱くように膝に顔を埋めていて、しかも小刻みに震えていたのだ。

「そこで何をしてるんだ」

 圭司が声をかけると、その子どもはゆっくりと顔を上げて上目遣いに圭司を見上げた。アジア系の女の子だった。

「中国人か?」まず英語で話しかけてみた。女の子は何も言わずに圭司を見ていた。「日本人、じゃないよな?」

 まさかと思いながら試しに日本語で話しかけてみたが、やはり何も言わなかった。

「アメリカ人か?」

 もう一度英語で話しかけると、今度は青くなった唇を震わせながら微かに頷いた。

「寒い夜にそんな格好で何をしてるんだ? こっちへおいで」

 優しくそう言いながら右手を伸ばしたが、逆に女の子は怯えたように後ろへ下がろうとした。しかしそのまま後ろに力なく崩れ落ちそうになる。

「怖がらなくていい。とにかくおいで」

 今度は女の子に近寄るとさっと抱きかかえた。彼女は一瞬抵抗しようとしたが、その冷え切った身体は力なく震えていて、抵抗することができなかったようだった。

「心配するな。何もしないから」

 そういうと、圭司は少女を抱きかかえたまま、さっきステラが入っていったドアに手をかけながら、「ステラ!」と店の中へ向かって大声を上げたのだった。


「Oh my GOD!」

 ステラは圭司と女の子を交互に見て、まずそう言った。

 ――アメリカの人って驚いたらやっぱり言うよな。

 そんなことを思う圭司に、ステラは、

「圭司、あなたそんな趣味だったの! 信じられない、そんな子どもを脱がすなんて!」と叫びながら、圭司の腕から女の子を奪い取ろうとした。

「ステラ、誤解するな。ま、まず落ち着いて」

「私、圭司を見損なってた――」青い瞳から今にも涙が溢れそうだ。

「だから、誤解しないでちょっと深呼吸をして、落ち着いて聞いてくれ」

 ステラがごくりと唾を飲み込み、落ち着こうと深呼吸を二、三度している間に圭司は言葉を続けた。

「いいか、ステラ。俺はこの子を脱がそうなんてしてない。もし俺がそんなことをしてたら、まず絶対に君を呼ばない。そうだろ? ここまでは理解したい?」

 ステラが少し考えて頷いた。

「よし。俺はこの子の服を脱がそうとしたんじゃなくて、服を着せようとしてる。だけど、男の俺はこの子に着せる服を持ってない。だから、君を呼んだ」

 噛んで含めるように圭司が言うと再びステラが頷いた。少し落ち着いたらしい。

「この子が着られそうな服、持ってないか」

「この子小さくて細いから、さすがに私の服じゃ大き過ぎるわ。とりあえず毛布を取ってくる」そういうと、客の膝掛けに出す毛布を取りに奥に入って行く。

「ああ、とりあえず頼む」その背中に圭司が言った。


 ステラから毛布を受け取りストーブの側に女の子を座らせて、その毛布で包むようにして暖を取らせた。小さめの毛布だが、女の子には十分な大きさだった。そして、つと思いついてステラに女の子の付き添いを頼み、店の冷蔵庫の作り置きしてあるコーンスープを温めた。


「さあ、飲んで。熱いから気をつけて」

 女の子に促すと、スープの入ったカップをその小さな両手のひらで包むように持って飲み始め、「美味しい」と、二人の顔を見ながら初めて口を開いた。

 スープを大方飲んだ頃合いを見計らって「どこから来た?」と圭司が話しかけてみた。

 女の子は少しためらいながら、「アミティ」と答えた。アミティといえば北のはずれにある場所のはずだ。

「アミティ? その格好であんな遠いところからか! どうやって?」

「……走って」カップに残ったスープをじっと見つめながら少女が言う。

「走って? アミティからだと、この街まで三十マイルはあるぞ」

 思わず圭司とステラは顔を見合わせた。

「じゃあ、もしかしてお腹すいてる?」とステラが聞くと、少女は恥ずかしそうに、ためらいながら小さく頷いた。

「わかった。待ってて」

 ステラは一度厨房に入って行き、しばらくして何やらトレイに乗せた丼を持ってきて、少女の前のテーブルに置いた。

「どうよ、私特製ターキー丼! お店じゃ出してない裏メニューよ」

「おいおい、そりゃまたボリュームありそうなディナーだな。そんな裏メニュー、俺も知らないぞ」

 圭司も初めて見るほど山盛りになっている。

「さっきターキーを温めたからね。子供が三十マイルも走ったら、これくらい必要よ」と、ステラが自慢げに笑った。

 激しい空腹の時に一度に掻き込まないように配慮したのだろう、子供用の小さなスプーンを添えてある。ステラのこういうところが圭司にはない感覚で、店でも何かと助かっていた。


 よっぽどお腹が空いていたのだろう。その丼を女の子は一気に減らしていった。卵で閉じたターキーの下から大量のライスが出てきて少し驚いていたが、どうやら美味しかったらしい。

 食事が一息ついたところで、もう一度圭司が「なんでそんな遠くから来たんだ」と少女に聞くと、彼女は一言「逃げてきた」とだけ答えた。

「逃げてきた? 何から?」と圭司は少女の顔を覗き込んだ。

 少女は少し間をおいて、「街から」とまた短く答えた。

「何か悪いことしたのか」

 今度は首を横に振り、また黙りこむ。圭司はステラをちらりと見た。

「アメリカ人って言ったな。名前は?」

「ケイ」

「ケイ? フルネームは?」

「タカハシ。ケイ タカハシ」

「なんだ、日系人なんだな。ケイだけじゃわからないが、苗字は日本によくある名前なんだよ。日本という国、知ってるか?」

「日本? 聞いた事あるけど、どこにあるか知らない……」

 ケイと名乗った少女は、ジッと圭司を見つめていた。汚れた衣服からは想像もできないほど深くて綺麗な瞳だった。

「ケイ タカハシね。圭司、あなたの名前と似てるね。そういえば顔もよく似てるかも」とステラが横から言う。

「ああ、君らから見たら、東洋人の顔って見分けがつけにくいって言うもんな」

「そうかなあ。似てると思うけどなあ」と言いながらステラは、圭司とケイの顔を何度も交互に見て首を捻っている。そんな仕草が圭司は可笑しかった。


 空腹を満たしストーブで暖まったからだろう、先程まで震えながら青ざめていた唇に血の気が戻り、綺麗なやや赤みの強いピンク色に発色しているようだった。頬もうっすらと紅を刺している。

「なあ、ケイ。君の両親はどこに住んでる? もしかしてアミティなのかい」

と圭司は聞いてみた。場合によっては今から連れて帰ろうかと思っていたのだ。だが、

「いないの」

と、そう言ってケイは視線を落とした。


「ところで、ケイは今何歳だ?」

 圭司が話を変えるとケイは少しだけ考えて、「今日は何日?」と聞いた。

「何日って、今日は感謝祭だからな。十一月二十七日だよ」

「じゃあ、まだ十歳」

 声の震えも止まっていた。

「まだ?」

「十二月が誕生日なの」

「へえ、何日が?」

「一日」

「十二月一日生まれか。もうすぐだな」

「本当に生まれた日じゃないんだけど」と消え入りそうな声でケイは言う。

「生まれた日じゃなければ、何の日なんだ」

 ケイの言い方が気になって聞いてみたが、それには何も言わずに床を見つめていた。


「ちょっと大きいのはわかってるけど、とりあえずこれを着て」

と、奥へ引っ込んでたステラが服を持ってきた。どうやら自分のトレーナーとスカートのようだ。

「その前に、今着てる服をランドリーで洗ってくるから、脱いでね」

 ステラはケイにできるだけ優しい声で言う。そして今度は圭司に、

「ほら、レディが着替えるんだから、ジェントルマンは後ろを向いて」

と言いながら、ケイが見えないように間に立っている。

「わかってますよ。どうぞごゆっくりとお着替えください、お姫様」

 圭司は恭しくかしずきながら後ろを向いたのだった。


「何てこと!」

 突然ステラが驚いたような、小さな叫び声を上げた。

「どうした、ステラ」背中を向けたまま圭司が聞く。

 ステラはちょっとためらっていたようだったが、「ちょっとだけこっちを見てくれる?」と圭司に言った。

「もう着替えたのか。えらく早いな」

「そうじゃなくて――ケイの背中をちょっとだけ見てくれる?」

と、ステラは何か言いたげにしている。

「振り向いていいのか」と確認する。

「うん。ちょっとだけ」

「何だっていうんだい」

 そう言いながら圭司が振り向くと、ケイの小さな背中が見えた。そして、ステラが言わんとしていることにすぐ気がついた。

 その小さな背中についたいくつもの痣。まだ新しいそうな青い痣の下に、かなり前についたような黄色く変色した背中があった。

 圭司は言葉を失い、ごくりと唾を飲み込んで固まった。


「これはいったい……」

 それだけ言うのがやっとだった。それからステラはケイの正面に廻り、ケイの前に跪き「前も同じよ」と言う。

 ステラがケイの右肩のあたりを指で押さえ、「ここ、痛くない?」とケイに聞くとケイは軽く首を横に振って、「大丈夫、ちょっと前のだから」と、小さな声で返事をした。

「ここは?」

 そう言って押さえたのは右腕にある瘡蓋のあたりで、ケイは「アウッ」という小さな声を出して、一瞬眉をひそめた。

「これも誰かに――やられたの?」とステラが聞くとケイは首を振った。

「逃げるときに、窓ガラスで切っちゃったの。失敗しちゃった」

と言いながら、ちょっと舌を出して笑っていた。まるで彼女にとってこの程度の傷は「慣れ」ていて大したことじゃないと言っているようだった。


「さっき両親はいないって言ったな。じゃあ、ケイはどこで育ったんだい」

 ステラのブカブカの服を着たケイが怯えないように、できるだけ笑いながら優しく圭司は話しかけた。だが、ケイはそれよりも大きすぎる服の方が気になるらしい。

「私、スカートって初めて」

 ケイは圭司の質問には答えず、腰回りをピンで止めたスカートの裾を少しつまんで広げて見せた。

「あら、そうなの? なかなか似合ってるわよ」

とステラがそう言うと、ケイははにかむように微笑んだ。ステラはその様子を見て、ちらりと圭司に目くばせをする。

「もう一度聞くけど、ケイはどこで育った?」

「――アミティ」

 相変わらずスカートを気にしながらケイは返事をした。

「アミティのどこ?」

「ストロベリーハウス」

「ストロベリーハウス?」

「うん。今はジョシー夫妻がやってるハウスなの」

 少しずつ間を置きながらケイは返事を返してくれる。そして圭司は、さっきから一番聞きたいことに少し踏み込んだ。

「その、ジョシー夫妻は――その、優しいのか」

 それまでしきりにスカートを気にしていたケイが、ぴたりと動きを止めて、そして息を大きく吸い込むのがわかった。それからゆっくりと顔を上げて何か言いたげに圭司の目をじっと見たのだった。

 だが予想に反してケイはニコリと笑った。そして、「大丈夫」と明るく答えたのだ。

 あっさりとそう言われると、むしろそれ以上は聞きにくくなる。だからといって聞かないわけにはいかない。体につけられた傷について尋ねる切り口は――

「じゃあ、どんな事情があってここまで来たのかわからないけど、ケイがそうして欲しいなら明日アミティに連れて帰ろうか?」

 試しにそう聞いてみると、ケイはチラッと視線を上げて「本当? うれしい! アミティまで遠いし寒いから、歩いて帰るのって嫌だなって思ってたの。」とうれしそうに言ったのだ。

 ――これは本音なんだろうか。

 そういえば、彼女は「街から逃げてきた」とは言ったが「ハウスから」とは言わなかった。アミティという街で何かがあったのは確かだ。ただ、もしそのストロベリーハウスに帰れば彼女が落ち着ける環境があるのならそうすべきなんだろう。未成年なら尚更だ。

 ただどうしても圭司が頭から消せないのは、その小さな体についた無数の痣だ。街でのトラブルが原因でついたものなら、ハウスに連れて帰れれば手当も受けられるだろうか。だが、この傷は間違いなく長期間にわたってつけられたものだ。

 ――それをハウスが知らないはずがないじゃないか。

 そのことをどう聞き出せばいいのだろうか。


 答えを見いだせないまま圭司がそんなことを考えている間に、ストーブの前ではケイがウトウトと眠り始めた。圭司はまだ知り合ったばかりの女の子を自分の家に連れて帰るのもためらわれた。

「今日はここのソファで寝かせて、とりあえず明日アミティへ行ってみようと思うんだが」とステラにそう言うと、彼女も小さく頷いた。

「ステラ、もう帰っていいよ。俺は今日はここに残るから」

「一人で大丈夫? 私も泊まろうか?」

「一晩なら何とか大丈夫だろう。それよりケイの服のこと、何とかなるかな」

「まかせて。小さめの服を手に入れてくる。アミティへは明日何時ごろから行く?」

「バイパスを使うと車で一時間くらいだから、午前中に着くように行くとすると十時ごろでいいんじゃないかな」

「わかった。それまでには届けるようにする」と言って、小さくバイバイと手を振ってステラは帰っていった。


 日頃、休憩室に使っている小さな部屋のストーブの前に座っているケイは、今にも崩れ落ちそうになっていた。圭司は彼女を毛布ごと抱き抱えて近くにある二人掛けのソファに寝かせ、そのすぐ脇に椅子を置いて座り、小さな灯りだけを灯してそのあどけない寝顔を見ながら、この子が言った「十二月一日」のことを考えた。

 確か、誕生日は十二月一日だけど生まれた日じゃないと言った。見た目だと、本当の誕生日と大きく違うことは考えにくい。だとすると、本来の年齢はもう十一歳になっているのかもしれない。日本だと小学五年生だろうか。

 彼女はなぜ誕生日を知らないのだろう。

 なぜストロベリーハウスという施設にいるのだろう。

 アメリカ人だと言いながら、なぜ日本人の名前なんだろう。日系人か?

 なぜ。なぜ。なぜ。そんな単純な疑問が次々に圭司の頭に浮かんでくる。

 そして、ジョシー夫妻は優しいかと聞いたとき、確かに笑ってはいたが、彼女は「大丈夫」と答えた。「優しいよ」とは答えなかったはずだ。

 ――その違いは何だ。


 椅子に背もたれて座っていた圭司もいつの間にか眠っていたらしい。時間はわからないが、近くで物音がした気がして目が覚めた。


 目の前に毛布を肩から掛けたケイが立って圭司を見つめていた。

「どうした。眠れないのか」と小声で聞く。

 彼女は薄灯の中、何も言わない。ごくりと唾を飲み込む音。息を吐く音。

「どうしたんだい?」

 もう一度、できるだけ優しく言う。少し沈黙の間が空いてケイが口を開いた。

「私、明日帰らなきゃいけない?」

 ――消え入りそうな、泣き出しそうな小さな声。

「どうした。帰りたくないのか」

「もし帰らないでいいなら……」

「帰らないでいいなら?」

 圭司が聞き返したそのときだ。ケイは肩から掛けていた毛布をそのままストンと落とした。痩せ細った体にもう何も身につけていなかった。


「女の子はこうすれば一人で生きていけるんだって。あの人たちが怖くてあの街から逃げてきたけど、もし明日アミティに帰らないでいいなら、私は、あなたなら。私は初めてだけど、あなたなら……」

 徐々にさらに声は小さくなって震え、そしてケイは涙を流さずに、だが間違いなくたった十歳の心が泣いていると圭司は感じた。


 全ての疑問が解けた。圭司はそう思った。なぜ「街から逃げた」のか。なぜ体の痣は何回もつけられたのか。アミティという街で彼女が何を見てきたのか、全てわかってしまった、そう思った。

 単身でアメリカに来て十年、悔しい思いなどもたくさん経験してきた。だが、歯を食いしばって耐えてきた。だが、今日初めて泣いた。大粒の涙が次々に溢れてくる。

「もういいんだ。もうそんなこと考えなくていいんだよ、ケイ」

 ケイが足元に落とした毛布を拾い上げ、彼女の体に巻きつけてやり、その上からそっと、そのやせ細った体を抱きしめて、圭司は泣き続けた。体から全ての水分がなくなってしまうほどに――


 そんなことがあった朝方、短い夢を見た。

 紗英がじっと見ていた。どんな内容だったのか、紗英が笑っていたのか怒っていたのか圭司はよく覚えていない。夢なんてそんなもんだ。

 目を開けるとソファに座った圭司の肩にもたれたまま、ケイはまだ眠っている。安心したのだろうか、そこにはとても穏やかな十一歳の寝顔があった。


 あれは本心だったのだろうか。そう思いながら、たった十一歳の女の子がそこまで追い詰められていたことを、圭司は言葉にできない衝撃を持って受け止めていた。

 言いようのない怒り。誰に対して怒っていいのか自分でもわからない。だが、圭司は間違いなく怒っていた。それはひょっとしたら、望まずにそういう環境で育ってしまったケイという娘の「思い込み」ということだって可能性がないわけじゃない。ただ少なくとも、そういうことが普通の生活の中にある場所で育ったことだけは間違いないだろう。

 いったい自分は何ができるだろう。この子を今、助けてあげられるのは自分なのだろうか。圭司はそんなことを考えていた。


 ——とにかく、予定通りアミティへ行ってみよう。そこに行けば、この怒りの矛先を何処に向ければいいのかはっきりとわかるかもしれない。

 

 しばらくして朝ご飯を作ろうと圭司が厨房に入っていると、予想より早くステラがきた。ケイが着てきた服に加えて新しい服もあった。十代の頃に着ていた服だという。それでもかなり大きいが、ないよりはずっといい。

「私の朝ごはんも、もちろんあるでしょ」

 ステラは自分は朝から仕事をしてきたんだから、朝ごはんぐらい当然という顔をしてさっさと夕方には賑わうはずの店のテーブルについている。おかげでもう二個ほどの卵と数切れのベーコンを使う必要ができたが、食事は大勢の方が圧倒的に楽しい。圭司は黙って三人分の朝食をテーブルに並べたのだった。


 やっと起きてきたケイは、ステラが持ってきた服に大喜びして自分で服を選んだ。それから圭司の作った朝食に目を輝かせ、美味しそうに頬張った。美味しいかと圭司が聞くと、目をキラキラさせて大きく頷き、

「こんな美味しい朝ごはんなんて生まれて初めて! こんなお料理を作れるなんで、神様の指先でも持ってるとしか思えない!」

と最大級の大袈裟なお世辞を言ってくれた。本来の彼女は、こんなおしゃまな年頃の普通の女の子なのかもしれないと圭司は思った。

 ステラには昨日あったことは話さないでおこうと決めていた。まだ子供とはいえ、ケイも他人に知られたくない秘密にしておきたいはずだ。


「今日は店は休みにしようと思うから、君も今日は休んでくれ」

 圭司がステラにそう言うと、

「何言ってるの。私だってアミティまで出かけるつもりで来たんだから」

と言って譲らず、結局三人でアミティの街へ向かうことになった。


   二 北の街へ


 圭司の車はもう二十万キロ以上走っているピックアップトラックで、三人で乗るには少々狭かったが、真ん中にケイを乗せて出発した。

 昨日あんなことがあり、ケイはアミティの街へ帰ることに少し躊躇いがあったみたいだが、ずっとそばにいるからと圭司が約束して一緒に行くことにした。圭司としても、ケイがいないと行ったこともない街で何を探していいのかさえもわからないから、どうしてもケイが必要だったのだ。


「これ、なあに?」

 ケイが物珍しそうに車についているカセットテープを指先で触っている。

 ——そうか。この子らはもうカセットじゃ音楽を聞かないんだよな。

 こんなところでさりげなく「世代」を感じてしまう。ステラはどうやら子供の頃に見たことがあったみたいだ。

「指で軽く押し込んでごらん」

 圭司がそういうと、ケイは恐る恐る左手の人差し指でカセットを押し込んだ。


 軽快なギターのリズムに乗せて「Stand by me」が流れ始めた。圭司が最初に好きになったアメリカの音楽だった。


 車内はノリノリだった。カセットテープから流れる五十年から六十年代のロックンロール。女子の二人は運転席が広かったら踊りだしそうな勢いだ。

「ねえ、最初の曲、もう一回聴いていい?」

 中古で買って十年近く乗っているこのピックアップトラックのカセットデッキには、オートリバース機能なんていうものがついてない。片面三十分のカセットテープは最後までたどり着くと止まってしまうのだ。

 ケイはどうやらスタンドバイミーがいたく気に入ったらしい。軽快なギターで始まるその曲は圭司もお気に入りの一曲だ。

「このスタンドバイミーだけど、小さい頃にパパと聞いた曲とちょっと違うみたいだけど、これは誰が歌ってるの」

 ステラが聴いたスタンドバイミーなら、おそらくベン・E・キングだろう。

「これはジョン・レノンさ」

「ジョン・レノン?」

「ああ。元ビートルズのメンバーだ。ビートルズなら名前ぐらいは聞いたことあるだろう?」

 そうステラに言いながら、圭司はカセットを巻き戻し、再び再生を始める。

「ビートルズなら聴いたことがあるよ。パパが好きだった」

「俺にとっては神さまみたいなもんさ」

 カセットからギターが流れ出す。圭司が擦り切れるほど聴いた曲。

 その時、ケイがカセットのジョンに合わせてスタンドバイミーを歌い出した。ちょうど一オクターブ変えた完璧なユニゾン。歌詞も完璧だった。圭司はステラは思わず目を合わせて、驚いた表情をしてみせるとステラも小さく「ヒュー」と口笛を吹くように口を尖らせた。


「なんだよ。知ってたのかい、この曲」

 ケイが歌い終わり、圭司が手のひらを向けるとケイがパチンと手のひらを合わせる。

「ううん、初めてよ」

「初めて? 嘘だろ」

「私、一回聴いたら、たいがい覚えるの」

「すげえな。特技だな」

「だって、iPodとか持ってないから何回も聞くチャンスがないんだもん。だからどこかで聴いたら、一回でちゃんと覚えて歌えるようにしてるの」

 ケイは、それがさも当然という顔をして答えた。

 ステラがカセットテープを取り出し、ひっくり返してまたカセットをデッキに入れた。そして再生ボタンを押す。静かな郷愁を覚えるメロディが流れる。「テネシーワルツ」だった。

「この曲は聴いたことがあるよ。学校の音楽の授業で習った」

 そう言いながらステラは最後まで黙って聴いていた。一曲終わるとステラが一旦音楽を止めて、

「ちょっとクセのある英語だけど、歌ってるのはアメリカ人じゃないの?」

と圭司に聞いてきた。

「ああ。これは日本人が歌ってる」

「すごく渋い声。しゃがれ声だけど心地いい」

「だろ? この人が歌うアメリカの音楽が好きな。だからいつの間にか俺もアメリカに憧れていたんだ」

「だからアメリカに来たの?」

 圭司は返事はせずに、小さく頷いた。

「他の曲もある?」

「さっきのテープの続きがな。だけど日本語だぜ」

 圭司がそういうと、ステラは黙って再生ボタンを押した。


 ノスタルジックな前奏から曲が始まる。

「ブルース?」

「うん。ブルースロック、といえばいいかな」

 それだけ言うと、またステラは黙って聴いている。ケイも邪魔をしないように静かにしていた。

「言葉はわからないけど、なんか郷愁を誘うようないい曲ね。声が素敵。どんな内容なの」

「そうだな。日本に流れ着いたブルースのシンガーかな、アメリカ人の歌手が、故郷のテネシーへの想いを捨てきれないまま日本に骨を埋めた。それを彼女と関わりのあった少年だった男が思い出してる。そんな歌かな。俺の勝手な訳だけどな」

「タイトルは? 我が故郷、とか」

 圭司は少し言葉を飲み込んで、それから言った。

「Stella with Blue eyes(青い瞳のステラ)という曲さ」

「圭司、それもしかして、サプライズのプロポーズしてる?」

 突然ステラが圭司をうかがうように覗き込んで聞いてきた。

「えっ? えっ? どういうことだ?」

 意味がわからず圭司が聞き直す。

「確かに私、青い瞳にテネシーよ。さっきの曲って私にプレゼントかなあって」

「ちょっと待て、ステラ。この曲はたまたま……」

「照れなくてもいいよ。私も圭司なら……、まあ、圭司がそう思ってるなら、私もそういう選択肢もちょっと考えてみても——いいよ」

「あ、あのさ。だいたい俺たちってそもそも付き合ってたか? さすがにいきなりプロポーズってのも、その、なんだか。それに、ステラは三十歳だっけ? 俺と十五歳も違う。俺にはもったいないだろ」

「えっ、圭司って四十五? 大丈夫、もう少し若く見えるよ。十五歳差なら女は、っていうか私は平気だから、圭司が本気なら気にしなくてもいいよ」

 ——なんか、話が噛み合ってない気がする。

 圭司とステラがちょっと艶っぽい話をしていたそのときのことだ。

「アカイキャンディ ツツンデクレタノハ フルイ NEWS paper……」

 ケイが日本語で静かに歌い出したのだ。さっき曲をかけたばかりの「青い瞳のステラ」だった。圭司とステラは会話をやめて歌い始めたケイを見た。それに気がついたケイが歌うのをやめる。

「もしかして、それも今覚えたのかい?」

 圭司が聞くと、ケイは頷いて、

「初めて聞いた言葉だから、ちゃんと発音できたかわからないけど……。二人がちょっといい感じだったから、BGMがあったらいいなって思って」

と言う。

「いや、ちゃんと歌えていた。しかも音も完璧だ。驚いたよ」

「そうそう、あんた上手いわ」

 そう二人から言われたケイは、とてもうれしそうに笑った。

 そんなことがあって、それまでの噛み合わない圭司とステラの会話もすっかりと忘れられ、三人を乗せた車はバイパスを降りて、ゆっくりとアミティの街へ入っていった。


 ⌘


「ところでケイ。ちょっと寄りたいところがあるんだが、案内してくれるか」

 カセットを入れて音楽を楽しんでいるケイに圭司が話しかけた。

「どこ?」

「この街の警察署」

 圭司の言葉を聞き、それまで楽しそうに歌っていたケイが突然黙り込み、目を見開いて圭司を見ている。

「警察署? この子は警察に届けるの?」

 代わりに返事をしたのはステラだった。

「あー、届けるというか、どうしても確かめたいことがあるんだ」

「何を確かめるの」

「昨日からずっと考えてることがあるんだけど、今はまだ言えない。でも、どうしても先にそこを確かめなきゃ、それからでなければ、この子をどうすればいいのか答えが出せなくてな」

 ステラが音楽を止め、車内が静まり返った。多分ステラももっと圭司に聞きたかったのかもしれないが、そうすると昨日のケイの体の傷のことを、本人の前でまた話すことになる。それは避けたかっただろう。


「パンを……、私がパンを盗んだから……、警察に連れて行くの?」

 蚊の鳴くような声で、突然ケイが口を開いた。圭司は一旦車を路肩に寄せて止めた。

「どういうことだい」

「逃げてるとき……、お腹が空いて。一個だけ……、お店のパンを」

 ぽろりとケイの大きな瞳から涙が溢れた。

「お腹が空いちゃったんだよね?」

 ステラが優しくケイに言うと、ケイは頷き、涙が止まらなくなった。ステラがそっとケイを抱きしめた。

「大丈夫だ、ケイ。そのことじゃないんだよ。別のことで確かめたいことがあって、警察には俺だけで行くから、場所を教えてくれないか。その間、ケイはこのステラと一緒に車で待っててくれればいいんだよ」

 ——笑え。

 圭司はできるだけ笑顔を作るように、そう自分に言い聞かせた。

「本当?」

 不安そうにケイが聞く。

「もちろんだ。そのかわり、パンを食べさせてもらったお店のことも、これが終ってからでいいから、場所を教えてくれるかい?」

 そう圭司が言うと、ステラに抱かれたケイは最初少しためらっていたが、大きく頷いて、まず警察署の場所を圭司に告げた。

 車は静かに警察署の駐車場に滑り込んだ。


 ニューヨーク市警アミティ分駐署に入ると、まずは総合受付のような場所へ向かった。すでに十人ほどが並んでいる。そこで用件を告げると、その用件に応じた課の場所を案内されるのだ。

 圭司が「人を探している」と言うと、建物の二階にある課に行くように言われ階段を昇ってその場所へ向かった。。


「ハイ」

 窓口には中年の体格のいい女性の警察官がカウンターの向こうに座っていて、圭司ができるだけ印象をよくするように笑顔で愛想よく声をかけると、老眼鏡だろうか、彼女は少し下にずらした眼鏡越しに圭司を見て微笑んだ。

「こんにちは。ええと、ご用件は?」

 見た目より優しい口調で彼女が言う。

 ——さあ、大事なとこだ。

 圭司は微笑みを絶やさないように、怪しまれないように、できるだけ丁寧な言葉で窓口の彼女に話を切り出した。

「実は友人に頼まれて、家出人捜索の届出に来たんだけど」

「おや、それはご心配ですね。ええと、家出の兆しとかはあったの?」

「ええ。なんか、マンハッタンの方へ行きたがってたみたいで」

「おいくつぐらいの方?」

「来月には十一歳になる女の子でね。どうも華やかな街へ遊びに行きたいって前々から言ってたらしいんです」

 窓口の女性は机の脇のキャビネットから紙を一枚取り出し、圭司の目の前のカウンターへ置く。

「十一歳ですか。女の子なら一番華やかな街とかに興味が湧く頃ですわ。じゃあ、この書類にいなくなった子の名前とか、髪の色、身長、体重……これは痩せてるとか太ってるとかの外見的な特徴を含めて、できるだけわかりやすく。それから家からいなくなったときに着てた服がわかればいいんだけど。あと、いつからいなくなったのかとか、その辺をできるだけ詳しく書いてくださいね」

「ああ、ありがとう。全く最近の子は何を考えてるんだか、歳をとるとわからなくなります。無事だといいんですが」

 圭司が心配そうな声で言う。

「昔からそうですよ。思春期になる女の子なんて特に。でも、そんな子の場合、二、三日もすると帰ってくることも多いんですよ」

 届けに来た圭司を心配させまいという配慮だろう、彼女がそういう。

「そうだといいんですがね」

 彼女の言葉に少し安堵した素振りを見せて、それから圭司はボールペンを持っておもむろに書類を書き始めようとした手を一旦止め、

「ああ、そうだ。その前に確認してもらっていいかな」

と彼女に聞く。

「なんでしょ」

「実はその子、この街外れにあるストロベリーハウスという施設の子なんです。私はそこの奥さんから頼まれてきてるんだけど、ハウスのご主人が警察に届けなきゃとか言ってたらしいんですよね。もしかして、すでに届けてるってことはないですよね? 女の子の名前はケイ・タカハシというんですが」

「ああ、ありえないことはないですね。ちょっと待ってくださいね。ええと、ストロベリーハウス、ストロベリーハウス、のケイと……」

 窓口の彼女がパソコンの画面を見ながらキーボードをカチャカチャと打ち、

「どうやら届出はまだされていないようですね」

「あっ、そうですか。じゃあこれで私も奥様からの依頼を果たせそう……、おっと電話だ」

 そういうと、圭司はくるりとカウンターへ背中を向け、携帯電話を手にして耳に当てた。もちろん本当に着信などあったわけではない。

「はい。はいそうです。ええ、今警察へ来てて」

 チラリ、チラリと横目で警察官を見る。

「えっ、見つかった? 帰ってきたんですか? ええ、はい、はあ、よかった。じゃあ届出はいらないと。あっ、はい。わかりました。すぐ帰ります」

 そういうと圭司は二つ折りの携帯電話をパタリと閉じて窓口の彼女を見た。今の電話の様子から届出がいらなくなったと彼女も察したらしい。満面の笑みを浮かべている。圭司は少し照れた顔をし、頭をかきながら、

「あなたの言うとおりでした。つい今、ハウスへケイがケロッとして帰ってきたらしいです」

「まあ、ご無事だったのならなによりですわ」

「いやあ、せっかく勇気を出してここまできたのに、無駄足でした。あなたにもとんだお手間を取らせましたね。申し訳ない」

「あら、いいんですのよ。こちらは仕事ですから。どうぞ帰って顔を見てあげてください」

 優しくそう言う警察官に圭司はヘラヘラと笑い、何度も頭を下げながら部屋を出た。そして部屋を出た途端に、それまでと打って変わって表情が険しくなる。

 ——少なくとももう四日目なのに、届出もしてない、か。

 出口に向かう階段でしばらく立ち止まって考えた圭司は、昨日の夜考えた、ある一つの決断をしたのだった。


「もし、今日から住む場所が変わるとしたら、ケイはどう思う? うれしいかい?」

 警察からステラとケイの待つ車に帰ってきた圭司は、エンジンを掛けたが車は動かさず、まずケイにそう言った。

 後になってその時のことを圭司が思い出そうとしても、ケイがなんと言ったのかよく覚えていない。覚えているのはケイの瞳がじっと圭司を捉えて離さなかったこと、首を何度も縦に振ったこと、そしてその大きな目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちたことだ。

「それ、どういう意味?」

 代わってステラが口を開いた。

「もし許されるなら俺がこの子を引き取って育てる、つもりだってことだ」

 そういう圭司に、ステラは微笑みながら、

「圭司なら、そうするんじゃないかって思ってた」

と笑って言った。

「えっ、そうかい? なんでそう思うの」

「だって、私をあの店で雇ってくれた時だってそうだった」


 実は店をオープンするとき、小さな店なので本当は誰も雇わずにできる範囲で一人でやってみようかと圭司は思い、従業員募集の張り紙もしていなかった。そこへ突然現れたのがステラだった。

 前日までに店の準備もすっかり整い、その日は久しぶりにギターを持ち出して路上で弾いて帰ってきたときのことだ。

「この店、いつからオープンするの?」

 店の扉を開けようとした圭司に確か彼女はそう言ったのを覚えている。

「ああ、明日からやろうと思ってるよ。よかったらランチでも食べにきて」

 圭司は彼女をみて、微笑みながらそう返した。すると女は、

「じゃあ、明日から私を雇ってくれない? 今、私には仕事がないの」

と、思いもかけないことを言い出した。

「いや、店が上手くいくかわからないから、当分は人を雇わないで一人でやろうと思ってるのさ。悪いな」と圭司は丁重に断ったつもりだったのだが。

「週給はいくらでもいいから」と食い下がってくる。「私、こんなこと得意だから、絶対あなたの力になれると思うよ」

「でも、まだオープンするところだから、いくら出せるかわからないよ。悪いことは言わないから、仕事なら他を探しなよ」

「じゃあ、売り上げがなかったらしばらくはタダ働きでもいいわ。いい条件でしょ? 暮らしていけなくなったら、突然黙って消えるかもしれないけど」

 彼女——ステラ——は屈託なく笑っていた。

「でも、それじゃあ君に悪い。俺が気が引ける」——流石に、なあ——

「もう焦ったいわね。私、今日は彼氏を待たせてるから今すぐに決めてくれなきゃ時間ないの。お願い、ここで働かせて!」

 懇願するように透き通るような青い瞳で見つめるステラに、ついに圭司は押し切られる格好となり、もう二年以上が過ぎた。結局、店は順調で、今のところステラはまったく辞める気配はない。


「あの時とはだいぶ違う気もするが」

 圭司が笑う。

「あの時、圭司が雇ってくれなかったら、私、希望を失ってテネシーに帰ってたかもしれない」

 照れ笑いをしながらステラが言う。

「大袈裟だな。そういえば、今頃言うのもなんだけど、なんで俺の店に来たんだい?」

「あの日さ、圭司は街角でギターを弾いてたじゃない。何を歌ってたか覚えてる?」

「えーっと、なんだったっけ」

「テネシーワルツよ」

 ——ああ、そうだ。確かに歌った。

「そうだったな」

「そう。優しい声だなって。だから、もう少し聴きたくてあなたの後を追いかけたら、あのお店に着いたのよね」

「ああ、だからいきなり話しかけてきたのか。でも、それがケイと何か関係あるのかい」

 圭司がそう言うと、ステラから笑顔が消えた。

「この子は私なのよ」

 それだけ言うと、ステラはケイをじっと見た。そしてしばらくしてまた語り出した。

「私も同じようにテネシーの施設で育ったの。だから他人事じゃない」

 ステラは日頃からとても陽気な女性だった。そんな陰など見せたことがない。

「それは知らなかった」

「たぶんケイは今は安心して暮らせる場所がないの。だから、こんな子供が大人から夢を奪われる生活をしてたのなら絶対に許せない。なんとかこの子に新しい希望を与えてあげたいって昨日この子の体を見たときに思ったの。でも、私にはどうしていいかわからなくて。あなたが同じことを考えてくれていたのなら、それがとてもうれしい」

 そしてまだ泣いているケイをステラはまた抱きしめた。

「どうしたらいいのかわからないのは俺も同じだ。ただ、俺が育てます、ハイそうですかというわけにはいかないんだろうな。でも、とりあえずはハウスに行ってみるしかないな」

 それだけ言うと、ケイが暮らしていたというストロベリーハウスへ向かって車を走らせたのだった。


   三 風に吹かれて


 ニューヨークにはクリスマスが近づいていた。日本食のお店「ロック・イン・ジャパン」であるが、ケイとステラが嬉々としてクリスマスの飾り付けに勤しんでいた。

 ケイはあれから圭司の部屋で暮らしている。学校もちゃんと行けるようになり、彼女なりに毎日が充実しているようだ。音楽も何度も同じ曲を聴けるようになったことが何よりもうれしいと言いながら、店を手伝っている時も勉強をしている時もいつも音楽が傍にある。

 そういえば、圭司が聴く音楽はケイにとって初めて耳にするものばかりで楽しいらしい。特にお気に入りなのが「We are the World」のようで、初めて聴いた日から何度も一人で歌っていた。

 クリスマスにお店でコンサートをしようと言い出したのもケイだ。圭太がギターを弾いて、ステラとケイの二人でクリスマスソングを数曲歌い、最後にこの「We are the World」をコーラスして終わる計画だということだ。

 ところで、ケイが受け持ちたいと言ったパートが意外で、ダイアナ・ロスとシンディ・ローパーはわかるとしても、歌い出しのライオネル・リッチーであり、それから絶対譲らないと宣言したのがレイ・チャールズとブルース・スプリングスティーンなのはおかしかった。キーが高いので男性パートなら、すっかりマイケル・ジャクソンとスティービー・ワンダーだと思っていた圭太は少し意表をつかれた感じだが、ケイいわく、スティービーはブルースとハモるパートがあるため「悔しいけど圭司に譲ってあげる」らしい。クリスマスに向けて、毎日しゃがれ声を出す練習をしている。

 圭司も生活スタイルに大きな変化があった。それまでは店が終わると一人で酒を軽く飲みながら寝て、昼過ぎに起きる生活だったが、ケイと暮らすようになって、まずちゃんと朝に起きるようになった。二人で朝ごはんを作り、ケイを学校に送り出してから昔みたいにギターを弾く。学校から帰ってきたらケイにギターを教えてあげる約束をしたからだ。週の半分はステラも朝早く来て一緒に朝ごはんを食べている。


   ⌘

 

 ストロベリー・ハウスの管理人であるジョシー夫妻は、圭司がケイをハウスまで連れて行くといかにも心配していた風を装い、大袈裟にケイを抱きしめて見せたが、警察にも届けていない時点でそれは芝居以外のなにものでもないのは明らかだった。そしてハウスにいた子供たちはみんな、ほとんど色も柄もない男女兼用のズボンと服を着せられていて、ジョシー夫人のジャラジャラ光るものをを首からぶら下げた派手な服とは大違いだった。ケイがいうには、そういう服だと大きささえ揃えておけば男女誰でも着られるからという、ケチな理由らしい。

「で、いくら出すんだい」

 圭司がケイを引き取りたいというと、まず主人のジョシーはそう言った。

「俺たちがこの子を育てるために費やした時間と金の分はちゃんと払ってくれるんだろうな」

 奴は卑屈な笑みを見せながらジロジロと圭司を上から下まで眺め回した。いくらなら出せそうなのか、圭司の品定めをしているようだった。

 ——このクソ野郎。

「この子はずっと探していた俺の娘だ。喧嘩別れした女が連れて行ってしまった娘をやっと探し当てたんだ。俺たちの顔をよく見ろよ。似てるだろ」

 圭司はまずハッタリをかました。本当かどうかわからないが、圭司とケイが初めて会った日にステラが二人を「似ている」と言った言葉に圭司は賭けたのだ。

 親と聞いてジョシーが一瞬たじろいだのを感じた圭司はそのままたたみかけるように、

「まさか俺の娘を金で売り買いしようってんじゃないだろうな」

と、あえて強い口調で押し込んだ。

「ま、待て。俺にだって、このお宅の娘に投資した。それなりのものをもらって何が悪いんだ」

 口籠もりながらジョシーが反論した。だが、最初に金のことを口にしてしまったことで、言い訳をしようもないのは明らかだった。

「確かここは州の認可を受けた半分公的な施設のはずだ。ちゃんと補助金はもらってるよな。ところでその割には子供たちの着ている服が粗末だが、州からもらうその金が、まさか隣にいる女房の派手な洋服代に消えてる——なんてことはないよなあ」

 図星だったらしい。あからさまに夫妻の挙動がおかしくなった。

 ——ここだ。

「おい、金がどうとかいうのなら、今から警察か病院に行って、ケイの体についた無数のアザについて詳しい話をしてもいいんだぜ。なんなら他の子供たちも一緒に警察に連れて行こうか」

 あえて勢いこんで立ち上がってみせた圭司の最後の一押しが明らかに効いた。ジョシー夫妻は青ざめて狼狽しているのが手に取るようにわかった。アメリカは子供の虐待にはことさら神経質な国だ。

「いいか。俺はお前たちが娘にしたこれまでのことは黙っておいてやろうと言ってるんだ。俺の言っていることはわかるな」

 ごくりと唾を飲み込みながら、ジョシーが二、三度頷いた。圭司は再び座り直して今度は静かにジョシーの目を見ながら話を続けた。

「じゃあ、取引だ。まず俺がこの子の身許引受人として相応しいと確認できたから引き渡しを承認したという公的な場所へ届ける書類を作ってサインをしろ。そんな用紙、ここにもあるんだろ?」

 ジョシーが頷いて、震えながらテーブルの近くにある籐で編んだキャビネットの引き出しから用紙を取り出した。

「役人が調査に来ても、その書類の通りに答えるんだ。それが俺が出す唯一の条件だ。それで娘の体の傷については訴訟をしない。イーブンってわけだ」

 圭司がわざとらしく大仰に右手を差し出す、ジョシーがためらいながらも右手を出して握手に応じた。取引は成立したのだ。訴訟社会のアメリカにうんざりしたこともあったが、満更悪くもないなと圭司は思った。


「ケイ、自分の荷物を全部持っておいで」

 ジョシーが書類を作成するのを待つ間に、すぐ近くにステラに抱かれるように座っていたケイに圭司が声をかけると、それが全てなのだろう、しばらくしてケイが小さな荷物を二つほど持って帰ってきた。


 それがストロベリー・ハウスであった出来事だ。帰る車の中で、

「圭司、本当はマフィアじゃないよね?」

とステラから尋ねられた。

「よしてくれよ。ギャング映画を真似たんだけど、もしジョシーが銃を取り出したらどうしようと冷や汗をかいてたんだ」

 そう言って圭司は肩をすくめ、まだ緊張でぐっしょりと濡れた手のひらを見せた。

 カセットデッキからはボブ・ディランの「風に吹かれて」が流れていた。もうだいぶ寒くなっていたが、圭司はアメリカの風をいっぱい受けて車を走らせたい気分になっていた。

 

  ⌘


 十二月一日の「ケイの誕生日」とされている日はささやかに祝った。ケイにとってはこの日はハウスに入った日であり、あまりいい思い出はないと言う。それよりもクリスマスのコンサートで頭がいっぱいなんだと笑っている。いつか、本当の誕生日がわかる日がくればいいと圭司は願った。


 ケイの親権を持つための届出をすぐに出し、裁判所へも足を数回運んだ。独身の圭司が女の子を引き取るということでかなり厳しい質問も飛んだが、驚いたことにステラが自分たちは事実婚の関係で、ケイは二人で育てるのだと堂々と言ってのけ圭司を驚かせた。

「裁判所ではそう言っておけばいいのよ」

と、ケロッとしている。圭司は圭司で、同じ日本人として自分にはケイを育てる責任がある、日本人はそういう民族なんだと裁判官を滔々と説き伏せて、養女とする前の観察期間を与えられた。しばらくの間、監察官による数回の訪問や面接があるが、もう二年以上も今の場所で店を経営していることや、ジョシー夫妻の書類の効果もあり同居を認められたのだ。ケイが誕生日よりもはるかに喜んだことは言うまでもあるまい。

 それから、ケイがとても気にしていたのがハウスに残された他の子供たちのことだ。圭司もすぐにでも子供たちをハウスから助け出してあげたいが、ケイを養女にするための手続きを進めるためには、今はまだジョシーに書かせた書類の効力がどうしても必要だった。正式に裁判所の認可が下りる前には動けないのが圭司はもどかしかった。


「のっぽのサリー」を店の中でケイが歌い出した。教えた覚えはなかったが、そういえば昨日ケイが初期のビートルズを聴いていたのを圭司は思い出した。普通あの曲はプレスリーかリトル・リチャードを思い出すが、おそらく彼女のサリーがポールマッカートニーを真似ていると思ったのは気のせいではないと思う。

 ケイの音楽を吸収するスピードはものすごかった。圭司が憧れて日本から持ってきた古いアメリカやイギリスの音楽をどんどん取り込んでゆく。そして、その歌唱力にも圭司は舌を巻いた。シャウトしても音程を絶対はずさず、まだ子供とは思えないその音域の広さに感心するのだ。おそらくかなり耳がいいのだろう。

 耳がいいといえば、言葉を覚えるのも早いようだ。自分が日本人なら、日本語を覚えてみたいとケイが言うので圭司が少しあいさつ程度から教えてみると、すぐに覚えるからたいしたものだ。たまに日本の歌も聴いて、圭司が教えてもいないのに、いつのまにか綺麗な発音の日本語で口ずさんでいる。

 のっぽのサリーをケイが歌い終わると、お客さんから拍手と歓声が起こる。そして、ケイが突然歌い出すのは「ロック・イン・ジャパン」の名物になりつつあった。


「わあ、雪だ」

 ケイが空を見上げて言ったクリスマスの夜、店を早めに閉めてケイの計画どおりに店の前で圭司のギターにのせてミニコンサートを開いた。定番のジングルベル、マライヤキャリー、ワム、ジョンレノン。ケイとステラが一生懸命に練習したクリスマスソングを二人が一週間かけて飾り付けをしたイルミネーションの前で歌った。ハラハラと粉雪の舞うとても寒い夜だったが、圭司にとってアメリカに来て一番の、とてもいい夜となった。

 たくさんの人たちが足を止めて聴いてくれた。最後の曲はケイのしゃがれ声に大きな歓声が起き、一緒に歌う人も現れ、次々にコーラスに観客が参加して、最後にはその場にいたみんなの大合唱で幕を閉じた。


 ——ああ、いい夜だ。


 ハラハラと舞う雪が止み、そして新しい年が始まろうとしていた。



    四、テッドのお店

 

 テッドのお店はアミティ地区の大通りにあるパン屋だった。店主のテッドは年は六十歳ぐらいか。温厚な人柄でパン職人としての腕もよく、この場所で店を開いてから長い。

 真面目なテッドは、朝の四時過ぎにはお店に出てきてブレックファースト用にいく種類かの美味しいと評判のパンを焼いている。店も朝早くから開けていて、店内で熱いコーヒーも飲めるので、仕事に行く人たちからも喜ばれている。


 ある年の、感謝祭も近い朝のことだった。いつもの年より早くから寒波が訪れたため、ちらほらと雪も舞う日の早朝、焼き上がったパンをいつものように並べ店のシャッターを開けた。店の明かりがまだ薄い路面を照らす。テッドは外に出て空を見上げ、大きく背伸びをする。周りでテッドの店より早く開けている店などもない。

「うー、寒い」

 誰にいうともなしにテッドは独り言を呟き、踵を返して店内へ入ったとき、背中の方から微かな音がした。

 ——こんな早くから来る人がいるからな。いつもより早くから開けててよかったかもな。

 そんなことを思いながら音のした方を振り向くと、店の一番入り口に近いところに置いたカゴに入れたパンの一個を、小さな子どもが両手で抱き抱えるように持って立っていた。東洋人だろうか、短く刈り込んだ黒い髪と黒い瞳。こんな寒い早朝にもかかわらず、上はタンクトップ一枚を着ただけで下はジーンズ。靴下はなくボロボロのスニーカーを履いており、よほど寒いのだろうか紫色の唇が震えていた。

 おかしなことに、子供にもかかわらず周りに誰もいない。もし万引きならすぐに駆け出すはずだが、その子はパンを抱いたままテッドと目が合っても逃げようともしなかった。ただ、痩せ細っていて、たぶんお腹が空いているのではないかと思った。

 ——警察を呼ぶまで預かるか。

 そう思ってテッドが子どもを呼び寄せて話を聞こうとしたそのときに、店の奥にあるオーブンから次々に焼き上がりの合図のブザーがなった。すぐに行かないとオーブンの予熱でパンを焼き過ぎてしまう。

 ——仕方ねえ。

 時間をかけて焼き上げたパンだ。失うわけにはいかない。テッドは子供に向かって、

「それ、そこに座って食べながら待ってな」

 レジの近くにある椅子に向かって顎を突き出してそう言うと、にっこりと微笑んで、それからおもむろにオーブンに向かったのだった。


 ひと仕事終わってテッドが店先に出てきたときにはもう子どもの姿はそこにいなかった。店の外に出て辺りを見回してみたが、子供の姿はどこにもなく、代わりにいつも一番に店に来るブレンダという婆さんがそこまで来ていた。

「おはよう」

 ブレンダはテッドにそういうと、店内のいつもの場所でクロワッサンを二つトレーに乗せてレジに並んだ。

「ブレンダ、その辺で小さな東洋人の子どもを見かけなかったかい?」

 テッドが聞くと、

「ああ、さっきパンを抱いて寒そうな格好で走ってったよ。あんな格好でパンを買いに行かすなんて、ひどい親もいるもんだね」

 まったく許せないよ。私らの若い頃はさ、とぶつくさ言いながら、いつものように二ドル五十セントをレジのトレーに置いた。

「ああ、まったくだ」

 テッドはそれ以上言わず、だが、気になって何度も外を見ていた。


 それから四日ほど経った十二月に入る前のことだ。お昼前頃だったか、東洋人の男性が店に入ってきた。小学生ぐらいの同じ東洋人の子どもとブロンドの若い女が一緒だった。

「この子を覚えてますか」

 東洋人の男は、連れている子どもをテッドに見えるように前に出した。東洋人の顔は見分けがつけにくい。だが、ほんの数日前に同じぐらいの年頃の子どものことで気掛かりなことがあったばかりだ。

「顔をよく覚えてるわけじゃないが、何日か前にパンをあげた子に似てるな」

 テッドがいうと、男は頭を一度下げ、

「この子がパンをこの店から黙って持っていったと聞いてきたんだ」

という。

「あのパンはこの子にあげたんだ」顔の前で右手を左右にひらひら振ってテッドは否定した。

「いや、この子が盗んでしまったと気にしてるんだ。この子のためにも、ここは黙って俺に払わせてくれないか」

 そういうと男は上着のポケットから財布を出した。

「いや、あのパンは盗んだんじゃないが、そういうならここでコーヒーとパンを食べていってくれれば、俺はそれで十分だ」

 テッドは男にそう言うと、女の子の頭に手を乗せて、

「この間のパン、美味しかったかい?」

と優しく微笑んだ。女の子は小さく頷く。テッドが最初に彼女を見たとき、短い髪で古いジーンズだったが、今日はスカートだ。

「ありがとう。じゃあそうさせてもらうよ」

 男は一旦出した財布を仕舞いながらそう言うと、隣にいたブロンドが、

「ケイ、好きなパンを選んで」

と手をつないで女の子を促し、女同士でトレイを手に取って店内を回りながら楽しそうにパン選びを始めた。

 ——そうかい。君はケイって名前なんだな。

「娘さんかい?」

 テッドが男に話しかけた。パンを選んでる二人の様子をうれしそうに見ていた男は、テッドの顔を見ると、何度も頷きながら、

「ああ。今日から俺の娘なんだよ」

と笑った。

 ——そうか。あの子に安心して帰る場所ができたのか。

「そうか。幸せにしてやってくれ」

「頼みが一つあるんだが、来週の土曜日にもう一度この時間に来るから、パンを焼いていてもらえないか。七人でひとり二個、いや三個だ。出来立ての美味しいパンを食べさせてあげたい子どもたちがまだこの街にいるんだ」

「わかった。まかせとけ」

 テッドがそう返事をする。

「俺は高梨圭司。圭司と呼んでくれ」

と言いながら男が差し出した右手を、テッドもしっかりと握った。

「俺はテッドだ。また三人で俺のパンを食べに来てくれ」

「ああ、約束する」

 そこへパン選びの二人がとてもうれしそうに、トレイに山盛りにしたパンを持ってきた。それからミルクたっぷりのカフェオレを二つとブラックのコーヒーをひとつ。

 外は冷たい風が吹いてもうすぐ寒い十二月だが、今日の店内はひときわ賑やかで暖かく感じたテッドだった。



    五、夢のカリフォルニア


 夜中にハッと目が覚めて、圭司はそれが夢だったと気づき汗を拭った。アメリカに来てから十年をとっくに超えたが、未だに日本で別れた紗英の夢をときどき見ることがある。自分ではもう未練があるとは思っていないが、なぜか日本の夢を見る日は必ず紗英が出てくるのだ。

 違うことといえば、以前はけんか別れした時の紗英の怒った顔が夢に出てきていたが、この頃はなぜか笑っている。


 圭司は大学生の頃からプロのミュージシャンを目指してデュオのグループで活動していた。学校近くの和定食屋「蓮さん」でバイトしつつ、いろんなオーディションを受けたりもしたが、思うようにデビューするには至らなかった。その頃に紗英と知り合い付き合い始めた。

 二十代後半でアメリカに渡りたいと思うようになったが、デュオの相方はそこまでの夢は追えないといい、結局相方である誠とは別れ、圭司はソロで活動を始めた。

 当時、圭司が好きだったのは「カリフォルニアの青い空」という曲だ。その爽やかな曲調を真似てギターを鳴らし、いつしか本当にアメリカの青い空に憧れを抱いた。英語は意味もわからない程度の語学力しかないが、ギターの腕には自信があったのだ。

 三十歳を過ぎてまだ夢を追い続ける圭司は、十年近く付き合ったままだった紗英とよくけんかをするようになった。紗英は落ち着いた穏やかな生活が欲しかったようだが、圭司はいつまでもアメリカしか見えていなかったのだ。

 そしてある日、つまらないことでけんかしてついに紗英が一緒に暮らしていた部屋を出て行ったのを期に、圭司はアメリカにひとりで渡った。カリフォルニアからスタートして、だんだんと厳しい現実にやっと目が覚め、気がついた時には四年間が過ぎ、やがて生活のためニューヨークにあるボブのレストランの厨房で和食のコックとして働くようになっていた。

 そのレストランのオーナーはボブ・ストックトンという。当時アメリカで始まりつつあった和食ブームを自分の店でも取り入れようと和食が作れるコックを募集したところ、圭司が応募してきたのだ。

 このボブの作戦は功を奏し、彼のレストランは繁盛を極めた。圭司が働いた5年ほどでボブはニューヨークに三店舗を構えるまでになったのだ。ボブは和食路線の功労者である圭司にとても感謝し、ボブの出資で圭司に小さな店を持たせてくれた。店は独立採算であるが、もしうまくいかなければ早めに店をたたんで、圭司は再びボブのレストランで働けるという破格の契約だ。それが圭司の店「ロック・イン・ジャパン」だった。


 アメリカに来てから英語が理解できるようになるにつれ、「カリフォルニアの青い空」が爽やかなカリフォルニアの青い空を歌った曲ではなく、アメリカでの成功を夢見てスペインから西海岸へ渡り、なかなかうまくいかなかった作曲者アルバート・ハモンドの打ちひしがれた気持ちを歌った曲だと知った。そしてそれは、圭司の心そのままの歌だったのだ。


「ねえ、圭司。この曲なんて曲?」

 いつものようにソファにひっくり返ってヘッドホンで音楽を聴いていた圭が片耳の方をはずして圭司に聞いた。

「ん?」

 圭が片方だけ外したヘッドフォンに耳を近づけると曲はちょうどサビの部分だった。

 ——南カリフォルニアには決して雨は降らない。だけど誰も教えてくれなかったんだよ。ここにも土砂降りの雨が降ることがあることを。

「カリフォルニアの青い空という曲だ」

 チクリと胸を刺す痛みを感じながら圭司が圭に教えると、よっぽど気に入ったのか彼女は最近、圭司から教えてもらっているギターを取り出して弾きながら歌っている。最初に勘違いしていた子の曲を、英語がわかる圭はどんなふうに捉えているのだろうと圭司は思った。

 ——彼女にもいつか憧れの地ができるのだろうか。


 ⌘


「私の名前を日本語で教えて」

 圭がそう言ったのは、三人の路上クリスマスコンサートの後のことだ。

「日本語の名前?」

「そう。圭司の持ち物に日本語で名前を書いてるでしょ? 私の名前も日本語で書けるようになりたいの」

 それを知ったらこれから何か特別に楽しいことが起こりそうだというような、キラキラした顔をして圭が言うので、圭司は少し考えて「高橋 圭」を漢字とひらがなで紙に書いた。「圭」という漢字はもちろん当て字だが、覚えやすいように圭司と同じ漢字を使って彼女の名前に当てたのだ。漢字には書き順というのがあることを教えると、圭はそこにペンがあると音楽を聴きながらでも毎日自分の名前を練習をしていて、ステラに自分の名前を披露した。

 圭が日本語で自分の名前が書けることを羨ましく思ったらしく、ステラまでもが自分の名前を漢字で書けと圭司に言い出して困った。仕方なく圭司が調べるうちに彼女の名前「ステラ」がラテン語が語源の「星」を意味することを知り、圭司はステラには「星」という漢字を教えるととても喜んでくれた。残念ながら苗字は思いつかなかったが。

 

  ⌘


 ところで、一緒に住み始めてから、日本から持ってきている圭司の音楽カセットテープを、圭は凄い勢いで聴いていた。どうやら圭司コレクションをひとつ残らず制覇するつもりらしい。そんなある日のことだった。


「圭司、これは誰の曲?」

 いつものようにヘッドホンで音楽を聴いていた圭が、また片耳の方を外して圭司に聴いた。圭はお気に入りの音楽が見つかると、こうやって圭司に曲名や歌っている歌手の名前を聞くのだ。だから、圭司もいつものことと思い、何も気にせずに圭が外したヘッドホンの片側から漏れる音に耳を近づけて、思わずごくりと唾を飲み込んだ。

 ——俺の、曲だ。

 音楽を諦めてから、二度と取り出すまいと決めて、ガラクタと一緒に箱の中にしまっていたはずだった。

「これ、どこにあった?」

「この箱に入ってたの」

 そう言って圭はカセットテープがたくさん入った箱を差し出してきた。どうやら引越しの時に慌てていたので全部まとめてその箱に突っ込んだみたいだ。テープには圭司が作曲したがどこにも採用されなかった曲が十曲ほど入っていたはずだ。

「あー、俺が作った曲かな……」

 少し照れながら圭司が言う。

「えーっ! 圭司って曲が作れるの? すっごーい!」

 本気で驚いている圭の反応に、むしろびっくりする。

 ——いや、全く売り物になりませんでしたがね。

 作った時は名曲ができたと思い込んでいたのが今更ながらに恥ずかしいが、そういう自分の中の黒歴史を圭司はグッと飲み込んだ。

「作曲なんてコツを覚えれば、誰でもできるようになるよ。音楽なんてそんなもんさ」

とその時は「そんなこと大したことじゃない」とお茶を濁したつもりで言ったのだが、

「私にも教えて!」

と、あれほど音に対する感性が高い彼女がそう言い出すことは今にして思えば必然だったのだろう。それが圭にギターを教え出したきっかけだった。


 最初は圭司のギターで練習を始めたのだが、彼女の体には大きいせいだろうか、圭の歌に感動したあの初めてのドライブの時ような感性がギターからは、妙にリズム感を感じない。

 音階とコードを教えるとそこはすぐに理解したみたいだが、どうにもリズム良く右手がピックを動かせない。

 ——まだ子供だからかな。

 そう思いながら、圭司は練習を止めて休憩をとり、店のお昼の開店時間に間に合うように、二人分の早めのお昼ご飯を用意した。その間にも圭はギターの練習に余念がなかった。

「圭、ご飯食べようよ」

 圭司が声を掛けると名残惜しそうに圭は練習をやめ、食卓についてスプーンを取ったのだが、その時になって圭司は初めて気がついたのだ。

 ——俺は、バカなのか! 圭は左利きじゃないか!

 そうなのだ。圭のギターのリズムが狂っているのは、利き手が違うのだ。毎日一緒にご飯を食べているくせに、そこに全く思い至らなかったのだ。圭司は間抜けな自分を大いに反省するしかなかった。


 そこで店のランチタイムが終わるといったん店を閉め、圭司はステラと圭を連れて近くにある楽器店へ向かうことになった。もちろん左利きの女の子用のギターを買ってあげるためだった。

「私が自分のギターを持つ日がくるなんて! ああ、神様はなんて罪作りなことをするの! お勉強する時間がなくなっちゃうじゃないの! きっともうこのギターで私も三曲は作れるようになったに違いないわ!」

 いちいち大袈裟な表現で喜ぶ圭が、新しいギターで作れると思う曲がなぜ三曲だったのかは未だにもってわからないが、買ってもらった真新しいギターを愛おしそうに抱え、空まで飛んでいってしまいそうになるほど舞い上がりながら、神様と圭司に感謝の言葉を並べたのは言うまでもあるまい。

 ところで、圭司がふと気がつくと、ステラはキーボードの前に立ち、鍵盤に指置いてCの和音を鳴らした。

「あれ? ステラってピアノかなんかやってたの?」

 圭司が話しかけると、

「施設にはピアノはなかったけど、小さなキーボードならあったのよ。これでも少しは弾けるのよ」

と言いながら、ビートルズの「レット・イット・ビー」のイントロ部分をゆっくりと弾き出した。するとすぐ近くに圭が来て、ステラの弾くキーボードに合わせて歌い出したのだ。そのうち店内にいた人たちが、いつの間にか少しずつ二人の周りを取り囲むように集まり演奏と歌を楽しんでくれていた。

 そんなことがあって、リーズナブルな日本製のキーボードも「ロック・イン・ジャパン」に置かれることになった。

 ちなみに、レット・イット・ビーはビートルズの最後のアルバムとして発売されたものだったが、ビートルズならどちらかというと初期のシンプルな曲たちが好きだと圭は言っていた。


 圭司が圭にギターを教え始めてしばらく経った頃、どこかで聴いたことがあるような曲を圭が歌い始めた。歌詞は英語になっており、曲も原型がまったくわからないほど大胆にアレンジされていたが、間違いなく例のカセットテープに吹き込んでいた圭司が作ったアメリカへの憧れを歌った曲「遥かなる大地」だと気がついた。

 ——そうか。こんな展開にアレンジにしたら、もっといい曲になってたんだな。

 圭の歌を聴きながら、しみじみとそんなことを圭司は思っていた。


「今の歌詞は何?」

 圭が英語で歌った「遥かなる大地」は、歌詞の意味がほとんど繋がってなかった

「適当よ。だって日本語の歌詞の意味はわかんないんだもん」とあっさりという。

 今の「遥かなる大地」は即興で歌ったらしい。確かにオリジナルの日本語詞のままでは単語の途中をぶった斬るような圭のアレンジだったが、そういうところが逆に格好良く感じたりもする。むしろ、その方が正解だったのではないかと圭司は考えていた。

 そこで、圭司は英語で歌詞を組み直してみることにした。十年もアメリカに住むと英語の歌詞も書けるようになったが、圭が歌ったリズムを完璧に覚えているわけではないため、言葉を何度も入れ替えたり、日本語と意味が変わらないようにしながら別の表現を入れたりして、なんとか英語バージョンの「遥かなる大地」が出来上がった。

「圭、この歌詞でもう一度歌ってもらえるかい?」

「わかった」

 曲のタイトルは「OVER THE SEA」とした「遥かなる大地」を圭が歌い出した。圭の歌うバージョンは実にソウルフルで、圭が歌い方が大好きだというレイ・チャールズを思わせるような心に染み入るような曲調に仕上がっている。それはまるで若い頃に作った曲が時間をおいてワインのように熟成したかのようだ。

「最高だ、圭。この曲はもう君が生まれ変わらせたものだ。作曲者を名乗ってもいいよ」

 圭司は原曲とは全く違った味わいの曲に仕上げた圭のセンスに惜しみない拍手を送った。

「でもこれは圭司の曲でしょ。私はまだこんな曲は作れない」

 圭は少し照れたように言う。

「じゃあ、歌詞は俺が書いたから、Kei & Keijiの初めての共同作品だ。それでどうだい?」

 圭司がそういうと、圭はとてもうれしそうで、それからいつものように店の前コンサートをやる時には「OVER THE SEA」は彼女の定番ソングになった。


 それからは圭はキーボードをステラから教えてもらっている。ギターのコードと鍵盤の和音とのつながりを少しづつ身につけているようで、半年もするとオリジナルの短い曲も作り始めたようだ。まだ圭司もちゃんとは聴かせてもらえてないが、作詞も始めたようで熱心にノートに何か書いているので、そのうちに何か披露されるだろうと思っていた。


  ⌘


 圭司と圭が二人で暮らし始めて半年が過ぎた。何回も面接があったりもしたが、ステラが二人に深く関わってくれたことがやはり大きく、最終的に役所から里親として認められた。

 ストロベリーハウスには、その間も月に一度、テッドの店でパンを仕入れては三人でハウスの子供たちの様子を伺うように訪問していた。そして、里親として認可が下りた日に、その足でアミティ地区の役所に駆け込んだ。最初は怪訝そうにしていた担当者も、未だに圭の背中に残る傷をみて顔色が変わった。


 ジョシー夫妻がハウスから追放され、訴追されたと聞いたのは、それか二週間ほどしてからのことだった。あとで聞いた話だが、ジョシー夫妻はもともとあのハウスを経営していたわけではなかった。圭がハウスに預けられた十一年前は別の人物がハウスを経営していたが、人が良過ぎてハウスの経営が厳しくなったところを、あのあたりの不動産を手広く持っていたジョシー夫妻がハウスの土地の債権を盾に強引に経営を引き継ぐ形だったらしい。

 何より夫妻の退場を一番喜んだのはもちろん圭で、彼女の中では自分が圭司に引き取られたあとも、ずっと残されたハウスの仲間たちのことをいつも心配していたようだ。圭司とステラは穏やかに眠る圭の寝顔を見ながら、やっとこれで彼女の心のつかえを取ってあげられたことに胸をなでおろし、二人でささやかな祝杯をあげた。


 全てが落ち着いた後、圭司は圭に関わるもうひとつの問題に踏み込む決意をした。それは、圭がなぜストロベリーハウスに預けられたのか、両親はどうしているのか、それをはっきりとさせようとすることだ。

 圭は別に知らなくてもいいと圭司に言うのだが、圭司としては、これから二人で暮らしていくにしても、少なくとも圭がどこからきたのかは知っておきたかったのだ。



    六、神さまの指先


 圭も行くというので、土曜日まで待って再びアミティへ向かう。今日はステラがどうしても用事があって行けないらしく、ものすごく恨めしい目で二人を見送った。

 愛車のピックアップトラックを運転しながら、いつもステラがいて賑やかな車内が彼女がいないだけで少し寂しく感じるが、いつものように日本から持ってきた音楽たちがその寂しさを少し和らげてくれた。


 途中でいつものようにテッドのお店でストロベリーハウスの子供達のためにパンを買い、ついでに圭と圭司のふたりのお昼ご飯のためにチーズ入りのフランスパンも買ってハウスへ向かった。

 ストロベリーハウスはジョシー夫妻を追い出してからはニューヨーク市から委託された管財人が管理しており、ロバートとミッチェルいう六十歳ぐらいの夫婦が雇われた管理人だった。圭司が持ってきたパンをテーブルの上に置くと、色とりどりの服を着た子供たちがすぐに集まり、たちまちパンはなくなっていく。管理人のふたりも優しい笑顔で子供たちを見つめていて、ジョシー夫妻が管理していたこれまでのような悲しい出来事は起きそうもなくて胸を撫で下ろす。

 ところで、今日ここにきたのはジョシー夫妻の前任者であり、圭がこのハウスに預けられた時の事情を一番よく知っていると思われる人物を訪ねたかったからだ。ハウスに着くとロバートたちは圭司から事前に電話で用件を聞いていて、できる限りのことを調べていてくれた。

「その時の管理人はトーマス・ジュニア・サスペンダーという方でね、奥さんが交通事故で亡くなって、ひとりでハウスの管理人を続けるのが難しくなったらしいんだよね。ハウスを改築するための借金もあって、それを口実に土地ごとジョシーたちに乗っ取られた感じなんだよ。ちゃんと市とかに相談すればまだそこまでのことはなかったんじゃないかって周りの皆んなも言っている。無知につけ込まれたって噂だよ」

 ロバートが少し残念そうな顔で圭司に状況を話す。

「そのサスペンダーさんはまだ生きてるの?」

「ああ。マサチューセッツのボストン郊外のホームにいるらしいよ。ここで友達だった人がそう言ってる」

 ——マサチューセッツか。ニューヨークの東側にある隣の州だな。ちょっと長距離になるか。

「ありがとう、ボブ。住所はわかるかな」

「ああ、住所を書いたメモをもらってるよ」

 そう言ってロバートは一枚の紙を圭司に渡した。圭司は感謝の意を伝え席を立ち上がる。

「圭、行くよ」

 そう声をかけると、ハウスの他の子供たちと楽しそうに遊んでいた圭が皆んなとハグをして別れを告げてから圭司のところへうれしそうに駆けてきた。

「もうすっかり親子なんだね」

 ロバートにそう言われ、圭がちょっと照れるように笑って圭司の腕に手をかけた。


 ⌘


「これからボストンまで行ってくるよ。帰りは遅くなるから、悪いけど店の方は臨時休業だ」

 ステラに圭司が電話をすると、スマホの向こうから彼女の悲しそうな声が聞こえた。

「やっと手掛かりを掴んだんだ。この機会を逃したくない。このお詫びは今度するからね。ごめんな」

 そう言って電話を切り、車を発進させる。ふと助手席をみると圭が圭司を見ながら意味ありげにニヤついている。

「なんだい、その顔」

「圭司って、ステラに優しいよね。初めて出会った日から思ってたけど、ふたりは付き合ってるの?」

 相変わらずニヤニヤしながら圭がいう。

「あのさ、俺とステラは歳がいくつ離れてると思うんだ。彼女と俺じゃ釣り合わないさ」

「あら、女は歳なんか気にしないわ。ステラは絶対に圭司が好きだと思うんだけどな」

「バカ言え。子供のくせに大人をからかうなよ」

 ——このませたガキめ。

「ほら、音楽が止まってるぞ。そんなことはいいから、カセットを取り替えてくれよ」

 圭司にそう言われて圭は適当にカセットテープをたくさん入れたバッグに適当に手を突っ込み、取り替えたカセットテープを押し込んだ。まるで意図したように古い音楽が鳴り出した。圭司は調子良く鼻歌でなぞる。

「これ、なんて曲?」

 まだこの曲までたどり着いていないのか、圭が聞く。

「これはな、これから行く場所の曲さ」

「これから行く場所?」

「そう、ビージーズの『マサチューセッツ』って曲だ。アメリカ以外では世界中で大ヒットした曲なんだぜ」

「日本でも?」

「もちろん。ナンバーワンヒットになったんだよ」


 ——マサチューセッツに帰ろうか。


 車はそのマサチューセッツ州へ向かう。年を重ねるごとに捨ててきた日本への思いが強くなる圭司の気持ちに寄り添うような切ない曲が胸に沁みた。


   ⌘


 ボストンに着いた二人は、ロバートからもらったメモを頼りにサスペンダー氏がいるという州立の老人ホームへ向かった。ボストン近郊の大西洋を望む海辺にある白い外観が綺麗な平家の建物だった。

 受付の女性にサスペンダー氏への訪問を伝えると、ロビーから外に出た海の見える芝生の広場にいると教えてくれた。近くまで案内してもらい、言われた特徴の人物を見つけた。車椅子に腰掛けて海を見ており、後ろに少し離れて介護士らしき男性が立っている。

「サスペンダーさん?」

 背中から声をかけると彼は上半身を少しだけ動かして首だけ振り向き、「ああ、どなたかな」と、返事があった。

 圭司と圭はそのまま歩いて車椅子に座るサスペンダー氏の前に立った。

「ニューヨークから来ました。高梨圭司と言います」

「それはまた遠いところから。さて、私らどこかで知り合いでしたかね」

 サスペンダー氏は一旦はじっと圭司の顔見たが、興味なさそうにまた海に視線を戻した。

「今日はストロベリーハウスの昔話を少し聞きたくてニューヨークから来ました。サスペンダーさん、この子がわかりますか」

 サスペンダー氏は今度はちゃんと視線を合わせた。

「ストロベリーハウスか。懐かしい名前だな」そういうと、圭司の横に立つ圭の顔をじっと見た。「ああ、待て、待ってくれ。そうさ、私は全部覚えているさ。この子は……、そうだな、名前は……」

 そこまで言ってサスペンダー氏は視線を落として黙ってしまう。そのとき少し離れたところにいた介護士の男性がそっと近寄ってきて、圭司に小声で「軽い認知症なんですよ」と耳打ちをした。圭司は介護士に「ありがとう」と口を動かし、片手で感謝の意を表した。

「サスペンダーさん、この子はストロベリーハウスにいた圭、高橋圭という女の子です。実はこの子がストロベリーハウスに預けられた経緯を聞きたくて来たんですが、だいぶ昔のことですけど、少しでも何か覚えていませんか」

「そうさ、覚えてるさ。この子はケイだ。うちには東洋人はケイしかいなかったよ。あれからもう二週間になるが、ママはもう迎えに来たかい」

「この子の母親を覚えてるんですか」

「そうだな。メリンダならよく覚えてるだろう。キッチンにメリンダがいるはずだから聞いてみてくれ」

 見た目はそうでもないが、どうやらかなり記憶が混乱しているようだ。メリンダというのはサスペンダー氏の亡くなった奥さんだとロバートから聞いている。

「この子の母親は二週間したら迎えに来る約束でもあったんですか」

 さっき「二週間」というキーワードになりそうなことを彼が口にした。圭司は根気よく彼の記憶の引き出しに話しかけた。

「そうさ。十二月だったか、とても寒い夜だった。日本から生まれてまもない子供と一緒に人を探しにきたと言ってな。子供がまだ小さいから連れて歩くのは難しい、二週間ほどしたら迎えにくるからしばらく預かってくれとメリンダに言ってたな。拙い英語だったが意味はちゃんと理解できたよ。ママはまだ迎えに来ないのかい」

 所々時系列が狂うが、まだ少し彼の記憶は生きているらしい。

「母親は子どもと一緒に日本から来たと言ったんですね。——名前とか何かちゃんと書いたものはないんですか」

「メリンダが寒そうだから、しばらくならと言ったら、彼女はとてもうれしそうだった。必ず迎えにくると言ってたから詳しくは聞かなかったよ。ああ、子供の名前だけは紙に書いてもらったな」

「その名前を書いた紙はまだありますか」

「そうだな。メリンダが子供を引き取りに来るまでしまっておくと言ってたから、どこかそこらの引き出しにでも入ってないかな。メリンダに聞けばわかるはずだ」

 そう言ってサスペンダー氏はキョロキョロとあたりを見回した。どうやら過去と今に境目がないようだ。

「サスペンダーさん、もうひとつだけ……」

「なんだい、水くさい。トムと呼びなよ。友達なんだろ」

 いつの間にか圭司とサスペンダー氏は友達になっていた。そのとき隣にいた圭が突然、「トム? アンクル・トム?」と何かを思い出したようにいうと、サスペンダー氏は、「やあ、ケイ。今日はダディと一緒かい」と優しそうな笑顔で答えたのだ。

「うん」

 先ほどからの圭司との会話でサスペンダー氏の状況を子供ながらに察したのだろう、圭はためらいもせずにそう頷いた。

「ごめんよ、今日はケイの大好きなミルクキャンディがポケットに入ってないみたいだ」

 サスペンダー氏はポケットをゴソゴソ探りながら悲しそうな顔をした。

 ——人がよすぎて。

 ロバートの言葉を圭司は思い出す。本当に優しい人だったのだろう。すると、

「アンクル・トム、さっきもらったよ」と圭がそう言いながら左の頬を指さすと、ぷっくらと頬が膨らんでいた。

 ——おや、いつの間に。

 圭司が訝しげに圭を見たが、確かに左頬はキャンディを転がすように動いている。圭はパチンと圭司にウインクをして少し口を開けた。

 ——ああ、舌先か!

「美味しいよ。私、トムのミルクキャンディが大好き」

 圭はそう言って車椅子に座っているサスペンダー氏の右手に手を添えた。サスペンダー氏はその手を取ると、軽く圭を抱き寄せた。


「私、小さかったけど覚えてる。アンクル・トムとメリンダはいっぱい愛してくれたの」

 サスペンダー氏に肩を抱かれ、小さい頃を思い出したのだろう、その頬に一筋の涙を流しながら圭はそう言った。するとサスペンダー氏は急に顔を上げて、

「あの寒い夜、神様がケイに引き合わせてくれたんだ。ケイの母親は帰ってこなかったけど、彼女はとても優しい人だった。この子をとても大事にしていたよ。きっと帰ってこられない何かがあったんだろう。だから、この子を託されたこと、それがわしら夫婦の運命だと思ったさ。だから、神様からこの子がわしらに託された日を誕生日とすることにした。それが神が決めた日だからさ」と圭司の目を見て真顔でそう言った。

 ——まさか、彼は記憶が完全に戻ってるのか……?

 さっきまで世捨て人のように黙っていると感じていたサスペンダー氏は圭司の意に反して今度は饒舌だった。

「わしらがハウスから出ていかなければならなかったことも、すべて神が決めたことなんだよ。君はケイが預けられた日のことを聞きたいと言ったな。母親を探す気なのか?」

 サスペンダー氏は強い視線で圭司に言う。

「そのつもりです。圭と出会った日、あなた方がそう感じたように、それが僕の運命ではないかと思ったんです。だからこの子を引き取ったんです」

「この子には言わなかったが、実を言うとわしらも探したんだよ。日本の大使館にも行った。彼女は日本からこの子を連れてきたと言ったが、だが、ケイ・タカハシという子供がアメリカに来た記録はどこにもなかった。——そうさ、どこにも、だ。おそらくそれが全ての答えさ。この子は神様が連れて来た子供だ。だから、神様のやったことを人間が探り出そうなど、わしら夫婦はしょせん無理なことだと悟った」

 サスペンダー氏が深いため息をついて視線を地面に落とした。

 神様の子供などいるはずもないと思う。サスペンダー氏にそう言うことは簡単なことかもしれない。だが、もしも「なぜそう思う?」とあらためて聞かれてどう答えればいいだろう。返事を探している圭司に、サスペンダー氏は続けた。

「もし君がケイの母親を探すなら、あとはもう神様の指先を辿ってみるしかないんだよ。君にその覚悟があるのか? そうでないとケイがかわいそうだ」

「かわいそう、ですか」

 ——何もしないほうがかわいそうではないのか?

「ああ、そうだ。生まれたばかりの赤ん坊だ。大人ならいざ知らず、赤ん坊の顔など写真を見せられても誰も顔も知らない。入国記録もない。パスポートもない。でも、君が必ず探すと言われると、この子は希望を持つだろう。それでももし見つからなかったら? 見つかりませんでした、で済むのか? この子は一生そのたどり着けない希望という心の着地場所を探して生きることにならないか。そういう生き方が本当にこの子の、ケイの幸せだと言えるのかね」

 突き刺すような視線を受けながら、圭司は答えようと試みる。

 ——これは、宗教問答なのか。


「では、もう探すなとあなたは言うのですか」と問うてみる。

 するとサスペンダー氏は少し笑いながら言う。

「それももう無理だな。そう。もう無理だ。ケイは知ってしまったからな、君が探そうとしていることを。君はもう絶対探すしかない道へ踏み込んだ。あとは残念ながら神様が微笑んでくれることを期待するしか残された道はない。なあ、メリンダ。そうだろ」

 そこまで言うと、サスペンダー氏はキョロキョロと首を動かして——おそらくメリンダ夫人を探しているように見えた。そしてそこに彼女はいないことを悟り、がっくりと項垂れたのだった。それから出会った時のように、まだ黙ってしまったのだった。

 

 確かにそうだ。俺はここへはひとりで来るべきだった。

 サスペンダー氏の言葉に全て賛同できるわけではないが、確かに母親を探すことはまだ圭には言わないでおくべきだったかもしれない。圭司は圭を連れて来たことを激しく後悔した。しかも、もう少し聞きたいこともあったが、サスペンダー氏はもう口を開きそうにないほど顔色が悪くなり、近くにいた介護士に話を止められてしまったのだ。


 さっきの彼は、正気だったのだろうか。そんなことを思いながら、圭司が介護士に頭を下げて帰ろうとしたとき、圭が車椅子に座る「アンクル・トム」の前に立ち、軽く目を閉じて深呼吸をした。そしてもう一度目を開けて彼を見つめ、静かに歌い出した。

 圭は感情を爆発させるような激しい曲が好きだ。それはソウル、ブルース、ロック、カントリーなどのジャンルに囚われない。だが、今歌っている曲は、ひたすら美しかった。こんな曲を圭が歌うところを初めて聴いた気がする。

 ——アメージング・グレイス

 神の施しに感謝する讃美歌が、圭の感情を込めた伸びやかな声でマサチューセッツに吹く風になってゆく。少しずつサスペンダー氏と圭の周りにホームにいた人が集まり出し、人々は黙ってその歌声を心地良さそうに聞いていた。

 歌い終わると圭は恭しく礼をする。人々が微笑んで拍手を送った。そしてサスペンダー氏を見ると、閉じた瞼から涙がほろほろと流れていた。


「私、思い出したの。あの曲は小さい頃、メリンダが私に歌ってくれたの。だから、きっとメリンダが大好きな曲だったと思うの」

 帰りの車の中で、圭はそれだけ言うと黙って窓に流れる景色を見ていた。


 ——君にその覚悟があるのか。


 サスペンダー氏が言ったあの言葉が圭司の頭から離れなかった。

 

 帰りは夜中になることを圭司は電話でステラに告げた。

「何か進展はあったの?」

 そう言うステラに、

「両親を探すということに関してなら、結局、具体的には何もわからないという進展はあったかな」

と圭司は答えた。

「そう……」

 ステラの残念そうな声。

 実際、圭の両親を探すということに関しては手掛かりと言えるほどのものはなかったのは確かだ。サスペンダー氏から聞いた話は、結局は現在でもわかっている圭の年齢とストロベリーハウスへ預けられた日であり、はっきりとわかったことといえば、誰が施設まで連れてきて預けたのかということぐらいか。

 ただ、漠然とだがわかったこともある。ひとつには、圭は日本から連れて来たと母親が言っていたということだ。すでに認知症が始まってるというサスペンダー氏のこのときの記憶が確かなら、これでほぼ圭は日本で生まれた子ども、つまり日本人だと言っていいのだろう。

 それからもうひとつは、圭がどういう状況で預けられたのかがわかったことだ。実はこのとき圭司は大事なことに気がついていなかった。圭という少女が小さい頃からずっと抱えていた心の問題がひとつ解けていたのだ。だが、圭司がそれを知るのはもっとずっと後のことだった。


 時間はもう随分夜中になっていた。マサチューセッツ州のボストンからニューヨークまで約四時と少しの間、圭はいろいろあって疲れたのか、助手席の窓にもたれかかるようにして、だんだんと近づいてくるニューヨークの夜景を眠たそうな目で眺めながら小さく口笛を吹き出した。物悲しそうな切ない音色。

 ——ストレンジャーか。

 ビリージョエルはこの曲で、人は二つの顔を持っていると歌った。本当にサスペンダー氏は認知症が進んでいたのだろうか、それとも追い出されたストロベリーハウスの記憶を自ら閉ざしてしまっているのか。彼が語ったことを圭はどう受け取ったのだろうか。そんなことを考えながら、圭司は黙って圭の口笛を聴いていた。


  ⌘


 帰る途中で電話したとき、ステラが店に寄ってくれと言っていたので、自宅へは帰らずに車は店へ向かう。黙り込んだと思っていたが、いつの間にか圭は眠っているようだ。

 車が店に着いたのは、もう日が変わろうかという時刻だった。店は仄暗く、ひょっとしたらステラも待ちきれずに帰ったのかと思いながら、圭を抱き抱えたままドアに鍵を差し込むと意に反して鍵は空回りした。

 ——開いてるのか? 泥棒じゃないよな……

 そんなことを思いながらドアをそっと開けると、パッと店内のカウンターの上にある明かりがついた。厨房の近くのスイッチを入れたのだろう、カウンターの中からステラが出てきた。

「ステラ、こんな遅くまでどうして……」

「圭司、今日は何の日?」と、ステラがいう。

「ええっと」と声に出しながら考えてみるより先に、

「私がこの店に初めて来た日なんだよ」とステラが笑っている。

 つと視線を壁のカレンダーに向ける。

 ——そうか、九月二十日か。

 店のオープンはその翌日の二十一日だった——

 そうだ、そうだ。その前日にステラから声を掛けられたんだった。明日は開店三周年だ。

「というわけで、こちらへどうぞ」とステラに促され、圭を抱いたまま店の奥のテーブルへ案内されると、美味しそうな料理が並べてある。

「君が一人で準備したのか。こんな大事な日だったのなら、言ってくれれば俺もやったのに」

 そうステラに言うと、彼女は首を横に振り、「今日はこの子のことが一番だったから仕方ないのよ」とにこりと笑ってくれた。


 圭を長椅子に寝かせ、ステラと二人テーブルにつきグラスにビールを注いで乾杯をする。

「君にはとても感謝してるよ。いつもありがとう」というと、ステラがちょっと照れたような顔をした。

 実際、特に圭を引き取ってから、ステラにはどれだけ言葉にしてもしきれないほど助けてもらった。突然真夜中に圭が初潮が始まったときには——あれは里親として認められた日だった——ジーンズが血だらけになった圭をステラが優しく寄り添って見てくれたし、彼女がいなければ男ひとりで右往左往するしかなかった。

 ステラは自分も一緒にボストンに行きたかっただろうに。そう思えば思うほど、ささやかな三周年だったが、彼女の心遣いは一生心に残るだろう、何ものにも変え難い夜となった気がしていた。


 翌日の朝、ステラが帰った後、

「ちゃんとキスぐらいしたの? お腹すいたのを我慢して寝たふりしてあげたんだからね」

と、にやけながら言ったのだった。

 ——やれやれ。



    七、ストロベリーナイト



 圭司が圭を引き取って三年が過ぎた。身体中を傷だらけにして、その幼い顔に暗い影を落としていた少女も、もうすぐ十四歳になる。

 一緒に住み始めたころ、圭をベッドに寝かせ、圭司がソファーに寝ていたのだが、夜中にふと目が覚めると圭がソファーのすぐ下の硬い床に寝たまま、手を伸ばして圭司の上着の裾を握っていたことが何度もあった。ちゃんとベッドで寝るように言っても「うん」と返事はするが、やはり同じだった。だから仕方なくシングルベッドに二人で眠るという生活を一年は続けたと思う。

 いっそダブルのベッドにするしかないかと思ったりもしたが、二年目ぐらいからは段々と一人で眠れるようになったのでそれも杞憂に終わった。

 背も少し伸びた。最近は、音楽が好き——ただしレイ・チャールズやボブ・ディランが好きという現代の少女にしては変わった趣味ではあるが——で、ダンスとバスケとアメフトが好きな、アメリカ中どこにでもいる普通の女の子になったと思う。もう暗い影などどこにもないのだと思っていた。

 音楽について言うなら、最近はフォークやシンプルなロックが好みらしい。自分でも作曲をするようになり、よく店先でボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンだけでなく自分の曲も歌っている。これがまた上手いもので、近頃は圭が歌い出すと、店先に人集りができるほどだ。


「圭司、ちょっとこれを見て」

 ランチタイムの準備が終わり、店を開ける前にカウンターに座ってコーヒーを飲んでいたステラが手にしていたのは、圭が自分で作った曲を書き溜めたノートだった。A五版の小さなサイズのノートで、「Over the sea」のコードと歌詞が最初のページに書いてあるのは見たことがある。

 音を作り出すことに興味を持った圭は、あれから熱心に何曲も作っているのは知っていた。今のところ、三曲ほどしか聞いてないが、そのノートを無造作に店のカウンターに置いたまま今朝は学校に行ってしまい、さっきからステラがそれを見ていた。

「勝手に見たら怒らないかな?」と圭司が気にする。

「別に見てもいいって、あの子がいつも言ってるのよ」

 ステラはそう言って、最後のページを開いたままノートを圭司に渡して、「この歌詞を読んでみて」と言う。


 真夜中に足音がする 今日も悪魔が近づいてくる

 血をすすれ 血を流せ 

 そうさ ストロベリー ナイト

 誰も助けてはくれない だから

 逃げろ この場所から

 逃げろ この街から

 走れ この場所から

 走れ この街から

 そうさそれが ストロベリー ナイト


「これは——」

 そう言って絶句してしまうほど心をざわつかせる不気味な歌詞だった。圭がこんな歌詞を書くような心の影を最近は感じたことがない。もちろん、こんな曲を歌うところなど目にしたこともない。楽譜がないのでメロディはわからないが、コード進行だとブルース系の曲だろう。そしてノートの一番最後に書いてあるということは、最近書かれたということが気になる。


 ——ストロベリー ナイト


 間違いなくストロベリー・ハウスにいたときのことを歌った曲だと思う。ステラも同じことを思っているはずだ。

「あれから三年も経つが、まだあの子の心の傷は癒えてないってことなんだろうな。俺はすっかり勘違いをしていたようだ」何度も詩を読み返しながら圭司が呟く。「どうやったら、あの子が安心して眠れるようになるかな」

「でも、それはまだわからないかも。ひょっとしたら、圭が過去の自分を俯瞰して見ることができるようになったのかもしれないし」

「だどいいけどな。いまだに過去の傷を引きずっているのなら、なんとかして完全に取り除いてあげることはできるんだろうか」

 そう言って、ノートを閉じ宙を睨んだ。


 ⌘


 ランチタイムが終わって、夕方まで店は休みとなる。店の片付けをステラにお願いし、圭司はいつものようにパークアベニューにある日本総領事館に向かった。

 ——神の指先をたどるしかない。

 サスペンダー氏の言葉がずっと胸に刺さっていて、あれから時間があれば圭の出生に関わる何か——神さまの指先が示した痕跡——が見つからないか調べに行くのだ。

 近頃は個人情報保護がやたらと厳重で、十三年ほど前のアメリカへの入国記録を簡単には見せてくれはしない。初めて訪れたとき、係員に事情を説明し、圭がハウスに預けられた日の二か月程度前から「高橋」という女性が入国していないか調べてもらったのだが、「高橋」は日本人にとても多い名前であり、大勢の入国記録があるが、乳児を連れていた女性は該当がなかった。それきり何の進展もない。

 そしてそれ以上、名簿を閲覧したりできるわけでもないが、ほんのわずかな痕跡でも見つかればと思って領事館通いはやめなかった。

 窓口の受付時間は十三時までであるが、日本各地の地域おこしで作られたポスターやカタログなどの掲示物を眺めたり、手に取って読んだりしながら時間を過ごす。圭司が生まれ育った横浜や学生時代に住んでいた東京西部のタウンガイドなども置いていたりして、これがなかなか飽きることがない。

 圭司が学生時代に住んでいたのは中目黒だった。多分帰国者用なのだろう、その周辺の住宅情報なども置いてあり、当時住んでいた頃より街がどんどん大きくなっているみたいだ。

 ——今更日本に帰っても、きっと浦島太郎だな。

 そんなことを思いながら住宅情報をカタログスタンドに返し、何気なく手に触れて取ったのが、横浜にある高校の学校案内だった。

 ——聖華国際学園か。

 学校案内の表紙を見ながら、また日本で別れた紗英のことを思い出していた。


 当時の聖華学園は、そこらの男子高校生にはいわゆる「高嶺の花」というお金持ちのお嬢様が通う高校と認識されていて、系列の違う大学で知り合った正田紗英がそこの出身と聞いて圭司は少し意外な気がした。

「大学まで女子大なんて、つまんないじゃん」紗英はそう言って屈託なく笑っていた。

 圭司の高校時代にはなかった、学校名に「国際」がついて、かつての格式高い学園の運営方針が変わったのかどうかはわからないが、懐かしい響きだった。パラパラと学校案内のページをめくり、あと一年もすれば圭の進学先も決めなければならないと考えた。何かやりたいことがあるんだろうか。そういえば、まだそんな話を一度もしたことがないのだと気がついて、近いうちにゆっくり聞いてみようとそんなことを思いながら、学校案内のカタログを丁寧にブックスタンドに返した。


 ⌘


「日本語を教えて」と圭が言ったのは、二人が一緒に暮らし始めて一年が過ぎた頃だったと思う。圭司が持ってきたカセットテープに入っている日本の曲の歌詞の意味を知りたいのだという。それからは圭司が教えたり、ネットの日本語番組を見せたりしたこともあってどんどん上達し、それから2年経った今、日常会話ならちゃんとこなせるまでになっていた。実際、日本語の歌もかなり上手に歌えるようになっていた。


「なあ、圭は高校はどうしたいんだい?」

 そんなある日、やっと圭と進学について話すことがあった。

「高校、行っていいの?」と伺うような顔で圭が聞いた。

「当たり前じゃないか」

 圭司が言うと、パッと明るい声で「音楽とバスケができるところ」という。つまり、進学したいと初めて口にしたのだ。どうやら遠慮していたらしい。

 それならここの近くにある高校は問題なさそうだ、あとは頑張って勉強すれば大丈夫じゃないかと話した末に、自転車で通えるニューヨーク郊外にある高校を進学先として考えたのだった。それからちょうどステラが店に来たので圭の進学の話をすると、とても喜んでくれた。


 引き取った頃の圭は勉強が少し苦手で、それはストロベリーハウスの不安な生活が足を引っ張っていたのは明白だった。学校は休みがちだったらしく、他の生徒より一年遅れていたのでステラもそのことをとても気にしていたのだ。その子が自分から日本語を習いたいと言い出したのも、環境が大きく変わったことも影響があるだろう。

 最近は、学校の成績も少しずつ上がってきて、行きたい高校も選べる学力はついてきた。だから、圭が高校に行きたいと言ったことが、圭司とステラにとってはとてもうれしいことであったのだ。

「こんなうれしい日は、みんなで乾杯しようね」

 そう言いながら、ステラがワインと葡萄ジュースをいそいそとテーブルに用意する。まだお客も入れてない静かな店内に幸せが溢れていた。


 ——ああ、こんな穏やかな暮らしが俺にもできるなんてな。


 グラスを合わせ、しみじみと飲むワインが美味しかった。日本を飛び出してアメリカ大陸を渡り歩いていた頃を懐かしく思い出していた。そして、手に入れたこんな生活がずっと続くものだと信じて疑わなかった。


  ⌘


 凄まじい「バン」という破裂音がしたかと思うと何かが金属に当たって跳ねるような音。また破裂音と何かが割れる音。反射的に圭司は圭の腕を取って上から被さるように路面に伏せた。その頭上を通り過ぎたのだろうか、再び北側から破裂音がしたかと思うと、ほぼ同時に南側でガラスが激しく割れる音がする。その度に必死に圭を覆い、首をすくめた。

 

 それは久しぶりにストロベリーハウスを訪ねた日のことだった。あれか三年、変わらずに毎月一度は決まってそこを訪れていた。

 そこへ立ち寄る前に、いつものようにテッドの店でパンを仕入れる。大きな紙袋にパンパンに詰めたテッドの自信作を、圭が「私が持つ」と宣言しながら両手いっぱいに抱えて、眠たいと言って降りなかったステラが待つ車に向かうところだった。

 誰かが走る音。バタバタと音がする方向を顔を少し上げてチラリと見ると、複数の男たちが銃を手にして走り過ぎようとしているところで、その向こうにライフル銃を構えたどこかの店主と思われる男。

 ——強盗か!

 もう一度目を閉じて顔を伏せる。

「通りすぎろ!」そう思った瞬間、横腹を蹴られるような強烈な痛みが走り首を掴まれて覆い被さった圭から引き剥がされて転がされた。

「圭!」立ち上がりざまに思わず大声で叫んだが、圭司を蹴り上げた男は圭の腕を掴んだかと思うと地面を引き摺るようにして立たせ、持っていた拳銃を首に突きつけた。

「——動くな。いいか、動くなよ」男は圭を盾にして、今度はライフルを持った男に向きを変えた。「離れろ! ほら、離れるんだ! 娘が死ぬぞ」

 大声で叫び、相変わらず銃を圭の首元に突きつけながら、男はジリジリと後退りをしてその場から逃げようとしているように見えた。

「わかった、わかったから落ち着いて……」だが、そう語りかけようとした圭司に向け、ためらいもせずに男が銃を撃ったのだ。圭司の足元でアスファルトが弾丸が跳ねた。

「俺は丸腰だ。何も持ってない、大丈夫だ。何もしない」

 それでも怯むことなく、圭司は両手を上げたまま、男に語りかけようとするのだが、男が再び銃を圭司に向けた。

 その瞬間——

 銃声がしたかと思うと、男が前のめりに倒れ、その手から銃が落ちた。機を逃さず圭司は駆け寄って男の腕から圭を奪い取ると、落ちた拳銃を蹴り上げた。

 何が起こったのかはわからなかったが、とにかく圭を抱き抱え男から離れて止めていた車の影に隠れたことを覚えている。必死だった。

 あとで聞くと、銃口が圭から離れたのを見た瞬間に男の死角から警官が男を撃ったらしい。男は左肩を撃たれたが、死んではいないということだった。


 そんな事件があってから圭の怯えようは見ていて可哀想なほどだ。しばらくの間は決して一人になろうとはせず、いつも圭司かステラの近くにいて、もちろん店の前で歌うこともしな口なっていた。

 夜になり圭司がソファに寝ていると、圭が圭司の寝巻きがわりのTシャツの背中の生地をぎゅっと握り締めながら床で寝ているのだ。二人が一緒に暮らし始めた頃のように、小さく震えているのがわかった。

 もちろん学校にも一回も行っていない。

 どうしたものかと思う。起きているとき表面上は全く暗い影は見せないのだが、よっぽどのショックを受けたのは間違いない。今は圭が自分で言ってくるまで見守った方がいいかもというステラとの意見も一致したこともあって、しばらく静観することにした。

 

「どうだい、久しぶりに店の前でライブでもやるか」

 事件から一ヶ月ほど経ったある日、圭司がギターを持ち出してきた圭に声をかけた。圭は一瞬だけ圭司と目を合わせたが、すぐに視線を落としてギターを一人でポロポロと弾き始めた。聞いたことがない曲だった。

「それ、綺麗なメロディの曲だな。聞いたことがないが、なんて曲だ?」

 一曲弾き終わるのを待って、圭の心の中に深く踏み込まないように注意しながら、そっと聞いてみた。

「ストロベリー・ナイト」と圭が答えた。

 カウンターの中で食器を準備していたステラがチラリと圭司を見た。

「ほお、誰の曲だい」

 実はタイトルを聞いてすぐに気がついていた。

「私が作ったの。ちゃんと曲になってるのか心配だったんだけど」

 ——あのノートの最後のページに書いていたタイトルだ。

「いや、すごくいい曲だ。レイ・チャールズかと思ったよ」

「本当に? 前に教えてもらったブルースのコード進行を使ってやってみたのよ。ちゃんとできてたなら、よかったあ」

「本当だよ。俺も若い頃にたくさん曲を作ったけど、今の曲を超える曲は作れてないなあ」

 本心だった。実際、圭の曲作りのセンスはなかなかのものだ。育った環境によるものなのか、もともと生まれ持ったものなのかはわからないが、圭司が本格的に音楽を教えてからの吸収力には舌を巻く。

「でも、圭司の曲も私は好きよ? OVER THE SEAとかすごくいい曲だし」

「あれは圭のアレンジがよかったんだよ。日本語で作った元の曲はやたらと夢とか歌っててさ、ちょっとベタ過ぎて全くウケなかった」

 これは本当だ。こんなに年数が経って今頃自虐するとか、笑うしかない。

「ストロベリーハウスのことを思い出して曲にしてみたの」

 そう言って圭はまた視線を床に落とし、まだ何か言いたげにしていた。圭司は焦らせないよう、店のカウンターに肘をつき黙ったまま次の言葉を待つ。

「この間、アミティへみんなで行ったでしょ」

 訥々と圭が語り出す。「うん」と圭司は相槌だけ打つ。

「あの人たち、知ってる人だったの」

「あの人たち?」

「うん。拳銃を持ってた人とか」

 ——強盗犯のことか。

「アミティの知り合いってことかい?」

 カウンターから出てきたステラも傍の席に座った。圭は頷くとしばらく黙っていたが、また喋り始めた。

「初めてここへ来た日ね、あの人たちがいるからアミティの街から逃げてきてたの」

 あの感謝祭の夜のことだろう。圭は床をじっと見つめていたが、意を決したように話し出した。

「またハウスで叩かれそうになって、夜中にハウスを逃げ出して、友達がいるストリートへ行ったの。ハウスを抜け出したときはいつもそうしてたから。だけど——」そこで一呼吸置いた。圭司は軽く頷いた。

「夜中だったから、いつも遊んでいた一番仲のいい子たちはいなくて、あの人たちだけが何人かいて。ハウスを抜け出して来たって言ったら、じゃあ——。じゃあ、今から女の子が一人で生きていく方法を教えてやるって、あの人たちが、私を囲んで笑うから……」

 ——まだ十一歳になってない子供が一人で生きていけるわけがない。

「先にトイレに行かせてって言ったら、上着を置いていけって。逃げたら凍えて死ぬぜって笑ってた」

「だからあの格好で逃げてきたのか」

 小さく頷く圭を隣に座っていたステラが黙って優しく抱きしめた。


「私、高校行かなきゃだめ? 学校に行かなくても、私も圭司とステラと一緒にこのお店で働くってどうかな」

 圭はこのあいだまで高校にいけることをとても喜んでいた。それなのに。

「まあ、絶対行かなきゃいけないってことはないよ。それは圭の自由だ。でもなんで行きたくないのかい」

 とにかく今は無理強いするのだけはやめておこう。

「顔を見られたの、あの人たちに。私だって気がついてたら、追いかけてくるかも」

 あれから外に出たがらない理由はそれだったか。

「アミティからここまでかなりの距離があるからな。圭がここにいるってことはあいつらも知らないとは思うけど——」

「でも、学校に行ってる途中を見られるかも」あきらかに怯えていた。泣き出しそうな顔をしていた。

「じゃあ、それがはっきりするまで学校は休んでいいから、お店を手伝ってね。最近お客さんが増えちゃって、私一人じゃ大変なのよ」

 圭の肩を抱いていたステラがそう言いながら、圭司をチラリと見た。——しばらくはそっとしておこうよ。ステラの目はそう言っていた。

「そうだな。圭がお店で歌を歌い出してから、ほんとお客が増えたよな。圭が手伝ってくれるなら助かるよ。それでいいかい?」

 ステラに同調するようにそう言うと、圭は大きく頷いて笑ったのだった。



    八、海の向こう



 弾き出したキーボードのピアノ音に乗せて静かに圭が歌い出した。今日は日本人の来客が多い夜で、最近常連となった三十代の男性客が、初めて訪れる新しいお客も連れてきてくれて、料理を待つ間カウンターで圭の歌を聴いている。

 今夜の圭は珍しくラブバラードだ。低音部は少しハスキーがかる圭の声は高音部に入ると伸びやかで、パワフルな歌声となって店内に流れる。


「ねえ、マスター」と常連客から圭司は不意に声をかけられた。

「なに?」次に出す料理を盛り付けながら返事をする。

「あの子が歌ってる曲さ、なんかどっかで聴いた曲なんだけど、思い出せなくって。あれ、誰の曲だっけ」

「レイ・チャールズだよ」そう返事をした。間違いじゃない。

「年代的にはあんまりレイ・チャールズは聴いたことないんですよね。その僕が知ってるってことは、テレビドラマかなんかで流れたんですかね」

 ——そうか。知らないか。

「よく聞いてごらんよ。日本人なら絶対知ってる曲だから」ちょっと可笑しさを覚えながら、そう振ってみる。

 圭の曲がちょうどワンコーラス目のサビにかかる。

 ——Ellie My Love So Sweet……

 しっとりと歌い上げられた最後のフレーズでどうやら気がついたらしい。

「えっ、これってまさかのサザンですか」

「正解」

 何かの企画だったか、レイ・チャールズが「いとしのエリー」をカバーしたときには、さすがに圭司も驚いた。日本にいるころ何度も聴いた名曲が、レイ・チャールズの独特の世界観で蘇る。日本の楽曲はあまりアメリカでは聴かれていないが、まさかこんな形でアメリカでサザンを聴くことになるなんてな——


 曲が終わると、今日は日本人が多い店内から拍手と歓声が起こり、圭が少し照れている。

「そのアレンジ、いいねえ。もしかして君もサザンが好きなの?」英語が喋れるらしい日本から来ているというテーブル席のビジネスマン風の男性が圭に話しかけた。

「サザン? なに?」キョトンとしながら、圭は圭司に視線を向けた。

 圭は日本の歌はあまり聴いてない。多分さっきの曲は圭司が持っているカセットテープコレクションの中のレイの曲として聴いたことがあるだけだと思う。あのビジネスマンは、逆にレイが歌ったことは知らない感じだ。

「サザンオールスターズと言ってな、日本ではとても有名なバンドさ。圭が今歌った曲を作った人がいるんだよ」と圭に英語で答えた。

「日本人が作った曲だったの?」知らなかったという顔で圭がいう。

「そうさ。日本ではメロディーメーカーとして有名な人だよ。アメリカ向けの音楽じゃないけどさ」

 横から件の常連客が「そうそう。サザンは僕の青春だった」と相槌を打った。「湘南サウンドが好きでさ。稲村へサーフィンへ行くときは、必ずサザンを流しながらねえ」

 日本語でそういうと、さっきのビジネスマンへ向けてビールのグラスを掲げた。

「へえ、サーフィンなんかやるんだ。どこに住んでたの?」懐かしくなって圭司が聞く。

「自分は鎌倉です」と常連。

「なんだよ、同郷だね。俺、横浜に実家があってさ」

「えー、俺も横浜ですよ」その言葉を聞きつけてビジネスマンがビールグラスを持って寄ってくる。

「横浜のどこ?」

「六角橋ですよ」

「なんだよ。こんなとこでご近所さんに会うなんて、世界は案外狭いなあ」

 圭司はカウンター下の冷蔵庫からビールを一本取り出して栓を抜いた。「こりゃあ思わぬ出会いに乾杯だな。俺の奢りだ」そう言ってビール瓶を少し傾けると、常連とビジネスマンの二人が礼を言いながらグラスを差し出した。

 圭の曲の話だったのに、いつしか日本の大人たちが日本語だけで盛り上がって、圭もステラも少し不満げだったが。


「じゃあ、客も多いし仕事もあるけど、一曲だけ弾くか」

 圭司は厨房から出てきて圭と席を代わりギターを抱えた。「忙しいのに」という顔でステラが頬を膨らませている。

「おっ、マスターってギターもやるんですか。」とビジネスマン。

 その声には言葉で返事はせずに、静かに圭司のギターが「真夏の果実」を弾き出した。「ヒュー」という口の形をして常連とビジネスマンが聴き入ってくる。イントロのギターの音色が美しい曲だ。最近、圭と一緒に音楽をやる機会があるおかげで、少しずつ楽器を爪弾く感覚を取り戻している。特に今夜は故郷の話に盛り上がって絶好調だな——


「いや、マスター上手いですよ。まるで本職じゃないですか」

 本気かどうか、ビジネスマンからやけにおだてられて、少し照れくさい。

「いや、結局才能がなくてな。そうそうに諦めたんだよ」と謙遜する。まあ、本当のことだ。

「へえ、マスターぐらいの人でもやっぱりプロになれないんですか」

「ギターには自信があったんだけどね。だけどいま思えば、プロになるって、ただ上手いだけじゃなくて、なんか特別なものが必要なんじゃないかって。まあ、そういう世界なんだよ」

 圭司は悟った顔でビール瓶を差し出す。「あざす」と言いながら、ビジネスマンはコップを傾けた。


 思いもかけず懐かしい故郷の話で盛り上がった夜だったが、お互いの高校時代の話になったとき、何かが圭司の頭の隅っこをよぎった。

 ——最近横浜の高校のことで何かを目にしたよな。なんだったっけ。

 そんなことを思いながら、ビジネスマン——大道君——から注がれたビールを口にする。

「それにしてもさ、サーフィンに誘おうとサザンをガンガン流しながらセイカのお姉ちゃんをナンパしようとしたんだけど、もう相手にされなくて」

 程よくアルコールが回ったのだろう、常連——野間君という——の彼が豪快に討ち死にした武勇伝を披露しながら笑わせてくれる。

「セイカじゃナンパは難しいでしょ。あそこはサザンじゃなくてショパンじゃないと」と大道君が合いの手を入れる。


 あっ——そうか。聖華学園か。

 確か領事館に行ったときに、聖華学園のパンフレットが置いてあったはずだ。

「まさかマスターもギター片手に聖華のお姉ちゃんを口説いたんじゃないですよね」と大道君が話を振った。

「はは——、まあ、そんなこともあったな」

「やっぱり」と二人が笑ってる。

「横浜の男子高校生あるある、ですよね。まあ、僕らは鎌倉の高校だったから海岸でカセット流しながらナンパでしたけどね。すっごく青春してたなあ」と野間君が遠い目をした。


 ——高校時代のナンパは失敗だったけど、大学で聖華出の紗英とは知り合ったんだよ。


 圭司はその言葉は飲み込んで二人の馬鹿話を笑って聞いていた。久しぶりに楽しい夜だった。


 ⌘


 ——よし、行ってみるか。

 昨日、故郷話に花が咲き思い出したのがきっかけで、久しぶりに領事館へ行ってみることにした。圭司が出かける支度をしていると、それを見た圭が不安そうな顔で圭司を見ていた。やはり一人になりたくないのだろう。ついて来いという素振りを見せると、とても嬉しそうに笑った。

 領事館へは、圭の両親を探す手掛かりを見つけに行くのが本来の目的だったが、そのことは圭には黙っていた。妙な期待をさせるのも少し気が引ける。


 すっかり顔馴染みとなった受付の日本人の中年女性と気さくに挨拶を交わす。圭は物珍しげに建物内をキョロキョロと見回した。そういえば領事館へは養子縁組の時に書類を出しにきて以来だった。

 ルーティーンのように掲示板にあるいろいろな張り紙を順番に眺めてゆく。

 ——十五年前の行方不明になった女の子を探しています。

 そんなに都合のいい張り紙は、そう簡単にあるわけもないが、逆に明らかに日本人の「高橋圭」という名前までわかっている女の子を探している人がいないことにも強烈な違和感を禁じ得ない。

 意図的に置き去りにされた——

 そう考える以外に答えはあるのだろうか。


「ねえ、圭司」

 圭が右の袖を引っ張った。

「どうした」

「あの子たち、なんでみんな同じ服を着てるの?」

 圭から言われてその方向を見ると、どこかの高校と思われる制服を来た、おそらく日本人の女の子が数人いた。どこかで見たことがあるような気が——

「ああ、あれは多分、日本の高校生だと思うよ。日本の高校はほとんど制服なんだよ」と圭司がいう。それにしても、なんでアメリカに制服でいるのかはわからないが。

「わあ、すごくおしゃれ。スカートが短すぎるけど」

 そう言いながら、圭が彼女たちをじっと見ていた。

 気になったので圭司は受付に行き顔馴染みの受付嬢にあの制服の集団は何かと聞いてみた。

「あの子たちは短期ホームステイに来た子たちでね。ここに一旦集まって、それから全米のあちこちに振り分けるんだけど、同じぐらいの歳の子はたくさんここにもいるから、どの子がそうかわかんないでしょ。だから、ここへ集合する時だけ目印に学校の制服を着てもらってるの」受付嬢が優しく微笑む。

「ホームステイですか。僕らが高校生の頃なんて、そんなこと考えもしなかったですよ。ところで、どこかで見た制服のようなんだけど」

「ああ、あの子たちは横浜の聖華国際学園の子でね。国際的な活動ができる子女を育てる、があの学園の理念ということで。日本でもあの学校を出た方が多方面でご活躍されてるみたいです」

 途中からほとんど言葉が頭に入ってこなかった。圭司は昨日、紗英のことを思い出したばかりなのに。——これは何かの偶然だろうか。

 そういえば、確かパンフレットをここで見たはずだ。どこだ。そう思いながらあたりを見回し、ブックシェルフに刺さったパンフレットを見つけた。

 圭と一緒に長椅子に座って学校案内と書かれたパンフレットを広げる。同じ内容だが日本語と英語のそれぞれのパンフレットがあり、圭司が日本語のパンフレットを取ると、圭は真似をして英語のパンフレットを手に取り、圭司と一緒に読み始めた。

 そのパンフレットに掲載されたものと同じ制服を着た少女たちの集団が、引率の教師のような男性の後ろについて、圭司と圭の目の前を通り過ぎて行き、その後ろ姿を圭が目で追っているのがわかった。


 それは、その時は本当にただの思いつきで口に出た言葉だった。

「なあ、圭。日本の高校に行ってみないか」

 隣に座ってパンフレットを読んでいた圭が、突然何を言っているのかわからないという顔で見ていた。

 何かがずっと頭に引っかかっていた。圭が高校に行かなくてもいいかと言い出した時からだ。それがなんだったのか思い出せなかったのだが、今日領事館へ来て、それに思い当たったのだ。

 そうか。これを読んだ記憶だったか——


「日本の高校へ留学してみませんか」とそのパンフレットの見開きページに書いてあった。以前ここへ来た時、紗英の通った高校の名前が目に入り、何気なくそのパンフレットを手にしてパラパラとページをめくったが、特に何も考えずに読み飛ばしていた。

 この高校では、「英語を話す友達を作ろう」という制度があるらしく、同じ学年に普通に英語で会話する相手を作ることで、英語に親しみ、国際的人材育成を目指すらしい。

 英語的には少しおかしくもあるが、日本人に理解しやすいように「English Friend」制度と呼び、その生徒たちを「エフ」と呼称するということだ。しかも英会話授業の教師の補助もするため、特待生として学費なども全額免除されるとある。パンフレットを読みながら、これなら圭も——と思い、口をついて出てしまった。だが。

 ——しまった。

 驚いたような顔の圭を見て、いくら思いつきとはいえ、高校進学の話をするにはまだ少し早すぎたと内心焦った。圭の心はまだ大きな不安を抱えたままのはずだった。


「あ、いや、まだまだずっと先の話だよ。そんな選択も将来にはひょっとしたらあるかなって、ちょっとだけ思ってな。いやほんと、ただの俺の思いつきだから、気にしなくていいよ」

 無理矢理に笑顔を作り、口にした言葉を打ち消した。

「だいたい、日本の高校って十六歳になる歳の四月に入学だからさ、もし日本の高校に行くなんてことになれば、日本の同じ歳の子たちの学年に合わせようと思えば、圭は今年の九月じゃなくて来年の四月まで入学を待たなきゃいけないし、いや、これはもう、いくらなんでも無理があるってもんだ。ははは……」

 心の中で冷や汗を流しながら、軽いジョークを言うようにしどろもどろになって誤魔化す。実は、高校が四年制のアメリカでは、圭の年齢だとすでに高校一年生になっているのが普通となる。だが、ストロベリーハウスに関わるゴタゴタで学校に行かなかった時期が長かったため、日本の中学二年にあたる「グレード8」の卒業が一年遅れていたのだが、それでも、また遅れてでも普通に学校に行けるようになったことを、あの事件があるまで圭も心から喜んでいたのだ。その圭が一切進学のことを口にしなくなるぐらいショックを受けたを知っていたのに——

 圭司は読んでいたパンフレットを何事もなかったように元の棚に戻し、椅子から立ち上がった。

「帰ろうか」

 うん、と小さく返事をした圭が、返し忘れたのだろう、パンフレットを小さく丸めて持っていたことを車に乗る時になって初めて気がついたが、できるだけ話題にしないよう見ないふりをして圭司は車を走らせたのだった。


  ⌘


「日本って、どんなとこ?」

 突然、圭が聞いてきたのは領事館へ行った数日後のことだ。学校に行ってないことは何も変わってないが、怯えて震えていた時期よりだいぶ気持ちは落ち着いたように見えてきていた。

「どんなとこ、か。言葉では難しいな。日本のどんなことを知りたい?」

 ランチタイムが終わり、ちょうど一息ついていた。ステラは買い物に行っている。

「じゃあ、日本の学校ってニューヨークの学校と何が違う?」

 店の片隅に置いているキーボードを触りながら、ボソリと圭がいう。

「勉強するところってことでは全く違いはないと思うよ。まあ俺も日本の高校しか行ったことないけど。どうした。なんか興味あるの?」

 この間言ったことが気になるんだろうか。オブラートに包むようにそっと探ってみる。

「日本って、このお店からどれくらい遠い?」

 圭司の問いかけには答えず、圭の質問がひとつ増えた。

「このお店から? そうだな、日本からだとこの店は地球のまるっきり反対側にあるお店になるから、毎日食べにくるわけには行かないくらいには遠いかな」

 話が重くならないように——

「ふーん……」

 それっきり、しばらく圭は黙っていたが、しばらくしてまたポツリという。

「それだけ遠かったら、あの人たちも来ない?」

「あの人たち?」

「銃を撃ってくること、ない?」

 ——それか。

「日本ではポリスと許可を受けたハンター以外、銃は持ってないんだよ。むしろ本物の銃を見たことある人さえ、日本人にはほとんどいないぐらいさ」ただし、ごく一部のアウトローな人たちを除けば——という軽口は、もちろん喉の奥深くまで飲み込んだ。

「日本なら、私、高校に行ける?」真っ直ぐにこっちを見ながら、冊子のようなものを店のカウンターに置いた。——横浜聖華国際学園。この間読んでいたやつだ。

「圭はアメリカ人だけど日本人でもあるんだよ。試験に合格すれば、もちろん行けるさ」できるだけ、柔らかく。

「圭司とステラも一緒?」

「いや、俺たちは一緒じゃない。俺の暮らす今の家はここだからね。でも、圭が日本の高校になら行けると思うなら、いや、圭が日本の高校に行きたいなら、安心して暮らせるところを必ず探すよ。だから俺やステラのことじゃなくて、圭が自分がこれからどうしたいのかだけを考えて決めたらいい。俺がアメリカへ渡ってきたときのようにさ」

「知らない国へ行くのは怖くなかった?」

「全然! もう夢しかなかったよ。ワクワクしてたかな」

 圭司が優しくいうと、圭は小さく何度も頷いた。


 圭司は圭の隣に椅子を置くと、そっとキーボードの鍵盤に指を置いてゆっくりと和音を押さえる。ピアノは上手なわけではないが、この曲だけは若い頃繰り返し練習をした。まだ指が覚えている。

「好きなんだよ、この曲。歌ってくれよ」

 そう言うと、圭が微笑み、大きく息を吸い込んでから静かに歌い出した。


 ——レット・イット・ビー。そうさ、なすがまま、心のままに。君の人生だ。


 ⌘


 圭司は指が震えていた。レストランで就職して一度だけ電話をした。あれから店が成功するまでと決めてから、一度も電話したことがない。

 呼び出し音が五回ほど鳴って、「はい、高梨です」という声が聞こえた。

「あっ、あの」——いかん、落ち着け。もう一度。

「あの、圭司です。母さん?」

 ——どちらのケイジさんでしょう? あっ、警察の方?

「いや、息子の圭司です、母さん」

 ——母親と姉の声の区別がつかないような弟を持った覚えはありませんが。

「えっ? フーミン、なんでそこにいるの」

 皮肉たっぷりに電話に出たのは、思いもかけず姉の史江——子供の頃からフーミンと呼んでいた——だった。電話越しだと親子ってこんなにも声が似るものだと妙な感心をした。

 ——なんでって、今ここに住んでるからに決まってるじゃん。

「父さんか母さんは?」

 ——ほらほら、何年も電話さえもしないから、そんなこともわかんない。この親不孝もんめ。

 ハラハラと笑いながら怒られた。

 ——父さんたちはさ、長年の夢だったとか言って、鎌倉へ引っ越しちゃったよ。だからこの家には私一人よ。

 姉の史江とは七歳ほど年が離れている。両親は二人とも教師で共働きだったため、姉の史江が圭司のほとんど親代わりのように面倒を見たと言っても過言ではない。

「ああ、そういえば昔言ってたねえ。いよいよ引っ越したのか。じゃあフーミンだけで住んでるの?」

と探りを入れたが。

 ——で、何。

「何って?」

 ——あんたが突然電話してきて世間話のはずないよね。何か理由があんでしょ? 何? まさか借金?

「借金なんかないよ。店は順調だし」

 ——お店? なになに、アメリカでお店? あんたが?

「うん、日本食をメインにした小さなレストランというか」

 ——へえ、意外。

「あのな、用件はね、その家の俺の部屋って、まだ空いてるかな、とか」

 ——帰ってくるの? やっぱりお店がだめなの?

「いや、俺じゃなくて、その、娘が——」

 ——ちょっと待ったああああ! あんたいつの間に結婚したの! まさか私に内緒で? この姉不幸者! あー、信じられない。

 電話の向こうから姉の驚きの声が止まらない。

「ちょっと落ち着いて。そうじゃないんだって。とにかく聞いて」

 興奮が止まらない姉をなだめすかして圭との出会いからこれまでのことを話したのだった。


  ⌘


 久しぶりの弟からの電話で少し史江は混乱していた。

 ——だからさ、まだ圭が日本に行きたいって言ったわけじゃないけど、もしそう言ったときには背中を押してやりたいんだよ。だから日本にも身許引受人って言うんだっけ? ちゃんと住む所もありますって言えた方がいいのかなと思って。

「で、何年も音信不通の実家をやっと思い出した、と」

と皮肉ってみる。

 ——まあ、それは悪いとは思ってる。

「留学先はどこの高校を狙ってんの? ここに住みたいってことは横浜?」

 ——うん。横浜聖華。なんか、外国籍とか帰国子女向けのEnglish Friendとかいう制度があるらしくって、特待生枠で授業料とかも免除になるらしいから、私立だけどそこなら俺の稼ぎでも通わせてあげられるかなと思って。

「ああ、へえ、そうか。聖華……ね」

 ——ん? なんかあんの?

「いや、なんもないよ。うん。なんもない。いい学校だと思う」

 ——だろ? ちょっと考えておいてくれない?

「まあ部屋は空いてるけどさ。でも、戸籍上は姪かも知れないけど、知らない子であることには変わりないしなあ。まあちょっと考えとくわ。留学を本当にするのか決めたらまた連絡ちょうだい」

 ——うん。わかった。

 

 毎回国際電話をかけていたら大変なので、今後のためにSNSのIDを交換し、史江が受話器を置いて時計を見ると、もう出勤時間だ。大慌てで準備をし玄関を出た。ふと振り向くと家族と過ごした古びた木造のわが家が、あいも変わらず立っている。夫を病気で亡くしてから圭司がアメリカに行った後、また住み始めた我が家は平家の家で、両親が出て行ってから一人で住むには実際大きすぎる家だ。

 もし一人増えたら少しはまた賑やかな家になるのかな——。そんなことを考えながら史江は仕事へ向かったのだった。


 ⌘


「おはようございまーす」

 史江が正面玄関脇に置いてあった学校のパンフレットを片手に職員室入り口の引き戸を開けて入ると、奥から声がした。そして今年産休の臨時教員として入った同じ英語を教えている早瀬恵が机を拭く手を止めて立ち上がった。毎日一番に出勤して職員室のみんなの机を拭いて回るのを日課にしている。

「早瀬先生、おはようございます。いつも早くからありがとう。でも、無理しなくていいのよ」と史江が声をかける。

「結構好きなんで大丈夫です。なんか、じっとしてるの苦手なんで」

と早瀬恵は屈託なく笑っている。彼女のこんなところが好きだな、と史江は思う。彼女とは親子ほど年齢が離れてはいるが、同じ英語を担当し、好きな音楽が古いアメリカ音楽とビートルズという趣味が合うこともあって、彼女が臨時教員で来てから毎日を楽しく過ごしている。


 自分の席に座り、さっき取ってきたパンフレットを広げた。パラパラとめくると目的のページがあった。

 エフ、か。

 ——まさか圭司がアメリカで子供を育てているなんて、全く想像もしていなかったよ。音楽を諦めたってのは前に母さんから聞いたけど、それにしても。

 そんなことを思いながら、ぼーっとパンフレットを眺めていた。

「西川先生、どうしたんです? それ、この学園のパンフレットですよね」

 机の掃除が終わった早瀬恵がいつの間にか近くにいて、机に広げたパンフレットを覗き込んだ。横浜聖華国際学園生徒募集要項——

「なんでもないの。ちょっとエフのことを人に聞かれてね」

「エフって、English Friendのことでしたよね」

「そうなのよ。来年の募集要項を聞かれちゃってさ」

 ——実はまだ、なんも聞かれてもいないんだけどね。

「へえ、エフに応募するって、じゃあアメリカとかの人ですか?」

「まあね」

「さすが西川先生、国際的にお顔が広いんですねえ」

 仰々しく恵がいう。だが、その顔が笑っている。

「やあねえ、いくらおだてても何も出ないわよ」

 史江は笑いながらそう言って、パンフレットを閉じて机の上の本立てに立てた。

 それにしても今朝方、圭司からちょっと話を振られたばかりだったが、もう気になって仕方がない自分がちょっとおかしかった。

 ——だってしょうがないじゃん。かわいい弟のためなんだから。

 そう自分に納得させて授業の準備を始めたのだった。


  ⌘


「今日から学校へ行ってくる」

 唐突に圭が言った。ステラを交えて朝食を三人で食べていた四月の朝のことだ。

「そう、車に気をつけてね」

 努めて平静を保ちながらステラが先に返事をした。圭司も一緒ににこりと微笑んで、それ以上は「何も気にしてない」という素振りでまたコーヒーをゆっくりと飲む。

「うん」と圭は一言だけ返事をして、早々に食事をすませると学校へ行く準備を始めた。


 圭はこれからのことをどう考えているのか、まだ圭司とステラには何も言ってこないのだが、とにかく焦らすのだけはやめようと二人で話していた矢先のことだった。

 その頃、圭にどんな心境の変化があったのかはわからない。だが、先日領事館から持って帰ってきた学校案内のパンフレットがボロボロに傷んでいる。きっと何度も取り出して読み直していたのだろう。


 ⌘


 その日は案外と早くきた。

「圭司は——」

 学校に行き出してしばらくしたある日の夕方のこと。ピアノの練習をしていた圭がすぐ近くで本を読んでいた圭司に話しかけようとしたが、すぐに口をつぐんだ。

「うん? 何?」

 読みかけの本を下ろして圭を見ると、視線が所在なげに彷徨っている。

「圭、遠慮しなくていいから、考えてることを言ってごらん」——急かさないように。

「たとえば、たとえばなんだけどね、圭司は私が違う国——たとえば日本へ行ったら、寂しい?」圭はしばらく躊躇っていたが、意を決したように口を開いた。

 ——きたか。

「もちろん寂しいさ。それがどうかしたかい」

「ううん、なんでもないの。聞いてみただけ」

 圭はそう言ってから視線を逸らし、指で鍵盤をひとつ「ポーン」と弾いた。

 ——踏み込んでみるか。

「だけどね、それ以上にワクワクするんだよな」

 圭司がそう言うと、圭は「意味がわからない」という顔で再びこちらへ視線を向けた。

「寂しいのは本当さ。でもね、圭が自分で考えて新しい未来に歩み出そうとしてるんだ。寂しい以上に、想像するだけでうれしくてワクワクするよ」

 圭司がそう言うと圭は大きく目を見開いた。

「じゃあさ、圭司は日本に帰りたいとか思わないの?」

「そうだな……。俺が今住むところはここだからね。これからもここで暮らすよ」

「帰らなくて寂しくない?」

「いや、全然寂しくはないよ。日本は俺にとって大事な場所だし、日本での思い出は俺の宝物だから、ずっと心の中にあって、それはいつまでも消えることはないんだよ」

「心の中……」

「そう。何年離れていても、どこに住んでいても、その人にとって一番大事なものはずっと心の中に深く刻み込まれて決してなくならないのさ。そしてな、今の俺にとってニューヨークのこの場所は、圭やステラとたくさんの大事な時間を過ごした大切な場所だ。もし圭が自分で選んだ人生を歩むためにここから遠くで暮らすことになったとしても、この場所が三人の心をずっと繋いでいてくれると信じてるんだよ。だから、寂しさよりも圭がどんな人生を歩き出すのか、楽しみの方が大きいんだ。圭はそうじゃないのかい?」

 圭司がそう言うと、圭は立ち上がり黙って圭司の背中から首へ腕を絡め、左の肩へ顔を押しつけた。

「私、やっぱり高校に行きたい」

「うん」

「圭司が生まれた国へ行ってみたいって言ってもいい? あの学校へ行きたいって言ってもいい?」

「もちろんだ。喜んで応援するよ」圭太はそう言って圭の腕をそっと撫でると、圭は腕にギュッと力を込めて言った。

「ありがとう——I love you……ダディ」

 その瞬間、圭司は胸がカッと熱くなるのを感じた。これはなんという不意打ちだ。「ダディ」という言葉に、まさか自分の心がこんな反応をするなんて——

 

 行きたい希望があっても、試験か面接は必ず必要だろう。まずは、ちゃんと調べて進学の準備をしようと二人で話をしているところへ、裏口の扉が開く音がした。買い物に出ていたステラが帰ってきたようだ。すると圭が圭司の耳元で、囁くように、

「それから、ステラはまだマミィと呼んじゃダメ?」

と言って、いたずらっ子のように笑ったのだった。

 ——相変わらずのマセガキめ。


 夏前に圭司に姉のフーミンからメールが入った。圭が日本へ行くことを希望したと伝えてある。

 入学願書の申込は十月から。その後十二月にニューヨークとロスで面接があるということだ。絶対条件として、来年の三月までに日本の中学と同等の学校を卒業している、或いは卒業見込であること——

 さらに姉に調べてもらったところによると、このエフという制度は、いわゆる「帰国子女」の受け皿ではなく、基本的に留学生を優先するという。できるだけ英語で話す機会を増やすことと、言葉が違う生徒同士がお互いにコミュニケーションをとる方法を実践的に学ぶことを理念としているという理由らしい。

 エフの生徒には毎日一時限、どこかのクラスで英会話の授業に参加する代わりに、日本語への理解に起因する学力不足を補うために学校の方で個別授業もカリキュラムに入っているという。これなら安心して学校に預けることはできるかもしれない。

 ただ、圭の場合はどうなんだろう。英語がしゃべれるのは当たり前だが、ぱっと見は普通の日本人に見える。何も知らなければ留学生に見えないことが、学校が理念とする制度にとって吉と出るのか凶と出るかわからないところだ。


 圭を横浜の家に住まわせることについては、保留にさせて欲しいと姉はいう。伴侶を病気でなくしてからもまだ教師を続けているということで、部活などで平日の夕方や土日も結構忙しいらしく、圭の支援まで手が回りそうもないという。

 圭司としては定年になった両親ならなんとかなりはしないかと思って実家に連絡してみたのだが、姉の一人暮らしだと確かにそうかもしれないと思うと無理が言えなかった。まさか、そのフーミンが鎌倉の高校を辞めて聖華学園にいるなど、その頃の圭司は知りもしなかったのだから仕方がないことだろう。

 

 それでも、圭が希望するなら叶えてあげたい——

 ステラと二人でいろいろ考えて、この夏にアメリカの学校を卒業してからの来年の三月までの半年と少しの間、ニューヨーク郊外にある日本人学校に通わせることができないか学校に相談に行ったところ、事情を汲んでくれて引き受けてもらえることになった。希望通り日本の高校に行けるかどうかはわからないが、勉強を続けられることは圭にとってもいいことだ。学校もニューヨークの南と北でアミティとは真反対の場所にあり、圭も少しは安心して通えるだろう。通学にはまだ不安が残るだろうから、車で送り迎えを圭司とステラで朝晩交互にしようと決めていた。


 そういえば、例の事件があってから圭があまり店で歌わなくなっていたが、最近は店内でなら少しずつ歌うようになっていた。進路希望を決めて気持ちが落ち着いたせいだろうか、ゆったりとした曲が今の圭の好みらしい。特に最近のお気に入りはビリー・ジョエルで、ピアノによる彼のバラードを歌うことが多い。これがまた親の贔屓目じゃないが、抜群にうまいのだ。ビリーの曲が今の圭の心情にぴたりと合うのかもしれない。そんな圭の歌をお客さんたちも食事の手を止めて聴き入っている光景が最近のロック・イン・ジャパンではよく見られた。


 ⌘


 そして夏が過ぎたころ圭は中学を無事に卒業し、予定通り日本人学校に編入し通い始めた。少し遅れていた勉強も一生懸命に頑張っていた。

 そうこうしているうちに季節は秋になり、予定通り応募要項に従って入学願書を出した。学力試験を受ける普通の進学とは違うので、冬に行われる面接というのがどういうものなのかわからない。簡単にいかないのは覚悟していて、もし今年ダメなら諦めずにあと一年は頑張って見ようと圭とは話していた。


「ねえ、圭司。あの学校にはロックバンドがあるんだって」

 圭は最近、暇さえあれば穴が開くほど学校案内のパンフレットを見ていて、ちょっとでも新しい発見があるとすぐに圭司に報告をしてくる。おかげでボロボロになった古いパンフレットに替えて新しいパンフレットを手に入れに行くはめになった。

 ただ、あれから「ダディ」とは一度も呼んでくれないのは少し寂しくもあったが、圭なりにステラに気を遣っていたのかもしれないと圭司は今にして思う。


 そしてクリスマスの直前に、学校による面接が領事館のある建物の会議室を借りて行われるという通知をもらう。日本滞在中の生活環境調整などのこともあり、保護者も同伴して欲しいということだったので、ステラを含めて3人で行くことにした。


 ⌘


 会議室の扉はマホガニーのような渋い茶色の荘厳な作りで、その前に立つだけで何かに圧倒される感覚を覚えた。

 どれくらいの希望者がいるのかと緊張しながらここまで来たのだが、他に面接を受けそうな年頃の子供が見当たらなかった。もしかして、圭が一番最後の面接者だったのかもしれない。

 しばらくの間、扉の近くの長椅子に三人で待たされたが、ほどなくして関係者と思しき女性から会議室に入るよう促された。

 ——さあ、本番

 緊張しながらマホガニーと勝手に想像した扉を開けて、圭、ステラの順に部屋に入れ、そして最後に圭司が入り、正面を見ると——


「そこへ座ってください」と西川史江が英語で言ったのだった。


 ——フーミン!


 会議室の扉を開いた先に姉の顔を見つけて圭司は思わず声が漏れそうになった。だが、その史江と目があった瞬間、おそらくその場所にいた誰も気がつかなかっただろうが、史江がじっと圭司を見ながら、本当に僅かに顔を横に振った。おそらく他人だったらわからなかっただろう。


「生徒さんを真ん中に、保護者の方が左右に座ってください」

 姉——なぜここにいる——に英語で促され、圭司たち三人が面接官とテーブル二つ挟んで座った。部屋に入ってきた時から相変わらず、フーミンは圭司を見ても顔色ひとつ変えなかった。この部屋にいる誰もが、西川史江と圭司が姉弟などとは知りもしないだろう。

 面接官だろうか、学校の関係者と思しき人は二人いて、その隣にフーミンがすまして座っていた。


 まず史江が英語で口を開いた。

「それでは面接を始めます。真ん中に座っているのが今回の面接の責任者で横浜聖華国際学園の副学長、田辺です」

 英語で紹介をされ、フーミンが目で合図をすると田辺副学長が「田辺です」と言って頭を軽く下げた。お世辞にも綺麗な英語ではない。

「隣が生徒採用の担当者、総務課長の大河内です」と続けて紹介されると隣の大河内が同じようにさらに副学長より少しマシな英語で挨拶をした。

「私は当学園の英語教師で、今回の面接の通訳をさせていただきます、西川です」と最後に史江がすまして自己紹介をした。

 ——当学園の英語教師? え? 聖華の先生ってこと? そんなこと一度も聞いてない。

 圭司が唖然として固まっていると、フーミンが圭司を睨みつけるように「どうかしましたか。何か問題でも?」と言いながら、左手の中指でずれた眼鏡をちょっと上に直した。慌てて「いえ、なんでもないです」を答えて、気を取り直すように椅子に座り直した。


 最初は入学願書を見ながら、定型的な質問をいくつか繰り出してきた。

 曰く、志望動機は。曰く、日本語は大丈夫か。日本の面接には慣れている圭司が何度も圭に答え方を叩き込んだおかげで、田辺副学長と総務課長の質問にフーミンの通訳を介して圭はそつなく回答をしていた。


 今のところは問題なくうまくいっているはずだ——


「で、歌が得意、と」願書と思われる書類を読みながら、さりげなく日本語で田辺がいう。「じゃ、歌ってみて」

 ——は? いや、歌うなんて面接にありか? 準備してないぞ。

 圭司は少し慌てた。まさか歌えとか言われるとは想像もしてなかったので、こんな場所で歌う曲を考えてなかったのだ。いきなり圭がシャウトを始めたらどうしようか。「あの」聖華の面接で流石にシャウトはまずいだろ——

 そんな圭司の心配をよそに、とても小さな奇跡が起こった。田辺のその言葉を史江が通訳をする前に、田辺が自分で「プリーズ シング」と下手くそな英語で圭を促したのだ。


「シング? OK」

 圭がにこりと微笑んだ。そして椅子から立ち上がって静かに歌い出した。

 ——カーペンターズの「シング」か!

 もともとは世界的に有名なアメリカの子供向け番組「セサミストリート」用に作られた、カーペンターズの楽曲だった。日本人にもファンが多い。


 ——さあ歌おう。大きな声で


 優しくも歌声が会議室に流れた。日頃はブルースなどが得意な圭だが、これはこれで美しいメロディが心地よい。カレン・カーペンターとはまた違う圭の個性が映える。そこにいた誰もがうっとりと聞き惚れていた。

 歌い終わると、圭は圭司から教えられたように日本式の「おじき」をして椅子に腰掛けた。面接官と史江もにこりと笑い、小さく拍手を送った。

「急に歌わせて悪かったね。歌うことが得意とわざわざ書いてあったから、ぜひ聴いてみたくなってね。ありがとう、素晴らしかったよ」

 田辺は日本語でそう言うと、史江を見る。その言葉を史江が英語で言うと、圭は嬉しそうにはにかんだ。

「さて、実は本日の面接で一番聞きたかったのは、当学園に通うことになった時のお嬢さんの日本での生活環境です」

と田辺が一区切りすると、英語で史江が通訳をする。面接ではこの形を繰り返している。

「もちろん学園としても最大限のバックアップはしようと思ってはいますが、それでも四六時中お嬢さんをみておくことはできません。学園が私生活に介入するのには限度があるからです。そこでどうしても聞いておきたいのですが」と言ってチラリと史江を見て、史江が通訳し終わるのを待ってさらに圭司をじっと見て一息入れた。

「お嬢さんは単身で日本へ行く予定ということですよね。そうなるとお嬢さんは日本で一人暮らしをすることになると思いますが、お父様としてはどのような生活環境を準備するご予定ですか」

 ——やはり、それは聞いてくるか。

 姉の史江とは結局あれ以上の話はできていなかった。

「妻に内容がわかるよう、このまま英語で通訳はしていただきたいのですが、私は日本語でもよろしいですか」とまず圭司は日本語で田辺に言った。そして史江が訳そうとするのを目で制した。田辺が頷く。

「横浜は私が生まれ育った街ですので、しばらく離れていたとはいえ、多くの知人や友人が横浜にはいて、この子が暮していけるようにさまざまなサポートができると思っています」

 圭司は日本語で少し曖昧な答えかたをした。まだ暮らす場所を決めていなかったことが引っかかる。

「その場合、住む家とかは、どうするおつもりですか」

 だが、田辺はやはり面接慣れしているのだろう、圭司が曖昧にした部分に直球で切り込んできた。

 ——どう言おうか。

 この面接に来るまで散々考えたのだが、実はまだ答えを見つけていなかった。もしここを聞かれなかったら、今は黙ってスルーしようと考えていたのだ。

 返答に窮してチラッと史江を見てしまった。その瞬間——

 史江は圭司を正面から見てるわけではなかったが、圭司が史江を見た瞬間に、小さく縦に首を振ったのを感じたのだ。それで圭司には十分だった。

「この子は、もし来年からそちらの学園に預かっていただくことができたら、横浜の私の実家から三年間通うことになっています。全く問題ありません」

 圭司は自信を持って答えたのだった。

 ——ありがとう、フーミン


 面接からの帰り道、圭司はなぜあの時にシングという曲を選んで歌ったのかと圭に聞くと、「だってシングを歌ってって言われたから」と答えた。圭には田辺副学長の「プリーズ シング」という「日本語」は、「シングを歌って」と脳内変換されたらしい。ついてたな——

 面接は和やかに進み、帰り際に田辺が「わが聖華学園には伝統あるコーラス部もあるんですよ」と言うと、圭が「うわあ、もし合格したら、私コーラス部に入りたい」と大袈裟にはしゃいでみせた。

 ——嘘つけ

 圭司は可笑しくて仕方なかった。


 ⌘


 その日は店を休みにして、夕方からとりあえず面接終了のささやかな祝杯をあげた。簡単な食べ物を適当に作って三人でテーブルを囲む。豪華なディナーは合格発表があってからだ。

 今日のステラは、学園の人たちから「お母さん」と何度も呼ばれてご機嫌だ。

 ——娘のことは何も心配してません

 娘をを信頼して、だが優しく人生を導く素敵な母親——誰がみてもそう映っただろうと圭司は思った。ステラの献身的な協力には本当に頭が下がる。感謝しかない。


 今日の面接のことや、もし合格したら、しなかったら、そんな話で盛り上がっていたときのこと。店の扉を誰かが叩く音がする。

「『クローズ』、確かドアに下げたよね?」

 圭司とステラが目を見合わせて確認し、すっと圭司が立ち上がって扉に向かう。残念なことではあるが、アメリカという国は強盗事件も多く、迂闊に扉を開けるのは危険なことだ。長年のアメリカ暮らしで圭司も用心深くなっていた。

「今日は店は休みだよ。明日なら開いてるから、また今度来て」

 扉は開けずに圭司が大声でいう。アメリカではこういう対応は特に珍しくない。「お客様は神様です」などと軽々しく扉でも開けた日には、即座に撃ち殺されることさえある国である。

 これでもう帰るだろう——

 そう思いながら圭司がドアに背を向けたとき、

「何言ってんの! 明日はロスに移動するから、もう来られないのよ。いいから早く開けなさい」

という史江の日本語の怒鳴り声が聞こえ慌ててドアを開けた。


 史江は店に入ると、訝しげにみているステラにツカツカと歩み寄った。ここでステラもやっと昼間の通訳だと気がついたみたいだ。史江は黙ってステラにハグをして、

「バカな弟のためにお芝居までしてくれて、ありがとう」

と、まず感謝の言葉を述べた。コネとか変に期待されてもいけないので、通訳が実は姉であったことは言ってなかったため、ステラはおそらく意味がわからなかったのだろう、「えっ?」という顔で圭司を見た。

「あっ、俺の姉貴。俺が電話とかメールでフーミンって呼んでたのがこの人なんだよ」

 圭司がそう言うと、ステラは最初たいそう驚いたようすだったが、事情が飲み込めると史江にきつくハグを返した。

 それから史江は圭に向き直り、にこりと微笑み「今日は素敵な歌をありがとう」と言いながら圭にもハグをし、「会えてうれしいよ」と両手を肩に置いて圭の顔をしげしげと見ていた。


「フーミン、アメリカに来るなら来るって連絡くらい——」

 そう言いかけた圭司に「あっ、お母さんから伝言。たまには帰ってこいってさ」と史江が言い「とりあえずビールね」と圭の横に椅子を出して腰掛けた。

 圭司は冷蔵庫から瓶のビールを一本取り出し、史江の前のグラスに注ぎながら、「で、本当に通訳だけで来たの?」と聞いたのだが、史江はそれにはすぐに返事をせずグラスのビールを一気に飲み干し、「ふう」と一息ついた。

「フーミン、そんなに酒が強かったっけ」と驚く圭司に「女が一人で生きてると、いろんなことが変わるものよ」と笑った。


「最初に言っておくけど、私に変な期待はしちゃだめよ」

 真顔に返って史江が圭司に言う。

「期待?」

「うん。はっきり言っておくけど、私は今回の面接に介入できるような力はないからね。もしあったとしても、公私混同はしない。だから、結果がどうなるかは私は一切知らないから」

「言われなくても、わかってるよ」

 圭司はそう返事をした。史江が学園の関係者と知った時、実は一瞬だけではあるが、全く期待を持たなかったわけではない。だが、考えてみれば当たり前のことだ。英語教師にそんな力があるはずもないし、あったとしても史江はそういう私情に流される性格ではないことは圭司が一番よく知っているつもりだ。

「私にできるのは、通訳するとき本人のしゃべったことよりも少々お上品に翻訳してあげるくらいよ」と笑っていた。「でもね、今日の面接は学校だけじゃなくて、私の面接もあったのよね」

「フーミンの面接?」

「あなたのことは信用してる。でも、この子を家で預かってもらえないかって言われたとき、圭司の頼みだとわかっていたけど躊躇っちゃった。だって私は全くこの子のことを知らないんだもん」そう言いながら、史江はもう一杯グラスを空けた。

「いい声だったよ」そう言って史江が隣に座る圭の肩に右手を回して目を細めた。「この子だったらいいかなって。あの時にそう決めたの」

「ありがとう、姉ちゃん。感謝してる」圭司が少し声を震わせた。

「でもね、圭司。これだけは覚えていて。もし学園に入ることになっても、この子の保護者は圭司、あなただからね。私はあくまでも学校の先生で、大家さんだよ。必要以上の介入はしない。あなたがこの子の親だというなら、三年間親としての覚悟を見せなさい。いいね」

「わかった。約束する」そう圭司は答えた。史江は微笑むと、

「ねえ、圭ちゃん。一曲何か聞かせて」

と圭に言った。

「何かリクエストはある?」と圭が聞くと、横から圭司が「フーミンはビートルマニアなんだよ」と言う。

「ジョン? ポール?」圭が聞く。

「今日はポールがいいな」と史江がいう。

 軽く「うん」と頷いた圭はギターを取ってきて圭司に渡し、そっと耳打ちをした。圭司は「OK」と返事をし、ギターを構えると、いきなり前奏なしで圭の「オー・ダーリン」が流れ出した。

 史江とステラが手を取り合って、圭の歌声を聴いていた。


 そして年が明けた一月の初め、入学案内の通知が届いた。

「私に期待しないで」と言った史江の顔を圭司はふと思い浮かべたが、「まさかな」と頭から打ち消した。


  ⌘   

 

「パスポートは忘れてないよな」

「大丈夫、持ってる」

「あっ、チケットは」

「持ってるよ」

「それから、あれ。ええっと……」

 圭が大きなため息をつきながら、

「だから大丈夫だって。昨日ステラと三人で一緒にちゃんとチェックしたでしょう?」

と呆れながらいう。


 三月が終わろうとするころ、圭司たちはニューヨークにあるJFK空港の国際線ロビーにいた。世界でも最大級の空港だけのことはあり、世界にはこんなに人がいるのかと思うほどさまざまな国籍と思われる人でごった返していて、二時間前には空港に着いたのに、一時間を過ぎてもまだ出国の手続きが終わっていなかった。


 合格通知をもらってからの二ヶ月間は留学の準備で目まぐるしく過ぎた。去年は不安の中で進路を考えていた圭は、留学が決まって安心したのか落ち着きを取り戻した。むしろ圭を日本に送り出す圭司の方がオタオタし始めたぐらいだ。

「なあ、やっぱりアメリカの高校でよくないか。日本は遠すぎないか」

などと圭司が言い始め、何度もステラから嗜められた。

 横浜にある実家の、かつて圭司が使っていた部屋は、圭司が住んでいた時のまま綺麗に掃除だけしてあると史江から聞いた。大学に入り、圭司が両親や姉と同じ教師になる道に反発し、中目黒で一人暮らしを始めてからも、決して母は圭司の部屋には手をつけなかった。結局アメリカへ渡ってしまっても、そのままだったということか。絶対その部屋に住みたいと言う圭には、好きにしろと言ってある。

 家財道具は横浜の部屋に揃っているので、日本へ送るものは圭の衣類がほとんどだ。楽器も送ろうと思ったが、それだけは自分で持っていくと圭がいう。

 圭の制服を作るからと、史江に頼まれてステラが採寸したものをメールで二月には送っている。サイズを決定する前には、スカート丈のことでステラと圭が二人で散々話し合っていた。領事館で初めて見た学園の女の子たちのスカートの短さに圭は衝撃を受けたらしい。圭は基本的にジーンズなどのパンツを着用することがほとんどで、スカートの類は滅多に履かない。その圭の真新しい制服が日本に着いたらできているはずだ。それを着た圭の姿を目の前で見られないのが少々残念なことだった。


「ひとつ頼みがあるんだ」

 出発日の前日の夜、圭司がいう。「何?」と寝転がっていた圭が顔を上げた。

「日本に行ったら、すぐじゃなくていいから、中目黒という駅に行って写真をいっぱい撮って送ってくれないか」

「ナカ、メグロ?」

「そう、中目黒だ。横浜から乗り換えなしで電車で行ける。俺が昔過ごした思い出の街なんだ。どう変わっているか見てみたい」

 そう言って、紙に駅の名前を英語と日本語で書いた。圭はそのメモを折り畳むと、いつも持っているポシェットに入れた。


 やっと搭乗手続きの列が進み始めた。

「じゃあ、行ってくる」圭司の気持ちを知ってか知らずか、圭はこともなげに言うと軽く手を振り、くるりと背を向けて列に並んだ。金属探知機のゲートのその先はもう見送りの者は中に入れない。

 もうこれでしばらく会うことはないのに、結構あっさりとしたものだな——

 あの寒い感謝祭の夜、ゴミ箱の隙間で下着姿で震えていた圭が、圭司がかつて飛び出した日本へ入れ替わりに向かおうとしている。

 ——彼女は、圭は俺と出会って良かったと思っていてくれてるだろうか。


「圭!」

 思わず大声で叫んだ。それまで背を向けていた圭が振り向いた。その頬には涙が伝っていた。隣にいたステラが唇を震わせながら、何も言わずギュッと圭司の右腕を掴んだ。

「圭! 日本に、俺の代わりに日本に伝えてくれ! 圭司は元気だって! 圭という女の子に出会って、今すごく幸せに、アメリカで楽しく暮らしてるって、そうニッポンに伝えてくれ!」

 叫ぶ圭司に向かって、圭は何度も首を縦に振った。

「うん、必ず伝える! アイラブユー、圭司! アイラブユー、ステラ!」

 そう言って両手を上げて圭司とステラに向かって大きく手を振ると、今度は何度も振り返りながらゲートの中へ消えていった。


 圭が行ってしまった空港の喧騒の中で、

「やっぱり、アメリカの高校に行かせた方がよかったかしら——」

と、ステラがぽつりと呟くのが聞こえた。

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