第五話 坂本龍馬

     三

 ……動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し……

 高杉晋作は決起した。

 『小倉戦争』は慶応二(一八六六)年、今から二百年くらい前のことである。

 六月七日に二十五万の幕府軍が長州に攻めてくる。

 村田蔵六(のちの大村益次郎)の計画通り、幕府軍は、石州口(山陰)、芸州口(山陽)、小倉口(関門海峡)、大島口(海)から侵攻を計った。故に長州では『四境戦争』と称した。

徳川幕府の『第二次長州討伐令』が発せられた。

長州藩への攻撃ルートは四方向からである。まず、山陽道、山陰道、小倉口、西南海、である。長州藩防衛・幕府軍壊滅の軍略を練ったのは村田蔵六ことのちの大村益次郎である。

幕府の軍隊はまるで戦国時代のような鎧に旗指物に刀に槍や馬ぞろえ…一方の長州軍・奇兵隊は黒い軍服に、最新銃で、軽武装の騎兵である。

逃げては罠にはめ、配置していた兵隊に幕府軍隊を散々に討ち負かす。

大村益次郎は茅葺屋根の上にのぼり、双眼鏡で兵隊の軍列を見ながら軍略の指示をだす。

こことこことを攻撃してこの方向に誘い込み、一網打尽にせよ!

紐でぶらさげた石版に白いチョークで軍略図を描く!

確かに幕府軍は、数は多い。だが、銃は旧式であり、兵隊の質も悪い。

確かに幕府軍は数だけなら強大であった。だが、益次郎の軍略の前には敵ではない。

高杉晋作も噴気して戦った。喀血してもそのまま進軍する。俺にかまうな! 進軍!

 幕府軍数万を、高杉晋作は二千の兵で討ち負かす。

「腐った幕府をぶっつぶせ!」

 晋作の号令とともに銃砲が鳴り響く。

 鎧に刀や槍の幕府軍は惨々にやられてしまう。

 その頃、長州では幕府に「白旗」をあげて降伏しよう、などという保守派が高杉の命を狙っていたという。

「高杉さんを殺してはいかん!」

 伊藤博文は怒りをあらわにした。

 そんな中、夜、駆ける男があった。

 高杉晋作である。

 奇兵隊決起!

 功山寺に集まれ「決起するなら今月今宵、年明けからでは遅すぎる」

 こうして、奇兵隊は八〇名~五百名へと増えて「決起」した。

 幕府軍は思わぬ近代戦でやぶれ、敗走した。

 しかし、諦めず、その年の十二月、五万の長州征伐軍を小倉に布陣させた。

 幕府軍五万に対して、高杉の奇兵隊はわずか五百人だった。

「高杉さん、数が違いすぎます!」

 伊藤は泣きそうにいった。

 晋作は咳き込んでから、

「まぁ焦るな。軍儀を開こう」といった。

 軍儀ではこちら側の兵力を同じくらいに見せかけて対峙することが決まった。

 となれば、あとは情報である。

 高杉は、

「小倉の幕府軍に間者(スパイ)を潜入させよ」と命じた。

 その間者(スパイ)は〝諸所商売〝といい、漁師を使って情報を集めるものだった。

 ……大砲は八門程度

 ……小倉軍のうち幕臣は八千名、他は九州諸藩からの寄せ集め

 高杉の元に、次々と情報が入ってきた。

「なるほどな」

 晋作は情報の力を知るはじめての日本人だった。

 晋作は情報を得て、しきりに頷く。

 慶応二(一八六六)年六月三日、小倉に幕府司令官として老中・小笠原長行が派遣されてきたという情報がはいった。

「……小笠原か。あの外交官の…」

 晋作は苦笑した。

 小笠原長行は幕府きっての天才の頭脳をもつ。

 しかし、戦の経験がまるでなかった。専門は〝外交〝である。

 小倉幕府軍と高杉奇兵隊は互いに姿を現さず(といっても奇兵隊は五百で幕府軍は五万だから姿が知られれば、奇兵隊に勝ち目がないのだが)、十日間対峙したままだ。

 高杉はその弱味も知り尽くしていた。

 だから、幕府軍と正面衝突はしない。

 数が違い過ぎて負けるのがわかっているからだ。長州軍、奇兵隊はひとたまりもない。

「幕府軍の側面から討つのはどうですか?」

 と、ある夜、伊藤がいった。

 すると、山県は、

「いや、奇襲でしょう。織田信長ですよ。桶狭間です」という。

 高杉は呆れて、

「お前たち黙ってみておれ!」と喝破した。


 幕府軍は九州諸藩からの寄せ集めだということがわかった。

 そんなおり、高杉に情報がまた入ってきた。

 ……幕府軍攻めてくる。

 五十倍もの敵と戦えば勝ち目なし。

 晋作は筆をとり、小笠原にしたためる。

 ……〝寄する上国の宰相、早に書をながって急ぐべし〝

 挑発である。

 六月十七日、高杉は長州船で田野浦に。そこから艦砲射撃を開始した。

 幕府軍は大混乱に陥った。

 午前六時、長手に上陸。長州軍は幕府の艦隊を焼き討ちにした。

「よし! このまま小倉まで攻めのぼろう!」

 長州軍は意気揚々だった。

 が、晋作がとめた。

「まずは馬席(下関)に戻れ!」

「……なぜ? このまま戦おう」

 晋作はいった。

「兵力が違い過ぎる。ここは戻っては叩き、戻っては叩き……木の枝をきりおとすように倒すのがよい」

 こうして、奇兵隊と長州軍は下関に陣をひいた。


 晋作は、体調の変化に気付いていた。

 体力も衰え、咳がつづくかと思ったら、朝になって口を拭いた手が真っ赤な血で染まっていた。……病気らしい。

 微熱が出て、躰がだるい。足もだるい。

 ……この大事な時に!

 ……俺はもう長くないかも知れん。

 予感が全身に広がった。恐怖は不思議となかった。むしろ安らぎがあった。

 ……死ねば楽になる。

 楽な人生ではなかった。それが、楽になるということで恐怖はなかったのである。

 幕府軍の小笠原長行は富士山丸という艦船を瀬戸内海から呼び寄せることにした。幕府艦隊の巨大な船である。

 地上の幕府軍は猛暑でくたくただ。小倉軍だけ孤立している。

 幕臣は小倉城にバラバラといるだけだ。

 六月二十九日、富士山丸迫る。

「くそう! 富士山丸がこられたんじゃこっちはひとたまりもない!」

 高杉は珍しく焦った。

 ……しかし、そこは戦略家である。〝奇襲〝を考えた。

 まず〝石炭舟〝に大砲を隠し、富士山丸に近付かせて、そこで砲撃するのだ。

 富士山丸に〝石炭舟〝が近付いたが、富士山丸は敵とは気付かない。そんな中、至近距離から砲撃を受けた。…うあぁあつ!

 富士山丸は炎を上げながら針路を傾け、引き返していった。

〝奇襲〝が成功したのだ。

 長州軍が小倉軍を倒し、城まで七キロに迫る。

 しかし、高杉はここでも深追いをさせず、下関に軍を戻している。

 熊本軍と対峙、約一ケ月。そんなおり高杉はとうとう喀血した。

 高杉への情報で、久留米、肥後、熊本の諸藩軍が退却を幕府に要求していることを晋作は知る。これはいい瓦解策になる。        

 晋作の病気は最近まで不治の病とされていた労咳、つまり肺結核だった。

 多年の苦労と不摂生がわざわいした。病気は進み、喀血は度重なった。

 回復の望みはなかった。

 ……せめて幕府が倒れるまで。

 維新回天の業が成るのをこの目でみたい。それが願いだった。


  おもしろき こともなき世を おもしろく

  すみなすものは 心なりけり


 晋作は句をよんだ。

 かれは妻・雅に金を渡し、父親の家を修繕してくれと頼んだ。これが、晋作の最後の親孝行となった。坂本龍馬が

「高杉さん、しっかりしとうせ! おんしがいればこその維新じゃ! 倒幕じゃきに!」

と病床の高杉晋作を励ましたのはどうやら事実のようである。

桂小五郎は「討幕の密勅が下った。倒幕じゃ! 新しい世の中がくるんじゃ、まだ死ぬな!」

妻・雅は晋作の愛人・妾・おのうに挨拶をし、親切に接して、おのうと晋作にあった。


「くそったれめ! 長州め! どれだけ兵士がいるのか」

 小倉城の小笠原は、ストレスでまいっていた。

 そんな中、七月三十日に将軍・家茂が死んだのである。小笠原長行たちは焦って江戸へ戻った。幕府軍は指揮者を失い、遁走しだす。

 それに乗じて、長州は小倉城に火をかけ、小倉城は炎上した。

 奇兵隊と長州軍合わせてたった千人で何万もの大軍をやぶった。

 晋作の〝天才〝というほかはない。

 高杉晋作は病をおして、小倉城が紅蓮の炎に包まれるのを見たという。


 高杉晋作なくして、明治維新はあり得なかったはずだ…この俺が…回天して…

 晋作は喀血し、倒れた。その後、その血により溺れ死んだ。

 享年二十七歳と八ケ月……最後の言葉は「…吉田へ」であったという。

師匠吉田松陰の墓の隣の墓に? それとも奇兵隊の発足地吉田へ墓を?

 いずれにしても、あまりにも早いすぎる死であった。

死ぬ前に高杉晋作は龍馬に日本の舵取りを任せた。

「坂本さん。日本のことを頼みましたよ。ぼくはあの世で見ているから」

「…高杉さん。わかった」

龍馬と高杉は海辺で握手をした。

それが最期となった。


    四

 時代は刻々とかわっていく。

 その岐路は孝明天皇の死だった。十二月十二日に風邪をひいて、寝込んでいたが、汗を沢山かき、やがて天然痘の症状がでた。染るのではないか……公家たちは恐れた。

 孝明天皇は最大の佐幕派であった。

 その孝明天皇の崩御は、幕末最大の衝撃だった。龍馬は残念がった。

 しかし「これで維新の夜が明けるぜよ!」とも思った。

 土佐藩は書状で、土佐藩に戻るように、と請求してきた。

「今更なにをいってやがる!」

 龍馬は土佐屋の奥座敷でそれを読み、まるめてポイと捨てた。藩というものの尊大さ、傲慢さに腹が立ったのである。

「海援隊」はついに成った。

 海援隊の規律、船中八策には、

     第一策 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出すべき候

     第二策 上下議員政局を設け、議員を置いて万策を参議で、決定する候

            ……… 他

 と、ある。

 福岡藤次は、「船はどげんする?」ときいた。

 この件も五分でかたづいたという。薩摩藩を保証人として大浦お慶から一万二千両を借りて手にいれた大極丸の借金を、土佐藩が肩代わりすることになった。

 土佐藩との交渉もおわり、亀山社中が「海援隊」と改名された。

 紀州人陸奥陽之助(のちの陸奥宗光)が、「妙な気持ちだ」と龍馬にいうと、龍馬は、

「そのこころは安心やら馬鹿らしいやら」とおどけた。

 陸奥は大笑いした。



 ……〝世の生物たるものみな衆生なればいずれを上下とも定めがたし、今生の生物にしてはただ我をもって最上とすべし。皆が平等な個人。デモクラシー。新しい国づくりはライフワークへ。万物の時を得る喜び〝……

 ……〝戦争回避、血を流してなんとするのか〝……

 ……〝世のひとは我を何ともゆえばゆえ。我なすことはわれのみぞ知る〝……


「おれはこれでひっこむきに」

 龍馬は新政府にくわわらなかった。

 陸奥は「冗談ではない」と驚いた。龍馬は薩長連合を成し遂げ、大政奉還を演じ、新官制案をつくった。

当然、新政府の主軸に座るべき人間である。なのにひくという。

西郷隆盛や大久保利道や岩倉具視や木戸考允(桂小五郎)にすべて譲ってしまうという。

「すべて西郷らにゆずってしまう」

 龍馬は続ける。「わしは日本を生まれかわらせたかったんじゃきに。生まれかわった日本で栄達するつもりはない。こういう心境でなきゃ大事業ちゅうもんはできんき。わしがそういう心境でいたからこそ、一介の浪人にすぎなかったわしのいうことを皆がきいてくれたんぜよ。大事を成し遂げたのも、そのおかげじゃ。

 仕事ちゅうもんは全部やっちゅうのはいかんきに。八分まででいい。あとの二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまうといいきに」

 龍馬は二本松邸の西郷吉之助(隆盛)の元へいった。

「坂本さぁではごわさんか」

 西郷は笑顔になった。

「西郷先生、新政府頼みまするぞ」

「じゃっどん、なにごて新政府の名簿におんしの名がないのでごわす?」

「わしは役人になりたくないのですき。わしは『海援隊』で世界にでるぜよ」

「そげなこついうて……世界とばいうとがか?」

「そう世界じゃきに」

「坂本さんは面白いひとでごわすな?」西郷は笑った。

「西郷先生、旧幕臣たちが会津や蝦夷(北海道)にまでいっちゅうから早めに平和利にかたづけて……新政府で日本をいい国にしてもうせ」

 龍馬はしんみりいった。

 西郷は「なにごて。まるで別れをいっているようでごわすな。本当に世界にいくのでごわすか?」と妙な顔になりいった。

 龍馬は答えなかった。

龍馬は近江屋の二階の一室で死んだ仲間の為に献杯をした。

「高杉さん。武市さん。久坂さん…おんしらの名前もこの新政府名簿にいれたかったのう。あの世で見ていてくれ。必ず日本を回天させるきにな。」

 龍馬が考えた新政府のメンバーは以下である。


関白   三条実美

 参議   西郷隆盛(薩摩)板垣退助(土佐)大隈重信(佐賀)

 大蔵卿  大久保利道(薩摩)  

 文部卿  大木喬任(佐賀)    

 大蔵大輔 井上馨(長州)

 文部大輔 後藤象二郎(土佐)

 司法大輔 佐々木高行(土佐)       

 宮内大輔 万里小路博房(公家)

 外務大輔 寺島宗則(薩摩)

      木戸考允(長州)

            他




龍馬が考えた<船中八策>が以下の策である。日本に初めてデモクラシー(民主主義)を高らかにうたいあげたものであり、大政奉還建白書に大きく反映され明治政府の五か条の御誓文へと繋がり、さらにその精神は現代まで脈々と生きていくのである。


     

   「船中八策」

 一策   天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべき事

 二策   上下議政局を設け 議員を置きて万機を参賛せしめ、万機よろしく公儀に決すべき事

 三策   有材の公卿・諸侯・および天下の人材を顧問に備え官爵を賜い、よろしく従来有名無実の官を除くべき事

 四策   外国の交際・広く公儀を採り、新に至等の規約を立つべき事

 五策   古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を選定すべき事

 六策   海軍よろしく拡張すべき事

 七策   御親兵を置き、帝都を守護せしむべき事

 八策   金銀物価、よろしく外国と平均の法を設くべき事







     五

 龍馬は多忙だった。薩摩藩邸で一泊すると、朝飯を食べさせてもらって食った。そのあと、岩倉具視の邸宅にいった。

 龍馬は「新政府を頼みまするきに」といった。

「まるでどこぞへ旅立つような口調じゃのう」

「そうきにか? まぁ、いくところは決まっちゅう」

「どこにいく」

「あの世……」龍馬は冗談をいった。

「あんたは死んじゃいかんよ。この国にとって大事な人材なんじゃから。死んだら馬鹿らしいよ」岩倉具視は諭した。龍馬が自決でもすると思ったらしい。

 龍馬は笑って「わしは死んだりせん。「海援隊」で世界にでるんじゃきに」

「世界? 大きいこというねぇ。坂本さんは」

「そこで、岩倉さん。薩長連合と朝廷を合体させてほしい。薩長軍が「官軍」となるように天子さま(天皇)に働きかけをしてほしいんじゃ」

「わかった。天子さまに上献してみよう」

「錦の御旗でも掲げたらいいきに」

「わかった」

 ふたりはがっしりと握手した。

 龍馬は、朝早く下宿を出て、京のあちこちを飛びまわって夜おそく帰ってくる。

「用心の悪いことだ」

 薩摩藩士の吉井幸輔は眉をひそめた。龍馬のような偉人は暗殺のおそれがある。せめて宿をひきはらって、薩摩藩邸にこい、という。

 龍馬は「藩邸なんぞにいられんき」と笑った。

「じゃっどん、坂本さんは狙われとるでごわそ。新選組や浪人たちに……死んだらつまらんでごわそ?」

「あんさんはわしのことがわかっちょらん。わしは丼を枕に寝る男じゃぜ」

 むろん彼は、新選組や見廻組が命を狙っているのを知っている。

「狙わせときゃいいきに」

 龍馬にいわせれば、自分の命にこだわっている人間はろくな男じゃないというのである。「われ死する時は命を天にかえし、高き官にのぼると思いさだめて死をおそるるなかれ」 と龍馬はその語録を手帳にかきとめ自戒の言葉としたという。

「世に生を得るのは、事をなすにあり」

  来訪者あり。

 訪ねてきたのはお田鶴さまであった。

「こりゃあいかん」龍馬は起きてから一度も顔を洗ってないことに気付き、顔をごしごし洗った。「汚のうございますね?」

「顔をさっき洗ったばかりですが、やはり汚いきにか?」

「いえ。部屋です」

 お田鶴は笑った。

 ……どうもこのひとにはかなわん。


  龍馬は福井へ急いだ。

「もうちとゆるゆる歩けや!」同伴の中岡が頼んだが、龍馬は足をゆるめず、

「いそがなあ、ならんぜよ」という。早足になる。京の情勢は緊迫していた。

「わしには今度の仕事が最後になるがぜよ」

 時代が龍馬を急がせていたといってもいい。

 福井に着くと、龍馬は春嶽に「三岡八郎を新政府にほしい」という趣旨のことをいった。 春嶽は眉をひそめ、「三岡八郎は罪人ぞ」という。

 しかし、龍馬は三岡八郎の釈放と新政府入りを交渉で決めてしまう。

 夜ふけて、いよいよ三岡が帰宅しようとしたとき、龍馬は手紙のようなものを彼に渡した。「なんだ?」

「わしの写真じゃき。このさきどうなるかわからんきに。万一のときは形見じゃと思ってくれ」

「そうか」

 三岡は、龍馬の例の写真を受取り、龍馬の顔をじっと見た。暗くてよく見えなかったが、龍馬がどこかへ消えてしまいそうな感覚を覚えた。

 ひとは死ぬ。龍馬も死ぬときがきた。

 龍馬と中岡慎太郎が死ぬ日(暗殺日)は、慶応三年(一八六七)十一月十五日の京・近江屋の夜である。

 この年の九月、新選組三十六人と土佐浪人たちが斬りあいをしている。土佐浪人に即死者はいない。安藤藤治という男は重傷をおったが、河原町藩邸までようやくたどりつき、門前で切腹した。他の五人もかろうじて斬り抜けた。


近江屋に来訪者あり。「坂本龍馬はいるか?」それは岩崎弥太郎だった。

「わしはなあ、龍馬。ミニエー銃数千挺を売って一千八百両儲けたがぜよ」

「おお!弥太郎。やったのう。おまんは本物の大金持ちになったがじゃのう!」

「これはおまんにもうけてもらったカネぜよ。こんなもんいらんがじゃ。いいか龍馬! この国の人間は口では〝新しい国〝ゆうたがじゃで、実際に扉が開けば、狼狽するもの立ち尽くす者…いろいろおるろう。全員が龍馬おまんのように新らしい世界を望んっちょるち思うたら大間違いぜよ! そのうちその恨みや怒りはおまんに向くろう。おまんは殺されるほど憎まれているんじゃ!」

「世の人は我為すことを何と言え我為す事は我のみぞ知る。わしは知らぬうちにいろんな人間に恨まれているかもしれん。だが、大政奉還と維新でこの国が新しい国に生まれ変わるんじゃ!

西洋の最新技術と日本の和の心………新生日本の夜明けぜよ。

その為ならわしは殺されても文句はないがじゃ。それが日本国の為ならばのう。」

「……」弥太郎は無言で去った。



   六

「風邪の熱で頭がくらくらするき」

龍馬は中岡の話をきいていた。夜になったので部屋の行灯に灯を入れた。部屋が少しだけ鬼灯色になった。「峰吉さん、腹が減った。鍋にするきに、軍鶏買うてきてくれ」

「へ~い」

「中岡、ちいと見てくれ、中岡。新政府の名簿を考えたがじゃ」

龍馬は紙に書いた新政府のメンバーの名前を見せた。

「西郷隆盛、大久保一蔵、三岡八郎…三岡八郎は罪人ぜよ。松平春嶽公は徳川ご家門ぜよ。それにおんしの名前がない」

「わしは役人になる気なんぞ、なんちゃあないきに。わしは海援隊で世界に出るんじゃ」

「…世界?」

「そうじゃ。いいか? 中岡」龍馬は地球儀を回した。

「これからこの日本に世界中の技術と知恵とすべての四民平等の思想とすべてが集まるがじゃぞ! そうなれば日本は冀望にあふれた国になるがじゃ。高杉さんや武市さんが夢見た冀望あふれる国ぜよ」

「…冀望? 夢?」

「そうじゃ。冀望。夢じゃ。夢のあふれる日本になるがじゃ。はははは。世の中は面白いのう。もうすぐ日本国が飛躍するがじゃぞ、中岡」

「…飛躍?」

 やがて、刺客が何人か密かにやってきた。

「今、幕府だ、薩長じゃいうとるときじゃなかきに」龍馬はいった。

「大政奉還と共和国政治で四民平等の新生日本が生まれるんじゃ。新生日本の夜明けじゃ。高杉さんや武市さんや勝先生や大勢の死んでいった志士たちの夢の実現じゃきに」

 番頭の藤吉は叫び、刺客は叫ばせまいと、六太刀斬りし、絶命させた。

この瞬間は数秒であった。二階奥の薄暗い部屋では、龍馬と中岡がむかいあって話している。一階でなにやら物音がきこえたが、誰かが喧嘩でもしているんじゃろ、と思った。

「ほたえなっ!」

 龍馬は叫んだ。土佐弁で「騒ぐな」という意味である。

 この声で、刺客たちは敵の居場所をみつけた。

 刺客たちは電光のように駆け出した。

「…龍馬、まずい!」

「坂本龍馬、覚悟!」

「な?」

 奥の間に入るなり、ひとりは中岡の後頭部を、ひとりが龍馬の前額部を斬りつけた。これが龍馬の致命傷になった。斬られてから、龍馬は血だらけになりながらも刀をとろうとした。陸奥守吉行に手をかけた。脳奬まで流れてきた。

 龍馬はすばやく背後へ身をひねった。

 刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。左肩さきから左背中にかけて斬られた。しかし、龍馬は刀をかまえて跳ねるように立ちあがった。

 刺客たちは龍馬をさらに斬りつけた。

「…なんちぃや! おまんら…なんちぃや!…」

 ようやく龍馬は崩れた。

……「誠くん、刀はないがか?」と叫んだ。

 誠くんとは中岡の変名石川誠之助のことで、その場で倒れていた男に気遣ったのである。 龍馬は致命傷を受けてなおも気配りまで忘れない。刺客たちは逃げ去った。

「慎ノ字(シンタ)……手は利くか?」

「……利く」

「なら医者をよんで…こい」

「…龍馬…」

「わしは世の中を変えたがじゃろうかのう、中岡?」

「…まだまだ」 

「…そうか。まだまだ…かえ。そうか」

中岡は気を失った。

 龍馬は、平静に自分の頭をおさえ、こぼれる血や脳奬を掌につけてながめた。

 龍馬は中岡をみて笑った。澄んだ、壮快な気持ちであった。

「わしは脳をやられている。もう、いかぬ」

 それが最期の言葉となった。いいおわると、龍馬は倒れ、そのまま何の未練もなく、その霊は天に召された。

坂本龍馬暗殺………享年三十三歳

 天命としかいいようがない。日本の歴史にこれほどの男がいただろうか? 天が歴史をかえるためにこの若者を地上におくりこみ、役目がおわると惜しげもなく天に召したとしか思えない。坂本龍馬は混沌とする幕末の扉を押し開けた。

 幕末にこの龍馬がいなければ、日本の歴史はいまよりもっと混沌としたものになっていたかも知れない。龍馬よ、永遠なれ!


          おわり    






       あとがき「お龍の坂本龍馬の人物説明と年表」


「樽崎龍証言」

• 楢崎龍

「(龍馬伝の挿絵を見て)この顔は大分似て居ます。頬も、も少し痩せて目は少し角が立って居ました。眉の上には大きな痣があって、その外にも黒子がポツポツあるので写真は綺麗に撮れんのですよ。背にも黒毛が一杯生えて居まして、何時も石鹸で洗うのでした。長州の伊藤助太夫の家内が坂本さんは、ふだんきたない風をして居った顔付も恐ろしい様なんだったが、此間は顔も綺麗に肥え大変立派になって入らっしゃった。きっと死花が咲いたのでしょう、間もなく没くなられたと云いました。これはのちの話です」

「龍馬は、それはそれは妙な男でした。丸で人さんとは一風違って居たのです。少しでも間違った事はどこまでも本を糺さねば承知せず、明白にあやまりさえすれば直にゆるして呉れまして、此の後は斯く斯くせねばならぬぞと、丁寧に教えて呉れました。衣服なども余り綺麗にすると気嫌が悪いので、自分も垢づいた物ばかり着て居りました。一日縦縞の単物をきて出て、戻りには白飛白の立派なのを着て来ましたから、誰れのと問うたら、己れの単衣を誰か取って行ったから、おれは西郷から此の衣物を貰って来たと云いました」

「龍馬の酒量は量り兼ねる」

「龍馬は詩を作らなかったのです」

「坂本はハキハキしたことが好きで、私がどんなことをしたって決して叱るようなことはなかったのです」

「龍馬・中岡が河原町で殺されたと聞き、西郷は怒髪天を衝くの形相凄まじく、後藤を捕えて『おい後藤、貴様が苦情を言わずに土佐屋敷へ入れて置いたら、こむな事にならないのだ。全体土佐の奴等は薄情でいかん』と怒鳴りつけられて後藤は苦い顔をし『いや、苦情を云った訳ではない。実はそこにその色々』、『何が色々だ。面白くも無い、如何だ。貴様も片腕を無くして落胆したろう。土佐、薩摩を尋ねてもほかに、あの位の人物は無いわ。ええ惜しい事をした』と流石の西郷も悔し泣きに泣いたそうです」




<参考文献>

なお、この物語の参考文献はウィキペディア、『ネタバレ』、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作『小説 高杉晋作』、津本陽著作『私に帰せず 勝海舟』、司馬遼太郎著作『竜馬がゆく』、『陸奥宗光』上下 荻原延濤(朝日新聞社)、『陸奥宗光』上下 岡崎久彦(PHP文庫)、『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP文庫)、『勝海舟全集』勝部真長ほか編(頸草書房)、『勝海舟』松浦玲(中公新書)、『氷川清話』勝海舟/勝部真長編(角川文庫)、『坂本龍馬』池田敬正(中公新書)、『坂本龍馬』松浦玲(岩波新書)、『坂本龍馬 海援隊始末記』平尾道雄(中公文庫)、『一外交官の見た明治維新』上下 アーネスト・サトウ/坂田精一(岩波文庫)、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一(東洋文庫)、『幕末外交談』田辺太一/坂田精一校注・訳(東洋文庫)、『京都守護職始末』山川浩/遠山茂樹校注/金子光晴訳(東洋文庫)、『日本の歴史 19 開国と攘夷』小西四郎(中公文庫)、『日本の歴史 18 開国と幕末変革』井上勝生(講談社文庫)、『日本の時代史 20 開国と幕末の動乱』井上勲編(吉川弘文館)、『図説和歌山県の歴史』安藤精一(河出書房新刊)、『荒ぶる波濤』津本陽(PHP文庫)、日本テレビドラマ映像資料『田原坂』『五稜郭』『奇兵隊』『白虎隊』『勝海舟』、NHK映像資料『歴史秘話ヒストリア』『その時歴史が動いた』大河ドラマ『龍馬伝』『篤姫』『新撰組!』『八重の桜』『坂の上の雲』、『花燃ゆ』漫画『おーい!龍馬』一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK『大河ドラマ 龍馬伝ガイドブック』角川ザテレビジョン、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。

『竜馬がゆく(日本テレビ・テレビ東京)』『田原坂(日本テレビ)』『五稜郭(日本テレビ)』『奇兵隊(日本テレビ)』『勝海舟(日本テレビ)』映像資料『NHKその時歴史が動いた』『歴史秘話ヒストリア』映像参考資料等。

 「文章や物語が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく、引用です。

他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。

千葉佐那子が登場する作品****

小説****

坂崎紫瀾『汗血千里駒』

司馬遼太郎『竜馬がゆく』

阿井景子『龍馬のもうひとりの妻』

阿井景子『龍馬と八人の女性』

谷治宇『さなとりょう』


漫画****

『花影』(里中満智子、講談社、1975年)

『お〜い!龍馬』(作:武田鉄矢、画:小山ゆう、小学館)

『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』風雲幕末編(川原正敏、講談社)

『風雲児たち』(みなもと太郎、潮出版社→リイド社) 『雲竜奔馬』(みなもと太郎、潮出版社)

『HAPPY MAN 爆裂怒濤の桂小五郎』(石渡治、双葉社)

『るろうに剣心』- 主人公の恋人・神谷薫のモデルとされる。


テレビドラマ****

『竜馬がゆく』 NHK大河ドラマ(1968年、NHK大河ドラマ、脚本:水木洋子 千葉さな:若柳菊)

12時間超ワイドドラマ(1982年、テレビ東京、脚本:沢島正継 千葉佐那子:美雪花代)

TBS大型時代劇スペシャル(1997年、TBS、脚本:長坂秀佳 千葉佐那子:松たか子)

新春ワイド時代劇(2004年、テレビ東京、脚本:長坂秀佳 千葉佐那子:前田愛)

『坂本龍馬』(1989年、TBS、脚本:中島貞夫 千葉佐那子:野村真美)

『龍馬におまかせ!』(1996年、日本テレビ、脚本:三谷幸喜 千葉さな:緒川たまき)

『龍馬伝』(2010年、NHK大河ドラマ 脚本:福田靖 千葉佐那:貫地谷しほり)


テレビ番組****

『時代劇法廷スペシャル 被告人は坂本龍馬』(2015年、時代劇専門チャンネル、千葉佐那子:小田原れみ)


舞台****

神田時来組『改訂版!!そして龍馬は殺された』(2010年11月18日 - 23日、シアターサンモール)千葉佐那子:時東ぁみ


楽曲****

『鞄の中、心の中』(藍坊主/アルバム「ヒロシゲブルー」)


           あとがき


ちょうど二○一七年十一月十五日は坂本龍馬暗殺から百五十年目であった。新国家構想を考えていた坂本龍馬……死後数十年後、高知県の新聞社の連載歴史小説『喀血千里の駒(かっけつせんりのこま・坂本龍馬の伝記小説)』で維新後忘れ去られていた坂本龍馬の存在がクローズアップされることになった。岡本は「少し龍馬がかっこよすぎる。ほんまの龍馬は詐欺師みたいなもので英雄じゃないきに」と昔をなつかしむ。

一大偉業『大政奉還』を完成させたその日、龍馬は大政奉還後の生涯最後の写真となった写真を撮らせていた。写真屋は「この写真は何かのお祝いでございますか?」ときく。

「ああ、大政奉還の祝いぜよ」

「大政奉還?何ですか、それは……?」

「徳川将軍家が政を朝廷に返還したということじゃ。徳川の世はおわりじゃきに」

「では、次は誰がこの国を治めますか?」

「皆ぜよ。国民ひとりひとりが入れ札で政治家や議員を決めて国民の代表たちが政をするがじゃ。もう身分も藩もいらんぜよ」

土佐藩士の岡本健三は「それは違うぜよ。徳川が大政奉還したがは見せかけ。何百万石もの領土はそのまま……薩長は朝廷と結んで倒幕の軍をあげる……龍馬のいうことは夢の又夢ぜよ。つぎは薩長が政権を取るだけじゃ」

「いや、それは違うぞ、健三君。徳川、土佐、長州、薩摩……まだもうひとつ大事な藩が忘れてはおらんがかえ?」

「……大事な藩?」

「福井藩じゃ。福井の松平春嶽公こそ、わしの新国家構想の盟主○○○の名前じゃ」

「えっ」

「それに新国家の経済の担当は福井藩の三岡八郎がええと思うんじゃ」

「……三岡? あやつは福井の財政を三年で立て直したが……新国家ってなんぜよ?」

「わしは廃藩置県を考えている。後はあたらしい都の中央集権の議員内閣制の新国家じゃ!もう藩も侍もいらんがじゃ!これからは天子さまが国家元首で、国民の入れ札で選ばれた議員たちが国難に立ち向かうということじゃ!」

「しかし、おんしは長州には盟主○○○は毛利公かも……盟主○○○は島津公かも……幕臣の永井尚志さまには盟主○○○は慶喜公かも……というとるそうじゃなかが。まるで詐欺師じゃ」

「詐欺師の何が悪いぜよ。みんな頭が堅くて自分の損得ばかり考えちゅう。それでは駄目なんぜよ。新しい国家には松平春嶽公や三岡八郎や西郷さん大久保さん木戸さんやら……いい人材をこじゃんと揃えてみんなで考えて国家運営をしてもらうんじゃ! そうでないといかんきに!」

「おまんは何をするぜよ?」

「わしは役人にはならん。世界の海に黒船を浮かべて世界の海援隊でもやるかのう!」

「このおおぼらふきめ!」

岡本健三はにやりと笑った。

この頃、土佐前藩主・山内容堂から福井藩の松平春嶽に文が届いていた。

“御公の愛でられし我が庭の梅、盛りは過ぎたり、見苦しいこと故、手折りして摘めんと心定む。ひとえに御公のご同意を得るものなり”……梅とは坂本龍馬の変名・才谷梅太郎……もう坂本龍馬は無用の長物……薩摩藩長州藩土佐藩でも幕府の延命を考えている龍馬は邪魔でしかない。龍馬を暗殺するがよいでしょうか? ご同意くだされ。

松平春嶽は難しい顔をする。

坂本龍馬の暗殺か……おしい人物だが、龍馬がこのまま幕府を擁護しては薩長新政府の邪魔者でしかない。おしい……だが、仕方ない……歴史の宿命だ……

坂本龍馬は福井藩主・松平春嶽公にいたく惹かれていた。“盟主○○○”も本当は松平春嶽公であったという。龍馬は「どうぞ、春嶽公! 新しい新政府の盟主となってくだされ! これからは身分にかかわらず優秀な人材の登用こそ急務! 盟主には春嶽公しかいないがです」

松平春嶽公は「わたしはおまえが考えているような立派な人物ではない。才覚がないからこそ才覚ある人物を登用してきたのだ。それは三岡も龍馬おまえも同じだ」と本音をいう。

龍馬は「いやいや。春嶽公はいっかいの浪人のわしにも平等に接してくださる。こういうお方こそ盟主になられるべきです!」

岡本は「しかし……春嶽公は徳川御下門ぜよ」

「何が悪い」

「薩長新政府は徳川を潰してしまおう……という考えでの同盟じゃがですろう? 春嶽公は確かにご立派な人物でも所詮徳川一門ぜよ。そういえばおまんはいつもそうじゃにか?外交は勝海舟先生……財政は三岡八郎……議院内閣制は横井小楠先生……廃藩置県・連邦制度は春嶽公……おまんの考えは誰かの意見のよせあつめ……ごった煮ぜよ」

「何が悪い? これからは才能あふれる才人を身分に関係なく集めて智恵で国家を運営する。藩をなくし議員制度であたらしい日本国家じゃ。これがデモクラシーぜよ」

三岡はのちに春嶽公に「いやあ、坂本様はやはりすごい。正直、新政府などと申されてもよくわからなかったのですが……あのひとなら日本を変えられるでしょう」

春嶽は「……そうか」とため息を漏らした。

春嶽は十一月十五日の坂本龍馬暗殺を止めようと奔走するが……見回り組が暴発する。土佐の陸援隊、幕臣の新撰組……さまざまな考えがあった。

しかるに………いよいよ龍馬は暗殺の日を迎えた。



年譜

年齢は数え年。

和暦 (西暦) 年

齢 坂本龍馬関連事項 参考事項

天保6年(1835年) 1 (11月15日)龍馬出生。

弘化3年(1846年) 12 (この年)母幸死去。

(この年)小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。

弘化5年/

嘉永元年(1848年) 14 (この年)日根野弁治の道場へ入門し小栗流和兵法を学ぶ。 (12月)山内豊信土佐藩襲封

嘉永5年(1852年) 18 (7月)中浜万次郎、アメリカから土佐へ帰国。

嘉永6年(1853年) 19 (4月)剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門。

(6月頃~9月頃)臨時御用として品川藩邸警衛にあたる。

(12月)佐久間象山の私塾に入門。 (6月3日)黒船来航

(6月22日)将軍 徳川家慶死去。

(11月23日)徳川家定将軍宣下

嘉永7年/

安政元年(1854年) 20 (6月23日)土佐に帰郷。

(この年)画家河田小龍から西洋事情を学ぶ。 (3月3日)日米和親条約締結。

安政2年(1855年) 21 (12月4日)父・八平死去。

安政3年(1856年) 22 (9月)再び江戸小千葉道場に遊学。

安政4年(1857年) 23 (8月4日))盗みを働き切腹沙汰となった仲間(山本琢磨))を逃がす。

安政5年(1858年) 24 (1月)千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授。

(9月)剣術修行を終えて帰国。 (4月23日)井伊直弼が大老に就任。

(6月19日)日米修好通商条約、調印。

(7月6日)将軍・家定死去。

(9月)安政の大獄はじまる。

(10月25日)徳川家茂将軍宣下。

安政6年 (1859年) 25 (2月26日)土佐藩主・山内豊信隠居。以後、山内「容堂」と号す。10月に幕府より蟄居謹慎を命じられる。

安政7年/

万延元年(1860年) 26 (1月~11月)勝海舟を含む遣米使節を派遣。

(3月3日)桜田門外の変

万延2年/

文久元年(1861年) 27 (3月)土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる。

(8月頃)土佐勤王党に加盟。

(10月)武市の密使として長州へ向かう。 (8月)武市半平太が江戸で土佐勤王党を結成。

文久2年(1862年) 28 (1月)萩で久坂玄瑞と面談。

(3月24日)沢村惣之丞とともに脱藩。

(8月)九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。

(12月5日)幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。

(12月)勝海舟に面会して弟子となる。 (4月8日)土佐藩参政吉田東洋暗殺。

(4月23日)寺田屋事件

文久3年(1863年) 29 (2月25日)勝の尽力により脱藩を赦免される。

(4月23日)将軍家茂が神戸海軍操練所と神戸海軍塾の設立を許可。

(5月)越前に出向し、春獄から千両を借り受ける。

(10月)海軍塾塾頭をつとめる。 (5月10日)長州藩が攘夷を決行し外国船を砲撃

(6月)土佐藩で土佐勤王党弾圧が始まる。

(7月)薩英戦争

(8月18日)八月十八日の政変

(8月~9月)天誅組の変

(9月21日)武市半平太投獄。

文久4年/

元治元年(1864年) 30 (2月)帰国命令を無視して再脱藩。

(5月14日)神戸海軍操練所創設。

(6月17日)尊攘過激派浪士を蝦夷地へ移住させる開拓構想を勝に説く。

(11月10日)勝が軍艦奉行を罷免。龍馬ら塾生は薩摩藩邸に保護される。 (6月5日)池田屋事件

(7月19日)禁門の変

(7月23日)幕府が長州征討を発令

(8月5日~7日)四国連合艦隊が下関を砲撃

(11月)長州藩が降伏恭順する(第一次長州征伐)。

(12月)長州で高杉晋作が挙兵 (功山寺挙兵) 。

元治2年/

慶応元年(1865年) 31 (3月18日)神戸海軍操練所廃止。

(5月)薩摩藩の援助により、長崎で社中(亀山社中)を結成。

(閏5月21日)中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。

(8月)長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。

(9月)大久保一蔵の書簡を長州藩重役に届ける。 (閏5月11日)武市半平太、切腹

慶応2年(1866年) 32 (1月22日)龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。

(1月23日)伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷。(寺田屋遭難)

(2月5日)桂に求められて盟約書の裏書を行う。

(3月~4月)負傷治療のために妻お龍と共に鹿児島を旅行する。

(6月)第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。 (6月~9月)第二次長州征伐。

(7月20日)将軍・家茂死去。

(12月5日)徳川慶喜将軍宣下。

(12月25日)孝明天皇崩御

慶応3年(1867年) 33 (1月13日)土佐藩参政後藤象二郎と会談。

(4月上旬)亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。

(4月23日)海援隊運用船いろは丸が紀州藩船と衝突して沈没

(5月)御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。

(6月9日)後藤象二郎とともに船中八策を策定。

(6月22日)薩土盟約成立。

(10月16日)戸田雅楽と「新官制擬定書」を策定。

(11月上旬)「新政府綱領八策」を起草。

(11月15日)京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される。(近江屋事件) (1月9日)睦仁親王、践祚(明治天皇)

(10月14日)大政奉還

(12月9日)王政復古の大号令。

慶応4年/

明治元年(1868年)

(1月3日)鳥羽・伏見の戦い

(4月)江戸開城。

(閏4月)海援隊解散。

明治4年(1871年) (8月20日)綸旨を受け姉・千鶴の長男・高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継ぐ。

明治16年(1883年) (この年)板垣退助の要望により土陽新聞が坂崎紫瀾作『汗血千里駒』を掲載。

明治24年(1891年) (4月8日)贈正四位。




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維新の風と龍馬伝 長尾景虎 @garyou999

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